白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・シニフィアンとしてのサン=ルー、ガス灯による空疎から充実への転化、水陸両棲/横断性

2022年05月28日 | 日記・エッセイ・コラム
サン=ルーは<私>の友人だが同時にドンシエール駐屯地の人気者でもある。ドンシエール駐屯地の兵営は軍隊の兵営であり男性しかいない。だからサン=ルーは年齢性別を問わない社交界の人気者だっただけでなく男ばかりのドンシエール連隊の中の人気者でもあった。その人気度は上官から一兵卒まで含めドンシエールNo.1。しかしその理由はサン=ルーが貴族にふわさしい振る舞いをいつも忘れずにいるからなのか。そうではない。何度か触れているようにサン=ルーは自分が貴族の家柄に属しているというだけのことで他の人々より優れた人間だとあらかじめ無条件で決定されていることに「良心の疚(やま)しさ・負い目」を感じており、逆に貴族にふわさしい一切の振る舞いを自分自ら消し去っていたので「そこになんら貴族らしい点は認められなかった」。ところが周囲にすれば「サン=ルーの歩きかたや片メガネや軍帽(ケピ)は、そこになんら貴族らしい点は認められなかった」がゆえに古参兵たちにするとそれがかえって「特徴」に見え、また「そんな特徴こそ連隊の将校から下士官までで一番人気のサン=ルーの性格であり流儀」に違いないと思われてくる。

「古参兵たちにとっても(とはいえジョッキーの存在など知りもしないこの庶民出の兵士たちは、サン=ルーを非常に裕福な下士官という範疇に入れていたにすぎず、そもそも家が没落していようがいまいがまずまずの暮らし向きで、相当の収入なり借金なりがあり、一兵卒に気前のいい者をすべてこの下士官という範疇に入れていた)、サン=ルーの歩きかたや片メガネや軍帽(ケピ)は、そこになんら貴族らしい点は認められなかったが、それでもやはり関心をおぼえ意味づけをしたくなる対象だった。古参兵たちは、そんな特徴こそ連隊の将校から下士官までで一番人気のサン=ルーの性格であり流儀であると認め、そんなだれにも真似のできない振る舞いや、上官たちにどう思われようと意に介さない態度が、一兵卒への親切な振る舞いの当然の帰結に思えたのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.199」岩波文庫 二〇一三年)

そんなわけでサン=ルーに関するシニフィエ(意味されるもの・内容)=「無数の意味付け」が逆に、サン=ルーの身体を周囲から見て「意味づけをしたくなる対象」=シニフィアン(意味するもの)へのし上げていた。

ところで<私>が兵営を出て自分の泊まっているホテルへ帰る途中に「ガス灯」がある。たいへん印象的なものだ。「そのガス灯は、暮れなずむ外の光のなかで見ると、夕日の最後の残照がいまだ消え去らぬ十八世紀の大きな高窓とみごとに調和して、赤味のさす顔にブロンド色の鼈甲(べっこう)飾りがよく似合うさまを想わせた」。「ガス灯」は「かつて国の機関として使われていた巨大な建物」や「ルイ十六世のオランジュリー(オレンジ栽培用温室)」を内部から照らし上げている。その「ガス灯」を見るたびに自分の「暖炉とランプのもとに早く戻りたくなる」。すると<私>は「自分の部屋に入っても、私は外にいたときと同様の生命力みなぎる充実感をおぼえ」る。「ふだんはたいてい平板で空疎に見える」部屋中の調度、さまざまな事物のほんの表面までが「私には充実して膨らんで見えた」。

「空疎」なものを「充実」したものへ変換する「ガス灯」。それは「かつての権威」とか「ルイ十六世」とかいった言葉とは直接なんの関係もない。そうではなく「ガス灯」が「闘ってい」るからである。ランプもまた「私が泊まっているホテルの正面玄関のなかの窓辺でひとり夕暮れと闘っていたから」だ。フランス革命を境に往年の大貴族たちがばたばた倒れ、代わって新興ブルジョワ階級が加速的に世界を支配し出したことによるルイ王朝時代へのノスタルジーとはまるで関係がない。重要なのは「空疎」の「充実」への変換であり、その衝撃をきっかけとして「かりにそんな事物をふたたび見出す機会を与えられたなら、私は自分の内部からそんな特殊な存在をとり出すことができる気がしたほどである」、という形で<私>をステレオタイプ(常套句的)な習慣的思考から転倒させ新しく思考させたことだ。このような不意の衝撃が「自分の内部からそんな特殊な存在をとり出すこと」を可能にする。新しい切断と接続とをもたらす。

「そのガス灯は、暮れなずむ外の光のなかで見ると、夕日の最後の残照がいまだ消え去らぬ十八世紀の大きな高窓とみごとに調和して、赤味のさす顔にブロンド色の鼈甲(べっこう)飾りがよく似合うさまを想わせた。そんなガス灯を目(ま)の当たりにした私は、自分の暖炉とランプのもとに早く戻りたくなる。そのランプは、私が泊まっているホテルの正面玄関のなかの窓辺でひとり夕暮れと闘っていたから、私はそのランプを見るのが楽しみで、すっかり暗くなってしまわないうちにおやつに帰る子供のようにいそいそと家路につく。自分の部屋に入っても、私は外にいたときと同様の生命力みなぎる充実感をおぼえていた。暖炉の火の黄色い炎といい、中学生がピンクの色鉛筆でぐるぐる螺旋(らせん)をなぐり描ききたように見える夕日のうかぶ空を想わせる鮮やかな濃紺の壁紙といい、ひと束の罫入り用紙とインク壺とがベルゴットの小説とともに置かれて私を待っている丸テーブルに掛けられた奇妙な柄のクロスといい、ふだんはたいてい平板で空疎に見えるさまざまな事物の表面までが、私には充実して膨らんで見えた。ひきつづきその後もこうした事物の内部にはありとあらゆる特殊な存在が充満しているように思えたから、かりにそんな事物をふたたび見出す機会を与えられたなら、私は自分の内部からそんな特殊な存在をとり出すことができる気がしたほどである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.202~203」岩波文庫 二〇一三年)

午後七時になると<私>はサン=ルーたちと夕食をとるため彼らのいるホテルへ出かける。十一月頃。日が暮れると外はとても冷える。歩いているあいだ、<私>はふと思う。ドンシエール駐屯地を訪れることにしたのはサン=ルーを介してゲルマント夫人へ接近するためだったではないか。それなのに「想い出も悲しみも移動するものだ」。今や差し当たり「それがかなたに遠ざかり、ほとんど見えなくなる日々があると、もう消えうせたのだと思う。そうなるとわれわれが注意を向けるのは、ほかのものになる」。欲望は移動する。欲望の対象は置き換えられる、とプルーストは告げる。町の街路から見える家々、とりわけ「窓ガラスに明かりのともる住まい」は「未知の世界」にほかならない。すっかり闇の中に溶け込んで匿名化した<私>はそんな「未知の世界」を<覗く>。

「そうして歩いてゆくあいだ、私はゲルマント夫人のことを考えるのをいっときたりともやめなかったはずだと思えるかもしれない。私がロベールの駐屯地にやって来たのは、たしかに夫人と近づきになろうとする目的しかなかった。しかし想い出も悲しみも移動するものだ。それがかなたに遠ざかり、ほとんど見えなくなる日々があると、もう消えうせたのだと思う。そうなるとわれわれが注意を向けるのは、ほかのものになる。そもそも私にとってこの町の街路は、住み慣れた場所とは違って、ある場所からべつの場所へと移動するための単なる手段にはまだなっていなかった。こんな未知の世界に住む人たちの暮らしはきっとすばらしいものにちがいないと思われ、窓ガラスに明かりのともる住まいがあると、私は闇のなかに長いこと立ちつくし、入りこめない神秘的な暮らしのくり広げられる真性なる情景を見つめた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.205~206」岩波文庫 二〇一三年)

通り過ぎていく家々は様々だ。例えば次のように。

「ときに目を上げると広壮な古めかしいアパルトマンがあり、どの部屋の鎧戸も開いたままで、なかには大ぜいの水陸両棲の男女が、日が暮れるたびに昼間とはべつの元素環境へと順応しなおすのか、ねっとりした液体のなかをゆっくり泳いでいるのが見てとれ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.206」岩波文庫 二〇一三年)

ベルベックでは逆に<私>はグランドホテルの中のメインダイニングルームにいて、地域住民(外部)から<覗かれる>側だった。「巨大な魔法の水槽」の中の生物に映っていた。今度は<私>が「大ぜいの水陸両棲の男女」を次々<覗く>側を演じる。ところでこの「水陸両棲」という言葉は歴然たる存在様式であり普段は区別され分け隔てられている世界が、様々に交通し合い反復する横断性によって古い制度を解体・新しい変容を準備する。また、アルベルチーヌの性的横断性について、形容詞として「水陸両棲」が用いられている。

「こんなふうにアルベルチーヌのそばで感じるいささか重苦しい倦怠と、輝かしいイメージと哀惜の念にみちた身震いするほどの欲望とが交互にあらわれたのは、アルベルチーヌが私の部屋でそばにいるかと思えば、ふたたび自由を与えられ、私の記憶のなかの堤防のうえで例の陽気な浜辺の衣装をまとって海鳴りの楽奏に合わせて振る舞うからで、あるときはそうした環境から抜け出し、私のものとなって、さしたる価値もなくなり、あるときはその環境へ舞い戻り、私の知るよしもない過去のなかへ逃れて、恋人である例の婦人のそばで、波のしぶきや太陽のまばゆさに劣らず私を侮辱する、そんなアルベルチーヌは、浜辺に戻されるかと思えば私の部屋に入れられ、いわば水陸両棲の恋の対象だったのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.389」岩波文庫 二〇一六年)

しかし後者の「水陸両棲」、アルベルチーヌの性的横断性、トランス・ジェンダーであるということを動かせない事実として認めるほかなくなった時、<私>は<私>の限界を思い知らされるとともにアルベルチーヌを<監禁>し厳重な監視下に置くことになる。

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