白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・<生産者>としてのプルースト/<消費者>としての読者

2022年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
フランソワーズの話について戻る必要性というのは次の箇所で述べられている。ジュピアンから<私>が聞いた話によると「フランソワーズは私のことをろくでなしと断じたうえで、なにかにつけ私にいじめられたと言い張ったという」。ほんの数行前に「当時の私は、なんら真実を含まないことばをしばしば口にする一方、むしろ真実を自分の身体や行為によって無意識のうちに告白することが多かったからだ(そんな告白をフランソワーズはじつに正しく理解した)」と書かれているにもかかわらず。ジュピアンの話は「いささかのためらいもなく私を熱愛し、どんな機会も逃さずに私を称賛するフランソワーズという、私がしばしば好んで眺めていた図柄ではなく、それとはまるで異なる未知の色合いのものだった」。そこで「私が理解したのは、われわれに見えている外見と実態とが食い違うのは物理の世界だけではないこと、あらゆる現実は、われわれが直接に知覚していると信じこんでいるものの実はさまざまな目に見えない有力な力を借りて組み立てているにすぎない現実とはまるで異なる可能性があること、そんな食い違いが生じるのは、われわれの目とは別種の構造の目をもつ存在によって認識されたり、同様の作業をするにも目とは異なって木々の太陽や空の視覚的ではない等価物をつくる器官を備えた存在によって認識されたりすれば、木々や太陽や空もわれわれが見ているようなものにはならない」という認識の構造である。

「しかるにジュピアンがあとで暴露したところによると、そもそもぶしつけな面のある男だと後にわかったが、フランソワーズは私のことをろくでなしと断じたうえで、なにかにつけ私にいじめられたと言い張ったという。私とフランソワーズとの関係について、このジュピアンの発言がただちに私の眼前に描きだした図柄は、いささかのためらいもなく私を熱愛し、どんな機会も逃さずに私を称賛するフランソワーズという、私がしばしば好んで眺めていた図柄ではなく、それとはまるで異なる未知の色合いのものだった。そこで私が理解したのは、われわれに見えている外見と実態とが食い違うのは物理の世界だけではないこと、あらゆる現実は、われわれが直接に知覚していると信じこんでいるものの実はさまざまな目に見えない有力な力を借りて組み立てているにすぎない現実とはまるで異なる可能性があること、そんな食い違いが生じるのは、われわれの目とは別種の構造の目をもつ存在によって認識されたり、同様の作業をするにも目とは異なって木々の太陽や空の視覚的ではない等価物をつくる器官を備えた存在によって認識されたりすれば、木々や太陽や空もわれわれが見ているようなものにはならないことである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.145~146」岩波文庫 二〇一三年)

ゆえに<私>がフランソワーズによって教えられることになった構造は、人間が何かの事物を認識しようとする際に人間の「発言や行動はいずれも不十分な情報しか与えてくれないうえに、そもそも相互に矛盾しているから、その影において輝いているのは憎悪であると想像しても愛情であると想像しても、どちらも同様に真実らしく思えること」だった。

「こうしてフランソワーズがはじめて私に教えてくれたのは、人間とはわれわれのけっして入りこめない影であること、その影を直接に知りうる手立てはなく、われわれはさまざまな発言やときには行動までも参考にしてその影について多数の確信をつくりあげるが、そんな発言や行動はいずれも不十分な情報しか与えてくれないうえに、そもそも相互に矛盾しているから、その影において輝いているのは憎悪であると想像しても愛情であると想像しても、どちらも同様に真実らしく思えることである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.147」岩波文庫 二〇一三年)

そのような認識構造とはどんな構造なのか。ヴァレリーは大変簡潔にこう述べている。二箇所引いておこう。(1)どの作品も「生産者」と「消費者」とに分裂してしか出現し得ないという事情。(2)作品の生産者にとって作品は制作過程の「終結」であるのに対し、作品の消費者にとって作品は「始原」であるほかないという事情。

(1)「著者とその時代に関する知識や、相ついで起こる文学的諸現象の研究は、文芸の歴史の記憶のなかに書き込まれるに足る仕事をした人々の内部において起こりえたことを推測する刺激しか、われわれに与えることができないのであります。もし彼らがそれだけの仕事を果たしたとするならば、それは相互に独立したものと常に考えることのできる二つの条件の協力によるのであります。その条件の一つは必然的に作品の生産そのものであり、他の一つは、生産された作品の存在を識(し)り、それを味わい、その作品に名声を与え、その作品の伝達と、保存と、未来の生命とを強固にした人々の手によるその作品の或る《価値》の生産であります。私はただ今、《価値》ならびに《生産》という言葉を使いました。私はこれについて少しく言葉を費やしたいと思います。もし人が、創造的精神の領域を探究しようと企てるならば、まず第一に、最も概括的な考察、すなわち、われわれにあまり後戻りを強いないで前進させてくれるような、同時にまた、最大多数の類推、いいかえれば、本来の性質上最もしばしばあらゆる直接的な定義の試みを免れるところの事実や観念の叙述に対して、近似した表現をできるだけ多くわれわれに提供してくれるような、そのような考察の上に立つことを憚(はばか)ってはなりません。したがって私は、若干の言葉を経済学から借りてきたことについて一言いしたいのであります。つまり私にとりましては、われわれがこれから考察してゆかなければならない各種の活動力や人物を取り扱う場合に、もしそれらの数多い種類の間に区別を設けず、それらに共通なものだけを取り上げようと望むならば、《生産》ならびに《生産者》という単一な名称の下に、それらを一まとめにすることがおそらく便宜であろうというのであります。またわれわれが、読者とか聴衆とか観客とか一々区別して話す前に、あらゆる種類の作品の、あらゆるこれらの構成員を、《消費者》という経済学の名称で包容することも、それに劣らず便利でありましょう」(ヴァレリー「詩学序説」・「世界の名著66・アラン/ヴァレリー・P.474~475」中公バックス 一九八〇年)

(2)「このことを証明するためには、あらゆる領域においてわれわれが真に知ることが、もしくは知ると信じることができるのは、われわれ自身で《観察》しうるものか、もしくは《制作》しうるものにほかならず、作品を産む精神の観察と、その作品の或る価値を産む精神の観察とを、同一の意識状態、同一の注意のなかに集めることは不可能であることを注意するだけで十分であります。この二つの機能を同時に観察することのできる眼は存在しません。生産者と消費者は本質的に分離された二つの組織であります。作品は生産者にとっては《終結》であり、消費者にとっては、人の望みうる限り相互に無関係たりうるさまざまの発展の《始原》であります」(ヴァレリー「詩学序説」『世界の名著66・アラン/ヴァレリー・P.476~477』中公バックス 一九八〇年)

何度か引用しているように芸術作品に限らず、認識しようと欲望する側にとって対象が「自然なり、社会なり、恋愛なり」というふうに変わってもなお、欲望する側(ヴァレリーのいう「消費者」)は欲望の対象の「片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」からでしかないからだ。

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

従ってフランソワーズを<見る側>に位置することしか<できない>立場に置かれている<私>はフランソワーズの雇い主であるにもかかわらずフランソワーズの半分も知っているかどうか遂にわからないのである。

なお「ウクライナ問題」について。膠着状態が続いているだけでなく、まだもっと続いていく可能性さえ報じられている。また、実状のすべてを知ることなど日本のただ単なる一市民の立場ではさっぱりというほかない。ところが多少なりとも世界情勢に詳しいはずの専門家のコメントや記事に目を通してみても逆に事態は悪化しないまでも物価高はすでに生活必需品にまで及んでいる。さらに雇用にはどんどん悪影響を与えていくばかりのようでもある。「国連の無力」を言う専門家もいるがそんなことは何も今に始まったことではさらさらない。第一次世界大戦後もそうだったし第二次世界大戦後もそうだ。政治はカジノではないのだからもっとましな方向へ向け換えることはできないのだろうかと思わされてばかり。或る時、モンテーニュはこう書いた。

「アリストレテスも、すぐれた立法者たちは正義よりも友情にいっそう気をつかった、と言っている」(モンテーニュ「エセー1・第一巻・第二十八章・P.358」岩波文庫 一九六五年)

「正義よりも友情」とある。「友情」を優先せよという意味なのだろうか。それならもうロシアによるウクライナ侵攻が始まった時すでに破られている。世界もまた親ロシア派と親ウクライナ派との両陣営に分裂してしまっている。ところでモンテーニュが持ち出しているアリストテレスの言葉はこの箇所。ただ単なる「愛」とはまた違っていて「親愛・友愛・友情」と呼ばれるものだ。

「国外をあるいてみると、あらゆる人間がいかにお互いに対して家族的で親愛的なものであるかが見られるであろう。また、愛(フィリア)というものは国内をむすぶ紐帯の役割をはたすもののごとくであり、立法者たちの関心も、正義によりもむしろこうした愛に依存しているように思われる。すなわち協和(ホモノイア)ということは、愛(フィリア)に似た或るもののように思われるが、立法者たちの希求するところは何よりもこの協和であり、駆除しようとするところのものは何よりも協和の敵たる内部分裂(スタシス)にほかならない。事実、もしひとびとがお互いに親密でさえあれば何ら正義なるものを要しないのではあるまいか、逆に、しかし、彼らが正しきひとびとであるとしても、そこにやはり、なお愛というものを必要とする。まことに、『正』の最高のものは『《愛》というい性質を持った』それ(フィリコン)にほかならないと考えられる」(アリストテレス「ニコマコス倫理学・下・第八巻・第一章・P.66~67」岩波文庫)

基本的に「親愛・友情」としての「愛」というものが考えられなければならない。アリストテレスは「多数のひとびとに対して親友たることは不可能である」という。「友たちよ、友というものは一人もいない」と訳されたりする。

「事実、多数のひとびとに対して親友たることは不可能であると考えられなくてはならない」(アリストテレス「ニコマコス倫理学・下・第九巻・第十章・P.143」岩波文庫 一九七三年)

この「親友関係・友情関係」を道徳的な問いとして見出したのがニーチェ。こう転倒させた。

「『友らよ、友というものはないのだ!』、そう死んでいく賢者は叫んだ。『友らよ、敵というものはないのだ!』ーーー生きている愚者のわたしは叫ぶ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・三七六・P.345」ちくま学芸文庫 一九九四年)

この箇所で言われている「愚者」とはどのような人間なのか。また「賢者」とはどのような人間かが併記されている。

「《愚者のふりする賢者》。ーーー賢者はその博愛心から、時々、興奮したり、怒ったり、喜んだりする《様子を見せる》が、これは、彼の《真の》性質である冷たさや思慮深さが周囲の人たちを傷つけないようにするためである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二四六・P.183」ちくま学芸文庫 一九九四年)

道徳というものはたった一つだけしかないのか。そんなことはない。「目につかない全く同じ呼び名の諸性質も、《またそれ自体の行路を辿る》。おそらくそれは全く別の行路であるだろう」。ニーチェは道徳の複数性・多様性・無意識性に着目する。

「《無意識の徳性》。ーーーある人間が自分で意識しているあらゆる性質はーーーそれも特に、その性質が自分の周囲の人々の目にも目立って明らかなものと本人が前提してかかっている場合にはーーー、彼に熟知されてないか不充分にしか知られていないところの、しかもその繊細さのゆえに鋭い観察者の眼にもつかず全く何も無いかのようにうまくかくされてしまうところの諸性質とは、全然ちがった発展の法則に支配されている。爬虫類(はちゅうるい)の鱗にみられる精妙な彫刻がそうしたものである。それらのものを装飾とか武器とかいったものかのように想像するのは間違いであろう。ーーーなぜといってそれらは顕微鏡を使ってはじめて見られるもの、つまり、似よりの動物たちーーーこれら動物たちに《とっては》それが装飾なり武器なりを意味するかもしれぬーーーには備わっていないほどの人為的に精巧に鋭くされた眼によってはじめて見られるものだからだ!われわれの眼に見える道徳的な諸性質、とくに眼に見えると《信じられた》われわれの諸性質は、それ自体の行路を辿る。ーーー他方、われわれにとって他人目当ての装飾でも武器でもないところの、目につかない全く同じ呼び名の諸性質も、《またそれ自体の行路を辿る》。おそらくそれは全く別の行路であるだろうし、またおそらくは神妙不可思議な顕微鏡を手にした神を楽しますようなさまざまの条線や繊細性や彫刻などをかねそなえた行路であるだろう。たとえばわれわれは、われわれの精励、われわれの名誉心、われわれの炯眼をもっている。世間がみなそれについて知っているーーー、そのほかにさらにわれわれは恐らく、もう一種の《われわれの》精励、《われわれの》名誉心、《われわれの》炯眼をもっているのだ。だがわれわれのこういう爬虫類的鱗に対しては、いまだに顕微鏡が発明されていない!ーーーさてこそここで本能的徳性の愛好者たちは言うであろう、『ブラボー!彼は少なくとも無意識の徳性が可能であると思っている、それがわれわれを満足させる!』。ーーーおお満足屋の諸氏よ!」(ニーチェ「悦ばしき知識・第一書・八・P.70」ちくま学芸文庫 一九九三年)

次の文章は親友とは何かというより「親友関係が成り立つ」ためには非常に高度な技術を要するという、ニーチェの立場的条件を述べたものだ。

「《親友関係》。ーーー親友関係が成り立つのは、相手を非常に、しかも自分自身よりも敬重する場合、また同様に相手を愛しはするが、しかし自分自身を愛するほどにではない場合、そして最後に、お互いつき合いしやすくするために、親密さを装う、ものやわらかな《うわべ》と柔毛(にこげ)を添えていることを心得ていて、しかも同時に、ほんとうの親密さには陥らぬようまた私と君の混同に陥らぬよう、賢明な用心がなされる場合である」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二四一・P.181」ちくま学芸文庫)

その事例として「マケドニアの王様の物語」を上げている。古代には社会的規模で「友情という感情が最も高い感情と認められていたこと、それが自らに充ち足りた賢者のこの上もなく立派な自尊自恃(じじ)よりも高いものとされ、いな、いわばその唯一の、しかもそれよりも一段と神聖な兄弟とみなされた」という前提条件が強調されている。目を通してみると、「この上もなく立派な自尊自恃」というその哲学者の生活態度はなるほど立派であるけれども、それ以上に立派な精神的態度として認められている「友情」に関し、その哲学者は王の側からの贈与を送り返した。王がその哲学者と結びたかったのは「この上もなく立派な自尊自恃」というその哲学者の生活態度を知ったからで、それなら是非「友情」面で親交を深めたいと考えたがゆえの贈与だった。ところが哲学者の側は理由一つ聞くことなく贈り物を送り返してきた。王の側は誤解をおそれず贈り物したわけだが、贈り物の意味も問われないまま送り返されたため、その真意を伝えることができなかった。そうなると王としては最も高い精神的態度とされている「友情」を結ぶことを理由も尋ねられることなくいきなり切り捨てられたと思うのは仕方のない成り行きだった。

「《友情を讃えて》。ーーー古代にあっては、友情という感情が最も高い感情と認められていたこと、それが自らに充ち足りた賢者のこの上もなく立派な自尊自恃(じじ)よりも高いものとされ、いな、いわばその唯一の、しかもそれよりも一段と神聖な兄弟とみなされたこと、ーーーこの事実を実によく言いあらわしているのは、例のマケドニアの王様の物語であるが、この王は、世を白眼視するアテナイのある哲学者に一タレントを贈ったのに、それを送り返されたそうだ。『どうしたことだ?ーーーと王は言ったーーー彼は友人なんか要(い)らんとでもいうのか?』。王の言わんとする主旨はこうだ。『予は、賢にして独行する者のこの自尊自恃に敬意を表する、だが彼の心内の友人が、彼の自尊自恃に打ち勝ったのだったら、予はさらに高く彼の人間性に敬意を表するであろう。この哲学者は、二つの最高の感情の一つをーーーしかもより高い方のものを知らないということを示したことにより、予の軽蔑をかう羽目になったのだ!』」(ニーチェ「悦ばしき知識・六一・第二書・P.137」ちくま学芸文庫 一九九三年)

恋愛関係の構築・維持でさえ困難を伴うというのに、よりいっそう困難な「友情・親愛・友愛」に至ってはまるで必要ないという態度を見せつけられれば逆に、贈与した側が王であれ名もなき市民であれ、軽蔑されたと思うのは偽らざる心情だろう。なので理由一つ聞かず告げられもせず一方的に贈り物を贈り返された王の側が今度はその哲学者とその精神的態度とをいっぺんに軽蔑する経過をたどった。古代ギリシア時代の精神的ありかたとしては自然の成り行きに違いない。だがただ単に偏屈な哲学者の態度を揶揄しようとしてこんな小噺のようなエピソードをニーチェがわざわざ出してくるわけがない。ニーチェが言おうとしているのは第一に「友情・親愛・友愛」という人間関係の構築・維持がどれほど困難を極める至上の技術を要するかということ、第二にこのような至上の技術の実現のためには「新しい哲学者」の出現に賭ける精神的態度の必要性である。「悦ばしき知識」に出てくる有名な一節。

「《船に乗れ!》。ーーーその人流儀の生き方や考え方に関する哲学的な全般的是認が、それぞれの人にどういう影響を及ぼすか(ーーーすなわち温め祝福し実らせつつ特別にその人を照らす太陽のように)、また、そうした是認は、どんなに人を毀誉褒貶(きよほうへん)から自由にし、自足させ、豊かにし、幸福や好意を恵む上で気前よくさせるか、また、それはどんなに絶えまなく悪を改造し、あらゆる力を開花・成熟させ、大小とりまぜての怨恨や不機嫌の雑草を皆目生ぜしめないようにするか、ーーーそうしたことを考えると、とうとうわれわれは待ちきれなくなって叫びを上げるのだ、ーーーおお、もっと多くのそういう新しい太陽が創造されたらいいのに!悪人も、不幸者も、例外人も、自分の哲学、自分の正当な権利、自分の太陽の光を持つべきだ!彼らに同情する必要などはない!ーーーこれまで永いこと人類は同情というやつを覚えこみ、それの稽古をつんできたけれども、そうした高慢不遜の思い付きをわれわれは忘れ去らねばならぬ、ーーー彼らのために聴罪師も調伏師も赦罪師(しゃざいし)も設けてやる必要はない!彼らに必要なのは、むしろ、一つの新しい《正義》なのだ!また、一つの新しい解決なのだ!さらには、新しい哲学者たちなのだ!道徳的地球だって円い!道徳的地球だってその対蹠人をもっている!対蹠人にだって生存の権利がある!さらに別の一世界が発見されねばならぬーーーいな、ひとつに限らず多くの世界が!船に乗れ、君ら哲学者たちよ!」(ニーチェ「悦ばしき知識・第四書・二八九・P.310」ちくま学芸文庫 一九九三年)

「一つの新しい《正義》」、「一つの新しい解決」、「新しい哲学者たち」、「さらに別の一世界が発見されねばならぬーーーいな、ひとつに限らず多くの世界が」見出されなくてはならない、出現しなくてはいけない、もはや「神は死んだ」からである。そういう主旨を汲み取る必要性を感じさせずにはおかない。唯一絶対的な「神」ではなくより多くの、無数の、どんどん更新されていくだけでなく同時にたくさんの世界を発見しようではないかとニーチェはいう。そこで差し当たり求められるべきは「友情・親愛・友愛」と呼ばれているものがそれに相当するだろうと。なぜなら、やや長い文章なのだがニーチェは「愛」という行為は実のところなんなのかという問いに深い疑いを抱いていたからである。それは多少なりとも強制的かつ暴力的でエレガンス一つない「所有欲」の別名にほかならないのではないかと。

「《すべて愛と呼ばれるもの》。ーーー所有欲と愛、これらの言葉のそれぞれが何と違った感じをわれわれにあたえることだろう!ーーーだがしかしそれらは同一の衝動なのに呼び方が二様になっているものかもしれぬ。つまり、一方のは、すでに所有している者──この衝動がどうやら鎮まって今や自分の『所有物』が気がかりになっている者──の立場からの、誹謗された呼び名であるし、他方のは、不満足な者・渇望している者の立場からして、それゆえそれが『善』として賛美された呼び名であるかもしれない。われわれの隣人愛ーーーそれは新しい《所有権》への衝迫ではないか?知への愛、真理への愛も、同様そうでないのか?およそ目新しいものごとへのあの衝迫の一切が、そうでないのか?われわれは古いもの、確実に所有しているものに次第に飽き飽きし、ふたたび外へ手を出す。われわれがそこで三ヶ月も生活していると、この上なく美しい風光でさえ、もはやわれわれの愛をつなぎとめるわけにゆかない。そしてどこか遠くの海浜がわれわれの所有欲をそそのかす。ともあれ所有物は、所有されることによって大抵つまらないものとなる。自分自身について覚えるわれわれの快楽は、くりかえし何か新しいものを《われわれ自身のなかへ》取り入れ変化させることによって、それみずからを維持しようとする、ーーー所有するとはまさにそういうことだ。ある所有物に飽きてくるとは、われわれ自身に飽きてくることをいうのだ。(われわれは悩み過ぎることもありうる、ーーー投げ棄てたい、分け与えたい、という熱望も、『愛』という名誉な呼び名をもらいうけることができる。)われわれは、誰かが悩むのを見るといつでも、彼の所有物をうばい取るのに好都合な今しも提供された機会を、よろこんで利用する。こうしたことは、たとえば、慈善家や同情家がやっている。彼も自分の内に目覚めた新しい所有物への熱望を『愛』と名づけ、そしてその際にも、彼を手招いている新しい征服に乗りだすように、快楽をおぼえる。だが、所有への衝迫としての正体を最も明瞭にあらわすのは性愛である。愛する者は、じぶんの思い焦(こが)れている人を無条件に独占しようと欲する。彼は相手の身も心をも支配する無条件の主権を得ようと欲する。彼は自分ひとりだけ愛されていることを願うし、また自分が相手の心のなかに最高のもの最も好ましいものとして住みつき支配しようと望む。このことが高価な財宝や幸福や快楽から世間のひとびと全部を《閉め出す》以外の何ものをも意味しないということを考えると、また、愛する者は他の一切の恋敵の零落や失望を狙い、あらゆる『征服者』や搾取者のなかでの最も傍若無人な利己的な者として自分の黄金の宝物を守る竜たろうと願うのを考えると、また最後に、愛する者自身には他の世界がことごとくどうでもいいもの、色あせたもの、無価値なものに見え、それだから彼はどんな犠牲をも意に介せず、どんな秩序もみだし、どんな利害をも無視し去ろうとする気構えでいることを考え合わせると、われわれは全くのところ次のような事実に驚くしかない、ーーーつまり性愛のこういう荒々しい所有欲と不正が、あらゆる時代におこったと同様に賛美され神聖視されている事実、また実に、ひとびとがこの性愛からエゴイズムの反対物とされる愛の概念を引き出したーーー愛とはおそらくエゴイズムの最も端的率直な表現である筈なのにーーーという事実に、である。ここで明らかなのは、所有しないでいて渇望している者たちがこういう言語用法をつくりだしたということだ、ーーー確かにこういう連中はいつも多すぎるほどいたのだ。この分野において多くの所有と飽満とに恵まれておった者たちは、あらゆるアテナイ人中で最も愛すべくまた最も愛されもしたあのソフォクレスのように、多分ときおりは『荒れ狂うデーモン』について何か一言洩らしもしたであろう。しかしエロスはいつもそういう冒瀆者(ぼうとくしゃ)たちを笑いとばしたーーー彼らこそつねづねエロスの最大の寵児(ちょうじ)だったのだ。ーーーだがときどきはたしかに地上にも次のような愛の継承がある、つまりその際には二人の者相互のあの所有欲的要求がある新しい熱望と所有欲に、彼らを超えてかなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承である。そうはいっても誰がこの愛を知っているだろうか?誰がこの愛を体験したろうか?この愛の本当の名は《友情》である」(ニーチェ「悦ばしき知識・第一書・十四・P.78~81」ちくま学芸文庫 一九九三年)

としてニーチェは「かなたにある理想へと向けられた一つの《共同の》高次の渇望に、道をゆずる、といった風の愛の継承」を呼びかける。「この愛の本当の名は《友情》である」と。プルースト作品の中でも繰り返し主題として浮上するのでそのつど触れていくつもりだが。ところがしかし、わずか二十ほどの先進諸国による「ボス交」すら頓挫してしまいそうな世界とはなんなのか、どこがどんなふうにそれほど危ういのか。先進諸国のボスばかりなのだろう?できないとは言えないし言えばその瞬間その人物は無用になる。現実ともっと真面目に向き合って欲しいと切に願うばかりだ。一市民には何一つ聞こえてこないに等しいこの社会で、いったい誰が何をどんなふうに動かそうとしているのか。向き合うとはそもそもどういう態度をいうのか。本当に知っているのかという低レベル疑惑さえ生じてきそうだ。ともかく、どの国へ行っても市民レベルでは誰もが自分に妥当とされる責任を負わされている。では国の代表者レベルでは当然諸国の市民レベルへ向けて代表者レベルの責任を負っているわけであり、従って代表者レベルの人々は市民レベルに対する応答責任に関して一つたりとも免除されないということでなくてはならない。

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