アルベルチーヌは娘たちの一団の中で特に美しい女性というわけではない。<私>は何度かアルベルチーヌに会うたびにそれがわかってきた。娘たちの一団に限らず、思春期にはありがちな女性の一人といっても嘘にはならないだろう、というくらいの、ごくふつうの容貌である。だがアルベルチーヌには特権的な特徴があった。それは<今でも時おり見かけるタイプの女性>で、戦後高度成長期以降の日本でいえば小学校高学年から少なくとも高校一、二年のあいだにはっきり際立ってくる特徴の一つである。アルベルチーヌがなぜ新興ブルジョワ階級の娘たちの一団の一人としてバルベックに滞在しているのかもこの箇所を見ないとよくわからないだろうと思われる。
「アルベルチーヌは、恋をする年齢になる以前から、ましてその年齢に達してからはなおのこと、自分から頼む以上のことを人から頼まれ、自分が与えることのできる以上のことを人から求められるタイプである。子供のころからアルベルチーヌは、いつも四、五人の小さな娘仲間の賞賛を一身に集めていて、そのなかにはアルベルチーヌより優れていて本人もそれを自覚しているアンドレも混じっていた(アルベルチーヌが無意識のうちに及ぼす人を惹きつけるこの力が例の小さな集団の起源となり、その創設に寄与したのかもしれない)。人を惹きつけるこの力はかなり遠くの相当に輝かしい階層にまで及んでいて、そこでパヴァーヌを踊る企画でも持ちあがると、生まれのいい娘よりアルベルチーヌに白羽の矢が立った。その結果、一銭の持参金の用意もできず、かなり貧しい生活を送り、しかもアルベルチーヌを厄介払いしたがっているいかがわしい人物という風評のボンタン氏の世話で暮らしていながら、それにもかかわらずいろいろな人のところに夕食に招待されるばかりか、滞在まで勧められることになった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.619~620」岩波文庫 二〇一二年)
ゲルマント家の系列に属するサン=ルーから見ればまるで何ともない娘でしかないが、大貴族の系列とは切断されていながらも非常に裕福なブルジョワ階級に属するロズモンドの母親やアンドレの母親から見ればアルベルチーヌに与えられている権限は「途方もなく立派」に映る。「フランス銀行の理事でさる大きな鉄道会社の取締役会長という人のところで、毎年、数週間をすごしてい」るアルベルチーヌ。ロズモンドやアンドレの家はなるほど裕福な新興ブルジョワ階級に間違いない。だがフランス国家の命運を左右するほど巨大な大資本家階級ではなく、従って出入りする社交界は異なっていて、また双方の社交界で交わされる話や交換され合う情報もまるで異なってくる。だからアンドレの母親は娘がアルベルチーヌの女友だちとして親しくしていることについて相異なる二重の感情を抱いていた。
「しかしアンドレの母親は、アルベルチーヌが銀行の理事の城館でしかじかの婦人と夕食をともにしたとか、この婦人がつぎの年の冬にアルベルチーヌを招待することになったとか、そんなことを聞くとやはりアルベルチーヌに一種特別の敬意をいだくようになり、その敬意はアルベルチーヌの不運にかきたてられた憐憫と軽蔑とにうまく結びついた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.622」岩波文庫 二〇一二年)
プルーストは何を言っているのか。<憐憫と軽蔑と>は<等価性>を得ることができるだけでなく、ここでは、実に稀なケースだと言わねばならないが実際に<等価性>を得ているということである。だが多くの場合、ニーチェのいうように、<憐憫と軽蔑と>は手を携えてまったく逆の事態の実現を狙っている。
「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫 一九九四年)
また、アルベルチーヌは「孤児」であり、たまたまアンドレやロズモンドやジゼルたち新興ブルジョワ階級の娘たちの一団へ仲間入りすることになったに過ぎない。もはや「ものをいうのは金銭で、エレガンスゆえに招待はされても結婚はしてもらえない社会」へ移り変わっているというのにアルベルチーヌのような例外はしばしば出現する。偶然の成り行きでしかないにもかかわらずアンドレの母親やロズモンドの母親の側がアルベルチーヌをあからさまに誹謗中傷することなど考えられもしない状態が発生している。
次の箇所でプルーストはこの種の<偶然>がどれほど珍妙な事態を巻き起こすかを暴露している。
「その軽蔑は、ボンタン氏が国家を裏切りーーーあいまいながらパナマ事件に連座しているとさえ言われていたーーー、政府と結託していたという事実によって増幅された。それでもやはりボンタン夫人は、アルベルチーヌがいやしい家柄の出だと信じている口ぶりの人たちには侮辱の雷(いかずち)を落とさずにはいられなかった。『なにおっしゃいますの、あれほど立派な家柄はありませんわ、なにせ“n”がひとつのシモネ家ですから』。たしかに、そうした格付けもすべて移り変わっていたし、ものをいうのは金銭で、エレガンスゆえに招待はされても結婚はしてもらえない社会では、どれほど身分の高い人からもてはやされようと貧しさが埋め合わされるわけではなく、それが実を結んで『まずまずの』結婚ができるとも思えなかった。けれども意地の悪い母親たちは、たとえ結婚という成果をもたらす見込みはなくても、こうしてもてはやされる『上首尾』だけでも妬み、自分たちのほとんど知らない銀行理事の妻やアンドレの母親からアルベルチーヌが『うちの子』として遇されているのを見て憤慨していた。それゆえこの母親たちは、自分たちとこのふたりの婦人との共通の友人に、あの方たちもよくよく真相を知ったらきっと腹を立てるにちがいないと言った。その真相とは、アルベルチーヌが、内輪の集まりに不用意にも加えられたたまに一方の婦人宅で知りえたことを、つまり暴露されたらその婦人にはひどく不愉快になる無数のこまごました秘密を、そっくり他方の婦人宅でしゃべっている(そして『その逆も同様』)というのだ。この妬みぶかい女性たちがそんなことを言ったのは、このうわさを口伝えに広めて、アルベルチーヌとその庇護者たちの仲を裂こうとしたのである。しかしこのうわさは、よくあるように、なんの成果も挙げなかった。そんなことを広める裏に存在する悪意があからさまに感じられ、言い出した婦人たちがいっそう軽蔑される結果にしかならなかったからである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.622~624」岩波文庫 二〇一二年)
だがプルーストの<暴露>はただ単に社交界の内幕を暴露して喜んでいるような低次元のものではまるでなく、<必然>と思われていた事態は誰にも予測不可能な形で<偶然>へ姿を変え、逆に<偶然>でしかないと思われていた事態がたちまち<必然>へ姿を変えるというヒューム=ニーチェ的な世界が、第一次世界大戦前夜を境に本当に出現したという重要この上ない<暴露>だということに注目しておこう。
次の箇所は前のセンテンスに引き続き描かれているわけだが、後の展開を見ていく上で避けて通れない意味を持つ。その内容はなるほどアルベルチーヌの性格描写という形式を取っている。
「ところが架空の目的がときには実際の目的を消滅させてしまうことがある。たとえば友だちのために頼みごとがあって、アルベルチーヌがある婦人に会いに行ったとする。ところがこの人が善くて好感のもてる婦人宅に着いた娘は、ひとつの行為をいくつもの用途に活かすという原則に知らず知らずのうちに従い、お目にかかればどんなに楽しいだろうと思ってやってきたという顔をするほうが相手への想いが伝わると考える。かくして婦人は、アルベルチーヌが友情ゆえにわざわざ遠くまで足を運んでくれたことにいたく感激する。そんな婦人の感極まったようすを見て、アルベルチーヌはますます婦人が好きになる。ただし今度はこんな事態が生じる。会うのが嬉しいという友情からやって来たという嘘をついたものの、その友情の喜びを心底から感じているため、もしも友人のための頼みごとなどを持ち出そうものなら、実際に真摯な自分のため感情を婦人から疑われかねないと心配になる。婦人は自分の来訪をこのためだと思うだろう、それはその通りだが、婦人に会うことに欲得を離れた楽しみはないのだと思われたりすると心外だ。そんな心配をしたアルベルチーヌは、頼みごとを持ち出さないまま帰ってしまう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.625~626」岩波文庫 二〇一二年)
アルベルチーヌは「嘘をついた」。しかしこのような「嘘」はそもそも「嘘」のうちに入らないし誰一人「嘘」だと指摘するようなこともしない。ところがアルベルチーヌがたどることになるこれからの経緯を知っている読者はあたかもアルベルチーヌの「嘘」が残酷な終盤への入り口であるかのように錯覚する。さらにアルベルチーヌの「嘘」がその後のアルベルチーヌの生涯を決定づけてしまうというのなら、世界中の読者自身、なぜアルベルチーヌのような残酷な終盤を迎えることになっていないのかまったく説明がつかないことになってしまう。もしかすると読者の側がアルベルチーヌ以上に「嘘つき」だからこそ読者はアルベルチーヌの最後のような残酷さにまみれることなく生涯を過ごすことができるとプルーストは言いたいのだろうか。しかし事情はまるで違う。このようなことは<或る価値体系>と<別の価値体系>とが接触すればするほど、そのぶん大量に続出してくる事例であり、一方<或る価値体系>と<別の価値体系>との接触を避けようとすればするほど逆に接触を可能にする横断線(横道)は増殖するという現実をプルーストは一つの<暴露として>述べている。
「私があれほど何度も散歩したり夢見たりしたふたつの大きな『方向』ーーー父親のロベール・ド・サン=ルーを通じてゲルマントのほうと、母親のジルベルトを通じてメゼグリーズのほうとも呼ばれる『スワン家のほう』ーーーである。一方の道は、娘の母親とシャンゼリゼを通して、私をスワンへ、コンブレーですごした夜へ、メゼグリーズのほうへと導いてくれる。もう一方の道は、娘の父親を通じて、陽光のふりそそぐ海辺で私がその父親に会ったことが想いうかぶバルベックの午後へと導いてくれる。このふたつの道と交差する横道も、すでに何本も想いうかぶ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.260~261」岩波文庫 二〇一九年)
資本主義は数値化する。横断線(横道)を計測し公認することで体制内部に取り込む。だが数値化するとともに数値化されない部分をも同時に生み出してしまうという逆説を持つ。この例でいうと数値化され公認された横断線(横道)がある一方、数値化不可能な横断線(横道)をさらに増殖させていくという延々終わらない引き延ばしが生じる。地球が回転し数値化されていない部分がどんどん生じていく以上避けられない傾向でもある。だからといって地球の回転を止めることができるなら、試しに止めてみるとしよう。時間は止まる。とともに資本主義も終わる。それでいいのだろうか。いいというのならすべての金融機関に託してある預金全額はどうなるのか。
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「アルベルチーヌは、恋をする年齢になる以前から、ましてその年齢に達してからはなおのこと、自分から頼む以上のことを人から頼まれ、自分が与えることのできる以上のことを人から求められるタイプである。子供のころからアルベルチーヌは、いつも四、五人の小さな娘仲間の賞賛を一身に集めていて、そのなかにはアルベルチーヌより優れていて本人もそれを自覚しているアンドレも混じっていた(アルベルチーヌが無意識のうちに及ぼす人を惹きつけるこの力が例の小さな集団の起源となり、その創設に寄与したのかもしれない)。人を惹きつけるこの力はかなり遠くの相当に輝かしい階層にまで及んでいて、そこでパヴァーヌを踊る企画でも持ちあがると、生まれのいい娘よりアルベルチーヌに白羽の矢が立った。その結果、一銭の持参金の用意もできず、かなり貧しい生活を送り、しかもアルベルチーヌを厄介払いしたがっているいかがわしい人物という風評のボンタン氏の世話で暮らしていながら、それにもかかわらずいろいろな人のところに夕食に招待されるばかりか、滞在まで勧められることになった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.619~620」岩波文庫 二〇一二年)
ゲルマント家の系列に属するサン=ルーから見ればまるで何ともない娘でしかないが、大貴族の系列とは切断されていながらも非常に裕福なブルジョワ階級に属するロズモンドの母親やアンドレの母親から見ればアルベルチーヌに与えられている権限は「途方もなく立派」に映る。「フランス銀行の理事でさる大きな鉄道会社の取締役会長という人のところで、毎年、数週間をすごしてい」るアルベルチーヌ。ロズモンドやアンドレの家はなるほど裕福な新興ブルジョワ階級に間違いない。だがフランス国家の命運を左右するほど巨大な大資本家階級ではなく、従って出入りする社交界は異なっていて、また双方の社交界で交わされる話や交換され合う情報もまるで異なってくる。だからアンドレの母親は娘がアルベルチーヌの女友だちとして親しくしていることについて相異なる二重の感情を抱いていた。
「しかしアンドレの母親は、アルベルチーヌが銀行の理事の城館でしかじかの婦人と夕食をともにしたとか、この婦人がつぎの年の冬にアルベルチーヌを招待することになったとか、そんなことを聞くとやはりアルベルチーヌに一種特別の敬意をいだくようになり、その敬意はアルベルチーヌの不運にかきたてられた憐憫と軽蔑とにうまく結びついた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.622」岩波文庫 二〇一二年)
プルーストは何を言っているのか。<憐憫と軽蔑と>は<等価性>を得ることができるだけでなく、ここでは、実に稀なケースだと言わねばならないが実際に<等価性>を得ているということである。だが多くの場合、ニーチェのいうように、<憐憫と軽蔑と>は手を携えてまったく逆の事態の実現を狙っている。
「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫 一九九四年)
また、アルベルチーヌは「孤児」であり、たまたまアンドレやロズモンドやジゼルたち新興ブルジョワ階級の娘たちの一団へ仲間入りすることになったに過ぎない。もはや「ものをいうのは金銭で、エレガンスゆえに招待はされても結婚はしてもらえない社会」へ移り変わっているというのにアルベルチーヌのような例外はしばしば出現する。偶然の成り行きでしかないにもかかわらずアンドレの母親やロズモンドの母親の側がアルベルチーヌをあからさまに誹謗中傷することなど考えられもしない状態が発生している。
次の箇所でプルーストはこの種の<偶然>がどれほど珍妙な事態を巻き起こすかを暴露している。
「その軽蔑は、ボンタン氏が国家を裏切りーーーあいまいながらパナマ事件に連座しているとさえ言われていたーーー、政府と結託していたという事実によって増幅された。それでもやはりボンタン夫人は、アルベルチーヌがいやしい家柄の出だと信じている口ぶりの人たちには侮辱の雷(いかずち)を落とさずにはいられなかった。『なにおっしゃいますの、あれほど立派な家柄はありませんわ、なにせ“n”がひとつのシモネ家ですから』。たしかに、そうした格付けもすべて移り変わっていたし、ものをいうのは金銭で、エレガンスゆえに招待はされても結婚はしてもらえない社会では、どれほど身分の高い人からもてはやされようと貧しさが埋め合わされるわけではなく、それが実を結んで『まずまずの』結婚ができるとも思えなかった。けれども意地の悪い母親たちは、たとえ結婚という成果をもたらす見込みはなくても、こうしてもてはやされる『上首尾』だけでも妬み、自分たちのほとんど知らない銀行理事の妻やアンドレの母親からアルベルチーヌが『うちの子』として遇されているのを見て憤慨していた。それゆえこの母親たちは、自分たちとこのふたりの婦人との共通の友人に、あの方たちもよくよく真相を知ったらきっと腹を立てるにちがいないと言った。その真相とは、アルベルチーヌが、内輪の集まりに不用意にも加えられたたまに一方の婦人宅で知りえたことを、つまり暴露されたらその婦人にはひどく不愉快になる無数のこまごました秘密を、そっくり他方の婦人宅でしゃべっている(そして『その逆も同様』)というのだ。この妬みぶかい女性たちがそんなことを言ったのは、このうわさを口伝えに広めて、アルベルチーヌとその庇護者たちの仲を裂こうとしたのである。しかしこのうわさは、よくあるように、なんの成果も挙げなかった。そんなことを広める裏に存在する悪意があからさまに感じられ、言い出した婦人たちがいっそう軽蔑される結果にしかならなかったからである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.622~624」岩波文庫 二〇一二年)
だがプルーストの<暴露>はただ単に社交界の内幕を暴露して喜んでいるような低次元のものではまるでなく、<必然>と思われていた事態は誰にも予測不可能な形で<偶然>へ姿を変え、逆に<偶然>でしかないと思われていた事態がたちまち<必然>へ姿を変えるというヒューム=ニーチェ的な世界が、第一次世界大戦前夜を境に本当に出現したという重要この上ない<暴露>だということに注目しておこう。
次の箇所は前のセンテンスに引き続き描かれているわけだが、後の展開を見ていく上で避けて通れない意味を持つ。その内容はなるほどアルベルチーヌの性格描写という形式を取っている。
「ところが架空の目的がときには実際の目的を消滅させてしまうことがある。たとえば友だちのために頼みごとがあって、アルベルチーヌがある婦人に会いに行ったとする。ところがこの人が善くて好感のもてる婦人宅に着いた娘は、ひとつの行為をいくつもの用途に活かすという原則に知らず知らずのうちに従い、お目にかかればどんなに楽しいだろうと思ってやってきたという顔をするほうが相手への想いが伝わると考える。かくして婦人は、アルベルチーヌが友情ゆえにわざわざ遠くまで足を運んでくれたことにいたく感激する。そんな婦人の感極まったようすを見て、アルベルチーヌはますます婦人が好きになる。ただし今度はこんな事態が生じる。会うのが嬉しいという友情からやって来たという嘘をついたものの、その友情の喜びを心底から感じているため、もしも友人のための頼みごとなどを持ち出そうものなら、実際に真摯な自分のため感情を婦人から疑われかねないと心配になる。婦人は自分の来訪をこのためだと思うだろう、それはその通りだが、婦人に会うことに欲得を離れた楽しみはないのだと思われたりすると心外だ。そんな心配をしたアルベルチーヌは、頼みごとを持ち出さないまま帰ってしまう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.625~626」岩波文庫 二〇一二年)
アルベルチーヌは「嘘をついた」。しかしこのような「嘘」はそもそも「嘘」のうちに入らないし誰一人「嘘」だと指摘するようなこともしない。ところがアルベルチーヌがたどることになるこれからの経緯を知っている読者はあたかもアルベルチーヌの「嘘」が残酷な終盤への入り口であるかのように錯覚する。さらにアルベルチーヌの「嘘」がその後のアルベルチーヌの生涯を決定づけてしまうというのなら、世界中の読者自身、なぜアルベルチーヌのような残酷な終盤を迎えることになっていないのかまったく説明がつかないことになってしまう。もしかすると読者の側がアルベルチーヌ以上に「嘘つき」だからこそ読者はアルベルチーヌの最後のような残酷さにまみれることなく生涯を過ごすことができるとプルーストは言いたいのだろうか。しかし事情はまるで違う。このようなことは<或る価値体系>と<別の価値体系>とが接触すればするほど、そのぶん大量に続出してくる事例であり、一方<或る価値体系>と<別の価値体系>との接触を避けようとすればするほど逆に接触を可能にする横断線(横道)は増殖するという現実をプルーストは一つの<暴露として>述べている。
「私があれほど何度も散歩したり夢見たりしたふたつの大きな『方向』ーーー父親のロベール・ド・サン=ルーを通じてゲルマントのほうと、母親のジルベルトを通じてメゼグリーズのほうとも呼ばれる『スワン家のほう』ーーーである。一方の道は、娘の母親とシャンゼリゼを通して、私をスワンへ、コンブレーですごした夜へ、メゼグリーズのほうへと導いてくれる。もう一方の道は、娘の父親を通じて、陽光のふりそそぐ海辺で私がその父親に会ったことが想いうかぶバルベックの午後へと導いてくれる。このふたつの道と交差する横道も、すでに何本も想いうかぶ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.260~261」岩波文庫 二〇一九年)
資本主義は数値化する。横断線(横道)を計測し公認することで体制内部に取り込む。だが数値化するとともに数値化されない部分をも同時に生み出してしまうという逆説を持つ。この例でいうと数値化され公認された横断線(横道)がある一方、数値化不可能な横断線(横道)をさらに増殖させていくという延々終わらない引き延ばしが生じる。地球が回転し数値化されていない部分がどんどん生じていく以上避けられない傾向でもある。だからといって地球の回転を止めることができるなら、試しに止めてみるとしよう。時間は止まる。とともに資本主義も終わる。それでいいのだろうか。いいというのならすべての金融機関に託してある預金全額はどうなるのか。
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