白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・身体から出現し身体を包み込む夢の機能

2022年05月24日 | 日記・エッセイ・コラム
慣れない場所で初めて眠ることになったとき「私の夢に出てきたもろもろのイメージは、ふだん私の眠りが利用する記憶とはまるで異なる記憶から借用してきたものとなった」。そして「私の夢の新たな流れが修正されたり維持されたりする」とプルーストはいう。読者もまたそれはそうだろうと通例は思う。しかしプルーストが「外界の知覚と同じよう」な「進行」というのはあくまで<表層的>という意味で言われているのであって、現実的とか逆に抽象的とかいう意味ではない。

また「われわれの習慣に変更が加えられるだけで眠りは詩的なものとな」る。習慣化・制度化されてもはや凡庸となった生活様式に多少なりとも暴力的衝撃が与えられることで夢を構成する様々な素材がランダムに置き換えられ「詩的なもの」=<重層的決定のモザイク的組み換え>が行われ押韻化する。次の箇所で「眠りの規模が変わって眠りの美しさが感じとれる」とある。プルーストではいつもそうなのだが「眠りの規模が変わ」るというのは「眠りの」<次元>が変わるということを言いたがっているように思われる。なのでその「美しさ」はほぼ間違いなく、思いがけず出現したがゆえの<美>ということになるだろう。

「眠りながら私は、今夜もふだんの記憶のほうへ引き寄せられたいと願うのだが、慣れないベッドや、寝返りをうったときの姿勢に払われざるをえない心地よい注意力が存在するだけで、私の夢の新たな流れが修正されたり維持されたりするのだ。眠りというのは、外界の知覚と同じように進行するものらしい。われわれの習慣に変更が加えられるだけで眠りは詩的なものとなり、服を脱ぎながらうっかりベッドのうえで寝てしまうだけで眠りの規模が変わって眠りの美しさが感じとれる」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.180~181」岩波文庫 二〇一三年)

屋外を軍楽隊の演奏が通り過ぎていく。派手な行進曲のはずなのだが入眠間際の状態の中では、ほとんど小鳥のさえずりででもあるうかのようだ。それでもなお「静寂」は一旦「中断」されている。切断がある。そして軍楽隊の通過の後に再び、また新しく、「静寂」が始まる。覚醒時にサン=ルーから「音楽が聞こえたかと訊ねられたとき」、昼間の<私>の感性にとって、「町の敷石の上方にわずかな物音が聞こえると楽隊の音だ」と、両者を等価なものとして捉えるのと同じくらい戸惑いを覚える。「楽隊の音を聞いたのは夢のなかのできごとにすぎず、それは目が覚めるのではないかと怖れたせいなのか、それとも逆に目が覚めずに分列行進を見損なうのではないかと怖れたせいなのか」、<位置決定不可能性>の中で「考えこんでしまう」ほかない。

「静寂が音楽と化したそんな中断を経て、わたしの眠りとともに静寂がふたたび始まると、そのあとではいくら機甲部隊が通りすぎても、ほとばしり出る音の束が触れたのは私の意識のごく限られた部分で、しかもその部分も眠りにとり巻かれているから、ずっと後にサン=ルーから音楽が聞こえたかと訊ねられたときもまるで自信がなく、昼間、町の敷石の上方にわずかな物音が聞こえると楽隊の音だと思ったのと同じで、それも同様の空耳ではなかったかと戸惑い、もしかすると楽隊の音を聞いたのは夢のなかのできごとにすぎず、それは目が覚めるのではないかと怖れたせいなのか、それとも逆に目が覚めずに分列行進を見損なうのではないかと怖れたせいなのか、と考えこんでしまう」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.182」岩波文庫 二〇一三年)

しかしなぜそう感じるのか。「物音で目が覚めたのだろうと考えたときでもしばしば眠っていることがあるからで、そんなときは一時間ものあいだ眠りながら目を覚ました気になっている」からだと。読者の多くもまたしばしば体験した記憶があるだろう。この箇所で「私の眠りのスクリーン上」とある。夢を見ている最中、夢の舞台はどこにあるのか。「スクリーン上」にある。要するに夢は深層にあるものが上昇してきて見えているわけではまるでなく、逆に「スクリーン上」の映像を夢という形式における<表層>を捉えているばかりである。だから眠っているにもかかわらず「或る光景」が演じられているのを実際に見るというのはいかにもおかしな事態なのだが、夢は睡眠中にしか出現できないという条件のもとに限り、「私自身はその光景に居合わせている」という<倒錯>を「錯覚」として捉えているに過ぎない。

「そんなことを言うのも、物音で目が覚めたのだろうと考えたときでもしばしば眠っていることがあるからで、そんなときは一時間ものあいだ眠りながら目を覚ました気になっている。そんなふうに私は、私自身のために私の眠りのスクリーン上にかすかな影としてさまざまな光景を映し出していたが、眠りは私がその光景に居合わせるのを妨げているのに、私自身はその光景に居合わせているものと錯覚するのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.182~183」岩波文庫 二〇一三年)

むしろかえってこの種の<倒錯>が夢の中で、私自身をその光景に居合わせずにはおかない条件をなす。夢を見るのは睡眠中でなければならないのだ。従って夢を見る必要最低条件は睡眠中に出現する<表層>との不意打ち的出会いという形式においてでなくてはならないと言えるだろう。

また少し前に引いた箇所。「慣れないベッドや、寝返りをうったときの姿勢に払われざるをえない心地よい注意力が存在するだけで、私の夢の新たな流れが修正されたり維持されたりする」。この種の夢についてニーチェはいう。

「《夢の論理》。ーーー睡眠中、たえずわれわれの神経組織は多様な内的誘因によって刺激をうけ、ほとんどあらゆる器官が分泌し活動している。血液は烈しく循環し、睡眠者の姿勢は身体の個々の部分を圧迫し、その掛け布団は感覚にいろいろの影響を与え、胃は消化してその運動で他の器官をさわがせ、内蔵はのたうちまわり、頭の位置は常ならぬ筋肉の状態を伴い、地面を足裏で押していない跣(はだし)の足は、全身のちがった身なりと同様、常ならずという感情をひき起こすーーーこれらすべては、日によって変化や度合がちがうが、その異常性によって全組織を頭脳の機能にいたるまで刺激する、それで精神にとっては、怪しんでこうした刺激の《根拠》を求めるための百の誘因があるわけである、ところが夢は、刺激を受けたあの感覚の原因、すなわち憶断的《原因の探究および表象》なのである。たとえば足を二本の革ひもで巻いている人は、多分二匹の蛇が足にからみついている夢をみるであろう、これははじめは一つの仮定であり、ついで信念となって具象的表象や虚構を伴ってくる、『これらの蛇は、睡眠中のわたしが感じるあの感覚の《原因》であるにちがいない』、ーーーと睡眠者の精神は判断する。こう推論された直前の過去が、刺激を受けた空想力によって、彼には現に在るものとなる。それで夢みる人が、彼に迫ってくる強い物音、たとえば鐘のひびきや砲撃を、いかにすばやく夢の中へ組み入れるかを、つまり彼は夢を出発点として《後から》説明を加えるのであるから、はじめに誘因となる状態を体験し、ついであの物音を体験すると《思いこむ》ことになるのを、だれでも経験から知っている。ーーーしかしながら夢みる人の精神がいつもそのように的(まと)をはずれているのはどうしてだろう、一方同じ精神が目覚めていると、きわめて冷静で用心深く、仮説に関してかくも懐疑的であるのを常としているのに?ーーー或る感情の説明のため、手あたり次第に仮説に甘んじて、すぐその真理を信じてしまうのは?ーーー(なぜならわれわれは、夢の中で夢を、それが現実であるかのように信じる。すなわちわれわれの仮説が完全に証明されたものとみなすのであるから。)ーーーわたしの考えでは、今なお人が夢の中で推理しているようなぐあいに、人類は《目覚めているときにもまた》幾千年を通じて推理したのであった、なにか説明を要するものを説明するために、精神の思いついた最初の《原因》が彼を満足させ、真理として通用したのであった。(旅行者の話によれば、未開人は今日もなおそうしている。)夢の中でわれわれの内部にある人間性のこの太古の部分が訓練をつづけている、なぜならそれは、いっそう高い理性が発展してきてさらに各人のところで発展していくさいの基礎だからである、夢はわれわれを人間文化のずっと以前の諸状態へとふたたびつれもどし、その状態をいっそうよく理解する手段を手渡してくれる。夢想がわれわれに今ではきわめてやさしいのも、われわれが人類のおそろしく長い発展期のうちに、最初の勝手な思いつきからでた空想的な安価なこの説明様式をこそ実にうまく仕込まれてきたからである。そのかぎり夢は、高級文化によって申し立てられているような、思考に対するさらに厳しい要求を、日中は満たさなくてはならない頭脳のための一つの休養である。ーーー類似の事象を、まさに夢の門や玄関として、悟性の醒めているおりでもなお検証することができる。われわれが眼を閉じると、脳髄は一群の光の印象や色彩を産み出す、多分、日中頭脳に侵入しているあらゆるあの光の作用の一種の余波や反響なのであろう。ところが悟性は(空想力と結託して)、それ自身は形のないこの色彩の戯れを、ただちに一定の図形・形態・風景・生物群にしようと細工する。このさいの本当の過程は、またもや結果から原因への一種の推理なのである。どこからこの光の印象や色彩が来るのであるか、と問いながら、精神は、原因としてあの図形や形態を想定する、それらが精神によってあの色彩や光の誘因とみなされるのは、日中眼を開いているさい、どの色彩にもどの光の印象にも誘発的原因をみつけるのに、精神が馴れているからである。したがってここでは空想力は、その産出にあたり日中の視覚印象によりかかりながら、たえず映像を精神に押しつける、そして夢想力もまさにそのとおりにする、ーーーつまり憶断的原因が結果から推論され、結果の《後を追って》表象される、これはすべて異常にすばやく行なわれるので、ここでは、手品師のところでのように、判断の混乱が生じ、前後関係がなにか同時のもののように、逆の前後関係のようにすらみえかねないのである。ーーーこうした事象からわれわれは、われわれの理性や悟性の機能が《今なお》思わずあの原始的な推理形式に後もどりしたり、われわれの生涯のほとんど半分をこの状態でくらしたりしているからには、もっと鋭い論理的思考、原因・結果の厳密な取り扱いが《いかに遅れて》発展させられてきたか、ということを推察できる。ーーー詩人や芸術家もまた、自分の気分や状態に、全然ほんとうではない原因を《なすりつける》、そのかぎりで彼は古代の人間を思い出させ、われわれが古代人を理解するたすけとなりうるのである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・十三・P.36~39」ちくま学芸文庫 一九九四年)

睡眠中の人間の脳機能は日中の常識を構成する様々な社会的制度的なステレオタイプ(常套句)・ドグマ(独断)から解き放たれているか少なくとも弛緩させている。それこそが夢を見る条件になるわけだからプルーストのいう「錯覚」は<倒錯>した形式で出現する表層という意味において全然「錯覚」ではない。夢は<私>の身体・脳内で出現しているとともに<私>の身体・脳機能は<私>が見る夢の中へすっぽり包み込まれている。

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