結局サン=ルーの部屋で睡眠をとることになった<私>。サン=ルーが帰ってくるまで横になる。部屋のドアを開けようとすると「なかからなにか動く音が聞こえてきた」。部屋へ入って見ると暖炉の火が燃えている。「動く音」の正体について「火はじっとしていることができず、つぎつぎと薪(まき)の位置を、しかもひどく不器用に動かしていた」からだった。ところがもし<私>が「壁の向こう側にいたら、だれかが鼻をかんで歩いているところだと思ったにちがいない」とプルーストはいう。部屋の中に入って始めて「炎があがるのを見ているからそれが火の音だとわかる」。この箇所のシニフィアン(意味するもの)は「薪が燃えて動く音」。
「私はサン=ルーの部屋だと教えられた部屋の、閉ざされたドアの前でいっとき立ち止まった。なかからなにか動く音が聞こえてきたからである。なにかを動かしてべつのものを落とす音で、部屋は空っぽではなく、だれか人のいる気配がする。だがそれは、暖炉の火が燃えているだけだった。火はじっとしていることができず、つぎつぎと薪(まき)の位置を、しかもひどく不器用に動かしていたのである。私がなかに入ると、火は薪のひとつを転がし、べつの薪をくすぶらせた。火は、たとえ動かないときでも、行儀の悪い人たちと同じようにひっきりなしに物音を立てる。私は炎があがるのを見ているからそれが火の音だとわかるが、かりに壁の向こう側にいたら、だれかが鼻をかんで歩いているところだと思ったにちがいない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.159~160」岩波文庫 二〇一三年)
部屋にはサン=ルーの叔母ゲルマント公爵夫人の写真が飾ってある。目に入るや否や欲望を覚える。とともに友人としてのサン=ルーの存在価値はたちまち上昇する。
「この写真の持主であるサン=ルーからそれをもらえるかもしれないという考えが浮かび、私にはサン=ルーがいっそう大切な存在となり、その役に立てるならどんなことでもしたい気持になった。この写真がもらえるのなら、どんなことも大したことではない気がしたのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.170」岩波文庫 二〇一三年)
<私>は「どんなことも大したことではない」という。言い換えれば具体的にどういうことか。以前論じた。「死さえ取るに足りない」と。
「プチット・マドレーヌの味覚が私にコンブレーを想い出させてくれたのである。それにしてもなぜコンブレーとヴェネツィアのイメージが、それぞれが想い出された瞬間、それ以外にはなんの根拠もないのに、死さえ取るに足りないものと想わせるほどのなにか確信にも似た歓びを与えてくれたのだろう?」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.433」岩波文庫 二〇一八年)
ところがこの問いは十九世紀のうちにニーチェがすでに解いていたものだ。もっとも、当時ニーチェの著作はほとんど売れず、どの読者からもほぼ完全に無視されてしまったわけだが。人間は不可解な難問を前にした時、いつも持ち合わせの言葉をいろいろと組み合わせることで説明に置き換えて述べ、そうするやもうこの上ない大役を果たしでもしたかのように自他ともに解答を与えたつもりになる。プルーストがいつも「マドレーヌ」へ舞い戻ってきてしまう理由は、ニーチェに言わせればこういうことだ。「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる」。だからプルーストはいつも間違ってしまう。
「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫 一九九四年)
その種の間違いを犯さないようにするには、ではどうすればいいか。意識的状態はいつも「恣意的」でしかありえない。先入観が割り込んでくるか先に先入観の側が地盤を占拠している。そんな場所へ探りを入れてみても転がり出てくる答えがいつも同じなのは当り前だ。次のセンテンスでプルーストが論じているのは、意識的状態に常にまとわりついて離れない「恣意的」な思考からの脱却必要性である。そのためには「偶然・不意打ち・想定外の暴力との出会い」が必要だと述べる。
「なぜなら、白日の世界において知性がじかに透かして把握する真実は、人生が印象としてわれわれに思いがけず伝えてくれる真実に比べれば、さほど深いものでも必然的なものでもないからだ。要するに、マルタンヴィルの鐘塔の眺めが与えてくれたような印象であろうと、不揃いなふたつの敷石やマドレーヌの味覚が与えてくれたような無意識の記憶であろうと、どちらの場合も、私が感じたものを考え抜くことによって、つまり私が感じたものを薄暗がりからとり出してその精神的等価物に転換するよう努めることによって、ひとつひとつの感覚をそれぞれの法則と思考を備えた表徴として解釈しなければならなかったのである。ところで、これを成し遂げる唯一の方法と思われるのは、芸術作品をつくること以外のなにであろう?しかもすでにさまざまな結果が私の頭のなかにひしめいていた。というのも、フォークの音やマドレーヌの味覚といったたぐいの無意識の記憶であれ、鐘塔や雑草といった形象が私の頭のなかに複雑な花をつけた判じ物を形づくり、私がその意味を明らかにしようと努める形象の助けを借りて記された真実であれ、その第一の性格は、私がそれらを自由に選べるわけではないこと、そうした記憶や真実はあるがまま私に与えられているということであった。私はこの事実にこそ、そうした記憶や真実が正真正銘のものであるという極印(ごくいん)になると感じた。私は中庭に不揃いなふたつの敷石を探しに行って、それにつまずいたわけではない。そうではなく偶然、避けようもないものとしてその感覚に出会ったこと自体が、その感覚でよみがえらせた過去の真正さと、その感覚が生じさせたイメージの真正さを保証してくれる。なぜならわれわれは、明るい光のほうへ浮上しようとするその感覚の努力を感じるからであり、ようやく見出された現実の歓びを感じるからだ。またその感覚は、そこからひき出される当時の印象からなる画面全体に、光と影、起伏と欠如、回想と忘却などを間違いのない割合で配合し、その画面の真正さをも保証してくれる。意識的な記憶や観察では、そのような割合の配合は永久に知られないだろう。未知の表徴で記された内的な書物となれば(その表徴には起伏があるらしく、私の注意力は、わが無意識を探検しながら海底を探る潜水夫のように探りを入れ、ぶつかりながらその輪郭を描こうとした)、その表徴を解読するのに、いかなる形であれ私を手伝ってくれる者はひとりもなく、その解読は、だれに代わってもらうこともできずだれかに協力してもらうことさえできない、創造行為なのである。それゆえいかに多くの人がそのような書物を書くことから離れてしまうことだろう!人が多くの責務を引き受けるのは、この責務を避けるためではないか!ドレフェス事件であれ戦争であれ、あれやこれやのできごとが、作家たちは正義の勝利を確かなものにしたり民族の精神的統一をとり戻したりすることに意を注ぎ、文学のことなど考える余裕がなかったのだろう。しかしそんなことは言い訳にすぎない。そうなったのは、作家たちが才能、つまり本能をもっていなかったか、もはやそれを失っていたからだ。というのも本能は義務を果たすよう強いるが、知性はその義務を回避するさまざまな口実を提供するからである。ただし芸術のなかには、そんな口実はあらわれないし、意図などものの数にもはいらない。芸術家はいかなるときも自分の本能の声に耳を傾けるべきで、そうしてこそ芸術はこのうえなく現実的なものとなり、人生のこのうえなく厳格な学校となり、真に最後の審判となるのだ。その書物は、あらゆる書物のなかでいちばん解読に苦労する書物となるが、同時に、現実がわれわれに書きとらせた唯一の書物、現実そのものがわれわれのうちに『印象』を『印刷』してつくらせた唯一の書物である。人生がわれわれのうちにいかなる想念を残そうとも、その想念の具体的な形、つまりその想念がわれわれのうちにつくりだすさまざまな想念には、論理的な真実、可能な真実しか存在せず、そうした真実は恣意的に選ばれるにすぎない。われわれが記した文字ではなく、象徴的な文字からなる書物こそ、われわれのただひとつの書物である。われわれのつくりだす想念が論理的に正しいことなどありえないからではなく、その想念が真実であるかどうかはわれわれには判断できないからである。ひとえに印象だけが、たとえその素材がいかにみすぼらしく、その傷痕がいかに捉えにくいものであろうと、真実の指標となり、それゆえ精神によって把握される価値があるのは印象だけである。というのも印象から精神が真実をひき出すことができるなら、印象だけが精神を一段と大きな完成へと導き、精神に純粋な歓びを与えることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.455~458」岩波文庫 二〇一八年)
さらに別の箇所で、ともすれば「制度化」されたステレオタイプ的(常套句的・思い込み的)解決に陥りがちな思考に衝撃を与え、ステレオタイプ的(常套句的・思い込み的)還元を解体・断片化し、逆に思考が創造であるような思考を思考せざる得なくさせる<力>の重要性について実在した作家の実例を上げている。ゲルマント夫人が引用したヴィクトル・ユゴーの初期詩篇がそうだ。
「夫人が私に引用したヴィクトル・ユゴーの詩は、じつを言えばユゴーが進化の過程において新人作家の域を脱して、いっそう複雑な声を備えた未知の文学の種を現出せしめた時期からすると、はるか以前の作である。こうした初期詩篇では、ヴィクトル・ユゴーはいまだ考える人であり、自然と同じように、考える材料だけを提示するのに甘んじることができていない」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.452」岩波文庫 二〇一四年)
本来的に怠惰にできている人間というものが何かを思考するに当たり、優等生丸出しのプラトンでさえ、最低限度とはいえパルマコン(医薬/毒薬)的かつ暴力的衝撃の必要性について述べている。三箇所引いておこう。
(1)「毒蛇に咬まれた者の苦境はすなわち私の現状でもある。実際、人のいうところによると、こういう経験を嘗めた者は、自ら咬まれたことのある者以外には誰にも、それがどんなだったかを話して聴かせることを好まぬものだという、それは、苦悩のあまりにどんな法外な事を為(し)たりいったりしても、こういう人達にかぎって、それを理解もしまた寛容もしてくれるだろうーーーと、こう人は考えるからである。ところが《僕》はそれよりもさらにいっそう烈しい苦痛を与える者に咬まれた、しかも咬まれて一番痛い個所をーーー心臓か魂を、または何とでも適当に呼べばいいのだがーーー愛智上(フィロソフィア)の談論に打たれまた咬まれたのだった。その談論というのは若年でかつ凡庸でない魂を捉えたが最後、毒蛇よりも凶暴に噛み付いて離さず、かつこれにどんな法外な事でも為(し)たりいったりさせるほどの力を持っているのである。さらにまた見渡すところ今僕の前には、ファイドロスだとか、アガトンだとか、エリュキシマコスだとか、パウサニヤスだとか、アリストデモスだとか、アリストファネスだとか(ソクラテスその人は別に挙げるにも及ぶまい)、またその他の諸君がおられるのだが、この諸君は実際みな愛智者の乱心(マニア)と狂熱(バクヘイヤ)に参している人達である」(プラトン「饗宴・P.140~141」岩波文庫 一九五二年)
(2)「ソクラテス、お会いする前から、かねがね聞いてはいましたーーーあなたという方は何がなんでも、みずから困難に行きづまっては、ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり、どうやらあなたはいま、私に魔法をかけ、魔薬を用い、まさに呪文(じゅもん)でもかけるようにして、あげくのはてに、行きづまりで途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから」(プラトン「メノン・13・P.42~43」岩波文庫 一九九四年)
(3)「毒を飲めば僕はもはや君たちのもとには留まらずに、浄福な者たちのうちへと立ち去る。ーーー君たちは、僕が死ねば、僕は誓ってここに留まらずに、立ち去って行くだろう、と保証してくれたまえ。そうすれば、クリトンはより容易に耐えるだろうし、僕の体が焼かれたり土の中に埋められたりするのを見て、僕が恐ろしい目にあっているのだと思って、僕のために嘆いたりはしないだろう。また、葬式のときに、ソクラテスを安置するとか、ソクラテスの葬列に従うとか、ソクラテスを埋葬するとか、言うことはないだろう。いいかね、善きクリトンよ、言葉を正しく使わないということはそれ自体として誤謬であるばかりではなくて、魂になにか害悪を及ぼすのだ。さあ、元気を出すのだ。そして、僕の体を埋葬するのだ、と言いたまえ。そして、君の好きなように、君がもっとも世間の習わしに合うと考えるように、埋葬してくれたまえ」(プラトン「パイドン・5・終曲・P.170~171」岩波文庫 一九九八年)
この時点の<私>にとってゲルマント夫人は<美自身>である。<美自身>としてのゲルマント夫人というのは、これまでの「さまざまな出会いに、さらに新たな出会いをつけ加えるものであったからだ。いや、それ以上のもとと言うべきか」と価値を増大させる。こんなふうに。
「というのもこの写真は、私がすでに経験していたゲルマント夫人とのさまざまな出会いに、さらに新たな出会いをつけ加えるものであったからだ。いや、それ以上のもとと言うべきか、まるでふたりの関係に突然の進展が生じて、夫人が庭用の帽子をかぶって私のそばに立ち止まり、はじめて頬の膨らみとか、うなじの曲がり具合とか、眉の端とか(それまでは夫人があっという間に通りすぎたり私の印象が混乱していたり記憶があやふやだったりして私には覆い隠されていたもの)を心ゆくまで眺めさせてくれたのに等しいからである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.170~171」岩波文庫 二〇一三年)
二十歳前後の青年にとって同年代の友人の若い叔母や姉妹で、なおかつ<美しい人>となると大抵は性的興奮を覚えないわけにはいかない。プルーストは書き込む。「官能的な発見であり、特別の厚遇だった」。年齢でいえばそれでごく「普通・正常」とされるが、作品「失われた時を求めて」ではこの辺りからもはや実際の年齢は不透明になる。中年を過ぎてからの記憶の想起というのは誰もが<諸断片>のモザイクなのであって、精密な日記を付けていたとしてもなお日記に書き記される言葉はあくまで<私>の側=こちら側の記憶の羅列でしかないとしか言えないからだ。いとも単純に現在の話と過去の記憶との混合が共振し合いつつ<未来へ向けて>創造される。なお「ローブ・モンタント」は昼間の正装。夜会服は「ローブ・デコルテ」。
「そんな部分をうち眺めるのは私にとって(ローブ・モンタントに包まれたところしか見たことがなかった女性のあらわな胸や腕を眺めるのと同じほど)、官能的な発見であり、特別の厚遇だった。見つめるのが禁じられているも同然に思われたこのような身体の線を、まるでそれが私にとって価値ある唯一の幾何学であるかのように、その写真でじっくり研究できるのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.171」岩波文庫 二〇一三年)
ちなみにドゥルーズのプルースト論では<私>=「色情狂」とされている。生贄(いけにえ)はアルベルチーヌだがそれはもっと後半においてであり、さらにドゥルーズとガタリとの共著「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」で語られるプルースト論とは多少なりとも違っている。しかしドゥルーズのプルースト論はあくまで参考文献にとどまる。でないと一市民としての読者は消失するしかない。
第三篇「ゲルマントのほう」ではそれよりも先に上流社交界の記号論とでもいうべきエピソードがふんだんに語られる。良い悪いの価値観は問題外に置き去られる。<私>の実体験においても空想においても、いずれにしても舞台は上流社交界。そこで繰り広げられる大貴族と大資本家階級との悲喜劇的対立を通し、多種多様な<身振り・振る舞い>が「善悪の彼岸」において徐々にその虚構性とちぐはぐさ、奇妙な濫用や横断性などについて<覗き><覗かれ><暴露>されていく。第二篇「花咲く乙女たちのかげに」の「かげに」というフレーズがすでに「思春期の女性たち」を<覗く>という内容を意味していたように。
BGM1
BGM2
BGM3
「私はサン=ルーの部屋だと教えられた部屋の、閉ざされたドアの前でいっとき立ち止まった。なかからなにか動く音が聞こえてきたからである。なにかを動かしてべつのものを落とす音で、部屋は空っぽではなく、だれか人のいる気配がする。だがそれは、暖炉の火が燃えているだけだった。火はじっとしていることができず、つぎつぎと薪(まき)の位置を、しかもひどく不器用に動かしていたのである。私がなかに入ると、火は薪のひとつを転がし、べつの薪をくすぶらせた。火は、たとえ動かないときでも、行儀の悪い人たちと同じようにひっきりなしに物音を立てる。私は炎があがるのを見ているからそれが火の音だとわかるが、かりに壁の向こう側にいたら、だれかが鼻をかんで歩いているところだと思ったにちがいない」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.159~160」岩波文庫 二〇一三年)
部屋にはサン=ルーの叔母ゲルマント公爵夫人の写真が飾ってある。目に入るや否や欲望を覚える。とともに友人としてのサン=ルーの存在価値はたちまち上昇する。
「この写真の持主であるサン=ルーからそれをもらえるかもしれないという考えが浮かび、私にはサン=ルーがいっそう大切な存在となり、その役に立てるならどんなことでもしたい気持になった。この写真がもらえるのなら、どんなことも大したことではない気がしたのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.170」岩波文庫 二〇一三年)
<私>は「どんなことも大したことではない」という。言い換えれば具体的にどういうことか。以前論じた。「死さえ取るに足りない」と。
「プチット・マドレーヌの味覚が私にコンブレーを想い出させてくれたのである。それにしてもなぜコンブレーとヴェネツィアのイメージが、それぞれが想い出された瞬間、それ以外にはなんの根拠もないのに、死さえ取るに足りないものと想わせるほどのなにか確信にも似た歓びを与えてくれたのだろう?」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.433」岩波文庫 二〇一八年)
ところがこの問いは十九世紀のうちにニーチェがすでに解いていたものだ。もっとも、当時ニーチェの著作はほとんど売れず、どの読者からもほぼ完全に無視されてしまったわけだが。人間は不可解な難問を前にした時、いつも持ち合わせの言葉をいろいろと組み合わせることで説明に置き換えて述べ、そうするやもうこの上ない大役を果たしでもしたかのように自他ともに解答を与えたつもりになる。プルーストがいつも「マドレーヌ」へ舞い戻ってきてしまう理由は、ニーチェに言わせればこういうことだ。「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる」。だからプルーストはいつも間違ってしまう。
「何か未知のものを何か既知のものへと還元することは、気楽にさせ、安心させ、満足させ、しかのみならず或る権力の感情をあたえる。未知のものとともに、危険、不安、憂慮があたえられるが、ーーー最初の本能は、こうした苦しい状態を《除去する》ことにつとめる。なんらかの説明は説明しないよりもましである、これが第一原則にほかならない。根本において、問題はただ圧迫する想念から脱れたいということのみにあるのだから、それから脱れる手段のことは、まともに厳密にはとらない。未知のものを既知のものとして説明してくれる最初の思いつきは、それを『真なりとみなす』ほど気持ちよいのである。真理の標識としての《快感》(「力」の証明)。ーーーそれゆえ、原因をもとめる衝動は恐怖の感情によって制約されひきおこされる。『なぜ?』という問いは、できさえすれば、原因自身のために原因をあたえるというよりは、むしろ《一種の原因》をーーー一つの安心させ、満足させ、気楽にさせる原因をあたえるであろう。何かすでに《既知のもの》、体験されたもの、回想のうちへと書きこまれているものが原因として措定されるということは、この欲求の第一の結果である。新しいもの、体験されていないもの、見知らぬものは、原因としては閉めだされる。ーーーそれゆえ、原因として探しもとめられるのは、一種の説明であるのみならず、《選りぬきの優先的な》種類の説明であり、見知らぬもの、新しいもの、体験されていないものの感情が、そこでは最も急速に最も頻繁に除去されてしまっている説明、ーーー《最も習慣的な》説明である。その結果は、一種の原因定立が、ますます優勢となり、体系へと集中化され、最後には、《支配的となりつつ》、言いかえれば、《他の》原因や説明を簡単に閉めだしつつ、立ちあらわれるということになる」(ニーチェ「偶像の黄昏」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.62~63』ちくま学芸文庫 一九九四年)
その種の間違いを犯さないようにするには、ではどうすればいいか。意識的状態はいつも「恣意的」でしかありえない。先入観が割り込んでくるか先に先入観の側が地盤を占拠している。そんな場所へ探りを入れてみても転がり出てくる答えがいつも同じなのは当り前だ。次のセンテンスでプルーストが論じているのは、意識的状態に常にまとわりついて離れない「恣意的」な思考からの脱却必要性である。そのためには「偶然・不意打ち・想定外の暴力との出会い」が必要だと述べる。
「なぜなら、白日の世界において知性がじかに透かして把握する真実は、人生が印象としてわれわれに思いがけず伝えてくれる真実に比べれば、さほど深いものでも必然的なものでもないからだ。要するに、マルタンヴィルの鐘塔の眺めが与えてくれたような印象であろうと、不揃いなふたつの敷石やマドレーヌの味覚が与えてくれたような無意識の記憶であろうと、どちらの場合も、私が感じたものを考え抜くことによって、つまり私が感じたものを薄暗がりからとり出してその精神的等価物に転換するよう努めることによって、ひとつひとつの感覚をそれぞれの法則と思考を備えた表徴として解釈しなければならなかったのである。ところで、これを成し遂げる唯一の方法と思われるのは、芸術作品をつくること以外のなにであろう?しかもすでにさまざまな結果が私の頭のなかにひしめいていた。というのも、フォークの音やマドレーヌの味覚といったたぐいの無意識の記憶であれ、鐘塔や雑草といった形象が私の頭のなかに複雑な花をつけた判じ物を形づくり、私がその意味を明らかにしようと努める形象の助けを借りて記された真実であれ、その第一の性格は、私がそれらを自由に選べるわけではないこと、そうした記憶や真実はあるがまま私に与えられているということであった。私はこの事実にこそ、そうした記憶や真実が正真正銘のものであるという極印(ごくいん)になると感じた。私は中庭に不揃いなふたつの敷石を探しに行って、それにつまずいたわけではない。そうではなく偶然、避けようもないものとしてその感覚に出会ったこと自体が、その感覚でよみがえらせた過去の真正さと、その感覚が生じさせたイメージの真正さを保証してくれる。なぜならわれわれは、明るい光のほうへ浮上しようとするその感覚の努力を感じるからであり、ようやく見出された現実の歓びを感じるからだ。またその感覚は、そこからひき出される当時の印象からなる画面全体に、光と影、起伏と欠如、回想と忘却などを間違いのない割合で配合し、その画面の真正さをも保証してくれる。意識的な記憶や観察では、そのような割合の配合は永久に知られないだろう。未知の表徴で記された内的な書物となれば(その表徴には起伏があるらしく、私の注意力は、わが無意識を探検しながら海底を探る潜水夫のように探りを入れ、ぶつかりながらその輪郭を描こうとした)、その表徴を解読するのに、いかなる形であれ私を手伝ってくれる者はひとりもなく、その解読は、だれに代わってもらうこともできずだれかに協力してもらうことさえできない、創造行為なのである。それゆえいかに多くの人がそのような書物を書くことから離れてしまうことだろう!人が多くの責務を引き受けるのは、この責務を避けるためではないか!ドレフェス事件であれ戦争であれ、あれやこれやのできごとが、作家たちは正義の勝利を確かなものにしたり民族の精神的統一をとり戻したりすることに意を注ぎ、文学のことなど考える余裕がなかったのだろう。しかしそんなことは言い訳にすぎない。そうなったのは、作家たちが才能、つまり本能をもっていなかったか、もはやそれを失っていたからだ。というのも本能は義務を果たすよう強いるが、知性はその義務を回避するさまざまな口実を提供するからである。ただし芸術のなかには、そんな口実はあらわれないし、意図などものの数にもはいらない。芸術家はいかなるときも自分の本能の声に耳を傾けるべきで、そうしてこそ芸術はこのうえなく現実的なものとなり、人生のこのうえなく厳格な学校となり、真に最後の審判となるのだ。その書物は、あらゆる書物のなかでいちばん解読に苦労する書物となるが、同時に、現実がわれわれに書きとらせた唯一の書物、現実そのものがわれわれのうちに『印象』を『印刷』してつくらせた唯一の書物である。人生がわれわれのうちにいかなる想念を残そうとも、その想念の具体的な形、つまりその想念がわれわれのうちにつくりだすさまざまな想念には、論理的な真実、可能な真実しか存在せず、そうした真実は恣意的に選ばれるにすぎない。われわれが記した文字ではなく、象徴的な文字からなる書物こそ、われわれのただひとつの書物である。われわれのつくりだす想念が論理的に正しいことなどありえないからではなく、その想念が真実であるかどうかはわれわれには判断できないからである。ひとえに印象だけが、たとえその素材がいかにみすぼらしく、その傷痕がいかに捉えにくいものであろうと、真実の指標となり、それゆえ精神によって把握される価値があるのは印象だけである。というのも印象から精神が真実をひき出すことができるなら、印象だけが精神を一段と大きな完成へと導き、精神に純粋な歓びを与えることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.455~458」岩波文庫 二〇一八年)
さらに別の箇所で、ともすれば「制度化」されたステレオタイプ的(常套句的・思い込み的)解決に陥りがちな思考に衝撃を与え、ステレオタイプ的(常套句的・思い込み的)還元を解体・断片化し、逆に思考が創造であるような思考を思考せざる得なくさせる<力>の重要性について実在した作家の実例を上げている。ゲルマント夫人が引用したヴィクトル・ユゴーの初期詩篇がそうだ。
「夫人が私に引用したヴィクトル・ユゴーの詩は、じつを言えばユゴーが進化の過程において新人作家の域を脱して、いっそう複雑な声を備えた未知の文学の種を現出せしめた時期からすると、はるか以前の作である。こうした初期詩篇では、ヴィクトル・ユゴーはいまだ考える人であり、自然と同じように、考える材料だけを提示するのに甘んじることができていない」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.452」岩波文庫 二〇一四年)
本来的に怠惰にできている人間というものが何かを思考するに当たり、優等生丸出しのプラトンでさえ、最低限度とはいえパルマコン(医薬/毒薬)的かつ暴力的衝撃の必要性について述べている。三箇所引いておこう。
(1)「毒蛇に咬まれた者の苦境はすなわち私の現状でもある。実際、人のいうところによると、こういう経験を嘗めた者は、自ら咬まれたことのある者以外には誰にも、それがどんなだったかを話して聴かせることを好まぬものだという、それは、苦悩のあまりにどんな法外な事を為(し)たりいったりしても、こういう人達にかぎって、それを理解もしまた寛容もしてくれるだろうーーーと、こう人は考えるからである。ところが《僕》はそれよりもさらにいっそう烈しい苦痛を与える者に咬まれた、しかも咬まれて一番痛い個所をーーー心臓か魂を、または何とでも適当に呼べばいいのだがーーー愛智上(フィロソフィア)の談論に打たれまた咬まれたのだった。その談論というのは若年でかつ凡庸でない魂を捉えたが最後、毒蛇よりも凶暴に噛み付いて離さず、かつこれにどんな法外な事でも為(し)たりいったりさせるほどの力を持っているのである。さらにまた見渡すところ今僕の前には、ファイドロスだとか、アガトンだとか、エリュキシマコスだとか、パウサニヤスだとか、アリストデモスだとか、アリストファネスだとか(ソクラテスその人は別に挙げるにも及ぶまい)、またその他の諸君がおられるのだが、この諸君は実際みな愛智者の乱心(マニア)と狂熱(バクヘイヤ)に参している人達である」(プラトン「饗宴・P.140~141」岩波文庫 一九五二年)
(2)「ソクラテス、お会いする前から、かねがね聞いてはいましたーーーあなたという方は何がなんでも、みずから困難に行きづまっては、ほかの人々も行きづまらせずにはいない人だと。げんにそのとおり、どうやらあなたはいま、私に魔法をかけ、魔薬を用い、まさに呪文(じゅもん)でもかけるようにして、あげくのはてに、行きづまりで途方にくれさせてしまったようです。もし冗談めいたことをしも言わせていただけるなら、あなたという人は、顔かたちその他、どこから見てもまったく、海にいるあの平べったいシビレエイにそっくりのような気がしますね。なぜなら、あのシビレエイも、近づいて触れる者を誰でもしびれさせるのですが、あなたがいま私に対してしたことも、何かそれと同じようなことのように思われるからです。なにしろ私は、心も口も文字どおりしびれてしまって、何をあなたに答えてよいのやら、さっぱりわからないのですから」(プラトン「メノン・13・P.42~43」岩波文庫 一九九四年)
(3)「毒を飲めば僕はもはや君たちのもとには留まらずに、浄福な者たちのうちへと立ち去る。ーーー君たちは、僕が死ねば、僕は誓ってここに留まらずに、立ち去って行くだろう、と保証してくれたまえ。そうすれば、クリトンはより容易に耐えるだろうし、僕の体が焼かれたり土の中に埋められたりするのを見て、僕が恐ろしい目にあっているのだと思って、僕のために嘆いたりはしないだろう。また、葬式のときに、ソクラテスを安置するとか、ソクラテスの葬列に従うとか、ソクラテスを埋葬するとか、言うことはないだろう。いいかね、善きクリトンよ、言葉を正しく使わないということはそれ自体として誤謬であるばかりではなくて、魂になにか害悪を及ぼすのだ。さあ、元気を出すのだ。そして、僕の体を埋葬するのだ、と言いたまえ。そして、君の好きなように、君がもっとも世間の習わしに合うと考えるように、埋葬してくれたまえ」(プラトン「パイドン・5・終曲・P.170~171」岩波文庫 一九九八年)
この時点の<私>にとってゲルマント夫人は<美自身>である。<美自身>としてのゲルマント夫人というのは、これまでの「さまざまな出会いに、さらに新たな出会いをつけ加えるものであったからだ。いや、それ以上のもとと言うべきか」と価値を増大させる。こんなふうに。
「というのもこの写真は、私がすでに経験していたゲルマント夫人とのさまざまな出会いに、さらに新たな出会いをつけ加えるものであったからだ。いや、それ以上のもとと言うべきか、まるでふたりの関係に突然の進展が生じて、夫人が庭用の帽子をかぶって私のそばに立ち止まり、はじめて頬の膨らみとか、うなじの曲がり具合とか、眉の端とか(それまでは夫人があっという間に通りすぎたり私の印象が混乱していたり記憶があやふやだったりして私には覆い隠されていたもの)を心ゆくまで眺めさせてくれたのに等しいからである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.170~171」岩波文庫 二〇一三年)
二十歳前後の青年にとって同年代の友人の若い叔母や姉妹で、なおかつ<美しい人>となると大抵は性的興奮を覚えないわけにはいかない。プルーストは書き込む。「官能的な発見であり、特別の厚遇だった」。年齢でいえばそれでごく「普通・正常」とされるが、作品「失われた時を求めて」ではこの辺りからもはや実際の年齢は不透明になる。中年を過ぎてからの記憶の想起というのは誰もが<諸断片>のモザイクなのであって、精密な日記を付けていたとしてもなお日記に書き記される言葉はあくまで<私>の側=こちら側の記憶の羅列でしかないとしか言えないからだ。いとも単純に現在の話と過去の記憶との混合が共振し合いつつ<未来へ向けて>創造される。なお「ローブ・モンタント」は昼間の正装。夜会服は「ローブ・デコルテ」。
「そんな部分をうち眺めるのは私にとって(ローブ・モンタントに包まれたところしか見たことがなかった女性のあらわな胸や腕を眺めるのと同じほど)、官能的な発見であり、特別の厚遇だった。見つめるのが禁じられているも同然に思われたこのような身体の線を、まるでそれが私にとって価値ある唯一の幾何学であるかのように、その写真でじっくり研究できるのである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.171」岩波文庫 二〇一三年)
ちなみにドゥルーズのプルースト論では<私>=「色情狂」とされている。生贄(いけにえ)はアルベルチーヌだがそれはもっと後半においてであり、さらにドゥルーズとガタリとの共著「アンチ・オイディプス」や「千のプラトー」で語られるプルースト論とは多少なりとも違っている。しかしドゥルーズのプルースト論はあくまで参考文献にとどまる。でないと一市民としての読者は消失するしかない。
第三篇「ゲルマントのほう」ではそれよりも先に上流社交界の記号論とでもいうべきエピソードがふんだんに語られる。良い悪いの価値観は問題外に置き去られる。<私>の実体験においても空想においても、いずれにしても舞台は上流社交界。そこで繰り広げられる大貴族と大資本家階級との悲喜劇的対立を通し、多種多様な<身振り・振る舞い>が「善悪の彼岸」において徐々にその虚構性とちぐはぐさ、奇妙な濫用や横断性などについて<覗き><覗かれ><暴露>されていく。第二篇「花咲く乙女たちのかげに」の「かげに」というフレーズがすでに「思春期の女性たち」を<覗く>という内容を意味していたように。
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