或る日。ゲルマント公爵が夫人と外出しようとしていた時、<私たち>も出かけようとしていて両者はばったり出くわした。<私>は思う。ゲルマント公爵は「きっと夫人に私の名も告げたにちがいない。しかしそんなことで夫人がはたして私の名を覚えて、私の顔まで覚えてくれるものだろうか?おまけに借家人のひとりだと告げられるだけでは、なんともさえない紹介ではないか!」と。この瞬間に発生した<私>の危惧は、神話的人物であるゲルマント夫人が、<私>の「名」(シニフィアン=意味するもの)と「顔」(シニフィエ=意味されるもの・内容)とを一致したものとして、切り離せないものとして、「覚えてくれるものだろうか?」ということである。
「公爵は、ある日、夫人と馬車で出かけようとして私たちと出会い、大げさなお辞儀をしたとき、きっと夫人に私の名も告げたにちがいない。しかしそんなことで夫人がはたして私の名を覚えて、私の顔まで覚えてくれるものだろうか?おまけに借家人のひとりだと告げられるだけでは、なんともさえない紹介ではないか!ヴィルパリジ夫人邸で公爵夫人に会って紹介してもらえたのなら、まだしも一目置いてもらえたであろう」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.76」岩波文庫 二〇一三年)
とはいえ、「名と顔と」ばかりか「一つの顔」だけを取り上げてみることはできないだろうか。できるし誰でも実際そうしている。さらに「顔」は諸部分に分解可能だ。目、鼻、口、頭、額、頬、耳、横顔、正面、背後など。そしてそれぞれの部分をたった一つにまとめ上げて差し当たり「顔」と呼んでいるに過ぎず、要するに「顔」は「制度」に過ぎない。<そういうことになっている>というばかりの決まり事でしかなく、見る側の精神的態度次第でいつでもころころよく変わる。また<私>はそこに「名」も一緒に覚えてくれればと欲望する。アルベルチーヌ・シモネの名について“Simonet”の“n”が一つのシモネ家なのかそれとも“n”が二つのシモネ家なのかで大騒ぎせざるを得ない世間の中で。さらに<私>について「借家人のひとりだと告げられるだけでは」おそらく早くも絶望的なので、できれば「ヴィルパリジ夫人邸で公爵夫人に会って紹介してもらえたのなら」、すっかり絶望しきってしまわなくてよいかも知れないのに、と一縷の口惜しさを交えて思う。
このような場合、シニフィアン(意味するもの)は必ずしも「名」でなくても構わない。「顔」も「ヴィルパリジ夫人邸」もシニフィアン(意味するもの)の位置を占めることができるだけでなく、それらはしょっちゅう、そしてまったくの他人とも置き換えられたりする。また、それら複数の要素を一つにまとめ上げて一つのシニフィアン(意味するもの)にすることもできるし人々は実にしばしばそういうことを無意識的にやっている。見る側にとってどの要素が最も衝撃的かによって瞬時に記憶されたり逆にまるで覚えられることなく空気よりも軽く通り過ぎたりする。だから見られる側はなかなか気を抜くことができない。例えば今の日本の選挙ポスターがそうだ。一定期間、一方的に見られる側に置かれて固定されるため、見る側から見てどのように映るか映らないか、映るとすれば誰と映るか映らないか、それとも選挙区のご当地キャラクターと一緒に映るか映らないか、どのようなキャッチ・フレーズを与えるか与えないか、いろいろ考えるだろう。しかし、できれば天皇と握手しつつ一緒に写りたいと願っても憲法で禁じられている。
天皇は「象徴」であって選挙のための政治利用を禁じるということになっているからだが、政治利用を禁じるという言葉自体がそもそも政治利用可能であると言っているに等しい。さらに選挙期間中でなくても天皇という言葉を濫発して憚らないマスコミ・コメンテーターなどは天皇制に賛成であろうと反対であろうと、両者とも山が崩れるほど大量に生息し、またその名を大いに利用することで自分たちが支持する政治政党の名を売り込もうとする評論家もまた大量に生息しているからである。したがって選挙に勝利するための天皇の政治利用禁止という言葉はむしろ逆にそれ自体が一つの政治的言語である。天皇は政治に関与してはならないとされているけれども、日頃から天皇と天皇制とについて論じていないマスコミ評論家などどこにも存在しない。それこそ政治利用にしか映っていないのであって、その意味ではむしろ天皇と天皇制とについて、その是非も含めて、もっと大いに議論されるべきだろうと感じる。わざとかどうなのかわからないが、例えば政治評論家という「肩書き」でテレビに出演し、番組中何度も繰り返し「陛下、陛下、陛下」と度過ぎる濫用に立ち至る人々などは逆に揶揄しているのか無礼に映って見えて仕方がない。憲法ではなるほど天皇と政治とは切り離すべきと書いてあるのだが、実際のところ、マスコミ(特にテレビ番組)では天皇について論じる際の論じ方がすでに政治的であるとしか思えない。政治の枠組みから意図的に外すという法律自体がすでに極めて濃厚な政治的操作だというのに。しかしここでプルーストが問題にしているのは「名と顔と」とは何かということだ。
例えばアルベルチーヌは微笑む。<私>はそれを見る。見る側である以上、構造的には常に優位に位置する。にもかかわらずアルベルチーヌの微笑みが一体何を語っているか<私>は遂に知ることができない。その都度まるで同じだとは<私>でなくとも、他の誰であっても思わない。まるで一分の隙もなく同じだというのなら特に人間でなくても構わない。同じ繰り返しの作業なら今ならAIに任せることができるし、AIに任せることができる作業ならわざわざ労働者を雇用したりしないという「働き方改革」を堂々とキャッチ・コピーに利用し、なおかつ解雇名目として実践している企業が今や星の数ほどもある。だから問題は間違いなく深層にではなく表層に位置している。アルベルチーヌの無限の系列という現象はこのような事情から自動的に発生する。
次にフランソワーズと従僕との会話を見てみよう。従僕は「の」と言うところを「に」と言う。するとこのような発言になる。
「『うちでは、ときどきオペラ座へ行ったり、ときどきパルム大公妃の定期予約の夜の公演(ソワレ)へ行ったりで、こっちは毎週きまった曜日で、非常にシックなものが見られるそうです、芝居、オペラ、なんでも。公爵の奥さまは定期予約はしていませんが、うちも出かけます、あるときは奥さま《に》友人のボックス席、べつのときはべつのボックス席、よく行くのはゲルマント大公妃のベニョワール席でしょうか、このかたは公爵さま《に》従兄弟(いとこ)の奥さまなんです。バイエルン公の姉妹にあたるとか。ーーーおや、もう上にお戻りですか』と従僕は言う」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.78」岩波文庫 二〇一三年)
従僕は「うちでは」と言っているが、その言葉遣いをそのまま信じると「この従僕は、自分をゲルマント家の一員と勘違いしている」ことになる。プルーストはこう続ける。今度はフランソワーズの言葉遣いに注目しよう。
「この従僕は、自分をゲルマント家の一員と勘違いしているとはいえ、《主人》一般についてなにか政治的な考えがあるのか、フランソワーズまでどこかの公爵夫人邸に仕える人のように敬意をこめて接してくれるのである。『お元気でなによりですね、奥様』。『なに言ってんの?こんな情けない脚でなきゃね!平地ならまだこれでもいいんだけど(平地というのは、中庭とか通りとか、フランソワーズが機嫌よく散歩できるところという意味で、ひとことで言えば平らな地面ということである)、いまいましいのはあの階段よ。では、さようなら、今晩また会えるかもしれないわね』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.78」岩波文庫 二〇一三年)
重要なのは<私>がフランソワーズの言葉(平地)を「平地」という言葉ではなく<身振り>という身体的言語で理解していることである。プルーストは少し後でまた書いているが、こればかりは主従関係といえども両者とも実際に長い付き合いがあり互いに生活態度全般をよく理解していない限りできないことだ。しかし今日的現実を見る限り、いずれ人間のデジタル化も実現されるだろう。ニーチェはいう。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)
この過程は限度を知らず、数々の多国籍企業を中心として、日々打ち続けられている。そこでさらに問題も同時に増殖してくる。アメリカの大統領、中国の首席、日本の天皇さえ、置き換えられるか少なくともその可能性が日程にのぼってくる日がやってくるだろうと。またそうなればなるほど世界中の貧困問題は「貧困難民」問題として爆発的に加速・世界化するだろうと。
BGM1
BGM2
BGM3
「公爵は、ある日、夫人と馬車で出かけようとして私たちと出会い、大げさなお辞儀をしたとき、きっと夫人に私の名も告げたにちがいない。しかしそんなことで夫人がはたして私の名を覚えて、私の顔まで覚えてくれるものだろうか?おまけに借家人のひとりだと告げられるだけでは、なんともさえない紹介ではないか!ヴィルパリジ夫人邸で公爵夫人に会って紹介してもらえたのなら、まだしも一目置いてもらえたであろう」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.76」岩波文庫 二〇一三年)
とはいえ、「名と顔と」ばかりか「一つの顔」だけを取り上げてみることはできないだろうか。できるし誰でも実際そうしている。さらに「顔」は諸部分に分解可能だ。目、鼻、口、頭、額、頬、耳、横顔、正面、背後など。そしてそれぞれの部分をたった一つにまとめ上げて差し当たり「顔」と呼んでいるに過ぎず、要するに「顔」は「制度」に過ぎない。<そういうことになっている>というばかりの決まり事でしかなく、見る側の精神的態度次第でいつでもころころよく変わる。また<私>はそこに「名」も一緒に覚えてくれればと欲望する。アルベルチーヌ・シモネの名について“Simonet”の“n”が一つのシモネ家なのかそれとも“n”が二つのシモネ家なのかで大騒ぎせざるを得ない世間の中で。さらに<私>について「借家人のひとりだと告げられるだけでは」おそらく早くも絶望的なので、できれば「ヴィルパリジ夫人邸で公爵夫人に会って紹介してもらえたのなら」、すっかり絶望しきってしまわなくてよいかも知れないのに、と一縷の口惜しさを交えて思う。
このような場合、シニフィアン(意味するもの)は必ずしも「名」でなくても構わない。「顔」も「ヴィルパリジ夫人邸」もシニフィアン(意味するもの)の位置を占めることができるだけでなく、それらはしょっちゅう、そしてまったくの他人とも置き換えられたりする。また、それら複数の要素を一つにまとめ上げて一つのシニフィアン(意味するもの)にすることもできるし人々は実にしばしばそういうことを無意識的にやっている。見る側にとってどの要素が最も衝撃的かによって瞬時に記憶されたり逆にまるで覚えられることなく空気よりも軽く通り過ぎたりする。だから見られる側はなかなか気を抜くことができない。例えば今の日本の選挙ポスターがそうだ。一定期間、一方的に見られる側に置かれて固定されるため、見る側から見てどのように映るか映らないか、映るとすれば誰と映るか映らないか、それとも選挙区のご当地キャラクターと一緒に映るか映らないか、どのようなキャッチ・フレーズを与えるか与えないか、いろいろ考えるだろう。しかし、できれば天皇と握手しつつ一緒に写りたいと願っても憲法で禁じられている。
天皇は「象徴」であって選挙のための政治利用を禁じるということになっているからだが、政治利用を禁じるという言葉自体がそもそも政治利用可能であると言っているに等しい。さらに選挙期間中でなくても天皇という言葉を濫発して憚らないマスコミ・コメンテーターなどは天皇制に賛成であろうと反対であろうと、両者とも山が崩れるほど大量に生息し、またその名を大いに利用することで自分たちが支持する政治政党の名を売り込もうとする評論家もまた大量に生息しているからである。したがって選挙に勝利するための天皇の政治利用禁止という言葉はむしろ逆にそれ自体が一つの政治的言語である。天皇は政治に関与してはならないとされているけれども、日頃から天皇と天皇制とについて論じていないマスコミ評論家などどこにも存在しない。それこそ政治利用にしか映っていないのであって、その意味ではむしろ天皇と天皇制とについて、その是非も含めて、もっと大いに議論されるべきだろうと感じる。わざとかどうなのかわからないが、例えば政治評論家という「肩書き」でテレビに出演し、番組中何度も繰り返し「陛下、陛下、陛下」と度過ぎる濫用に立ち至る人々などは逆に揶揄しているのか無礼に映って見えて仕方がない。憲法ではなるほど天皇と政治とは切り離すべきと書いてあるのだが、実際のところ、マスコミ(特にテレビ番組)では天皇について論じる際の論じ方がすでに政治的であるとしか思えない。政治の枠組みから意図的に外すという法律自体がすでに極めて濃厚な政治的操作だというのに。しかしここでプルーストが問題にしているのは「名と顔と」とは何かということだ。
例えばアルベルチーヌは微笑む。<私>はそれを見る。見る側である以上、構造的には常に優位に位置する。にもかかわらずアルベルチーヌの微笑みが一体何を語っているか<私>は遂に知ることができない。その都度まるで同じだとは<私>でなくとも、他の誰であっても思わない。まるで一分の隙もなく同じだというのなら特に人間でなくても構わない。同じ繰り返しの作業なら今ならAIに任せることができるし、AIに任せることができる作業ならわざわざ労働者を雇用したりしないという「働き方改革」を堂々とキャッチ・コピーに利用し、なおかつ解雇名目として実践している企業が今や星の数ほどもある。だから問題は間違いなく深層にではなく表層に位置している。アルベルチーヌの無限の系列という現象はこのような事情から自動的に発生する。
次にフランソワーズと従僕との会話を見てみよう。従僕は「の」と言うところを「に」と言う。するとこのような発言になる。
「『うちでは、ときどきオペラ座へ行ったり、ときどきパルム大公妃の定期予約の夜の公演(ソワレ)へ行ったりで、こっちは毎週きまった曜日で、非常にシックなものが見られるそうです、芝居、オペラ、なんでも。公爵の奥さまは定期予約はしていませんが、うちも出かけます、あるときは奥さま《に》友人のボックス席、べつのときはべつのボックス席、よく行くのはゲルマント大公妃のベニョワール席でしょうか、このかたは公爵さま《に》従兄弟(いとこ)の奥さまなんです。バイエルン公の姉妹にあたるとか。ーーーおや、もう上にお戻りですか』と従僕は言う」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.78」岩波文庫 二〇一三年)
従僕は「うちでは」と言っているが、その言葉遣いをそのまま信じると「この従僕は、自分をゲルマント家の一員と勘違いしている」ことになる。プルーストはこう続ける。今度はフランソワーズの言葉遣いに注目しよう。
「この従僕は、自分をゲルマント家の一員と勘違いしているとはいえ、《主人》一般についてなにか政治的な考えがあるのか、フランソワーズまでどこかの公爵夫人邸に仕える人のように敬意をこめて接してくれるのである。『お元気でなによりですね、奥様』。『なに言ってんの?こんな情けない脚でなきゃね!平地ならまだこれでもいいんだけど(平地というのは、中庭とか通りとか、フランソワーズが機嫌よく散歩できるところという意味で、ひとことで言えば平らな地面ということである)、いまいましいのはあの階段よ。では、さようなら、今晩また会えるかもしれないわね』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.78」岩波文庫 二〇一三年)
重要なのは<私>がフランソワーズの言葉(平地)を「平地」という言葉ではなく<身振り>という身体的言語で理解していることである。プルーストは少し後でまた書いているが、こればかりは主従関係といえども両者とも実際に長い付き合いがあり互いに生活態度全般をよく理解していない限りできないことだ。しかし今日的現実を見る限り、いずれ人間のデジタル化も実現されるだろう。ニーチェはいう。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)
この過程は限度を知らず、数々の多国籍企業を中心として、日々打ち続けられている。そこでさらに問題も同時に増殖してくる。アメリカの大統領、中国の首席、日本の天皇さえ、置き換えられるか少なくともその可能性が日程にのぼってくる日がやってくるだろうと。またそうなればなるほど世界中の貧困問題は「貧困難民」問題として爆発的に加速・世界化するだろうと。
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