言葉の意味(内容)を理解することがどれほど困難か。<私>はようやく知り合いになれたアルベルチーヌを相手にその理解のために必要と思われる「訓練」を始めることになった。以下の箇所は性別を問わず思春期を通過してきた人間なら誰にでも経験のある常識的内容。
「一般にことばというものは、ことばをかけられた相手が自己の実体からとり出したなんらかの意味を担わせるものであり、その意味するところはこちらが同じことばに込めた意味とはまるで異なる。これはわれわれが日常生活からたえず教えられる事実である。だがそれ以上に、そばにいる人物がどんな教育を受けたのか(私にとってアルベルチーヌの受けた教育がそうだったように)見当もつかず、どんな性癖を持ち、なにを読み、どんな主義主張の持主であるか見当もつかないときは、こちらのことばが果たして相手にも同じものを呼び覚ましてくれるかは保証のかぎりではない。たとえ相手が動物でもある程度のことを理解させることはできるが、人間相手にそれ以上のことが伝わるのか心許ないのだ。そんなわけでアルベルチーヌと親しくなろうと試みることは、私には不可能な存在とは言わずとも未知の存在とつき合うことにも思え、馬の調教ほどに困難で、ミツバチの飼育やバラの栽培ほどに心安らぐ訓練に思えた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.511~512」岩波文庫 二〇一二年)
とはいえ理解といっても、或る一定の範囲内に限り通用するシニフィエ(意味されるもの・内容)は大抵のケースで「通例」とされている範囲に限定される。だから「そばにいる人物がどんな教育を受けたのか(私にとってアルベルチーヌの受けた教育がそうだったように)見当もつかず、どんな性癖を持ち、なにを読み、どんな主義主張の持主であるか見当もつかないときは、こちらのことばが果たして相手にも同じものを呼び覚ましてくれるかは保証のかぎりではない」という部分は疑問としていつまでも残るのである。プルースト文学のテーマの一つ<監視・監禁>は身振りを含む言語記号というものがシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの・内容)とに分割された十七世紀〜十八世紀頃からもうすでに誰の目にも耳にも身体にとっても困難この上ない問いとしていつも頭の上にぶら下がっていた。この種の困難が困難でなくなるのはウィトゲンシュタインが論じたようなケースに限ってである。
「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それはわれわれの言語における『石版!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい!』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石版!』という文の《ひきのばし》であると言っては、なぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは、『石板!』と《言い》ながら《そのようなこと》〔『石版をもってこい!』ということ〕《をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石版!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』といいうことをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことをわたくしは欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分の言う文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。
ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。
ーーー文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・十九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店 一九七六年)
ウィトゲンシュタインはこのような用例が日常的に通用する範囲のことを指して「言語ゲーム」と名づけた。ところが「言語ゲーム」の中でもなおさらなる問題は次々発生してくる。プルーストに戻ろう。
「同じひとつの顔の表現でも、ひとつのことばの表現と同じようにさまざまな意味が含まれうるから、私はギリシャ語解釈の難問を前にした生徒のようにおぼつかない足取りだった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.513」岩波文庫 二〇一二年)
シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの・内容)とはいつでも置き換え可能であり、また、どんなシニフィエ(意味されるもの・内容)も事情次第でシニフィアン(意味するもの)へ移動することができる。そして押し寄せるシニフィアン(意味するもの)の洪水を手持ちのシニフィエ(意味されるもの・内容)で処理できなくなるや、その人間は狂気の世界へ移動するほかない。日本だけに限ってみても多くの精神病院の入院患者は、今なおこのタイプに分類される統合失調症者が断然多い。入院を要さない軽度の場合でもしばしば<幻覚・幻聴>に苦しめられるケースはいくらでもある。だが現在では症状を緩和することのできる治療薬が徐々に開発されるに及び、精神科領域の患者たちもようやく長期入院から地域医療への切り換えがはかどるようになった。それでもなおプルーストのいうように「同じひとつの顔の表現でも、ひとつのことばの表現と同じようにさまざまな意味が含まれうるから、私はギリシャ語解釈の難問を前にした生徒のようにおぼつかない足取り」でしか外出できない患者たちは日本だけを取ってみても山が崩れるほど大勢いる。患者たちにとっては気分変調が起こるたびにそれまでは理解できていると思っていた「顔の表現・ことばの表現」がいきなり<象形文字>と化して出現する。
ロシア人の人権、ウクライナ人の人権、アメリカ人の人権、中国人の人権、黒人の人権、少数民族の人権、障害者たち世界中のマイノリティの人権など、呼び方は無数にある。ところが人権には奇妙な特徴が見られる。第二次世界大戦で多くのユダヤ人が殺された。その時、ユダヤ人の人権が声高に叫ばれ戦後すぐイスラエルが建国され承認された。イスラエルが建国されると今度はそのイスラエルがパレスチナを軍事弾圧するようになる。すると今度はパレスチナの人権が叫ばれ、例えば作家のジュネなどはユダヤ擁護からパレスチナ擁護へと人権が危機にさらされている側へすばやく転身した。このような身軽さを身につけていないとなかなか人権擁護運動へ参加することはできない、あるいは人権擁護運動に加わっていると思っていたつもりがいつの間にか加害者側の人権擁護運動に加担することになっていた、という笑えない特徴がある。それにしても今や「オキナワ」とは何を指すのか。日米同盟がどうであれ沖縄県民と県政に対する日本政府による露骨な差別的対応と金銭感覚には驚くほかない。人権感覚より金銭感覚の側が圧倒的有利に見えるのは「オキナワ」のイスラエル化の兆候なのだろうか。
プルーストは次の箇所で「われわれの知覚はどんな国をも均一化する」と述べている。もはや外部は消滅するだろうというのだ。しかし同時に一縷の期待を込めてこうもいう。「そもそも相違のある世界など、どこかに存在するのだろうか?ヴァントゥイユの七重奏曲は、それが存在すると私に告げているように思われた。だがいったいどこに?」。
「われわれの知覚はどんな国をも均一化するのだから、この地上には相違のある世界など存在しない、ましてや『社交界』なる世界にそれが存在するわけがない。そもそも相違のある世界など、どこかに存在するのだろうか?ヴァントゥイユの七重奏曲は、それが存在すると私に告げているように思われた。だがいったいどこに?」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.198」岩波文庫 二〇一七年)
世界とそれを構成する人々が一様に受け取っていく「知覚の均一化」は、ニーチェが述べたように、資本主義の全体化と人間の家畜化とともに加速するし実際してきた。
「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫 一九九三年)
だが資本主義は全世界がたった一色に染まってしまい<外部>を持たなくなるとたちまち回転を停止するしかなくなる。どこで何をやっても差異は無効化され、したがってどんな利子も生じなくなる。もとより今の賃金水準だと消費者側は嫌でも消滅するしかなく、諸商品を売りたがっている側にしても原材料の高騰のためいずれ破産するのは目に見えている。にもかかわらず新自由主義をもっと押し進める政策提言を行っている学者が一部に巣食っているというのはただ単純な自殺衝動の現われとして論じられるものではない。似ているようでまるで違う。今の日本のような原材料の乏しい国で新自由主義を押し進めると新自由主義者一人だけの自殺衝動とはかけ離れた社会制度が出現する。ナチス・ドイツに似てはいるが「総統」に類する人物のいないナチス的社会の出現であり、それは特定の人間の自殺衝動ではなく全員一致の自殺意志を正当化するために選挙が行われ多数決で認められるという何とも不可解な政治決定の出現である。ナチス党の場合は次のようにもっとわかりやすかった。
「奇妙なことに、自分たちが何をもたらすのか、ナチスは最初からドイツ国民に告げていた。祝宴と死をもたらすというのだ。しかもこの死には、ナチス自身の死も、国民の死も含まれている。ナチスは、自分たちは滅びるだろうと考えていた。しかし、どのみち自分たちの企てはくりかえされ、全ヨーロッパ、全世界、全惑星におよぶだろうとも考えていた。人々は歓呼の声をあげた。理解できなかったからではなく、他人の死をともなうこの死を欲していたからである。これは、一回ごとにすべてを疑問に付し、自分の死とひきかえに他人の死に賭ける、そしてすべてを『破壊測定器』によって計測しようとする意志である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・P.141~142」河出文庫 二〇一〇年)
ところがプルーストは人間を危険なニヒリズムに陥らせてしまうばかりの「均一的社会制度」とはまるで別の<外部>について読者が発見できるよう巧みにこう書いている。
「偉大な芸術家は、それぞれほかの芸術家とはまるで違っているように見え、われわれが日常生活で求めても得られない強烈な個性の実感を与えてくれる!そんなことを考えていたとき、私はソナタの一小節にハッとした。それは私がよく知っている一小節であったが、注意を凝らすとずいぶん前から知っていたことにもときには異なる光が当てられ、一度も注目したことのなかったものに気づくことがある」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.353~354」岩波文庫 二〇一六年)
ニーチェの言葉へ変換するとこうなる。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫 一九九三年)
しかし皮肉なのは「《そこにある不思議なものを不思議が》」る感性豊かな人々は今後の日本を担うに値する逸材であるにもかかわらず、逆に警察による執拗な取り調べにさらされたり暴力団に似たネットワークによる脅迫を受ける社会が日本内部に芽を出し根を張り始めているということだろう。
BGM1
BGM2
BGM3
「一般にことばというものは、ことばをかけられた相手が自己の実体からとり出したなんらかの意味を担わせるものであり、その意味するところはこちらが同じことばに込めた意味とはまるで異なる。これはわれわれが日常生活からたえず教えられる事実である。だがそれ以上に、そばにいる人物がどんな教育を受けたのか(私にとってアルベルチーヌの受けた教育がそうだったように)見当もつかず、どんな性癖を持ち、なにを読み、どんな主義主張の持主であるか見当もつかないときは、こちらのことばが果たして相手にも同じものを呼び覚ましてくれるかは保証のかぎりではない。たとえ相手が動物でもある程度のことを理解させることはできるが、人間相手にそれ以上のことが伝わるのか心許ないのだ。そんなわけでアルベルチーヌと親しくなろうと試みることは、私には不可能な存在とは言わずとも未知の存在とつき合うことにも思え、馬の調教ほどに困難で、ミツバチの飼育やバラの栽培ほどに心安らぐ訓練に思えた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.511~512」岩波文庫 二〇一二年)
とはいえ理解といっても、或る一定の範囲内に限り通用するシニフィエ(意味されるもの・内容)は大抵のケースで「通例」とされている範囲に限定される。だから「そばにいる人物がどんな教育を受けたのか(私にとってアルベルチーヌの受けた教育がそうだったように)見当もつかず、どんな性癖を持ち、なにを読み、どんな主義主張の持主であるか見当もつかないときは、こちらのことばが果たして相手にも同じものを呼び覚ましてくれるかは保証のかぎりではない」という部分は疑問としていつまでも残るのである。プルースト文学のテーマの一つ<監視・監禁>は身振りを含む言語記号というものがシニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの・内容)とに分割された十七世紀〜十八世紀頃からもうすでに誰の目にも耳にも身体にとっても困難この上ない問いとしていつも頭の上にぶら下がっていた。この種の困難が困難でなくなるのはウィトゲンシュタインが論じたようなケースに限ってである。
「次のようなことはどうだろう。第二節の例にあった『石板!』という叫びは文章なのだろうか、それとも単語なのだろうか。ーーー単語であるとするなら、それはわれわれの日常言語の中で同じように発音される語と同じ意味をもっているのではない。なぜなら、第二節ではそれはまさに叫び声なのであるから。しかし、文章であるとしても、それはわれわれの言語における『石版!』という省略文ではない。ーーー最初の問いに関するかぎり、『石板!』は単語だとも言えるし、また文章だとも言える。おそらく『くずれた文章』というのがあたっている(ひとがくずれた修辞的誇張について語るように)。しかも、それはわれわれの<省略>文ですらある。ーーーだが、それは『石板をもってこい!』という文章を短縮した形にすぎないのであって、このような文章は第二節の例の中にはないのである。ーーーしかし、逆に、『石板をもってこい!』という文章が『石版!』という文の《ひきのばし》であると言っては、なぜいけないのだろうか。ーーーそれは、『石板!』と叫ぶひとが、実は『石板をもってこい!』ということをいみしているからだ。ーーーそれでは、『石板!』と《言い》ながら《そのようなこと》〔『石版をもってこい!』ということ〕《をいみしている》というのは、いったいどういうことなのか。心の中では短縮されていない文章を自分に言いきかせているということなのか。それに、なぜわたくしは、誰かが『石板!』という叫びでいみしていたことを言いあらわすのに、当の表現を別の表現へ翻訳しなくてはいけないのか。また、双方が同じことを意味しているとするなら、ーーーなぜわたくしは『かれが<石版!>と言っているなら<石板!>ということをいみしているのだ』と言ってはいけないのか。あるいはまた、あなたが『石板をもってこい』といいうことをいみすることができるのなら、なぜあなたは『石板!』ということをいみすることができてはいけないのだろうか。ーーーでも、『石板!』と叫ぶときには、《かれがわたくしに石板をもってくる》ことをわたくしは欲しているのだ。ーーーたしかにその通り。しかし、<そうしたことを欲する>ということは、自分の言う文章とはちがう文章を何らかの形で考えている、ということなのだろうか。
ーーーしかし、いま、あるひとが『石板 を もってこい!』と言うとすると、いまや、このひとは、この表現を、《一つの》長い単語、すなわち『石板!』という一語に対応する長い単語によって、いみしえたかのようにみえる。ーーーすると、ひとは、この表現を、あるときには一語で、またあるときは四語でいみすることができるのか。通常、ひとはこうした表現をどのように考えているのか。ーーー思うに、われわれは、たとえば『石板 を 《渡して》 くれ』『石板 を 《かれ》 の ところ へ もって いけ』『石板 を 《二枚》 もって こい』等々、別の文章との対比において、つまり、われわれの命令語をちがったしかたで結合させている文章との対比において、右の表現を用いるときに、これを《四》語から成る一つの文章だと考える、と言いたいくなるのではあるまいか。ーーーしかし、一つの文章を他の文章との対比において用いるということは、どういうことなのか。その際、何かそうした別の文章が念頭に浮んでくるということなのか。では、それらすべてが念頭に浮かぶのか。その一つの文章をいっている《あいだに》そうなるのか、それともその前にか、あるいは後にか。ーーーどれもちがう!たとえそのような説明にわれわれがいくばくかの魅力を感ずるとしても、実際に何が起っているのかをちょっと考えてみさえすれば、そのような説明が誤っていることが見てとれる。われわれは、自分たちが右のような命令文を他の文章との対比において用いるのは、《自分たちの言語》がそのような他の文章の可能性を含んでいるからだ、と言う。われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが『石板をもってこい!』という命令を下すのをたびたび聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言語では何か『建材』といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。そのとき、かれ自身がこの命令を下したとすると、かれはそれをたぶん違ったふうに発音するだろうし、また、われわれは、あの人の発音は変だ、あれが一語だと思っている、などと言うであろう。ーーーしかし、このことゆえに、かれがこの命令を発するときには、何かまた別のことがかれの心の中で起っているのではないか、ーーーかれがその文章を《一つの》単語として把握していることに対応する何かが。ーーーこれと似たこと、あるいはまた何かちがったことが、かれの心の中で起っているのかもしれない。では、きみがそのような命令を下すとき、きみの心の中では何が起っているのか。それを発音している《あいだに》、これが四語から成っていることが意識されているのだろうか。もちろん、きみはこの言語ーーーその中には、すでに述べたような別の文章も含まれているーーーに《熟達》しているのだが、しかし、この熟達ということが、その文章を発音しているあいだに《起こっている》ことなのだろうか。ーーーむろんわたくしは、別様に把握した文章を外国人がおそらく別様に発音するであろうこと、を認めている。しかし、われわれが誤った把握と呼ぶものは、《必ずしも》、命令の発音に付随した〔それとは別の〕何ごとかのうちに生ずるわけではない。
ーーー文章が『省略形』であるのは、それを発音するときに、何かわれわれの考えていることが除外されるからではなくて、それがーーーわれわれの文法の一定の範例に比べてーーー短縮されているからである。ーーーここでひとは、もちろん、『おまえは、短縮された文章と短縮されていない文章とが、同じ意義をもっていることを認めているではないか。それなら、それらはどのような意義をもっているのか。いったい、そうした意義に対して、一つの言語表現がないのか』といった異議がありえよう。ーーーしかし、文章の同じ意義とは、それらの同じ《適用》にあるのではないか」(ウィトゲンシュタイン「哲学探究・十九・二〇」『ウィトゲンシュタイン全集8・P.26~29』大修館書店 一九七六年)
ウィトゲンシュタインはこのような用例が日常的に通用する範囲のことを指して「言語ゲーム」と名づけた。ところが「言語ゲーム」の中でもなおさらなる問題は次々発生してくる。プルーストに戻ろう。
「同じひとつの顔の表現でも、ひとつのことばの表現と同じようにさまざまな意味が含まれうるから、私はギリシャ語解釈の難問を前にした生徒のようにおぼつかない足取りだった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.513」岩波文庫 二〇一二年)
シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの・内容)とはいつでも置き換え可能であり、また、どんなシニフィエ(意味されるもの・内容)も事情次第でシニフィアン(意味するもの)へ移動することができる。そして押し寄せるシニフィアン(意味するもの)の洪水を手持ちのシニフィエ(意味されるもの・内容)で処理できなくなるや、その人間は狂気の世界へ移動するほかない。日本だけに限ってみても多くの精神病院の入院患者は、今なおこのタイプに分類される統合失調症者が断然多い。入院を要さない軽度の場合でもしばしば<幻覚・幻聴>に苦しめられるケースはいくらでもある。だが現在では症状を緩和することのできる治療薬が徐々に開発されるに及び、精神科領域の患者たちもようやく長期入院から地域医療への切り換えがはかどるようになった。それでもなおプルーストのいうように「同じひとつの顔の表現でも、ひとつのことばの表現と同じようにさまざまな意味が含まれうるから、私はギリシャ語解釈の難問を前にした生徒のようにおぼつかない足取り」でしか外出できない患者たちは日本だけを取ってみても山が崩れるほど大勢いる。患者たちにとっては気分変調が起こるたびにそれまでは理解できていると思っていた「顔の表現・ことばの表現」がいきなり<象形文字>と化して出現する。
ロシア人の人権、ウクライナ人の人権、アメリカ人の人権、中国人の人権、黒人の人権、少数民族の人権、障害者たち世界中のマイノリティの人権など、呼び方は無数にある。ところが人権には奇妙な特徴が見られる。第二次世界大戦で多くのユダヤ人が殺された。その時、ユダヤ人の人権が声高に叫ばれ戦後すぐイスラエルが建国され承認された。イスラエルが建国されると今度はそのイスラエルがパレスチナを軍事弾圧するようになる。すると今度はパレスチナの人権が叫ばれ、例えば作家のジュネなどはユダヤ擁護からパレスチナ擁護へと人権が危機にさらされている側へすばやく転身した。このような身軽さを身につけていないとなかなか人権擁護運動へ参加することはできない、あるいは人権擁護運動に加わっていると思っていたつもりがいつの間にか加害者側の人権擁護運動に加担することになっていた、という笑えない特徴がある。それにしても今や「オキナワ」とは何を指すのか。日米同盟がどうであれ沖縄県民と県政に対する日本政府による露骨な差別的対応と金銭感覚には驚くほかない。人権感覚より金銭感覚の側が圧倒的有利に見えるのは「オキナワ」のイスラエル化の兆候なのだろうか。
プルーストは次の箇所で「われわれの知覚はどんな国をも均一化する」と述べている。もはや外部は消滅するだろうというのだ。しかし同時に一縷の期待を込めてこうもいう。「そもそも相違のある世界など、どこかに存在するのだろうか?ヴァントゥイユの七重奏曲は、それが存在すると私に告げているように思われた。だがいったいどこに?」。
「われわれの知覚はどんな国をも均一化するのだから、この地上には相違のある世界など存在しない、ましてや『社交界』なる世界にそれが存在するわけがない。そもそも相違のある世界など、どこかに存在するのだろうか?ヴァントゥイユの七重奏曲は、それが存在すると私に告げているように思われた。だがいったいどこに?」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.198」岩波文庫 二〇一七年)
世界とそれを構成する人々が一様に受け取っていく「知覚の均一化」は、ニーチェが述べたように、資本主義の全体化と人間の家畜化とともに加速するし実際してきた。
「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫 一九九三年)
だが資本主義は全世界がたった一色に染まってしまい<外部>を持たなくなるとたちまち回転を停止するしかなくなる。どこで何をやっても差異は無効化され、したがってどんな利子も生じなくなる。もとより今の賃金水準だと消費者側は嫌でも消滅するしかなく、諸商品を売りたがっている側にしても原材料の高騰のためいずれ破産するのは目に見えている。にもかかわらず新自由主義をもっと押し進める政策提言を行っている学者が一部に巣食っているというのはただ単純な自殺衝動の現われとして論じられるものではない。似ているようでまるで違う。今の日本のような原材料の乏しい国で新自由主義を押し進めると新自由主義者一人だけの自殺衝動とはかけ離れた社会制度が出現する。ナチス・ドイツに似てはいるが「総統」に類する人物のいないナチス的社会の出現であり、それは特定の人間の自殺衝動ではなく全員一致の自殺意志を正当化するために選挙が行われ多数決で認められるという何とも不可解な政治決定の出現である。ナチス党の場合は次のようにもっとわかりやすかった。
「奇妙なことに、自分たちが何をもたらすのか、ナチスは最初からドイツ国民に告げていた。祝宴と死をもたらすというのだ。しかもこの死には、ナチス自身の死も、国民の死も含まれている。ナチスは、自分たちは滅びるだろうと考えていた。しかし、どのみち自分たちの企てはくりかえされ、全ヨーロッパ、全世界、全惑星におよぶだろうとも考えていた。人々は歓呼の声をあげた。理解できなかったからではなく、他人の死をともなうこの死を欲していたからである。これは、一回ごとにすべてを疑問に付し、自分の死とひきかえに他人の死に賭ける、そしてすべてを『破壊測定器』によって計測しようとする意志である」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・P.141~142」河出文庫 二〇一〇年)
ところがプルーストは人間を危険なニヒリズムに陥らせてしまうばかりの「均一的社会制度」とはまるで別の<外部>について読者が発見できるよう巧みにこう書いている。
「偉大な芸術家は、それぞれほかの芸術家とはまるで違っているように見え、われわれが日常生活で求めても得られない強烈な個性の実感を与えてくれる!そんなことを考えていたとき、私はソナタの一小節にハッとした。それは私がよく知っている一小節であったが、注意を凝らすとずいぶん前から知っていたことにもときには異なる光が当てられ、一度も注目したことのなかったものに気づくことがある」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.353~354」岩波文庫 二〇一六年)
ニーチェの言葉へ変換するとこうなる。
「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫 一九九三年)
しかし皮肉なのは「《そこにある不思議なものを不思議が》」る感性豊かな人々は今後の日本を担うに値する逸材であるにもかかわらず、逆に警察による執拗な取り調べにさらされたり暴力団に似たネットワークによる脅迫を受ける社会が日本内部に芽を出し根を張り始めているということだろう。
BGM1
BGM2
BGM3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4d/28/51cb3099b8694d43f66e00cd08cf6946.jpg)