白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・妄想と現実/バルベック海岸の<神秘性の喪失>とその都度<新しい出発>

2022年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
フランソワーズたち召使いの部屋で一九〇〇年代初頭の労働運動の話題が出た時のこと。フランソワーズは主人についていう。「あたしたちを駆けずりまわらせる主人」。そう書く一方でプルーストは、<私>と母とが別室で食事を待っている時に母が口にした言葉を書く。「いったいなにをしてるのかしら、あの人たちは、もう二時間以上も食卓についたままで」。<私>と母とがいる部屋とフランソワーズたちがいる部屋。プルーストは二つの別々の部屋での言動を同時に書き分ける。<或る価値体系>に属する人々と<別の価値体系>に属する人々との言動が異なるのは当然のことだ。この箇所では「時間の長さを測る物差し」の違い。プルーストはそれを極めて落ち着いた調子のまま、しかし不意打ち的に書きつけて読者の前に差し出す。否応なく読者は、両者の違いが鮮明に描かれた場面を<覗く>行為の共犯者と化す。

「『この世がこの世のままだと』とフランソワーズは言う、『やっぱり、あたしたちを駆けずりまわらせる主人がいて、そんな気まぐれにつき合う召使いがいることになるわ』。主人はたえず駆けずりまわらせる人というこの説とは齟齬(そご)をきたすが、母はすでに十五分も前から、フランソワーズの昼食時間の長さを測る物差しがおそらく本人と同じではないようで、こう言っていた。『いったいなにをしてるのかしら、あの人たちは、もう二時間以上も食卓についたままで』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.61」岩波文庫 二〇一三年)

またフランソワーズが集めてきた情報によるとゲルマント家の館は<私>が想像していた城館とはまるで違うらしい。「庭には領主ならではの絞首台もなく、要塞化した水車小屋もなく、養魚池もなく、柱上鳩舎もなく、共用竈(かまど)もなく、舟形穀物倉もなく、橋頭堡もなく、固定橋も跳ね橋もなく、それどころか仮設橋も通行税徴収橋もなく、尖塔も、壁面に掲げられた憲章も、石標もない」。<私>が夢に描いていた風景とは似ても似つかない逆の条件ばかりが揃っている。<私>はいつも過剰に期待する存在として登場するが、この箇所でも期待は裏切られ解体される。

「ゲルマントの給仕頭はひどく威張っているふうだったが、フランソワーズが早くも最初の日々に訊きだして教えてくれたところによると、ゲルマント家の人たちはこの館に大昔からの権利として住んでいるのではなく、かなり最近になって館を借りただけで、館の私の知らない側にある庭も、近隣の庭となんら変わるところのない、かなり小さなものだという。そして私が最後に知ったのは、その庭には領主ならではの絞首台もなく、要塞化した水車小屋もなく、養魚池もなく、柱上鳩舎もなく、共用竈(かまど)もなく、舟形穀物倉もなく、橋頭堡もなく、固定橋も跳ね橋もなく、それどころか仮設橋も通行税徴収橋もなく、尖塔も、壁面に掲げられた憲章も、石標もないことであった」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.62」岩波文庫 二〇一三年)

想像力が打ち立てる大建築にも似た妄想が生じるメカニズムについてニーチェはいう。

「模写すること(空想すること)は、私たちには、知覚すること、たんに知覚することよりも、いっそう容易になされる。このゆえに、私たちが、たんに知覚している(たとえば運動を)と思っているいたるところで、すでに私たちの空想は助力し、捏造し、私たちが多くの個別的な知覚をする苦労を《免れさせ》ているのだ。この《活動》は通常見のがされている。私たちは、他の諸事物が私たちに影響をおよぼすさい、《受動的》であるのでは《なく》、むしろ、即座に私たちは私たちの力をそれに対抗させる。《諸事物が私たちの琴線に触れるのだが、そこから旋律をつくり出すのは私たちなのだ》」(ニーチェ「生成の無垢・下・一九・P.21」ちくま学芸文庫 一九九四年)

パリに引っ越した時、バルベック滞在以前と以後とでバルベックの印象はまるで違ったものになっていた。「バルベック湾がその神秘性を喪失して私にとっては地球上に存在する大量の塩水の他のどんな部分とも取り替えられる任意の一部になり果てていた」。バルベックで<私>はサン=ルーや娘たちと知り合い、なかでも娘たちの顔は最初のうち「一団」であってまるで個性というものを感じなかったが、だんだん個別的な身体的精神的特徴の区別が付くようになった。ところがしかし知り合えば知り合うほどどの相手も最初に持っていた「神秘性」を喪失していった。ただ単なる女性たちの一人一人に過ぎないということを嫌でも知らされることになった夏だった。プルーストが用いるいつもの方法の一つなのだが、認識することというのは<暴露>されるものを受け入れることにほかならない。今のイギリス王室とイギリス国民の関係などはその典型例の一つだろう。<監視・覗き・暴露>に過ぎないような下品な行為の集大成がひとまとまりの「写真集」と銘打って売りに出され、覗かれた側ではなく覗いた側が途方もなく大儲けする。

しかしバルベック滞在中に知れば知るほど神秘性を喪失したバルベック湾の凡庸性に打ちひしがれそうになっていた<私>はその時、エルスチールの言葉に救われたことがある。「これこそホイッスラーの描いたシルヴァー・ブルーのハーモニー連作中のオパールの湾だねと言って突然この湾に個性をとり戻してくれた」。立場が違い考え方も違い生活様式も違い目的などまるで違っていると、例えばエルスチールが用いたアプローチのように神秘性が取り戻されることがある。もっとも、実際のところは「取り戻された」わけではなく、新しく見出された地点から出発させてくれたわけだが。それと同じことを起こしたのが、ゲルマント公爵夫人に関する父の旧友の言葉。「あのかたはフォーブール・サン=ジェルマンで最高の地位を占めるかたですよ、フォーブール・サン=ジェルマン随一の名家です」。そこで<私>はゲルマントという名について抱いていた高貴なイメージをやっとのことで維持することができた。

「それでも、バルベック湾がその神秘性を喪失して私にとっては地球上に存在する大量の塩水の他のどんな部分とも取り替えられる任意の一部になり果てていたとき、エルスチールが私にこれこそホイッスラーの描いたシルヴァー・ブルーのハーモニー連作中のオパールの湾だねと言って突然この湾に個性をとり戻してくれたように、フランソワーズの情報という打撃を食らい、ゲルマントの名から派生した最後の住まいが雲散霧消する憂き目をみていたとき、ある日、父の旧友のひとりが公爵夫人について私たちにこう言った、『あのかたはフォーブール・サン=ジェルマンで最高の地位を占めるかたですよ、フォーブール・サン=ジェルマン随一の名家です』。フォーブール・サン=ジェルマンの最高のサロン、随一の名家と言われても、私がつぎつぎと夢に見てきたそれまでの住まいと比べれば、たしかにとるに足りないものだったかもしれない。しかしながらいずれ最後のものとなるその住まいは、どんなにつつましいものとはいえ、その建物自体を超えてわが身をほかと画然とわかつ秘密をなおもどこかしら宿していたのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.62~63」岩波文庫 二〇一三年)

エルスチールの言葉が救いになったのはエルスチールが絵画を描く方法そのものから到来する。以前引用した。

「なるほどそれはバラ色の巨大なアーチの連なりに見えた。とはいえ猛暑の日に描かれたからか、熱気のせいで岩壁は粉々になって蒸発したように感じられ、海の水も熱気に吸い取られたみたいにガス状に画面の端から端まで広がっている。光のせいで現実が破壊されるかと思えるこんな日には、現実はほの暗く透明な女体を想わせる生きものに凝集され、光とは対照的にその生きものがいっそう身近ななまなましい生命感を醸し出す。それがさまざまな影である。大部分の影はかんかん照りの沖をのがれ、冷気に飢えて陽の当たらない岩のすそに避難している。ほかの影たちも、イルカのように水上をゆっくり泳ぎながら遊覧中の小舟の脇にとりつき、淡い色の水面に艶(つや)のある青い肢体をうかべて舟体の幅を広げているように見える。ことによるとそんな影から伝わる冷気への渇望ゆえにこの日の熱気がきわめて強く感じられ、レ・クルーニエを知らないのはなんて残念でしょう、と私は大声を挙げたのかもしれない。アルベルチーヌとアンドレは、私もそこに何度も行ったはずだと請け合った。いずれにしても私は、そうとは知らず、いつの日かその光景にこれほどの美への渇望をそそられるとは想いも寄らずに出かけていたのであり、その美は私がこれまでバルベックの断崖で求めてきたほかでもない自然の美しさではなく、むしろ建築のような美しさだった。とりわけ私は、そもそも嵐の王国を見るためにやって来たのに、ヴィルパリジ夫人との散歩でもたいてい木々のあいだから遠くの絵のような海をかいま見るだけで、水をたたえる生命が大量の水を投げ出す現実の大海原はけっして見たことがなく、かりに不動の大海原を見るのなら冬の埋葬衣のような霧に覆われるすがたを見たいと考えていたから、今やこんな実在の重みも色彩も喪失して白っぽい蒸気にすぎなくなった海を夢みるとは想いも寄らなかった。しかしエルスチールは、暑さにぐったりしたような小舟に乗って夢みる人たちと同様にこの海の魔法のごとき魅惑をきわめて深く賞味した結果、感じとれないほどのかすかな引き潮とか幸せな一刻の鼓動とかまで画布の上に引き寄せて定着することができたのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.552~553」岩波文庫 二〇一二年)

バルベックの海岸で実際に見ているのに実は見えていなかったものを可視化してみせるエルスチールの絵画。その絵画によって新しいバルベックが可視化された時、<私>は新しく思考したといえる。それまで持っていたステレオタイプ(常套句)なドグマ(思い込み)によってはもう何一つわからないところまで追い詰められていた<私>に別の思考を思考するよう働きかけたのがエルスチールの絵画でありその方法だった。例えばアルチュセールはマルクスを例に上げ、見ているのに見えていないものを可視化したその方法について語っている。二箇所上げておこう。

(1)「見えないものを定義され排除されたものとして定義し構造化するのは問いの構造の場である。この見えないものは、問いの構造の場の存在と固有の構造によって、可視性の場から《排除され》、排除されたものとして《定義される》。それは、場がその対象に反照すること、すなわち問いの構造がその対象に必然的にかつ内在的に関係することを、禁止し抑圧するものとして定義される。ーーー新しい対象と問題は必然的に現存の理論的場のなかでは《見えない》。なぜなら、それらはこの理論の対象ではなく、《禁止されたもの》であるからだーーーそれらは、この問いの構造によって定義された、見えるものの場との必然的関係を必然的にもたない対象であり問題なのである。それらは、権利上、見えるものの場の外に排斥され抑圧されるから、見えないのである。まさにそのゆえに、それらがその場のなかに現実に現前している事実は、(非常に特殊な徴候的状況のなかで)それが到来するときにも《気づかれないでしまう》し、文字通りに感知されざる不在になる。それというのも、そもそも場の機能というものは、それらの対象や問題を見ないこと、それらを見ることを禁止することにあるからだ。ここでもまた、見えないものは、見えるものと同じく、もはや主体の《視覚の機能》ではない。見えないものとは、理論的な問いの構造が自分の非=対象を見ないことであり、見えないものは暗闇であり、理論的な問いの構造が自己へと反照するときのめしいた目である。その問いの構造は、その非=対象や非=問題を《熟視しないために》、それらを見ないで通りぬけていく。ーーー見える場のなかの見えないものは、理論展開のなかで、この場によって定義される見えるものにとって外的で疎遠であれば《何でもいいもの》ではない。見えないものはつねに見えるものによって、《それの》見えないもの、《それの》見ることの禁止として定義される。だから見えないものは、空間的隠喩をもう一度使って言えば、見えるものの外部、排除の外的な暗闇ではなくて、見えるものによって定義されるがゆえに見えるもの自体に内在する《排除の内的な暗闇》なのである。言い換えると、地盤、地平、したがって所与の理論的な問いの構造によって定義される見える場の境界といった魅惑的な隠喩は、空間的隠喩を額面通りにとってこの場を《それの外部にあるもうひとつの空間によって》定義される場として考えるなら、この場の性質について思い違いをさせかねない。このもうひとつの空間なるものは、それを自分の否認として含む最初の空間のなかにある。このもうひとつの空間は、まるごと最初の空間なのであって、最初の空間は、それ自身の境界線に排除するものの否認によってのみ定義される。最初の空間には《内部の》境界しかないし、それはその外部を自己の内部にかかえていると言っていい。このように理論的場の逆説は、あえて空間的隠喩を使って言えば、《限定される》がゆえに《無限な》空間、すなわち、それをなにものかから分かつ《外的な》限界や境界をもたない空間であるという点にある。なぜかといえば、それは自分の内部で定義され限定され、自分でないものを排除することで自分の本来の存在を作り出す、定義の有限性を自分の内部にもっているからである」(アルチュセール「資本論を読む・上・序文・P.43~46」ちくま学芸文庫 一九九六年)

(2)「私はここで問題になっているのはイデオロギー的《哲学》だと言う。それというのも、『認識の問題』のイデオロギー的定立こそが、西欧の観念論的哲学と一体になった伝統(デカルトからカントとヘーゲルを経てフッサールにいたるまでの伝統)を定義するからである。私がこのような認識の『定立』は《イデオロギー的》であると言うのは、この問題が『答え』から出発して、答えの正確な《反射》として定式化されているからである。すなわち、それは本当の問題としてではなく、自分が与えたいと思う《イデオロギー的な》解答がたしかにこの問題の解答であるかのように定立されなくてはならなかった問題として定式化されたのである。ーーーこの論点はイデオロギーの本質をイデオロギー的形式で定義し、イデオロギー的認識(とりわけ、イデオロギーが語る認識)を原理上は《再認》の現象に還元する。イデオロギーの理論的生産様式においては(この関連では科学の理論的生産様式とはまったく違って)、問題の定式化は、認識過程の外部ですでに生産されている《解答》ーーー外部でというのは、理論外的審級や要求(宗教的、道徳的、政治的その他の)によって押しつけられるのだからーーーが、理論的鏡としても実践的正当化にも役立つように作られた人為的問題のなかに《自己を再認できる》諸条件の理論的表現でしかないからだ。このように、『認識の問題』によって支配される近代西欧哲学のすべては事実上、この《鏡のなかの再認》から期待される理論的=実践的効果を可能にするように《生産された》(あるひとたちには自覚的に、あるひとたちには無自覚的にーーーしかしここではどちらでもかまわない)用語でもって、またそのように生産された理論的土台に基づいて提起される『問題』の定式化によって支配されている。西欧哲学の歴史のすべては『認識問題』によってではなく、この『問題』が受け取る《べき》イデオロギー的解答によって支配されていると言ってもいいくらいだ。ここでイデオロギー的だと言うのは、認識の現実に無縁な実践的、宗教的、道徳的、政治的な『利害感心』によってあらかじめ解答が押しつけられるからである。マルクスが『ドイツ・イデオロギー』のときからかなり深みのある言葉で言うように、『《答えのなかばかりでなく、問いそのもののなかにも、ごまかしがあった》』。ーーーここでわれわれはもっとやっかいな難題に出会う。なぜなら、われわれは、まちがった答えの《反復》だけでなく、とりわけ《まちがった問い》の《反復》が多くのひとびとのなかで生み出してきた数世紀来の『自明さ』に対して、この企てにおいてはほとんど一人だけで抵抗しなくてはならないからである。われわれはこのイデオロギー的問いによって定義されるイデオロギー的空間、この《必然的に閉じた》空間から脱出しなくてはならない(閉じた空間だと言うのは、イデオロギーの理論的生産様式を特徴づける《再認》構造の本質的結果のひとつは閉じているからである。この不可避的に閉じた円環を、ラカンは別の文脈で、また別の目的から、『《双対の鏡像関係》』と呼んだ)。そうすることでわれわれは、別の場所で新しい空間を開くべきであるーーーこの空間は、《解答について予断を下すことのない、問題の正当な定立》が要求する空間である。『認識問題』のこの空間が閉じた空間すなわち悪循環(イデオロギー的再認の鏡的関係の悪循環そのもの)であること、まさにこの事実を西欧哲学における『認識理論』の歴史は、有名な『デカルト的円環』からヘーゲル的あるいはフッサール的理性の目的論の円環に至るまで、はっきりと《見させて》くれる。この円環の必然的存在を理論的に引き受ける、すなわちそれを自分のイデオロギー的企てにとって本質的であると考えようと決意する哲学(フッサール)が最高度の自覚と誠実さに達したとしても、この《円環》から《抜け出す》ことはできなかったし、イデオロギー的な囚われから《抜け出す》ことはできなかったーーー同様に、この『閉鎖性』の絶対的可能性の条件を、『開放性』(外見的には閉鎖性のイデオロギー的非=閉鎖性でしかない)のなかで考えようとした人、つまりハイデガーもまたこの円環から抜け出すことができなかった。外部であれ深さであれ、単なる《外》に身を置くことでは閉じた空間から出ることはできない。この外またはこの深さが《その》外または《その》深さにとどまるかぎりは、それらはまだ《この》円環、《この》閉じた空間に属しているーーーちょうど円環がそれとは別の《それの》他者のなかで『反復する』ように。この円環から首尾よく免れるのは、この空間の反復によるのではなくて、それの非=反復によってであるーーー理論的に根拠のある《逃走》だけがそれを可能にする。この逃走は、正しくは、逃げだす相手につねに縛られている《逃走》ではなくて、新しい空間、新しい問いの構造の根本からの創設であり、それのおかげではじめて、イデオロギー的な問題定立の再認の構造のなかで否認された現実の《問題》を立てることができる」(アルチュセール「資本論を読む・上・序文・P.98~101」ちくま学芸文庫 一九九六年)

このようにして「新しい空間、新しい問いの構造の根本からの創設」が可能となり、「イデオロギー的な問題定立の再認の構造のなかで否認された現実の《問題》を立てることができる」と言うことができる。それでもなお現代芸術理解のためには随分遅れていたのである。音楽や絵画、映画、漫画、アニメといった分野の急成長とともに、今度は逆に文学が遅れ出しはじめ、さらに哲学・思想も遅れをとっていた。そこで哲学・思想も現代芸術に大いに取り組んだ。しかし芸術は常に先へ行く。だからといって理解できなくてはせっかくの芸術も無意味である。芸術自身もやがて行き詰まってくる。そこで芸術思想が芸術に衝撃を与えて芸術家に新しく思考するよう働きかける。とともに芸術も芸術思想に衝撃を与えて新しく思考するよう働きかける。そのような仕方で芸術も芸術思想も常に新しく更新され、両者ともに参照し合いつつ、文化的なもの、音楽や絵画、映画、漫画、アニメといった分野ともども大きく発展してきた。芸術も芸術思想もどちらも自分たちの<他者>を必要とするのだ。

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