白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルーストが語る社会的制度の解体・弛緩としての「短時間の『放心状態』」における睡眠導入剤の選択

2022年05月25日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストはいう。「昼間にやるはずだったことが、眠りの到来とともに夢のなかでようやく成就することもある」。ほとんどすべての読者もまた経験があるのではと思われる。言い換えると、「眠りこむときの屈折を経たうえで、目覚めているときにやるはずだったのとはべつの道をたどって、ようやく成就する」。なかなか眠れない人々、あるいはなかなか眠れない場合、そのような時に人間は「なによりもまず現実のこの世界から抜け出そうとする」。日中の常識的倫理を構成する様々な社会的制度的なステレオタイプ(常套句)・ドグマ(独断)から多少なりとも解放されずに入眠することは誰にもできない。覚醒時の社会的倫理・制度の解体あるいはその弛緩。プルーストのいう「眠り」はそういうものを条件としている。

「昼間にやるはずだったことが、眠りの到来とともに夢のなかでようやく成就することもある。言い換えると、眠りこむときの屈折を経たうえで、目覚めているときにやるはずだったのとはべつの道をたどって、ようやく成就するのだ。同じ物語でも方向を変え、べつの結末になる。とはいえ睡眠中に生きる世界はあまりにも現実とは異なるので、なかなか眠れない人はなによりもまず現実のこの世界から抜け出そうとする。目を閉じてからも目を開けていたときと大差のない考えを何時間も絶望的な気分で想いめぐらしたあと、つい今しがた、論理の法則や現在の明証性とは明らかに相容れない理屈に満たされて頭が朦朧(もうろう)とする一刻があったことに気づくと、やっと元気をとり戻す。そんな短時間の『放心状態』の意味するのは、すぐにも現実の知覚から抜け出す扉が開かれていて、現実から多少とも遠ざかったところでひと休みできる可能性があり、そうなれば多少とも『よく』眠れることだからである。ところで現実に背を向けて、眠りにいたる最初の洞窟にたどり着くとき、すでに大きな一歩は踏み出されている」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.183~184」岩波文庫 二〇一三年)

とあるように、この種の「眠り」のためには「論理の法則や現在の明証性とは明らかに相容れない理屈に満たされて頭が朦朧(もうろう)とする一刻」、「現実から多少とも遠ざかったところでひと休みできる可能性」、それらの必要性が要請される。プルーストはそんな状態を指して「短時間の『放心状態』」と述べる。それなしに眠りに入ることはできないが、それがあれば眠りに入るに際して「すでに大きな一歩は踏み出されている」と。昼夜を問わず覚醒時間中に不可能だったことが時おり可能になるのは逆に「眠り」という「別の仕方」が可能になっていなくてはならない。その時間帯には「すぐにも現実の知覚から抜け出す扉が開かれていて、現実から多少とも遠ざかったところでひと休みできる可能性があ」ると。言い換えれば、「眠り」という「別の仕方」はどのようにして可能となるのか。制度化された<或る価値体系>から制度化されない<別の価値体系>への移動が可能である限りにおいてである。

さて「そんな短時間の『放心状態』」の間に人々は様々な睡眠導入剤を選択する時間を持つ。「ダツラの眠り、インド大麻の眠り、エーテルの多様なエキスの眠り、ベラドンナの眠り、アヘンの眠り、カノコソウの眠りなど」。

「そこまで行くと、たがいに似ても似つかぬ種々の眠りが未知の花々のように生い茂る秘密の花園も、さして遠くはない。ダツラの眠り、インド大麻の眠り、エーテルの多様なエキスの眠り、ベラドンナの眠り、アヘンの眠り、カノコソウの眠りなど、そんな夢の花々は、定められた未知の人がやって来てそれに触れ、花弁を開かせ、驚いて感嘆するその人のうちに特殊な夢にいざなう芳香を長時間にわたって放つまでは、閉じたままでいる」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.184」岩波文庫 二〇一三年)

どれも鎮痙(鎮静)剤の成分として強力なものだが、なかでもプルーストの関心はダツラとベラドンナだったのではと思われる根拠がある。プルーストは幼い頃から花粉の刺激による喘息に悩まされていた。当時の治療薬として主に用いられていたのがダツラとベラドンナ。治療薬といっても完治する病気ではないので今でいう花粉症の季節でなくても喘息発作に襲われることがしばしばあり当面の対処法に過ぎない。しかし当面の対処法に過ぎないとはいうものの、それなしに喘息の苦悶や死から逃れることはできなかった。ベラドンナに類似した植物は日本にも自生しており和名「セイヨウハシリドコロ」。それらから抽出されるスコポラミンやアトロピンなどの成分を主軸とする鼻炎薬や風邪薬は今でもごく普通の薬局薬店で販売されている。総合感冒薬の主成分はエフェドリンやジヒドロコデイン、アセトアミノフェンなどだが特に鼻炎や鼻水、鼻づまりにはスコポラミン、アトロピンが有効とされる。言うまでもなく個人差あり。

また、今回のコロナ禍によるワクチン接種で出現する痛み止めにイブプロフェンなどが推奨されていたし実際に有効。だがしかしイブプロフェンに依存性はないかというとそんなことはない。ネット検索してみるとアセトアミノフェンやイブプロフェンには依存性に関する報告はほとんどないかのように書かれているものが見られるけれども、実際はエフェドリン(覚醒剤原料)やジヒドロコデイン(コデイン依存症者であるとともにアルコール依存症者としても有名だった日本の作家に中島らもがいる)に依存する患者がいるようにアセトアミノフェンやイブプロフェンに依存する患者もいる。さらにアルコールとの同時摂取となるともう大量にいる。

だからといって睡眠中、「人は眠っていても、自分をとり巻くさまざまな時間の糸、さまざまな歳月と世界の序列を手放さずにいる」。従って目覚めると「本能的にそれを調べ、一瞬のうちに自分のいる地点と目覚めまでに経過した時間をそこに読みとるのだが、序列がこんがらがったり、途切れてしまったりすることがある」。プルーストは、睡眠から目覚めれば一刻も早く自分を取り戻さなければならない、ということを言っているわけではない。そういうことではなく、目覚めたことでなぜ慌てなければならないのかと問う。「序列がこんがらがったり、途切れてしまったりする」ばかりか「すべての世界が軌道を外れ、肘掛け椅子は魔法の椅子となって眠る人を猛スピードで時間と空間のなかを駆けめぐらせるから、まぶたを開けるときには、数ヶ月前の、べつの土地で横になっていると思うかもしれない」とさえ思う。なぜなら、そもそも「序列はこんがったり途切れたりするものであり」なおかつ「猛スピードで時間と空間のなかを駆けめぐ」ってしまうため「まぶたを開けるときには、数ヶ月前の、べつの土地で横になっていると思」ってしまうほど事物の因果関係に自信を持つことができない極めて不安定な記憶装置しか持ち得ない頼りない生きものなのだ。なかでも「途切れ」とあるように、経験した諸事物の記憶はア・プリオリに結びついているわけではまるでなく、同じ経験が何度か繰り返されることでそこにだんだん繋がりが生まれ、やがて習慣化・制度化されるものでしかない。従ってそれぞれの素材は本来的にばらばらな<諸断片>の状態にあってこそむしろア・プリオリなのである。そうでなくては「見違い・言い違い・勘違い」など発生する理由一つない。

「人は眠っていても、自分をとり巻くさまざまな時間の糸、さまざまな歳月と世界の序列を手放さずにいる。目覚めると本能的にそれを調べ、一瞬のうちに自分のいる地点と目覚めまでに経過した時間をそこに読みとるのだが、序列がこんがらがったり、途切れてしまったりすることがある。かりに眠れないまま明けがた近くになり、本を読んでいる最中、ふだん寝ているのとずいぶん違う格好で眠りに落ちたりすると、片腕を持ちあげているだけで太陽の歩みを止め、後退させることさえできるので、目覚めた最初の瞬間には、もはや時刻がわからず、寝ようと横になったところだと考えるかもしれない。眠るにはさらに場違いな、ふだんとかけ離れた姿勢、たとえば夕食後に肘掛け椅子に座ったままでうとうとしたりすると、その場合、大混乱は必至で、すべての世界が軌道を外れ、肘掛け椅子は魔法の椅子となって眠る人を猛スピードで時間と空間のなかを駆けめぐらせるから、まぶたを開けるときには、数ヶ月前の、べつの土地で横になっていると思うかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・一・P.29」岩波文庫 二〇一〇年)

そして夢が覚めて起きようとしても眠りの状態からすぐにすっきりした覚醒状態へ移動するわけではない。その間についさっき見た夢は加速的に崩壊していく。夢の面影はもはや「すぐに腐敗する死体とか、ひどく傷んで原型とどめず、いかに腕の立つ修復家といえどもなんらかの形に戻すことはできず、手の施しようのない品物とかの場合」に等しいくらい解体され消失する。

「夢へと通じるこの部屋では失恋の悲しみの忘却もたえず進行していて、その忘却の仕事は、ときにおぼろな想い出に満ちた悪夢によって中断され破綻することはあっても、すぐに再開される。そんな部屋の薄暗い内壁には、目が覚めたあともさまざまな夢の想い出がぶらさがっているが、闇に沈んでいるため、われわれがはじめてそれに気づくのは、たいてい真っ昼間になって、たまたま同様の想念の光がそれを照らし出すときにすぎない。そのような夢の想い出のいくつかは、眠って夢を見ているあいだは調和がとれて明快だったのに、すでにその面影を喪失していて、もはやそれとわからぬわれわれは急いでそれを土に返すことしかできない。すぐに腐敗する死体とか、ひどく傷んで原型をとどめず、いかに腕の立つ修復家といえどもなんらかの形に戻すことはできず、手の施しようのない品物とかの場合と同じである。ーーー鉄柵のそばには採石場があり、深い眠りはそこから非常に頑丈な物質をとり出し、それでもって眠る人の頭を塗り固めてしまうから、眠る人が目を覚ますには、たとえ金色(こんじき)に輝くまぶしい朝でも、その人の意志が若きシークフリートよろしく渾身の力で何度も斧(おの)を降りおろさなくてはならない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.185~186」岩波文庫 二〇一三年)

プルーストは生涯を通じて不眠症を患ったり悪夢にうなされたりするよりも、心地よく眠る経験の多い人間だったのかもしれない。「眠る人が目を覚ます」とき、必要な作業として、「たとえ金色(こんじき)に輝くまぶしい朝でも、その人の意志が若きシークフリートよろしく渾身の力で何度も斧(おの)を降りおろさなくてはならない」と書いている。「若きシークフリートよろしく渾身の力」であれば、そして「何度も斧(おの)を降りおろさなくてはならない」としても、「眠り」から覚めることはできたわけだ。たまに悪夢を見ることもあったにせよ見た夢がほとんどすべて悪夢ばかりというわけではないという点で途方もなく恵まれていると言わねばならない。「ジークフリート」はワーグナー「ニーベルンゲンの指輪・第三作・ジークフリート」の主人公。

ワーグナー楽劇『ニーベルンゲンの指輪』から「ジークフリート葬送行進曲」

なおウクライナ情勢について。東浩紀「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」を念頭に上田洋子は書いている。

「共産主義社会の廃墟としてのチェルノブイリの風景」(「チェルノブイリを観光する」『ウクライナを知るための65章』明石書店 二〇一八年)

とすれば「資本主義社会の廃墟としてのフクシマの風景」があったとしても全然不自然ではないのである。

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