白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「あなた」から「きみ」への変換/「支離滅裂」の効用

2022年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム
ロベール(サン=ルー)と<私>との関係は「きみ」と「ぼく」と呼び合える関係である。にもかかわらずロベール(サン=ルー)の友人たちも同席する場面であるため、一旦両者は互いに相手を「あなた」と呼び合うぎくしゃくした気まずそうな関係に陥ってしまっている。もっとも、サン=ルーはそれがどれほどぎくしゃくした空気を充満させているのか、その気まずさに気づいていないという致命的お人好しぶりを発揮しているわけだが。そこで<私>はサン=ルーを介してゲルマント夫人へ接近するに当たって奇妙にもったいぶった回りくどい説明を試みる。そしてその意味は通じる。だがなぜ通じたのか。「他人が目の前にいるからこそ、それを口実に私の話を短くて支離滅裂なものにできた」からにほかならない。「支離滅裂」の効用というべきか、というより、いったん「支離滅裂」にならなくてはかえって成立しない理解と共感とがあるのだ。

「『でもゲルマント夫人には、いくぶん誇張がまじることになっても、あなたがぼくをどう評価しているかを伝えてくれるなら、これほど嬉しいことはないんだ』。『もちろん喜んで引き受けるよ、頼みってのがそれだけのことなら、そうむずかしいことじゃないし、でもあの人があなたのことをどう思うかなんて、そんなことがどうして重要なんだい?あなたには問題にもならないことだと思うけど。いずれにしてもそんなことなら、みんなの前でも、ふたりきりになれるときでも話せるだろう。ふたりきりになる機会がいくらでもあるというのに、こうして突っ立ったまま不便な思いをしながら話して、疲れが出ないかと心配だよ』。ほかでもない、そんな不便な状況であったからこそ、私はロベールにこの話をする勇気が出たのである。他人が目の前にいるからこそ、それを口実に私の話を短くて支離滅裂なものにできたのだし、そんな話しかたのおかげで、ロベールと公爵夫人との親戚関係を忘れていたなんて嘘をついたのを容易に隠しおおすこともできたのだし、それはまた、私がロベールと知り合いで頭もいいなどといったことをなぜゲルマント夫人に知ってもらいたいのか、その動機についてロベールにあれこれ質問させる余裕を与えないためでもあって、そんなことを訊かれでもしたら私は返答に窮したにちがいない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.216~217」岩波文庫 二〇一三年)

<私>は差し当たりゲルマント夫人への接近方法について語る。大変まどろっこしい会話に思える。しかし言葉遣いには段階というものがあり、いきなり生(なま)の言葉遣いを用いると人間関係は逆に崩壊の淵に立たされる場合が少なくないことは誰しも知っているに違いない。次の箇所は読者にとって面倒な会話に思える。だがそれなしに次はない。

「『ロベール、あなたのような聡明な人が理解できないのは驚くほかないけれど、友人が喜ぶことには理屈をこねてはいけないんで、それを実行すべきなんだ。ぼくなら、あなたがなにを頼まれようと、もとよりぼくになにか頼んでもらいたいと願っているけど、けっして説明を求めたりはしないよ。ぼくは自分の望みをやたらに言いすぎているかもしれないけれど、どうしてもゲルマント夫人と知り合いになりたいわけじゃないんだ。でも、あなたを試すつもりなら、ゲルマント夫人と夕食をともにしたいと言うべきだっただろうね、あなたがそんなことをしてくれるはずがないのは承知のうえだけど』。『そう言われていたらやったはずだし、これからもやるよ』。『いつになるだろう?』。『パリに帰ったらすぐやるよ、三週間後になるだろう、たぶん』。『どうなるだろうね、そもそもあの人はやりたがらないだろうし。でもあなたにはなんて御礼を言ったらいいのか』。『いや、なんでもないことだよ』。『そんなことはない、大へんなことだよ、いまやぼくにはあなたがどんな友人かがわかったわけだから。お願いするのが重要なことでもそうでないことでも、不愉快なことでもそうでもないことでも、本気で望んでいることでもあなたを試そうとしているだけのことでも、どうでもいいんだ。あなたはやると言ってくれて、それであなたの頭と心がいかに繊細かを示してくれたんだから。愚かな友人なら理屈をこねていたところだけれど』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.217~218」岩波文庫 二〇一三年)

いい加減に「あなた」を「きみ」へ変換しないといけない。<私>は「重要」だという断り付きでこう述べる。サン=ルーは喜んで引き受けてくれる。

「『さあ、もうみんなのところに行かねばならないけど、さっき頼んだのは考えていたふたつのうちのひとつで、重要でないほうなんだ。もうひとつのほうがぼくには重要でね、断られるんじゃないかと心配だけど、おたがい、きみって呼び合うことにしたら迷惑だろうか?』。『どうして迷惑なんだい、とんでもない!《歓喜!》、《歓喜の涙!》、《かつてない至福!》ってもんだよ』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.219」岩波文庫 二〇一三年)

それにしてもゲルマント夫人への橋渡し役としてもサン=ルーの友人たちへ向けて<私>が紹介されなければならないシーンでも、いずれの場合もサン=ルーが適役なのはなぜなのか。「ふだんはことさらに言い立てず味わっていただけの私の同じ発言が、予告に見合う期待どおりの効果を友人たちにひきおこすかどうかを、そっと横目で見張っていた。初舞台に立つ女優の母親でさえ、娘のせりふや観客の反応にこれ以上の注意を払うことはあるまい」、というくらい気が利くのだ。

「これまで以上に愛想のいいことを言ってくれたからといって、それが意図的なものに思えたなら、私としてもなんら心を動かされなかっただろう。ところがサン=ルーの愛想のよさは、無意識のもので、差し向かいのときには口にしないけれど私が不在のときに私について語ってくれるはずのことばだけで成り立っている気がした。差し向かいのときでも、たしかに私と話すのが楽しいようではあったが、その喜びはたいてい表明されないままであった。ところが今やサン=ルーは、ふだんはことさらに言い立てず味わっていただけの私の同じ発言が、予告に見合う期待どおりの効果を友人たちにひきおこすかどうかを、そっと横目で見張っていた。初舞台に立つ女優の母親でさえ、娘のせりふや観客の反応にこれ以上の注意を払うことはあるまい。サン=ルーは、私がひとこと言うと、私と差し向かいのときなら小馬鹿にしたにちがいない発言でも、みながよく理解できなかったのではないかと心配して、私に『なになに、なんだって?』と問いかけ、同じことばをくり返させてみなの注意を喚起すると、すぐさま友人たちのほうをふり向き、いかにも人の好さそうな笑顔でみなを見つめるので、意識せずともおのずと友人たちの笑いを誘うことになり、そこではじめて私をどう思っているのか、しばしば友人たちに開陳してきたはずの考えを私に向けて提示するのだ。かくして私は、新聞で自分の名前に目をとめる人や、鏡で自分のすがたに見入る人のように、いきなり自分自身を外部から見つめることになった」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.221~222」岩波文庫 二〇一三年)

このような破格の気の効かせ方は「そこではじめて私をどう思っているのか、しばしば友人たちに開陳してきたはずの考えを私に向けて提示するのだ。かくして私は、新聞で自分の名前に目をとめる人や、鏡で自分のすがたに見入る人のように、いきなり自分自身を外部から見つめることになった」。鏡像の効果についてはマルクス参照。

「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫 一九七二年)

なお個人的な話になるが、この五月半ば頃からひどい鬱状態に苦悶していた。言葉にできないがゆえに鬱症状なのだが、そしてまたなぜなのかわからないが絵画へ変換すると可視化できることがある。見た目は次のようなイメージ。

「Xアルバム7裏ーーーファン・ゴッホ・シリーズ」『フランシス・ベーコン(バリー・ジュール・コレクションによる)・P.69』(求龍堂 二〇二一年)

ところが今回の鬱症状悪化の要因は複合的な要素が複雑に絡み合って錯綜したもので、もともとただ単なる意欲低下だけが顕著な鬱病でないこともあり、自分でも驚くほど異様な力のいらいらに襲われた。次のように。

「自画像の写真上のドローイング 1970年代~1980年代頃」『フランシス・ベーコン(バリー・ジュール・コレクションによる)・P.104』(求龍堂 二〇二一年)

後者でフランシス・ベーコンは紫を多用しているけれども今回の鬱症状は紫というより次の作品に近い。

「Xアルバム2裏」『フランシス・ベーコン(バリー・ジュール・コレクションによる)・P.59』(求龍堂 二〇二一年)

さらに頭の中はまた違っている。

「2人のボクサーの写真上のドローイング 1970年代〜1980年代頃」『フランシス・ベーコン(バリー・ジュール・コレクションによる)・P.126~127』(求龍堂 二〇二一年)

この精神的複雑骨折。といってもベーコンにとってはこの状態が正定立であり転倒ではない。その意味でベーコンの絵画は鑑賞するものではなく鏡の前に立つことであるだろう。

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