白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「整形外科医」的プルーストによる翻訳作業のレベル・アップ

2022年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
アルベルチーヌの顔の特徴の一つ。「強情そうな鼻の先」。それは<私>が「ここ数日、アルベルチーヌを想いうかべたときに失念していた点である」。いつも何もかも覚えているわけではないし一時的に「失念していた」としてもおかしくはない。しかしそのすぐ後にある「黒髪の下には垂直にきりたつ額」への備給がここでのプルースト的課題を提出している。「私の記憶していた額のイメージと齟齬(そご)をきたす」。よくある話だ。そこでこれまでのイメージを修正しようという<私>の欲望ゆえアルベルチーヌは「私の目の前で再構成されるのだった」。だからといってプルーストは、こう何度も「再構成」されていればそれはもはや記憶ではないということを言おうとしているわけでは全然ない。

「そのとき私たちのところにオクターヴがやって来て、アンドレを相手に気安く前日のゴルフのスコアの話をした。ついで合流したアルベルチーヌは散歩の途中で、愛用のディアボロを修道女が数珠をつまぐるような格好であやつっている。この遊びのおかげで、ひとりでも何時間も退屈しないでいられるのだ。アルベルチーヌが私たちのところに来てすぐに私の目は、その強情そうな鼻の先をとらえた。ここ数日、アルベルチーヌを想いうかべたときに失念していた点である。黒髪の下には垂直にきりたつ額が見え、初めてのことではないとはいえ私の記憶していた額のイメージと齟齬(そご)をきたすが、そのあいだもそのあまりの白さに額は私のまなざしに食いこんだ。こうしてアルベルチーヌは、はかない記憶から抜けだし、私の目の前で再構成されるのだった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.610」岩波文庫 二〇一二年)

<私>の記憶に「再構成」を強制したものは何か。「そのあまりの白さに額は私のまなざしに食いこんだ」から。何度か見たことがあるにもかかわらず指摘されるまで気づかず、まるで始めての光景に出会わせ驚かせ、驚いている自分に自分自身改めて驚くように働きかけるのは芸術の力である。エルスチールが描いたバルベックの断崖の絵を見た時の<私>の反応はまるきりそうだった。実際の断崖を何度か見ているのにその時には見えておらず、絵画化されて始めて見ることができ、その魅力に嫌でも気づかされる衝撃的経験。それを可能にさせるのは絵画、音楽、文学などの芸術に限られる。少なくともプルーストはそういっている。ということは近年ではプルーストが生きていた時代よりも遥かにそうだということに違いない。ルノワールに関する世間の誤解のように芸術にしかできない特権的翻訳作業というべきものだ。

「ところがある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)

アルベルチーヌ「特有の口調のひとつ」に発語の最後につける「そうよ」に独特の抑揚があった。そして「そんな口調を忘れていたことに気づくたびに私は、その口調の背後にすでにアルベルチーヌのきっぱりとしたフランス人らしい顔つきをかいま見ていたことを同時に想い出した」。一方の「口調」ともう一方の「鼻の先」という二つの特徴。どちらが優位かということは問題にならない。そうではなく、「口調も鼻の先も優劣をつけがたく補い合うことができたはずで、その声はいずれ実現するといわれる未来の写真電話の声のように、音声のなかに視覚的イメージまでくっきりと浮かびあがらせるのだった」という瞬時に行われる相補性こそ問題だろうと思われる。ところが、このようなことはどこででも誰にでも余りにも頻繁に起こることなので敢えて問題にならない。しかし普段だと問題にならないとはいえ今見ている顔と五十年後の顔とではまるで違っていることがたびたびあるため、たった二本の皺がそのうち六十本の皺になるような場合、その変化が<時間の経過を可視化させる>という意味で歴然たる問題である以上、<私>だけでなく読者もまたそれぞれ異なるとはいえ、複数の友人知人たちの顔貌についてしばしば「整形外科的」手術を行なっているのだといえる。顔というものは自分の顔にせよ他人の顔にせよ、以前とは異なる或る違いが特徴として捉えられるや、すぐさま解体・修正・再構成されざるを得ない。再構成されると今度は六十本の皺のある状態から出発して新しく始まる。

「『ヴィルパリジ夫人のことだけど』とアルベルチーヌはオクターヴに言った、『あなたのお父さんになにか苦情を言ったそうよ』(私はこの『そうよ』ということばの背後にアルベルチーヌ特有の口調のひとつを聞きとった。そんな口調を忘れていたことに気づくたびに私は、その口調の背後にすでにアルベルチーヌのきっぱりとしたフランス人らしい顔つきをかいま見ていたことを同時に想い出した。アルベルチーヌの鼻の先を見るように、この口調を聞くと、かりに目が見えなくても私には機敏でいささか田舎っぽい本人の特質を知ることができたであろう。口調も鼻の先も優劣をつけがたく補い合うことができたはずで、その声はいずれ実現するといわれる未来の写真電話の声のように、音声のなかに視覚的イメージまでくっきりと浮かびあがらせるのだった)」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.610~611」岩波文庫 二〇一二年)

アルベルチーヌの微笑みには滅法弱い<私>。弱すぎるくらいだ。「じゃあ、あとでね。早くいらっしゃい、ふたりの時間がたっぷりあるように」という言葉に微笑みが付け加えられる。するともう<私>の脳内はアルベルチーヌの顔の「解体・修正・再構成」に夢中になる。

「『あたし、アンドレにさよならを言ってくる。じゃあ、あとでね。早くいらっしゃい、ふたりの時間がたっぷりあるように』。そうつけ加えると、アルベルチーヌはにっこり笑った。このことばを聞いた私は、ジルベルトを愛していた時期より以前の、恋愛がたんに外的な実在であるばかりか実現可能な実体に思えた時期にまで逆戻りした。シャンゼリゼで会っていたジルベルトは、私がひとりになるとすぐに心中に見出すジルベルトとは別人だったのにたいして、私が毎日会っているアルベルチーヌ、ブルジョワの偏見に凝り固まり叔母と腹蔵なく話しあえるらしいこの現実のアルベルチーヌのなかに、いきなり想像上のアルベルチーヌ、まだ知り合いになる以前に堤防のうえでちらっと私を見つめたように思えたアルベルチーヌ、遠ざかる私を見ながら渋々家路につくといった風情のアルベルチーヌが血肉化したのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.613」岩波文庫 二〇一二年)

この再構成作業の中に「まだ知り合いになる以前に堤防のうえでちらっと私を見つめたように思えたアルベルチーヌ」とある。これが最初の出会いの時の印象として後々まで尾を引く。アルベルチーヌの無限の系列はその瞬間から出現した。したがって「アルベルチーヌが私と知り合う前に浜辺でただよわせていた神秘」、「私の窓の下で砕ける波の音」、などに戻っていかないと新鮮な出会いの記憶を思い出すことは不可能である。<私>はそんな事情をよく知っている。だがアルベルチーヌの身体を自己固有化したいという欲望もある。そこで実際アルベルチーヌの身体を自分のものにしてしまう。

「私は接吻するに先立って、アルベルチーヌが私と知り合う前に浜辺でただよわせていた神秘にあらためて満たされ、それ以前に暮らしていた土地までが本人のなかに見出せたらどんなにいいだろうと思った。私の知らない土地は無理だとしても、すくなくともその代わりに共にすごしたバルベックのありとあらゆる想い出、私の窓の下で砕ける波の音や子供たちの叫び声などをアルベルチーヌのなかに入れこむことができた。だがアルベルチーヌの頬という美しいバラ色の球体のうえに視線を走らせ、やさしく湾曲した頬の表面がみごとな黒髪の最初の褶曲(しゅうきょく)の麓のところで消え去ったり、黒髪がいくつもの山脈となって躍動しては険しい支脈を屹立させたかと思うと波立つ谷間をつくるのを目の当たりにすると、私はこう思わずにはいられなかった。『バルベックでは失敗したが、今度はいよいよアルベルチーヌの頬という未知のバラの味を知るんだ。人生のなかで事物や人間にたどらせることのできる地平はそう多くないのだから、あらゆる顔のなかから選びとった咲きほこる晴れやかな顔を遠くの額縁から取り出し、この新たな地平に連れてきて、その顔をついに唇によって知ることができたら、私の人生もいわば完了したとみなせるかもしれない』。私がそう思ったのは、唇による認識が存在すると信じこんでいたからである。私は肉体というこのバラの味をこれから知ることになると思いこんでいたが、それはウニと比べて、いやクジラと比べても明らかに一段と進化した生物である人間でも、やはり肝心の器官をいくつか欠いていること、とりわけ接吻に役立つ器官をなんら備えていないことに想い至らなかったからだ。人はこの欠けた器官を唇によって補っているので、愛する女性を角質化した牙で愛撫せざるをえない場合よりは、いくらかは満足できる成果が得られているのかもしれぬ。だが唇というものは、食欲をそそる対象の風味を口蓋(こうがい)に伝えるには適した器官であるが、頬を味わうにはそこには入りこめず、囲いの壁につき当たってその表面をさまようのに甘んじるほかなく、対象を間違えたとは理解できず、当てが外れたとも認めはしない。そもそも唇は、たとえはるかに熟練して上達した唇も、肉にじかに触れているその瞬間でさえ、自然が現段階では捉えさせてくれない風味をそれ以上に味わうことはできないだろう。というのも唇がその糧をなにひとつ見出しえないこの地帯では、唇は孤独で、ずいぶん前から視線にも、ついで臭覚にも見放されているからである。まずは視線から接吻するよう勧めれれた私の口が頬に近づくにつれて、移動する視線はつぎからつぎへと新たな頬を目の当たりにした。ルーペで眺めるみたいに間近で見る首は、皮膚のきめの粗さのなかにたくましさをあらわにして、顔の性格を一変させてしまった。写真という最新の技術ーーーそれは、近くで見ると往々にして塔ほどに高いと思われた家並みをすべて大聖堂の下方に横たえたり、いくつもの史的建造物をまるで連隊の訓練のよういつぎつぎと縦隊や散開隊形や密集隊形にさせたり、さきほどはずいぶん離れていたピアツェッタの二本の円柱をぴったりくっつくほどい近づけたり、近くにあるサルーテ教会をかなたに遠ざけたり、蒼白くぼやけた背景のもと、広大な水平線を、ひとつの橋のアーチ内や、とある窓枠内や、前景に位置する溌剌(はつらつ)とした色合いの一本の木の葉叢(はむら)のあいだに収めたり、同じひとつの教会の背景としてつぎつぎと他のあらゆる教会のアーケードを配置したりする技法であるーーー、私からするとこの技法だけが、接吻と同じく、一定の外観をもつ一個の事物と信じていたものから、それと同一の多数のべつのものを出現させることができるのだ。いずれもある視点から生じたものだが、どの視点もいずれ劣らぬ正当性を備えているからである。とどのつまり、バルベックにおいてアルベルチーヌが私の目にしばしば違って見えたのと同じで、今や、ひとりの人間がわれわれとの多様な出会いにおいて見せる風姿や色合いの変化の速度を桁外れに早めることによって、私がそんな出会いのすべてを数秒のなかに収めては、その人の個性を多様化する現象を実験的に再創造しようとしたかのように、私の唇がアルベルチーヌの頬に達するまでの短い行程のあいだに、その人の秘めるあらゆる可能性がまるで容器からつぎつぎと取り出されたかのように、私には無数のアルベルチーヌが見えた。この娘は、いくつもの顔をもつひとりの女神よろしく、私が最後に見た娘に近づこうとすると、すぐまさべつの娘に変わってしまう。すくなくとも私が娘に触れるまでは、その顔は見えたし、娘からはかすかな芳香も伝わってきた」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.59~63」岩波文庫 二〇一四年)

だがもはや<私>に自己固有化された後のアルベルチーヌはただ単なる女性の一人に過ぎなくなる。そしてまたアルベルチーヌに関する悦ばしい思い出に浸ろうとするとそのたびに、「アルベルチーヌが私と知り合う前に浜辺でただよわせていた神秘」、「私の窓の下で砕ける波の音」、などの印象を呼び起こさなければならなくなる。「バルベック滞在の頃の辺り」をうろうろしてはもう二度と出会うことのできない「浜辺のアルベルチーヌ」からどんどん切り離されていく日常生活の側をさらに引き延ばしていくほかないのだ。

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