白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<読み違い><思い違い><増殖するシニフィエ>

2022年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
アルベルチーヌの言葉を読み違い怒らせてしまったらしいと気づいた<私>。しかし、納得できる理由を得られず釈然としない。プルーストはアルベルチーヌの態度の変化に類似した例としてノルポワの意図的手法を上げているがノルポアの場合はあくまでも意図的意識的なものであってこの場合は妥当しないだろう。むしろ<読み違い>はこの箇所だけに当てはまるテーマではなく「失われた時を求めて」全体を通して繰り返される大きなテーマである。

ちなみにドゥルーズのプルースト論では<監視><覗き><暴露>がプルースト作品の「三位一体」であるとされる。ガタリとの共著になる「アンチ・オイディプス」、「千のプラトー」でもプルースト作品に触れる時はいつもこのテーマが出てくるのだが、ドゥルーズ単独で書かれたプルースト論の頃から<監視><覗き><暴露>こそプルースト作品の「三位一体」であるとしており、もはや自明のこととしてあえて引用する必要性がないためだろうか、プルーストを読むとそれら三個のテーマには必ず(言葉を含む)身振りの<読み違い>が伴っている点は省略されている。しかし(言葉を含む)身振りの<読み違い>なしに、社交界における身振り、恋愛における身振り、芸術を通して開かれる別次元、などは発生しない。従ってこの箇所では<読み違い>とともに重要なファクターであり、ノルポワ的手法と並列して上げられている<置き換え>について触れておこう。

「たとえば批評家が、小説家の喜ぶはずの書評を書いてやる代わりに夕食に招待したり、公爵夫人が、スノッブな男をいっしょに劇場に連れて行ってやらず、自分が出かけない夜にボックス席の券を送ったりするに等しい所業である」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.630」岩波文庫 二〇一二年)

出版業界の内部暴露という意味では「批評家が、小説家の喜ぶはずの書評を書いてやる代わりに夕食に招待したり」ということもあるだろう。また「公爵夫人が、スノッブな男をいっしょに劇場に連れて行ってやらず、自分が出かけない夜にボックス席の券を送ったりする」というのは、社交界の中で公爵夫人とつき合いがあるのを他人に自慢して威張るような救いようのない「スノッブな男」をそんなふうに取り扱うことはしょっちゅうあり、特に隠すこともない日常茶飯事に属すると暴露しているように見える。だがプルーストが<暴露>しているのは、なぜそれが可能であり実際に機能するのかというメカニズムについてである。ニーチェはいう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)

しかし<置き換え>の場合、<債権><債務><等価性>という三つの条件が揃わなくては<置き換え>ようとしても<置き換え>られない。それでもなお<置き換え>が成立するのは<債権>と<債務>とが確かに<等価>だと見なされる取引関係がもはや習慣化している場合か、もしくは両者が<等値>されるやそこに忽然と<等価性>が出現する場合にのみ限られることを忘れてはならないだろう。

<私>はアルベルチーヌの言葉を信じて行動したにもかかわらず逆にアルベルチーヌから手痛いしっぺ返しを受けたわけだが、その効果はたちまち<私>にとってアルベルチーヌのイメージを急変させることになった。<私>にすればアルベルチーヌほど道徳的な正しさ(あるいは美点)を堅持している若い女性などほかのどこを探してみてもまずいないに違いないという「神格化」が生じた。見た目や身振り仕草では誘惑を装い他愛ない洒落を飛ばして遊んでいても断ることはきっぱり断るというアルベルチーヌの誠実な態度。それゆえ生じた「神格化」は強烈な恋愛感情からエネルギーを備給されているだけになおさらアルベルチーヌを信じないわけにはいかないという感情を<私>に与える。しかしそれが<私>を苦しめる。なぜなら「ある女のためにほんとうに苦しむには、その女を完全に信じてしまわなければならないからである」。

「というのもアルベルチーヌにたいする私の恋心の中心に居座りつづける家族的と言っても過言ではない感情、道徳的な核心は、このときの印象をつうじて形成されはじめたからである。そんな感情が、えてしてもっとも大きな苦痛の原因になるのだ。というのもある女のためにほんとうに苦しむには、その女を完全に信じてしまわなければならないからである。道徳的な尊敬と友情とを生むこの萌芽は、さしあたり私の心の中に待歯石(まちはいし)としてとどまっていた。この萌芽がそのまま成長せず、私の最初のバルベック滞在の最後の数週間はもとよりつぎの年にもずっと活性化せずにいたなら、それ自体では私の幸福をなんら妨げなかったはずである。この萌芽は、私の心に滞在する客人のようなもので、なんとしても追い出してしまったほうが賢明ではあるが、慣れない場所に弱々しくぽつんと孤立していて当座は害を及ぼしそうもなく、ついそのまま脅かしもせず放置してしまうのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.633」岩波文庫 二〇一二年)

この種の「神格化」は、ニーチェのいうように、加速的に次の特徴を帯びる。そしてこの事情が<私>とアルベルチーヌとのあいだで、要するにほかの多くの恋愛関係にも共通する点として、とんでもなく残酷な悲劇を準備するのだ。

「崇拝は崇拝される対象のもつオリジナルな、しばしばはなはだしく奇異な特徴や特異体質を消去するものであるーーー《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」(ニーチェ「反キリスト者・三一」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.209』ちくま学芸文庫 一九九四年) 

そんなわけでアルベルチーヌはもっと自由奔放に恋愛を楽しむ女性に違いないという幻想をもろくも破られた<私>。今度は<私>は逆にアルベルチーヌを「神格化」して祭り上げることになった。「神格化」というのはしかし特権化であり、言い換えれば共同体からの<排除>である。この<排除>とともに特権化は自動的になされるし、この<排除>がなければ特権化はなく、もとより「神格化」など起こりようがない。自由奔放な恋愛などまるで不可能な立場へ祭り上げられる。すると<私>は気持ちの中でアルベルチーヌを「神格化」(言い換えれば「幽閉」)しておく一方で「神格化」などまるでされていない他の娘たちの一団へ恋愛感情のすべてを向け換える自由を再び獲得することができた。

差し当たりお目当てはアンドレである。バルベックの浜辺で始めて娘たちの一団に出くわした時、座っている老銀行家の頭上を飛び越えるいたずらをやって見せ笑っていたアンドレ。<私>はその時のいかにも健康そうなアンドレに対して愛したいという欲望をそそられたわけだが、よく話を聞いてみるとアンドレはスポーツ好きどころか逆に病気を患っており、医者の指示でスポーツの真似事をしているに過ぎないらしい。ということは<私>に「愛と嫉妬」を出現させたアンドレの姿はまったく<私>の側による一方的な「思い違い」だったということになる。<私>が愛するアンドレは<私>の妄想の産物だった。とはいえ一時的であってもアンドレに対する恋心は間違いなく本物だった。その時にアンドレを愛したという事実はもはや「修正不可能」である。「修正不可能」という動かせない事実が<私>の<思い違い>のほどを嫌というほど思い知らせにやって来る。

「最初の日に浜辺で見かけたときは、自転車競技選手の愛人でスポーツにうつつを抜かす娘だと想いこんでいたものだが、アンドレが私に語ったところによるとスポーツを始めたのは医者の指示で自分の神経衰弱と栄養摂取障害を治すためで、自分のいちばん幸せな時間はジョージ・エリオットの小説を訳しているときだという。アンドレがどんな娘かについての最初の思い違いが正されて私はがっかりしたが、その失望はじつのところ私になんら重大な影響を及ぼさなかった。ところが思い違いのほうは、そこから恋心が生まれ、その恋心がもはや修正不可能となったときにようやくそれが思い違いだとわかるのだから、苦痛の原因になるたぐいのものだった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.634」岩波文庫 二〇一二年)

ところがアンドレの取った行動はただ単なる「嘘」だとは決して言いきれないものだ。「初対面の人の目を欺くために、自分の実態とは違って自分がそうありたいと願う外見や物腰を装うところに起因する」。プルーストはそう書いているのだが、「自分がそうありたいと願う外見や物腰を装う」こと自体には何一つ悪意はない。むしろ一つ一つの身振りを身につけていく思春期の過程では訓練と呼んだほうが妥当だろう。また大人の場合であってもほとんどの人々は無意識のうちにそうしている。そしてそうすることで思いがけず「初対面の人の目を欺く」結果に陥る。「相手の目に映る外観のうえに、気取りや、模倣や、善人からも悪人からも褒められたいという欲望が、見せかけのことばやしぐさをつけ加える」、とプルーストが言う時、プルーストの念頭に自分自身が出入りしている上流社交界の光景がありありと去来していたことは論を待たない。

「たいていこのような思い違いはーーー私がアンドレについて犯した思い違いとは異なり、むしろその逆になる場合もあるがーーー、とりわけアンドレの場合は、初対面の人の目を欺くために、自分の実態とは違って自分がそうありたいと願う外見や物腰を装うところに起因する。相手の目に映る外観のうえに、気取りや、模倣や、善人からも悪人からも褒められたいという欲望が、見せかけのことばやしぐさをつけ加えるのだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.634~635」岩波文庫 二〇一二年)

だからといって上流社交界は虚偽で塗り固められた嘘ばかりの世界だというわけではない。むしろ大変豊富な身振りが賑やかに往来・流通する一つの動的世界であって、面白いのはそれら豊富な身振り仕草のほとんどについて身振りを演じた本人の意図とはまるで違った滑稽な意味が周囲から与えられるため上流社交界は「虚偽の王国」にほかならないという自明の暴露だけでなく、そんな時間に同席することは自分の時間を簒奪されるのと同じではなはだ虚しいと自分の心情を<暴露>するのである。

なぜそのような事態が生じてくるのか。プルーストはいう。

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

ニーチェはもう少し詳しく次のように述べている。

「模写すること(空想すること)は、私たちには、知覚すること、たんに知覚することよりも、いっそう容易になされる。このゆえに、私たちが、たんに知覚している(たとえば運動を)と思っているいたるところで、すでに私たちの空想は助力し、捏造し、私たちが多くの個別的な知覚をする苦労を《免れさせ》ているのだ。この《活動》は通常見のがされている。私たちは、他の諸事物が私たちに影響をおよぼすさい、《受動的》であるのでは《なく》、むしろ、即座に私たちは私たちの力をそれに対抗させる。《諸事物が私たちの琴線に触れるのだが、そこから旋律をつくり出すのは私たちなのだ》」(ニーチェ「生成の無垢・下・一九・P.21」ちくま学芸文庫 一九九四年)

ところで今の日本では今年の春の大型連休が終わる時期。例年この頃になると恋愛関係でも政治取引でも他の休日とはまるで違った地殻変動が起こる。恋愛関係にしぼってみても、とりわけ大学生や新入社員といった人々のあいだではそれ以前の人間関係が大きくものを言ってきたため、「愛と嫉妬」、<置き換え><読み違え><苦痛><快楽><債権><債務><等価性>といった課題に向き合わなくてはならなくなる時期へ入っていく。プルーストでいえばドゥルーズの主張する<監視><覗き><暴露>といったテーマの「三位一体」が隠しようもなく可視化される時期がじわじわ訪れる。

またNHK「大河ドラマ」。「愛と嫉妬」がいくつもの箇所で演じられるのはいつものことだが、歴史はどこにあるのだろうか。テレビ画面自体、その表層にそれが描かれている。大河ドラマだとほとんどすべての作品で或る場面が描かれると次に別の場面が描かれる。或る場面の多くは歴史教科書にも載っているような有名なシーン。次の別の場面はそれとは違い、歴史教科書に載っているような有名なシーンではなく、専門的な研究から導き出された他の場所での集まりやそこで交わされた会話ややりとりについてのシーン。ところが、或る場面と別の場面とのあいだに時間的差がない場合は少なくない。一方で歴史教科書に載っているような有名なシーンが描かれているわけだが、別の場面では別の場所で政治的軍事的謀議が前者とほぼ同じ時間帯に行われているという二重性が暴露されている。後者の側は往々にして前者の側によって覆い隠されそうになっている事象である。シニフィアン(意味するもの・或る場所で行われた有名なシーン)とシニフィエ(意味されるもの・同時に別の場所で行われている政治的軍事的謀議)との関係。歴史とはそういう多元的なものであり、それを<見抜く>ということが歴史を<学ぶ>ということではと思うのである。

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