白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「愛・嫉妬・監禁」の反復と「体罰」の自己欺瞞

2022年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
バルベック滞在時を描いた思春期に属する箇所から、すでにもう何度か<監視・監禁>のテーマが出現しているのを見てきた。以後たびたび出てくるテーマではあるのだが、それは往々にしてどのような過程を描くのかについてここで一旦触れておきたい。というのはベルベック滞在時におけるありふれた次の描写からプルーストは「愛と嫉妬」が<監視・監禁>へ急傾斜していく発端部分に差しかかっているからである。それはほんの僅かの徴候、作家であれ心理学者であれそうとはわからない極めて微細な徴候に過ぎないものとして現われる。なぜなら実に多くの人間は一度ならず思春期にこのような経験を持つからであり、また逆説でもなんでもなく、「愛と嫉妬」は強烈であればあるほど<監視・監禁>へ急傾斜しがちだということ、さらに多少なりとも<監視・監禁>のテーマと重なり合わない「愛と嫉妬」などこの世に存在しないばかりかかつて存在した試しもないということを明るみに出しているからである。

ちなみにプルースト作品で頻出する<監視・監禁>のテーマについて有名であり手際よくまとめられたドゥルーズのプルースト論がある。ドゥルーズはこの過程が描く稜線について三つの時期に分類している。(1)「愛されることなく愛すること」、(2)「愛することをやめること」、(3)「自分が愛する者に対して、つらく悪賢く振舞うこと」。また<監視・監禁>に着目するとただちに<覗き><冒瀆>というテーマが浮上するのだがそれらについての考察の部分を担ってもいる。なので差し当たりこの線に沿って対応する箇所を上げておこう。

だがしかし極めて特異な点として(1)「愛されることなく愛すること」が始まるのは<私>が始めてアルベルチーヌから「あなたのこと、好きよ」と書いた手紙を受け取ったほとんど直後からどんどん台頭してきた態度だということを忘れてはならないだろう。またアルベルチーヌは<私だけ>を愛することができる異性愛者では全然なく同性も異性も愛することができる横断的性愛者だと<私>がすでに承知していることを念頭に入れておかねばならない。その徴候は何度かもう繰り返し描かれている。

(1)「そのつぎの週は、ちっともアルベルチーヌに会おうとしなかった。アンドレのほうが好きだというふりをしていたのである。恋が始まると、われわれは愛する女性にとって、その女性が愛する可能性のある未知の男のままでいたいと思いながら、その一方で相手の女性が欲しくなる。相手の身体に触れたいというより、むしろ相手の注意を惹いてその心に触れたくなるのだ。恋愛というものは、手紙のなかに意地悪なことばを忍ばせてつれない女が優しくしてほしいとこちらに頼んでくるよう仕向けるなど、われわれのために成功確実な技法を駆使してふたりに交互に働きかけ、愛さずにはいられず愛されずにはいられない歯車のごとき抜き差しならない状況をつくりだす。私は、ほかの娘たちが午後の集いに出かける時間に、アンドレと会う約束をした。アンドレならそんな集いを喜んで私のために犠牲にしてくれるだろう、いや、たとえ気が進まなくても、どちらかといえば社交的な楽しみを重視する人間だと他人の目にも自分の目にも見えるのを避けたいという道徳上の気取りから、そんな集いを犠牲にしてくれるだろうと考えたのだ。そんなふうに私が毎晩アンドレをひとり占めにするようにしたのは、アルベルチーヌにやきもちを焼かせようと考えたのではなく、アルベルチーヌの目からみて私の威信が高まるように、すくなくとも私が愛しているのはアルベルチーヌであってアンドレではないと本人に教えて私の威信を失墜させることがないよう配慮したのである。そんなことはアンドレには言わなかった。もとよりアルベルチーヌに伝わるのを怖れたからだ。アルベルチーヌのことをアンドレと話すときは冷淡を装ったが、その冷淡を信じていると見えたアンドレにすっかり騙された私とは違って、もしかするとアンドレは私の冷淡を信じていなかったのかもしれない。きっとアルベルチーヌにたいする私の無関心を信じているふりをし、アルベルチーヌと私ができるかぎり完璧に結ばれるのを願うふりをしているのだ。実際にアンドレは、私の冷淡などはなから信じておらず、ふたりが結ばれるのも望んでいない可能性のほうが高いのではないか。私のほうは、アルベルチーヌのことは気にかけていないとアンドレに言いながら、そのじつ考えていることはただひとつ、なんとかしてボンタン夫人と知り合いになることだけだった。夫人が、数日の予定でバルベックの近郊に来ていて、やがてアルベルチーヌも合流して三日ほどすごすことになっていたからである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.604~606」岩波文庫 二〇一二年)

(2)「愛することをやめること」。ここでは(a)(b)二つに分けて引こう。

(2ーa)「アルベルチーヌの隷属状態のおかげで、私はそんな女たちから苦しめられることがなくなり、女たちは美の世界へ復帰したのだ。心に嫉妬を突きさす毒針を失って無害になったその女たちを、私は思うがままに賛美し、まなざしで愛撫しているわけで、いつかもっと親密に愛撫することもできるかもしれない。アルベルチーヌを閉じこめると同時に、私はさまざまな散歩道や舞踏会や劇場で羽ばたくこれら玉虫色の翼をことごとく世界へ返したわけで、アルベルチーヌがもはやその誘惑に屈するはずがない以上、そうした翼がふたたび私の心を誘発するのだ。それらの翼こそ世界の美をつくっているのだ。それはかつてアルベルチーヌの美をつくり出していたものである。私がかつてアルベルチーヌに目を奪われたのは、相手を神秘の鳥とみなしたからで、ついで皆の欲望をそそって誰かのものになっているやもしれぬ浜辺の大女優とみなしたからにほかならない。ある夕方、どこから来たのかも定かでないカモメの群れのような娘の一団にとり巻かれて堤防のうえをゆっくり歩いてくるのを見かけた、そんな鳥であったアルベルチーヌも、ひとたびわが家の籠の鳥と化すと、ほかの人のものになる可能性をいっさい喪失するとともに、あらゆる生彩を喪失してしまった。かくしてアルベルチーヌはすこしずつその美しさを失ったのである。私の嫉妬はたしかに想像上の楽しみの減退とはべつの道をたどりはしたが、それでも浜辺の輝きにつつまれたアルベルチーヌをふたたび目にするためには、アルベルチーヌが私を抜きにしてほかの女性や青年から話しかけられているすがたが想像される昔日のような散歩を必要とした。しかし、そんなふうにほかの人たちの欲望の対象となってアルベルチーヌが私の目にふたたび不意に美しさをとりもどす飛躍がこれまで何度もあったとはいえ、私はアルベルチーヌがわが家に滞在していた時期をふたつに分けることができた。アルベルチーヌが日増しに衰えてゆくとはいえいまだに浜辺の玉虫色にかがやく女優であった最初の時期と、灰色の囚われの女となり、冴えない自分自身と化して、生彩をとり戻してやるには私が過去を想い出すときの稲妻のような光が必要になった第二の時期である。アルベルチーヌが私にとってなんの興味も惹かなくなってからでも、ときにふと昔のひとときの想い出がよみがえることがあった。それは私がまだアルベルチーヌと面識がなかったころ浜辺で、私とは犬猿の仲であったある婦人、いまの私にはアルベルチーヌと関係をもっていたことがほとんど確実に思われるその婦人のそばにいたアルベルチーヌが、私を横柄に見つめながらはじけるように笑ったことだ。まわりには滑らかな青い海がさざめいていた。浜辺の日射しのなかで、友人の娘たちに囲まれたアルベルチーヌはとび抜けて美しかった。くだんの婦人が心酔しているかけがえのない出色の娘が、あのいつもの大海原を背景に、私をそんなふうに侮辱したのだ。その侮辱がとり消せなくなったのは、当の婦人がもしかするとバルベックへ戻ってきて、光あふれ波音さざめく浜辺にアルベルチーヌがいないことに気づいたかもしれないが、その娘がいまや私と暮らしていて私だけのものになっていることは知らなかったからだ。広く青い大海原、その娘へと向かいつぎにべつの娘たちへと向かった婦人の愛情の忘却、それらはアルベルチーヌから受けた侮辱を前に崩れ去って、まばゆく壊れない宝石箱のなかにいその侮辱だけが閉じこめられた。すると私の心は、その婦人にたいする憎悪に駆られた。アルベルチーヌにたいする憎悪も同様であったが、こちらの憎悪には、ちやほやされた美しい娘、すばらしい髪を備え、浜辺で大笑いして私を侮辱した娘への賞賛の気持も混じっていた。このような侮辱、嫉妬、当初の欲望や輝かしい背景の想い出が、アルベルチーヌにふたたび昔の美しさと価値を付与したのである。こんなふうにアルベルチーヌのそばで感じるいささか重苦しい倦怠と、輝かしいイメージと哀惜の念にみちた身震いするほどの欲望とが交互にあらわれたのは、アルベルチーヌが私の部屋でそばにいるかと思えば、ふたたび自由を与えられ、私の記憶のなかの堤防のうえで例の陽気な浜辺の衣装をまとって海鳴りの楽奏に合わせて振る舞うからで、あるときはそうした環境から抜け出し、私のものとなって、さしたる価値もなくなり、あるときはその環境へ舞い戻り、私の知るよしもない過去のなかへ逃れて、恋人である例の婦人のそばで、波のしぶきや太陽のまばゆさに劣らず私を侮辱する、そんなアルベルチーヌは、浜辺に戻されるかと思えば私の部屋に入れられ、いわば水陸両棲の恋の対象だったのである」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.386~389」岩波文庫 二〇一六年)

この箇所は以前触れた箇所と重複する。まず「アルベルチーヌの隷属状態」=「閉じ込め」の実現に漕ぎ着ける。ところが<監禁>してしまうやアルベルチーヌに向けられていた欲望はたちまち下落する。というのはバルベック滞在時の記述で繰り返し描かれたように、愛する相手と会えることが確実であればあるほどアルベルチーヌに対する関心は減少し、逆に会えないかもしれないことが確実であればあるほどアルベルチーヌの価値はどこまでも上昇したのと同様の事態が形と場所とを置き換えて、しかももっと確実な方法で行われているからだ。アルベルチーヌの両性愛性については長々しい文章の終わりに当たる最後の箇所で「水陸両棲の恋の対象」と述べられている点でも明らか。またしかし、アルベルチーヌについて「灰色の囚われの女」と書かれているが、この時のアルベルチーヌは<植物>や<音楽>にもなっていて実に多彩だ。以前ほんの少しばかり触れておいたが後にもっと多元的レベルに引き直して述べるつもりである。

ところで(2ーb)のケースはアルベルチーヌが相手ではなくジルベルトである。そのことだけを取り上げて「女なら誰でもいいのか」と問い詰めるの勘違いもはなはだしいと言わねばならない。前提として、<私>が男性の場合、相手は必ず女性だとはまったく限らない。世界は無数のフェチで溢れかえっているという現実が見えていない人々に限り、そのような的外れこの上ない非難を口にしたりするのだ。

(2ーb)「私がただひとつ執着していたジルベルトとのつき合いを不可能にしようと精を出していたのが、この私であり、女友だちとの別離を長引かせた結果すこしずつつくり出されたのは、女友だちの無関心ではなく、とどのつまり同じことだが私の無関心であった。私が現在していることだけではなく将来その結果として生じることまで洞察したうえで、私は、自分のなかでジルベルトを愛する自我を残酷にもじわじわと自殺に追いやることに執念を燃やしつづけていたのである。そんな私が承知していたのは、やがてもうジルベルトを愛さなくなることだけではなく、それを残念に思ったジルベルトが私に会おうとあれこれ画策しても今の私の試みと同じで無駄骨になるにちがいないこと、それは私がジルベルトをあまりにも愛しているからではなく、私がきっとべつの女を愛しているからで、私はその女を想って何時間でも待っていられるが、もはやなんでもない存在になったジルベルトには一瞬たりとも割けないことである。たしかに今この瞬間(私はもう会わないと心に決めており、向こうから正式に釈明を求めてきたり恋心をすっかり告白したりしても決心がくつがえる可能性はもはや皆無だった)、私はすでにジルベルトを失ってはいたが、愛する気持は以前より募っていて(願いが叶って日々午後を共にすごし、ふたりの友情を脅かすものはなにもないと感じていた前年よりも、今になってジルベルトの存在の重みが痛感された)、今この瞬間にこれと同じ感情をいつの日かべつの女性にいだくだろうと考えるのは、私にはたしかに不愉快なことだった」(プルースト「失われた時を求めて3・第二篇・一・一・P.398~399」岩波文庫 二〇一一年)

この中に「ジルベルトを愛する自我を残酷にもじわじわと自殺に追いやることに執念を燃やしつづけていた」とある。だからといってそれをすぐさま「マゾヒズム」的態度として捉えるのは的外れの上にさらに的外れを事実と取り違えることになるだろう。「残酷」に突き進むのは自由奔放な欲望であって、それが何らかの事情によって堰き止められ、方向を逆転させられ内攻すればするほど「自殺」に近づくのである。ニーチェはいう。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)

(3)「私はアルベルチーヌをこんなに怒らせる態度をとったことにもちろん良心の呵責を覚えて、こう思った、『もしぼくがアルベルチーヌを愛していなかったら、これほど意地悪をすることもなく、アルベルチーヌはぼくにもっと感謝するだろう。いや、そんなことはない、愛していなければぼくはこれほどやさしくはしないだろうから、結局はどちらも同じことだ』。さらに私は自分を正当化するために、アルベルチーヌに愛していると言うこともできたはずである。しかしそんな恋心の告白は、アルベルチーヌになにひとつ新たなことを教えないばかりか、ほかでもない愛していることを唯一の言い訳にしておこなう冷酷な仕打ちや悪だくみ以上に、私にたいするアルベルチーヌの態度をさらに冷たくするかもしれない。だから愛している相手に冷酷な悪だくみをするのは至極当然のことなのだ!われわれが他人に相当な関心を寄せていながら、それでもなおその相手にやさしく振る舞い、その相手の欲望に寛大でいられるとすれば、その関心が本物でないからである。赤の他人がわれわれの関心を惹くことはなく、無関心が意地悪を誘発することはないのだ」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.238~239」岩波文庫 二〇一六年)

言うまでもなくプルーストは奇をてらうようなことは何一つ書いていない。「われわれが他人に相当な関心を寄せていながら、それでもなおその相手にやさしく振る舞い、その相手の欲望に寛大でいられるとすれば、その関心が本物でないからである」。「愛と嫉妬」の関係の中では愛する側が愛していればいるほど愛されている側を<監視・監禁>へどんどん追い詰めていく傾向は今なおそこらじゅうに見かけられるありふれた暴力にほかならない。

なお、「体罰」がそれとまるで違っているのは以前も述べたように、自分が周囲から与えられるプレッシャーに耐えられず自らの社会的地位や立場を利用し口実として自分自身の<無力さ・良心のやましさ>を他人の身体へ置き換える行為でしかない。「体罰」を通して他人の身体へ方向を置き換えることで自分自身の<無力さ・良心のやましさ>は「体罰」を与えられる人々の身体へいとも容易に<移動して見える>のである。だがそうすればするほど自分が自分自身と向き合う誠実な態度とは徹底的にかけ離れていき、特定の時間と場所とに限り、ともすれば「体罰」が<ある>のに<ない>かのような錯覚すら出現してくる。

だが「体罰」の構造的把握は何も二十世紀になって始めて可能になったわけではまるでない。十七世紀半ば(一六六六年)発表のモリエール「孤客」の中でセリメエヌをめぐってアルセストが恋敵オロントの詩を罵倒する場面がある。

「オロント のぞみこそ心の揺(ゆ)り籠(かご) 束(つか)の間(ま)の苦をあやなせど のぞみに続くよろこびの 絶えてしなくば憂(う)からまし/フィラント その一節だけで、もうすっかり好(い)い気持になりますね。/アルセスト (低声でフィラントをたしなめて)何を?臆面もなく、こんなものを褒めるのか?/オロント 過ぎし日の君がなさけも 今は将(は)た恨みわびつれ 実(みの)らぬ恋のすさびには 花ののぞみも甲斐(かい)なしや/フィラント いや、どうも!粋(いき)な詞(ことば)で味な《いきさつ》を言ってのけましたなあ!/アルセスト (低声で)けしからん!さもしい《おべんちゃら》は止(よ)せ。こんな愚作を褒めるのか?/オロント 待つ恋の久しかりせば 死の影のしのびよる日は 胸の火もやがて消(け)ぬらめ はなかしや君がなさけも 美(うま)しフィリスよ幸うすき我(われ) 永久(とわ)にのぞみのいや募るとも/フィラント その結句(おち)がまた見事ですなあ、恋々(れんれん)の情を湛(たた)えて、あっぱれあっぱれ!/アルセスト (低声で)結句(おち)も糞もあるかい!鼻持ちならぬ巧言者奴(おせじものめ)、結句(おち)て転んで鼻柱でも折るがいい!/フィラント これほど、措辞(そじ)の巧みな詩はかつて聴いたことがありませんな。/アルセスト (フィラントに)けしからん!ーーー/オロント それはお世辞でしょう、おそらく内心ではーーー/フィラント いや、お世辞どころか。/アルセスト (フィラントに低声で)いったい、何を言ってるんだ、不届きな!」(モリエール「孤客・P.26~28」岩波文庫 一九五〇年)

アルセスト自身詩人として巧みだとは言えない。このような場合、オロントに向けられたアルセストの罵倒はアルセスト自身の<無力さ・良心のやましさ>を覆い隠す役割を演じる。だがどこまで行ってもアルセストはアルセスト自身に向けて「体罰」に等しい暴力を振るっていることに何ら変わりはない。だからどれほどオロントを罵倒してみたところでアルセストの苦痛は一つも消えない。そのとき「体罰」は多少なりとも人間関係の枠内における政治的意味合いを帯びた<装置>として機能しているとしか言いようがないのだ。

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