サン=ルーたちと夕食をとるため<私>は街路をホテルへ向かう。通り過ぎる家々の前で立ち止まって中を眺めたり再び歩き出したりする。「暗い路地に入りこむ」時など「突き上げる欲望がしばしば私の足を止めた。いきなり女があらわれて、その欲望を充たしてくれる気がする」。「暗い路地」が大聖堂の前を通っているためなのか、「この中世を想わせる古い路地は私にはひときわ現実味を帯びていて、かりにそんな路地で女をひっかけてものにできたとしたら、私は古代以来の官能がふたりを結びつけるのだと信じないわけにゆかなかったであろう」と述べ、そして「たとえ女が毎晩そこに立つただの売春婦であったとしても、その女には冬と異郷と暗闇と中世とによって醸し出される神秘が授けられたはずだからである」ともいう。
「ふたたび歩きだして大聖堂の前を通りすぎる暗い路地に入りこむと、かつてメゼグリーズに向かう小道を歩いていたときのように、突き上げる欲望がしばしば私の足を止めた。いきなり女があらわれて、その欲望を充たしてくれる気がする。そんな暗闇のなかで突然ドレスがわが身をかすめるのを感じようものなら、身をふるわす強烈な快感のせいでそんな接触が偶然のものとは思えず、通りすがりの女を両腕に抱きしめようとして相手を怯えさせる。この中世を想わせる古い路地は私にはひときわ現実味を帯びていて、かりにそんな路地で女をひっかけてものにできたとしたら、私は古代以来の官能がふたりを結びつけるのだと信じないわけにゆかなかったであろう。たとえ女が毎晩そこに立つただの売春婦であったとしても、その女には冬と異郷と暗闇と中世とによって醸し出される神秘が授けられたはずだからである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.207~208」岩波文庫 二〇一三年)
ゲルマント夫人に近づこうとしてサン=ルーとの関係を一層深めておきたい<私>はそのような空想で一杯になるのだが、街路を歩いているあいだに<私>の関心は別のものへと置き換えられる。「街路に面した家々、通りすがりの女、ただの売春婦」など想像力によって付け加えられ加工される状況次第で、諸商品の無限の系列のようにどんどん置き換えられていく。するとだゲルマント夫人への接近という当初の目的が急速に失速し、逆にゲルマント夫人を忘れることが「もしかすると容易なことかもしれないと感じられた」。
「ゲルマント夫人を忘れようとするのは、おぞましいことだが理に適(かな)ったことに思われ、またこのときはじめて可能なこと、いや、もしかすると容易なことかもしれないと感じられた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.207~208」岩波文庫 二〇一三年)
忘却なしに「新たな恋をはじめること」はとても困難なわけだが逆に忘却が確実であればあるほど容易に「新たな恋をはじめることができる」とプルーストは述べる。
「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)
サン=ルーたちのいるホテルに到着するとそろそろ会食が始まろうとするところだった。<私>はサン=ルーを部屋の隅につれていき、ゲルマント夫人のことを訊ねる。<私>の部屋に置いてある写真が確かにゲルマント夫人なのかどうか。ロベール(サン=ルー)はそのとおりゲルマント夫人(オリヤーヌ)であり、ほかでもないロベール(サン=ルー)の叔母だと答える。ここでロベール(サン=ルー)はゲルマント夫人(オリヤーヌ)のことを「あの人のいいオリヤーヌ」という。この場合「人のいい」という形容詞が「親切な」に置き換えられても意味は変わらない。しかし「親切な夫人」へ置き換えられたとしても「サン=ルーがとりわけゲルマント夫人を親切だと考えていることを意味しない」。なぜなら「この場合の、親切な、すばらしい、人のいい、という言いまわしは、たんに『あの』を強めるだけで、ふたりに共通の知り合いではあるが、さほど親しいわけではない相手にその人のことをどう言うべきか判然としないときに使われる」に過ぎないからだ。この目的は猶予を設けることであって、「その一刻の猶予のあいだに『よくお会いになるんですか?』とか、『もう何ヶ月も会ってませんが』とか、『火曜に会うんです』とか、『ういういしい若さはもうありませんね』とか、つぎの台詞を見つけ出す」ために機能すればいいだけの無意味な形容詞である。とはいえ猶予を出現させる役割を与えられているという点では無意味どころか逆に是非とも必要な形容詞として機能してくれなくてはならない。
「『ロベール、こんなときにこんな場所で言うのはそぐわないけれど、すぐ済むことなんだ。兵営ではいつも訊くのを忘れてしまうんだけど、部屋のテーブルのうえに置いてある写真はゲルマント夫人じゃないの?』。『そうだよ、ぼくの親切な叔母さんだ』。『そうか、やっぱりね、ぼくもどうかしてるんだ、前にも聞いていたはずなんだけど、それから一度も考えたことがなかったものでね。こりゃ、まずい、お友だちがお待ちかねのようだから、手短に話そう、でもみんなこっちを見てるからべつのときでもいいんだ、大したことじゃないんで』。『そんなことはない、いいから言いたまえ、待たしとけばいいんだから』。『とんでもない、失礼にならないようにしなくては、いい人ばかりなんだから。それに、どうしても言っておきたいわけでもないんだ』。『知り合いなのかい?あの人のいいオリヤーヌと』。『あの人のいいオリヤーヌ』という言いかたは、『あの親切なオリヤーヌ』と言ったとしても同じだが、サン=ルーがとりわけゲルマント夫人を親切だと考えていることを意味しない。この場合の、親切な、すばらしい、人のいい、という言いまわしは、たんに『あの』を強めるだけで、ふたりに共通の知り合いではあるが、さほど親しいわけではない相手にその人のことをどう言うべきか判然としないときに使われる。『人のいい』というのは前置きの役目を果たすだけで、その一刻の猶予のあいだに『よくお会いになるんですか?』とか、『もう何ヶ月も会ってませんが』とか、『火曜に会うんです』とか、『ういういしい若さはもうありませんね』とか、つぎの台詞を見つけ出すのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.214~215」岩波文庫 二〇一三年)
だから「あの人」というときの「あの」は、おそろしく大量の意味が延々接木(つぎき)されていく増殖機能をあらかじめ備えている。プルーストが作品の中で、それも登場人物の会話の最中に、いきなり文法講義を差し挟むのはそういう意味があるからだろう。それにしてもなぜ誰もが承知しているような言葉遣いについてこのような文法講義をわざわざ挿入するのだろうか。
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「ふたたび歩きだして大聖堂の前を通りすぎる暗い路地に入りこむと、かつてメゼグリーズに向かう小道を歩いていたときのように、突き上げる欲望がしばしば私の足を止めた。いきなり女があらわれて、その欲望を充たしてくれる気がする。そんな暗闇のなかで突然ドレスがわが身をかすめるのを感じようものなら、身をふるわす強烈な快感のせいでそんな接触が偶然のものとは思えず、通りすがりの女を両腕に抱きしめようとして相手を怯えさせる。この中世を想わせる古い路地は私にはひときわ現実味を帯びていて、かりにそんな路地で女をひっかけてものにできたとしたら、私は古代以来の官能がふたりを結びつけるのだと信じないわけにゆかなかったであろう。たとえ女が毎晩そこに立つただの売春婦であったとしても、その女には冬と異郷と暗闇と中世とによって醸し出される神秘が授けられたはずだからである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.207~208」岩波文庫 二〇一三年)
ゲルマント夫人に近づこうとしてサン=ルーとの関係を一層深めておきたい<私>はそのような空想で一杯になるのだが、街路を歩いているあいだに<私>の関心は別のものへと置き換えられる。「街路に面した家々、通りすがりの女、ただの売春婦」など想像力によって付け加えられ加工される状況次第で、諸商品の無限の系列のようにどんどん置き換えられていく。するとだゲルマント夫人への接近という当初の目的が急速に失速し、逆にゲルマント夫人を忘れることが「もしかすると容易なことかもしれないと感じられた」。
「ゲルマント夫人を忘れようとするのは、おぞましいことだが理に適(かな)ったことに思われ、またこのときはじめて可能なこと、いや、もしかすると容易なことかもしれないと感じられた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.207~208」岩波文庫 二〇一三年)
忘却なしに「新たな恋をはじめること」はとても困難なわけだが逆に忘却が確実であればあるほど容易に「新たな恋をはじめることができる」とプルーストは述べる。
「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)
サン=ルーたちのいるホテルに到着するとそろそろ会食が始まろうとするところだった。<私>はサン=ルーを部屋の隅につれていき、ゲルマント夫人のことを訊ねる。<私>の部屋に置いてある写真が確かにゲルマント夫人なのかどうか。ロベール(サン=ルー)はそのとおりゲルマント夫人(オリヤーヌ)であり、ほかでもないロベール(サン=ルー)の叔母だと答える。ここでロベール(サン=ルー)はゲルマント夫人(オリヤーヌ)のことを「あの人のいいオリヤーヌ」という。この場合「人のいい」という形容詞が「親切な」に置き換えられても意味は変わらない。しかし「親切な夫人」へ置き換えられたとしても「サン=ルーがとりわけゲルマント夫人を親切だと考えていることを意味しない」。なぜなら「この場合の、親切な、すばらしい、人のいい、という言いまわしは、たんに『あの』を強めるだけで、ふたりに共通の知り合いではあるが、さほど親しいわけではない相手にその人のことをどう言うべきか判然としないときに使われる」に過ぎないからだ。この目的は猶予を設けることであって、「その一刻の猶予のあいだに『よくお会いになるんですか?』とか、『もう何ヶ月も会ってませんが』とか、『火曜に会うんです』とか、『ういういしい若さはもうありませんね』とか、つぎの台詞を見つけ出す」ために機能すればいいだけの無意味な形容詞である。とはいえ猶予を出現させる役割を与えられているという点では無意味どころか逆に是非とも必要な形容詞として機能してくれなくてはならない。
「『ロベール、こんなときにこんな場所で言うのはそぐわないけれど、すぐ済むことなんだ。兵営ではいつも訊くのを忘れてしまうんだけど、部屋のテーブルのうえに置いてある写真はゲルマント夫人じゃないの?』。『そうだよ、ぼくの親切な叔母さんだ』。『そうか、やっぱりね、ぼくもどうかしてるんだ、前にも聞いていたはずなんだけど、それから一度も考えたことがなかったものでね。こりゃ、まずい、お友だちがお待ちかねのようだから、手短に話そう、でもみんなこっちを見てるからべつのときでもいいんだ、大したことじゃないんで』。『そんなことはない、いいから言いたまえ、待たしとけばいいんだから』。『とんでもない、失礼にならないようにしなくては、いい人ばかりなんだから。それに、どうしても言っておきたいわけでもないんだ』。『知り合いなのかい?あの人のいいオリヤーヌと』。『あの人のいいオリヤーヌ』という言いかたは、『あの親切なオリヤーヌ』と言ったとしても同じだが、サン=ルーがとりわけゲルマント夫人を親切だと考えていることを意味しない。この場合の、親切な、すばらしい、人のいい、という言いまわしは、たんに『あの』を強めるだけで、ふたりに共通の知り合いではあるが、さほど親しいわけではない相手にその人のことをどう言うべきか判然としないときに使われる。『人のいい』というのは前置きの役目を果たすだけで、その一刻の猶予のあいだに『よくお会いになるんですか?』とか、『もう何ヶ月も会ってませんが』とか、『火曜に会うんです』とか、『ういういしい若さはもうありませんね』とか、つぎの台詞を見つけ出すのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.214~215」岩波文庫 二〇一三年)
だから「あの人」というときの「あの」は、おそろしく大量の意味が延々接木(つぎき)されていく増殖機能をあらかじめ備えている。プルーストが作品の中で、それも登場人物の会話の最中に、いきなり文法講義を差し挟むのはそういう意味があるからだろう。それにしてもなぜ誰もが承知しているような言葉遣いについてこのような文法講義をわざわざ挿入するのだろうか。
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