人間関係では始めの<間違い>といっても厳密な意味で正解と誤解とがあるわけではない。むしろ「正解/誤解」はいつも揺れ動いている。なんともかんともどちらとも言いがたいものだ。しばしば言われる言葉に「どちらかでなければならない」というステレオタイプ(常套句)・ドグマ(思い込み)の側をこそ<問い改めていこう>というものがある。なるほどもっともな主張でありそれができればどんな人間も苦痛を最小限度まで抑え込むことができるようになるかもしれない。だが問題は、問い自体が問い自体(あるいは答え自体)と一緒になって問いの構造のトリックを覆い隠してしまうという仕組みが一旦解明されるや瞬時に次の問いが出現してくるというパラドックスまで解かれるわけでは必ずしもない場合があり、そのような難問がほかでもない対人関係の場合に最も顕著に発生しがちだということを否定しようにもできない点にある。しかしなぜそういうことが起こってくるのか。ニーチェから引用したいと思うが、まずプルーストから先に見ていこう。
娘たちの一団について<私>は誤解していたのかもしれない。始めて浜辺で出会った時、娘たちは「競輪選手」や「ボクシング選手」の愛人たちにしか見えなかった。振る舞い方がマッチョ的な意味で粗暴に見えたからというのがその理由だが、なかでも<私>を注目させたのは言葉遣いに関する違和感だった。アルベルチーヌの場合、その周囲を飛び交う言葉は、カジノ、ゴルフ、ダンスホール、競馬、競輪、チャリンコ(自転車・ベカヌ)、タコ(ローカル線の小型車両)など。その後、娘たちの一人一人と言葉を交わして知り合うようになると個別的には全然乱暴でもなんでもない、どこにでもいそうな娘たちの一人一人に過ぎないということがわかってきた。そこで改めて<私>は娘たちについて「無垢」であるという精神的印鑑を与えることになった。
しかしそれもまた極端な印象づけでしかない。「たとえ間違いに気づいても、それを真実に置き換えられずさらにべつの間違いに置き換えてしまう」という傾向。それはしかし<私だけ>に限った特殊な傾向ではない。プルーストから百二十年経った今の日本でも前年の東京五輪で発覚したように、その時のJOC会長による女性差別発言がすっかりそれに当てはまる。またその友人知人たち、さらに実質的部下の系列にはもっと大量にいるだろう。
「ところがたとえ些細なことでも最初に間違えてしまい、誤った想定や記憶から悪口の出所や失くしたものの場所の見当をつけそこなうと、たとえ間違いに気づいても、それを真実に置き換えられずさらにべつの間違いに置き換えてしまうことがある。私は、娘たちの暮らしぶりとその娘たちへの対処の仕方について、親しくおしゃべりをしながらその顔に読みとった無垢という語を基に、あらゆる結論を引きだそうとしていた。しかしもしかすると私は解読を急ぐあまり、間違えてそう読んでしまっただけで、そんな語は書かれていなかったのかもしれない。私がはじめてラ・ベルマを聴いたマチネのプログラムに、ジュール・フェリーの名など書かれていなかったのと同じである。それでも私は、ノルポワ氏に、開幕劇を書いたのはジュール・フェリーに違いないと主張する始末だった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.645」岩波文庫 二〇一二年)
次の箇所で見ておきたいのは「知性は、鎖のように連なる過去の日々が消えてゆくのを放置し、その鎖の端だけを強く握っているにすぎず、しかもその端は闇のなかに消え失せた鎖とはまるでべつの金属でできていることが多い」という点である。知性がそうしてしまうのはなぜだろう。鎖は一本の糸ではなく連鎖というように諸部分に解体された部分的状態から始まっていて、それを一連の鎖へ加工してできる。だから知性がどれほど「その鎖の端だけを強く握ってい」ようと、「その端は闇のなかに消え失せた鎖とはまるでべつの金属でできていることが多い」ということが生じる。<諸断片>に切断された状態が最初であって、鎖として加工された状態は一つの商品としてはひとまとまりの鎖で通用するけれども、<諸断片>に切断された状態のまま幾ら山積みしてみてもそれは商品「鎖」としては通用しない。記憶もまたそうだ。どんなふうに接続・再接続されたとしても部分としてはどれも「それだけを切り離」された対象としてしか認知されない。しかし、だからこそ<移動・置き換え・再創造>も可能なのだ。
「小さな集団の女友だちのどの子についても最後に会ったときの顔が私の想い出すただひとつの顔で、そうしてもそうなるのだた。というのも知性が、ひとりの人物にかんするさまざまな想い出のなかから、日常のつき合いにすぐに役立たないものはすべて排除してしまうからである(このつき合いにいくぶん愛情が含まれている場合でさえ、いや、含まれているからこそ、そうなるのであり、愛情はつねに充たされず、来るべき近未来を生きるにすぎない)。知性は、鎖のように連なる過去の日々が消えてゆくのを放置し、その鎖の端だけを強く握っているにすぎず、しかもその端は闇のなかに消え失せた鎖とはまるでべつの金属でできていることが多い。われわれの人生という旅でも、現実のものと見なすのは現在の時点で存在する土地だけである。ごく初期の印象は、すでにあまりにも遠くかすみ、記憶の力を借りてその日その日の変形を食い止めることはできない。娘たちとおしゃべりをしたり、おやつを食べたり、ゲームで遊んだりしてすごした長い時間、その娘たちが、壁画に描かれたように海を背景に行進してゆくのを見た、無慈悲で肉感的な乙女たちと同じ人物であることなど、私は想い出しさえしなかった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.645~646」岩波文庫 二〇一二年)
そのようにして知り合えば知り合うほどどの娘もごくありふれた娘たちの一人一人という枠組みに収まってしまい、「その娘たちが、壁画に描かれたように海を背景に行進してゆくのを見た、無慈悲で肉感的な乙女たちと同じ人物であることなど、私は想い出しさえしなかった」、ということになるほかない。すると「カリュプソ」も「ミノスの宮殿」もたちまち神話の位置を失い地上の物品へと下落してくる。<私>にとって娘たちの一団もバルベックで始めて出会った時から互いに知り合いになる過程を通してもう神話的存在から地上のどこにでもいる娘たちへ降りてきてしまった。要するに「私が最初の日々につくりあげた優雅な海洋神話のいっさいは、跡形もなく消え失せていた」。
「地理学者や考古学者は、われわれを紛れもなくカリュプソの島に連れて行ってくれ、ミノスの宮殿を誤ることなく発掘してくれる。ただしそうなると、カリュプソはひとりの女性にすぎず、ミノスは神聖さに欠けるひとりの王にすぎなくなる。これっら現実に存在した人物の特性として歴史が教えてくれる長所や短所は、同じ名をもつ伝説上の人物にわれわれが付与してきた長所や短所とは往々にしてずいぶん異なる。そんなわけで私が最初の日々につくりあげた優雅な海洋神話のいっさいは、跡形もなく消え失せていた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.646」岩波文庫 二〇一二年)
<私>が<私自身>の側の考えによって手前勝手に「神格化」した娘たち。しかしそれは「娘たちの一団」としてしか見えなかったほんの僅かな時期に限って発生した「間違い」に過ぎなかった。親しくなればなるほど娘たちは女神でもなんでもない思春期の女性たちだということがわかってくる。一方で<私>は娘たちを「神格化」したとともに、もう一方で<私>は娘たちをどこにでもいるありふれた娘たちへ解消した。ニーチェは「神の死」について語っているが、同時に「神の殺害者は人間だ」とも言っている。
「狂気の人間は彼らの中にとびこみ、穴のあくほどひとりびとりを睨(にらみ)つけた。『神がどこへ行ったかって?』、と彼は叫んだ、『おれがお前たちに言ってやる!《おれたちが神を殺したのだ》ーーーお前たちとおれがだ!おれたちはみな神の殺害者なのだ!だが、どうしてそんなことをやったのか?どうしておれたちは海を飲みほすことができたんだ?地平線をのこらず拭い去る海綿を誰がおれたちに与えたのか?この地球を太陽から切り離すようなことを何かおれたちはやったのか?地球は今どっちへ動いているのだ?おれたちはどっちへ動いているのだ?あらゆる太陽から離れ去ってゆくのか?おれたちは絶えず突き進んでいるのではないか?それも後方へなのか、側方へなのか、前方へなのか、四方八方へなのか?上方と下方がまだあるのか?おれたちは無限の虚無の中を彷徨するように、さ迷ってゆくのではないか?寂寞とした虚空がおれたちに息を吹きつけてくるのではないか?いよいよ冷たくなっていくのでないか?たえず夜が、ますます深い夜がやってくるのではないか?白昼に提燈をつけなければならないのでないか?神を埋葬する墓掘人たちのざわめきがまだ何もきこえてこないか?神の腐る臭いがまだ何もしてこないか?ーーー神だって腐るのだ!神は死んだ!神は死んだままだ!それも、おれたちが神を殺したのだ!殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ?世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ、ーーーおれたちが浴びたこの血を誰が拭いとってくれるのだ?どんな水でおれたちは体を洗い浄めたらいいのだ?どんな贖罪(しょくざい)の式典を、どんな聖なる奏楽を、おれたちは案出しなければならなくなるだろうか?こうした所業の偉大さは、おれたちの手にあまるものではないのか?それをやれるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?これよりも偉大な所業はいまだかつてなかったーーーそしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!』ーーーここで狂気の人間は口をつぐみ、あらためて聴衆を見やった。聴衆も押し黙り、訝(いぶか)しげに彼を眺めた。ついに彼は手にした提燈を地面に投げつけたので、提燈はばらばらに砕け、灯が消えた。『おれは早く来すぎた』、と彼は言った。『まだおれの来る時ではなかった。この怖るべき出来事はなおまだ中途にぐずついているーーーそれはまだ人間どもの耳には達していないのだ。電光と雷鳴には時が要(い)る、星の光も時を要する、所業とてそれがなされた後でさえ人に見られ聞かれるまでには時を要する。この所業は、人間どもにとって、極遠の星よりもさらに遥かに遠いものだーーー《にもかかわらず彼らはこの所業をやってしまったのだ!》』ーーーなおひとびとの話では、その同じ日に狂気の人間はあちこちの教会に押し入り、そこで彼の『神の永遠鎮魂弥撒(ミサ)曲』(Requiem aeternam deo)を歌った、ということだ。教会から連れだされて難詰されると、彼はただただこう口答えするだけだったそうだーーー『これら教会は、神の墓穴にして墓碑でないとしたら、一体なんなのだ?』」(ニーチェ「悦ばしき知識・第三書・一二五・P.219~221」ちくま学芸文庫 一九九三年)
神は死んだ。けれどもそのことで明らかにされたのは世界は<生成することしかしない>という実状である。だから世界には「目的」も「統一」も「真理」もない。あるのは逆に<仮面>ばかりなのだとニーチェはいう。では人間は一体何のために生きているのか一挙に根拠を失ってしまう。ところが世界は「目的を持っている」という人々の思い込みの無根拠性を証明したのは人間が最も信頼を置いている科学という分野からの通告だった。するとしばらくして世界中がニヒリズムに陥った。<生成すること>は<変化すること>にほかならない。唯一の「真理」、さらには「統一」など、本当はどこにもないのだというニーチェの言葉。
「生成でもっては何ものもめざされてはいない、また、すべての生成のしたには、あたかも最高価値のうちでのごとく、個々人がそのなかにすっぽり沈み込んでよいような大いなる統一など支配していないという、これら二つの《洞察》があったとすれば、《逃げ道》としてのこっているのは、この生成の全世界を迷妄と判断して、このものの彼岸にある一つの世界を《真の》世界として捏造(ねつぞう)することでしかない。しかし人間が、こうした世界を組み立てたのは心理学的欲求に過ぎず、人間はそうする権利をまるっきりもってはいないとさとるやいなや、ニヒリズムの最後の形式が生ずる。これは、《形而上学的世界を信じない》ということをそれ自身のうちにふくみ、ーーー《真の》世界を信ずることをおのれに禁ずるものである。この立脚点に立って生成の実在性が《唯一の》実在性としてみとめられ、背後の世界の偽りの神性につうずるあらゆる種類の抜け道が禁ぜられるーーーしかし、《誰も否認しようとは欲しないこの生成の世界が耐えがたいのである》。ーーーいったい何がおこったのか?『《目的》』という概念をもってしても、『《統一》』という概念をもってしても、『《真理》』という概念をもってしても、生存の総体的性格は解釈されえないとわかったとき、《無価値性》の感情がえられたのである。かくして、何ものもめざされ達成されず、生成という多様性をおおう統一は欠けている。すなわち、生存の性格は《真》ではなく《偽》なのであるーーー《真》の世界があるとおのれを説得する根拠は、もはやまったくなくなるーーー要するに、私たちが世界に価値を置き入れてきた《目的》、《統一》、《存在》という諸範疇(はんちゅう)は、ふたたび私たちによって《引きぬき去られ》ーーーいまや世界は《無価値のものにみえて》くるーーー」(ニーチェ「権力への意志・上・十二・P.29~30」ちくま学芸文庫 一九九三年)
世界は絶対的固定的なものではまるでなく逆に絶え間なく生成変化している。夢か記憶のようにいつも<移動・置き換え・再創造>されている。人々はそれを知って「《誰も否認しようとは欲しないこの生成の世界が耐えがたいのである》」という事態に陥った。しかし人々は常にそのような致命的ニヒリズムに襲われているにもかかわらず、どうして全滅してしまわないのか。逆に元気が出る人たちがいたりするのか。というのも単純に一縷の希望があるからというわけではなくて、<移動・置き換え・再創造>という芸術的場所移動が可能であり実践されてもいる以上、解体と同時にいつも新しく出発するし出発しているからである。俗世間で希望という言葉が濫用できる理由は、俗世間にまみれ果てていようがいまいが、立場が異なる多くの人々(広い意味での芸術家。創作家、画家、音楽家、漫画家、映画監督、イラストレーター、アニメーター、シナリオライターなど)が新しく出発する地点を切り開き実際に身体で感じられるよう可視化しているからにほかならない。プルースト作品の中でヴァントゥイユの音楽やエルスチールの絵画がこじ開ける幾つかの新しい次元のように。
BGM1
BGM2
BGM3
娘たちの一団について<私>は誤解していたのかもしれない。始めて浜辺で出会った時、娘たちは「競輪選手」や「ボクシング選手」の愛人たちにしか見えなかった。振る舞い方がマッチョ的な意味で粗暴に見えたからというのがその理由だが、なかでも<私>を注目させたのは言葉遣いに関する違和感だった。アルベルチーヌの場合、その周囲を飛び交う言葉は、カジノ、ゴルフ、ダンスホール、競馬、競輪、チャリンコ(自転車・ベカヌ)、タコ(ローカル線の小型車両)など。その後、娘たちの一人一人と言葉を交わして知り合うようになると個別的には全然乱暴でもなんでもない、どこにでもいそうな娘たちの一人一人に過ぎないということがわかってきた。そこで改めて<私>は娘たちについて「無垢」であるという精神的印鑑を与えることになった。
しかしそれもまた極端な印象づけでしかない。「たとえ間違いに気づいても、それを真実に置き換えられずさらにべつの間違いに置き換えてしまう」という傾向。それはしかし<私だけ>に限った特殊な傾向ではない。プルーストから百二十年経った今の日本でも前年の東京五輪で発覚したように、その時のJOC会長による女性差別発言がすっかりそれに当てはまる。またその友人知人たち、さらに実質的部下の系列にはもっと大量にいるだろう。
「ところがたとえ些細なことでも最初に間違えてしまい、誤った想定や記憶から悪口の出所や失くしたものの場所の見当をつけそこなうと、たとえ間違いに気づいても、それを真実に置き換えられずさらにべつの間違いに置き換えてしまうことがある。私は、娘たちの暮らしぶりとその娘たちへの対処の仕方について、親しくおしゃべりをしながらその顔に読みとった無垢という語を基に、あらゆる結論を引きだそうとしていた。しかしもしかすると私は解読を急ぐあまり、間違えてそう読んでしまっただけで、そんな語は書かれていなかったのかもしれない。私がはじめてラ・ベルマを聴いたマチネのプログラムに、ジュール・フェリーの名など書かれていなかったのと同じである。それでも私は、ノルポワ氏に、開幕劇を書いたのはジュール・フェリーに違いないと主張する始末だった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.645」岩波文庫 二〇一二年)
次の箇所で見ておきたいのは「知性は、鎖のように連なる過去の日々が消えてゆくのを放置し、その鎖の端だけを強く握っているにすぎず、しかもその端は闇のなかに消え失せた鎖とはまるでべつの金属でできていることが多い」という点である。知性がそうしてしまうのはなぜだろう。鎖は一本の糸ではなく連鎖というように諸部分に解体された部分的状態から始まっていて、それを一連の鎖へ加工してできる。だから知性がどれほど「その鎖の端だけを強く握ってい」ようと、「その端は闇のなかに消え失せた鎖とはまるでべつの金属でできていることが多い」ということが生じる。<諸断片>に切断された状態が最初であって、鎖として加工された状態は一つの商品としてはひとまとまりの鎖で通用するけれども、<諸断片>に切断された状態のまま幾ら山積みしてみてもそれは商品「鎖」としては通用しない。記憶もまたそうだ。どんなふうに接続・再接続されたとしても部分としてはどれも「それだけを切り離」された対象としてしか認知されない。しかし、だからこそ<移動・置き換え・再創造>も可能なのだ。
「小さな集団の女友だちのどの子についても最後に会ったときの顔が私の想い出すただひとつの顔で、そうしてもそうなるのだた。というのも知性が、ひとりの人物にかんするさまざまな想い出のなかから、日常のつき合いにすぐに役立たないものはすべて排除してしまうからである(このつき合いにいくぶん愛情が含まれている場合でさえ、いや、含まれているからこそ、そうなるのであり、愛情はつねに充たされず、来るべき近未来を生きるにすぎない)。知性は、鎖のように連なる過去の日々が消えてゆくのを放置し、その鎖の端だけを強く握っているにすぎず、しかもその端は闇のなかに消え失せた鎖とはまるでべつの金属でできていることが多い。われわれの人生という旅でも、現実のものと見なすのは現在の時点で存在する土地だけである。ごく初期の印象は、すでにあまりにも遠くかすみ、記憶の力を借りてその日その日の変形を食い止めることはできない。娘たちとおしゃべりをしたり、おやつを食べたり、ゲームで遊んだりしてすごした長い時間、その娘たちが、壁画に描かれたように海を背景に行進してゆくのを見た、無慈悲で肉感的な乙女たちと同じ人物であることなど、私は想い出しさえしなかった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.645~646」岩波文庫 二〇一二年)
そのようにして知り合えば知り合うほどどの娘もごくありふれた娘たちの一人一人という枠組みに収まってしまい、「その娘たちが、壁画に描かれたように海を背景に行進してゆくのを見た、無慈悲で肉感的な乙女たちと同じ人物であることなど、私は想い出しさえしなかった」、ということになるほかない。すると「カリュプソ」も「ミノスの宮殿」もたちまち神話の位置を失い地上の物品へと下落してくる。<私>にとって娘たちの一団もバルベックで始めて出会った時から互いに知り合いになる過程を通してもう神話的存在から地上のどこにでもいる娘たちへ降りてきてしまった。要するに「私が最初の日々につくりあげた優雅な海洋神話のいっさいは、跡形もなく消え失せていた」。
「地理学者や考古学者は、われわれを紛れもなくカリュプソの島に連れて行ってくれ、ミノスの宮殿を誤ることなく発掘してくれる。ただしそうなると、カリュプソはひとりの女性にすぎず、ミノスは神聖さに欠けるひとりの王にすぎなくなる。これっら現実に存在した人物の特性として歴史が教えてくれる長所や短所は、同じ名をもつ伝説上の人物にわれわれが付与してきた長所や短所とは往々にしてずいぶん異なる。そんなわけで私が最初の日々につくりあげた優雅な海洋神話のいっさいは、跡形もなく消え失せていた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.646」岩波文庫 二〇一二年)
<私>が<私自身>の側の考えによって手前勝手に「神格化」した娘たち。しかしそれは「娘たちの一団」としてしか見えなかったほんの僅かな時期に限って発生した「間違い」に過ぎなかった。親しくなればなるほど娘たちは女神でもなんでもない思春期の女性たちだということがわかってくる。一方で<私>は娘たちを「神格化」したとともに、もう一方で<私>は娘たちをどこにでもいるありふれた娘たちへ解消した。ニーチェは「神の死」について語っているが、同時に「神の殺害者は人間だ」とも言っている。
「狂気の人間は彼らの中にとびこみ、穴のあくほどひとりびとりを睨(にらみ)つけた。『神がどこへ行ったかって?』、と彼は叫んだ、『おれがお前たちに言ってやる!《おれたちが神を殺したのだ》ーーーお前たちとおれがだ!おれたちはみな神の殺害者なのだ!だが、どうしてそんなことをやったのか?どうしておれたちは海を飲みほすことができたんだ?地平線をのこらず拭い去る海綿を誰がおれたちに与えたのか?この地球を太陽から切り離すようなことを何かおれたちはやったのか?地球は今どっちへ動いているのだ?おれたちはどっちへ動いているのだ?あらゆる太陽から離れ去ってゆくのか?おれたちは絶えず突き進んでいるのではないか?それも後方へなのか、側方へなのか、前方へなのか、四方八方へなのか?上方と下方がまだあるのか?おれたちは無限の虚無の中を彷徨するように、さ迷ってゆくのではないか?寂寞とした虚空がおれたちに息を吹きつけてくるのではないか?いよいよ冷たくなっていくのでないか?たえず夜が、ますます深い夜がやってくるのではないか?白昼に提燈をつけなければならないのでないか?神を埋葬する墓掘人たちのざわめきがまだ何もきこえてこないか?神の腐る臭いがまだ何もしてこないか?ーーー神だって腐るのだ!神は死んだ!神は死んだままだ!それも、おれたちが神を殺したのだ!殺害者中の殺害者であるおれたちは、どうやって自分を慰めたらいいのだ?世界がこれまでに所有していた最も神聖なもの最も強力なもの、それがおれたちの刃で血まみれになって死んだのだ、ーーーおれたちが浴びたこの血を誰が拭いとってくれるのだ?どんな水でおれたちは体を洗い浄めたらいいのだ?どんな贖罪(しょくざい)の式典を、どんな聖なる奏楽を、おれたちは案出しなければならなくなるだろうか?こうした所業の偉大さは、おれたちの手にあまるものではないのか?それをやれるだけの資格があるとされるには、おれたち自身が神々とならねばならないのではないか?これよりも偉大な所業はいまだかつてなかったーーーそしておれたちのあとに生まれてくるかぎりの者たちは、この所業のおかげで、これまであったどんな歴史よりも一段と高い歴史に踏み込むのだ!』ーーーここで狂気の人間は口をつぐみ、あらためて聴衆を見やった。聴衆も押し黙り、訝(いぶか)しげに彼を眺めた。ついに彼は手にした提燈を地面に投げつけたので、提燈はばらばらに砕け、灯が消えた。『おれは早く来すぎた』、と彼は言った。『まだおれの来る時ではなかった。この怖るべき出来事はなおまだ中途にぐずついているーーーそれはまだ人間どもの耳には達していないのだ。電光と雷鳴には時が要(い)る、星の光も時を要する、所業とてそれがなされた後でさえ人に見られ聞かれるまでには時を要する。この所業は、人間どもにとって、極遠の星よりもさらに遥かに遠いものだーーー《にもかかわらず彼らはこの所業をやってしまったのだ!》』ーーーなおひとびとの話では、その同じ日に狂気の人間はあちこちの教会に押し入り、そこで彼の『神の永遠鎮魂弥撒(ミサ)曲』(Requiem aeternam deo)を歌った、ということだ。教会から連れだされて難詰されると、彼はただただこう口答えするだけだったそうだーーー『これら教会は、神の墓穴にして墓碑でないとしたら、一体なんなのだ?』」(ニーチェ「悦ばしき知識・第三書・一二五・P.219~221」ちくま学芸文庫 一九九三年)
神は死んだ。けれどもそのことで明らかにされたのは世界は<生成することしかしない>という実状である。だから世界には「目的」も「統一」も「真理」もない。あるのは逆に<仮面>ばかりなのだとニーチェはいう。では人間は一体何のために生きているのか一挙に根拠を失ってしまう。ところが世界は「目的を持っている」という人々の思い込みの無根拠性を証明したのは人間が最も信頼を置いている科学という分野からの通告だった。するとしばらくして世界中がニヒリズムに陥った。<生成すること>は<変化すること>にほかならない。唯一の「真理」、さらには「統一」など、本当はどこにもないのだというニーチェの言葉。
「生成でもっては何ものもめざされてはいない、また、すべての生成のしたには、あたかも最高価値のうちでのごとく、個々人がそのなかにすっぽり沈み込んでよいような大いなる統一など支配していないという、これら二つの《洞察》があったとすれば、《逃げ道》としてのこっているのは、この生成の全世界を迷妄と判断して、このものの彼岸にある一つの世界を《真の》世界として捏造(ねつぞう)することでしかない。しかし人間が、こうした世界を組み立てたのは心理学的欲求に過ぎず、人間はそうする権利をまるっきりもってはいないとさとるやいなや、ニヒリズムの最後の形式が生ずる。これは、《形而上学的世界を信じない》ということをそれ自身のうちにふくみ、ーーー《真の》世界を信ずることをおのれに禁ずるものである。この立脚点に立って生成の実在性が《唯一の》実在性としてみとめられ、背後の世界の偽りの神性につうずるあらゆる種類の抜け道が禁ぜられるーーーしかし、《誰も否認しようとは欲しないこの生成の世界が耐えがたいのである》。ーーーいったい何がおこったのか?『《目的》』という概念をもってしても、『《統一》』という概念をもってしても、『《真理》』という概念をもってしても、生存の総体的性格は解釈されえないとわかったとき、《無価値性》の感情がえられたのである。かくして、何ものもめざされ達成されず、生成という多様性をおおう統一は欠けている。すなわち、生存の性格は《真》ではなく《偽》なのであるーーー《真》の世界があるとおのれを説得する根拠は、もはやまったくなくなるーーー要するに、私たちが世界に価値を置き入れてきた《目的》、《統一》、《存在》という諸範疇(はんちゅう)は、ふたたび私たちによって《引きぬき去られ》ーーーいまや世界は《無価値のものにみえて》くるーーー」(ニーチェ「権力への意志・上・十二・P.29~30」ちくま学芸文庫 一九九三年)
世界は絶対的固定的なものではまるでなく逆に絶え間なく生成変化している。夢か記憶のようにいつも<移動・置き換え・再創造>されている。人々はそれを知って「《誰も否認しようとは欲しないこの生成の世界が耐えがたいのである》」という事態に陥った。しかし人々は常にそのような致命的ニヒリズムに襲われているにもかかわらず、どうして全滅してしまわないのか。逆に元気が出る人たちがいたりするのか。というのも単純に一縷の希望があるからというわけではなくて、<移動・置き換え・再創造>という芸術的場所移動が可能であり実践されてもいる以上、解体と同時にいつも新しく出発するし出発しているからである。俗世間で希望という言葉が濫用できる理由は、俗世間にまみれ果てていようがいまいが、立場が異なる多くの人々(広い意味での芸術家。創作家、画家、音楽家、漫画家、映画監督、イラストレーター、アニメーター、シナリオライターなど)が新しく出発する地点を切り開き実際に身体で感じられるよう可視化しているからにほかならない。プルースト作品の中でヴァントゥイユの音楽やエルスチールの絵画がこじ開ける幾つかの新しい次元のように。
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