白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・崩壊する<ゲルマント夫人神話>再構成への入口

2022年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム
いつも先に神話化されているゲルマント夫人は「すでにコンブレーの教会でも、ゲルマントの名の色彩やヴィヴォンヌ川のほとりの午後の色彩とは水と油のように相容れない頬をともなって私の目の前にあらわれ、一瞬の変貌によって私の夢をうち砕いた」ことがあった。その意味で<私>は随分前にゲルマント夫人から裏切られた側にいる。ゲルマント夫人は少なくとも<私>にとっては裏切り者だ。神話化されているその名にあるまじき風貌で現われるからである。しかし<私>の側の想像力は「水面にうつる夕日のバラ色と緑色の反映がオールに砕かれてもすぐ元に戻るように、私が夫人から遠ざかるとたちまち元のすがたをとり戻し」、しばらくすると「名はたちどころに顔の想い出までも自分のなかに取りこんでわがものにしてしまった」。ただ、神話上の人物に戻るに際して最低限必要だった作業は「私が夫人から遠ざかる」ことだった。

そこでゲルマント夫人の顔貌は誰もが知る大貴族の名と等価性を持つに値する高貴さを本当にたたえているのだろうかという問いが湧きあがるにしてもなお、この問いを<問い>として発することはあらかじめ禁じられている。というより、ほとんど冒頭で「私の夢をうち砕いた」のであり「水面上を進んだり風に揺れたり」するのみならず「オールに砕かれてもすぐ元に戻る」。プルーストはゲルマント夫人について「ゲルマント」の名さえ冠さえておれば、その夫人について年齢性別などどうでもよく、それなりの服装を身にまとい大貴族の系列に属するマナーを逸脱することなく「ゲルマント夫人」の役割を演じてくれていればそれでいい時代になった、ということだけを言っているわけではない。遥かに重要な問題がある。ゲルマント夫人がどれほど苦労して夫人を演じていようがいまいが「その顔」は「風に揺れたりするよう」にいともあっさり「うち砕いたもの」へ変わる点だ。ゲルマント夫人の顔は大貴族に属する限りステレオタイプ的(常套句的)なものであり、要するに「制度」であり、制度に従って見ない限り夫人の顔はいつもたびたび崩壊し断片化されてしまうという現実が問題なのだ。だから<私>はゲルマント夫人を見かけるたびにたちまち押し寄せてくる現実を見ないよう慎重の上にも慎重でなくてはならなかった。

「ゲルマント夫人が朝は徒歩で、午後は馬車で出かけるのを見ていると、本人にはそんな秘密が見出せなかっただけに、私としてはゲルマントの名の秘密を夫人の『サロン』や夫人の友人たちのなかに探し求める必要が感じられた。たしかに夫人はすでにコンブレーの教会でも、ゲルマントの名の色彩やヴィヴォンヌ川のほとりの午後の色彩とは水と油のように相容れない頬をともなって私の目の前にあらわれ、一瞬の変貌によって私の夢をうち砕いたもので、それは神やニンフが白鳥や柳にすがたを変え、その後は自然の法則に従って水面上を進んだり風に揺れたりするようなものであった。しかしそんな夢の反映も、水面にうつる夕日のバラ色と緑色の反映がオールに砕かれてもすぐ元に戻るように、私が夫人から遠ざかるとたちまち元のすがたをとり戻し、ひとり孤独に想いをめぐらしていると、名はたちどころに顔の想い出までも自分のなかに取りこんでわがものにしてしまった」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.66」岩波文庫 二〇一三年)

自分が身につける服装について夫人は「高貴な出自」ということを気にしているのかいないのかわからない。ごく当たり前にエレガントで、流行遅れにならない程度の衣装を好んだ。それはそれで何一つ問題でない。だが夫人は外出する時、通行人の評価の側を気にして女優のシックな装いに見入ったり、服装の「袖を平らにのばし」たりする。ところが「ゲルマントの名」という神話を壊されたくない<私>は夫人の身振り仕草の神話性が実に頻繁に崩壊するのを目にし、「神の化身たる白鳥でありながら動物としての動作はひとつ残らずこなし、くちばしの両側に描かれたような目にはまなざしを宿さず、神であることなど想い出しもせず、ただただ白鳥として突然ボタンや傘にでも飛びかかるのではないかと想わせた」というところにまで立ち至ると、遂に耐えられず、これはいよいよ夫人の側も過ちを犯していると考えるほかない。しかしプルーストにすればゲルマント夫人がなぜ「神の化身」でもあり「動物としての」白鳥であってはいけないのかと<私>に対して疑問を投げかけてはいないだろうか。

「高貴な出自という神話を忘れはてたのか、帽子につけたベールがきちんと下がっているかを確かめ、袖を平らにのばし、コートを直す夫人を見ていると、神の化身たる白鳥でありながら動物としての動作はひとつ残らずこなし、くちばしの両側に描かれたような目にはまなざしを宿さず、神であることなど想い出しもせず、ただただ白鳥として突然ボタンや傘にでも飛びかかるのではないかと想わせた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.67~68」岩波文庫 二〇一三年)

またプルーストは<私>に残酷な現実を<暴露>せずにはおれないかのように、<私>がゲルマント夫人邸へ招待され「友人のひとりとして夫人の暮らしのなかに入りこむことができれば」高貴に光り輝く「ゲルマントという名のオレンジ色」をもっとじっくり<監視>することができるようになるだろうと<私>を鞭打つ。ゲルマント夫人のサロンへ出入りさせる。

「夫妻は、つねにメロヴィング朝時代の神秘に包まれ、まるで日没時のように、ゲルマントの『アント』という音節から発するオレンジ色をおびた光のなかに浸っていたのである」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・二・P.369~370」岩波文庫 二〇一〇年)

ゲルマント夫人が会食者に選ぶことのできるのは王侯貴族の<聖地としてのフォーブール・サン=ジェルマン>の神殿を支える貴重な人々ばかりでなければならない。同時に<私>はこうも思う。

「ある種の事物や人物を他のものと区別して、ひとつの雰囲気をつくりだすのは、ひとえに想像力と確信のなせる業(わざ)である。フォーブール・サン=ジェルマンの、こんな絵のように美しい景観にせよ、起伏に富んだ自然にせよ、そこにしか存在しない珍しいものにせよ、美術品にせよ、私がそれに直接触れる機会は残念ながらけっして訪れないだろう。私としてはまるで沖合から(岸辺にやどり着けるとは決して期待せず)、前方の回教寺院尖塔(ミナレット)や、最初に目につくヤシの木や、異国の産業や植生でも眺めるように、対岸の擦りきれた玄関マットに目をとめて心を震わせていたにすぎない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.71」岩波文庫 二〇一三年)

ゆえになおさら夫人のサロンの中へ入っていかなくてはならない。ただ単なる「想像力と確信のなせる業(わざ)である」に過ぎないにせよ、まさに心が震える限りたっぷり味わっておかねばならない。

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