サン=ルー(ロベール)には一つも悪気(わるぎ)がない。友人たちに向けて<私>の名誉を大いに配慮しつつ紹介したに過ぎない。度過ぎた配慮はかえって嫌味になるだろうから。そしてこの場面でも決して嫌味になるわけではない。スタンダールの名を出したまではよかった。とはいえスタンダール「パルムの僧院」で「『いちばん好きなのはどこだい?答えたまえ』と、若々しく熱心に訊ねる」。友人を思いやるとはそういうことだろうか。いささか大袈裟で芝居じみて見える。
「『ああ!そうかい、わかるんだ、きみが賛成しているのは。ブロックはスタンダールが大嫌いだと言うんだけど、この点ではブロックの見立てがばかげているとしか思えない。<パルムの僧院>って、やっぱり大したものだよね?きみがぼくと同じ意見なので嬉しいよ。<パルムの僧院>でいちばん好きなのはどこだい?答えたまえ』と、若々しく熱心に訊ねる」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.229」岩波文庫 二〇一三年)
サン=ルーには一つも悪気(わるぎ)がない。<私>に向けられ<私>がサン=ルーの友人たちに向けて答えるよう迫ってくる質問は「<パルムの僧院>でいちばん好きなのはどこだい?」であるにもかかわらず、「『モスカかい、ファブリスかい?』」、という登場人物に関する価値評価の表明だ。作品の内容というより微妙に政治哲学的な問いかけであるだけに<私>は当たりさわりのない返事を返すことしかできなくなってしまう。次にように。
「おまけにサン=ルーの肉体の力は威圧的で、その質問は相手を震えあがらせる。『モスカかい、ファブリスかい?』。私はおずおずと、モスカにはいくぶんノルポワ氏に似た面があると答えた。それを聞いた若きジークフリートたるサン=ルーは、けたたましく笑い出した。さらに私が『でもモスカのほうがずっと頭がよくて、ずっと衒学趣味じゃないけど』と言い終わらないうちに、ロベールがすかさずブラボーと叫んで実際に拍手し、息もできないほど笑い転げて、大声でこう言うのが聞こえてきた。『まったくその通り!すばらしい!きみは、ほんとにすごい』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.229~230」岩波文庫 二〇一三年)
ただそれだけのことで<私>について大した人物ででもあるかのように囃し立てる。無難といえばなるほど無難だ。しかしいかにもありきたりな作品評価が「『まったくその通り!すばらしい!きみは、ほんとにすごい』」と言えるだろうか。<私>としては<私>の神格化を望んでいるわけではまるでないのだが。また同時に「サン=ルーはみなに沈黙を要求する」。
「しかし私が話している最中には、ほかの人の賛同などを余計なものと感じるのか、サン=ルーはみなに沈黙を要求する。オーケストラの指揮者が、演奏中に音を立てた人がいると、弓で叩いて演奏を止めさせるように、サン=ルーは話の腰を折った者を叱責した、『ジベルグ、人が話してるときは黙っていないといけないぞ。そんなことはあとで言いたまえ。さあさあ、つづけて』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.230」岩波文庫 二〇一三年)
沈黙。仲間ばかりのあいだでしばしば要求される沈黙ゆえ読者としてもサン=ルーに罪があるとは思えないし、そもそも罪があるとかないとかの次元にはない無邪気な態度ではある。そしてここで沈黙する側にも何一つ罪はない。一方、触れておくべきは「沈黙」が強力な政治的理論武装の装置として用いられるケースである。ハイデガーはいう。
「《黙止する》ことも話すことのもうひとつの本質的な可能性で、これと同一の実存論的基礎をもっている。話し合いのなかで黙っている人の方が、口の減らない人よりもいっそう本来的に『指意する』ーーーすなわち了解を深めることがある。なにかについて長口舌をふるったからといって、それで了解が深められたということは少しも保証されない。むしろ反対に、長談義はものごとを蔽いかくし、すでに了解されていた事柄をみかけの明白さのなかへ、すなわち常套語の不可解さのなかへ引き入れるだけである。しかし黙っているということは、唖であることとはちがう。その反対に、唖である人も、なお『発言』への傾向をもっているのである。唖の人は、自分が黙止しうるということをまだ証明していないだけでなく、そのようなことを証明する可能性さえ欠いているのである。そして唖の人と同様に、生まれつき無口な人も、自分がいま黙止していること、黙止できることを、示すものではない。いつも無言でいる人は、ここぞという瞬間に黙止することもできない。本当の黙止は、真正の話のただなかでのみ可能なのである。黙っていることができるためには、現存在は言わんとするところがなければならない。すなわち、自己自身の本来的なゆたかな開示態を身につけているのでなければならない。そのような場合には、沈黙はなにごとかをあらわにして、『駄弁』を制圧するのである」(ハイデッガー「存在と時間・上・第五章・第三十四節・P.352~353」ちくま学芸文庫 一九九四年)
そこでハイデガーが投げかけるのは、「世間は頽落している」、そしてまた「人間の死は置き換えの効かない各自固有の死である」、ゆえに「今現在、ドイツの人々が最優先すべきは何か」という問いである。当時のヨーロッパでドイツが置かれていた政治的立場と重ね合わせてみればただちに「よそ見していてはいけない」、逆に「ドイツのために死を賭けるべき」ではないか、という論理が成立する。この論理がナチス・ドイツに戦争への根拠を与えた。
プルーストへ戻ろう。いささか過剰なサン=ルーの奮闘のおかげで<私>はサン=ルーの友人たちから「過大評価」されてしまう。こうある。
「われわれが食事をしたりおしゃべりをしたりして現実の生活をおくるとき、その時点でわれわれをとり巻くものはいかに些細なものといえども途方もなく拡大されるのが常で、そんな度外れな過大評価を受けたものに比べるとその余のものは、この世に存在しないも同然で、そんな巨大化したものにはとうてい対抗できず、それと比べれば夢のごとくはかないものになり果てるものだが、そんな過大評価のおかげで、私は兵営のさまざまな要人たちに興味を覚えはじめていた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.233」岩波文庫 二〇一三年)
重要なのは「度外れな過大評価を受けたものに比べるとその余のものは、この世に存在しないも同然」になってしまうことだ。互いに対等な尊敬という適度な人間関係ではなく、逆に「崇拝」ともいうべき不均衡な関係が出現する。ニーチェはいう。
「崇拝は崇拝される対象のもつオリジナルな、しばしばはなはだしく奇異な特徴や特異体質を消去するものであるーーー《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」(ニーチェ「反キリスト者・三一」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.209』ちくま学芸文庫 一九九四年)
<私>はサン=ルーに向かって<私>を神にして欲しいと頼んだ覚えなど一つもないのだが。
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「『ああ!そうかい、わかるんだ、きみが賛成しているのは。ブロックはスタンダールが大嫌いだと言うんだけど、この点ではブロックの見立てがばかげているとしか思えない。<パルムの僧院>って、やっぱり大したものだよね?きみがぼくと同じ意見なので嬉しいよ。<パルムの僧院>でいちばん好きなのはどこだい?答えたまえ』と、若々しく熱心に訊ねる」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.229」岩波文庫 二〇一三年)
サン=ルーには一つも悪気(わるぎ)がない。<私>に向けられ<私>がサン=ルーの友人たちに向けて答えるよう迫ってくる質問は「<パルムの僧院>でいちばん好きなのはどこだい?」であるにもかかわらず、「『モスカかい、ファブリスかい?』」、という登場人物に関する価値評価の表明だ。作品の内容というより微妙に政治哲学的な問いかけであるだけに<私>は当たりさわりのない返事を返すことしかできなくなってしまう。次にように。
「おまけにサン=ルーの肉体の力は威圧的で、その質問は相手を震えあがらせる。『モスカかい、ファブリスかい?』。私はおずおずと、モスカにはいくぶんノルポワ氏に似た面があると答えた。それを聞いた若きジークフリートたるサン=ルーは、けたたましく笑い出した。さらに私が『でもモスカのほうがずっと頭がよくて、ずっと衒学趣味じゃないけど』と言い終わらないうちに、ロベールがすかさずブラボーと叫んで実際に拍手し、息もできないほど笑い転げて、大声でこう言うのが聞こえてきた。『まったくその通り!すばらしい!きみは、ほんとにすごい』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.229~230」岩波文庫 二〇一三年)
ただそれだけのことで<私>について大した人物ででもあるかのように囃し立てる。無難といえばなるほど無難だ。しかしいかにもありきたりな作品評価が「『まったくその通り!すばらしい!きみは、ほんとにすごい』」と言えるだろうか。<私>としては<私>の神格化を望んでいるわけではまるでないのだが。また同時に「サン=ルーはみなに沈黙を要求する」。
「しかし私が話している最中には、ほかの人の賛同などを余計なものと感じるのか、サン=ルーはみなに沈黙を要求する。オーケストラの指揮者が、演奏中に音を立てた人がいると、弓で叩いて演奏を止めさせるように、サン=ルーは話の腰を折った者を叱責した、『ジベルグ、人が話してるときは黙っていないといけないぞ。そんなことはあとで言いたまえ。さあさあ、つづけて』」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.230」岩波文庫 二〇一三年)
沈黙。仲間ばかりのあいだでしばしば要求される沈黙ゆえ読者としてもサン=ルーに罪があるとは思えないし、そもそも罪があるとかないとかの次元にはない無邪気な態度ではある。そしてここで沈黙する側にも何一つ罪はない。一方、触れておくべきは「沈黙」が強力な政治的理論武装の装置として用いられるケースである。ハイデガーはいう。
「《黙止する》ことも話すことのもうひとつの本質的な可能性で、これと同一の実存論的基礎をもっている。話し合いのなかで黙っている人の方が、口の減らない人よりもいっそう本来的に『指意する』ーーーすなわち了解を深めることがある。なにかについて長口舌をふるったからといって、それで了解が深められたということは少しも保証されない。むしろ反対に、長談義はものごとを蔽いかくし、すでに了解されていた事柄をみかけの明白さのなかへ、すなわち常套語の不可解さのなかへ引き入れるだけである。しかし黙っているということは、唖であることとはちがう。その反対に、唖である人も、なお『発言』への傾向をもっているのである。唖の人は、自分が黙止しうるということをまだ証明していないだけでなく、そのようなことを証明する可能性さえ欠いているのである。そして唖の人と同様に、生まれつき無口な人も、自分がいま黙止していること、黙止できることを、示すものではない。いつも無言でいる人は、ここぞという瞬間に黙止することもできない。本当の黙止は、真正の話のただなかでのみ可能なのである。黙っていることができるためには、現存在は言わんとするところがなければならない。すなわち、自己自身の本来的なゆたかな開示態を身につけているのでなければならない。そのような場合には、沈黙はなにごとかをあらわにして、『駄弁』を制圧するのである」(ハイデッガー「存在と時間・上・第五章・第三十四節・P.352~353」ちくま学芸文庫 一九九四年)
そこでハイデガーが投げかけるのは、「世間は頽落している」、そしてまた「人間の死は置き換えの効かない各自固有の死である」、ゆえに「今現在、ドイツの人々が最優先すべきは何か」という問いである。当時のヨーロッパでドイツが置かれていた政治的立場と重ね合わせてみればただちに「よそ見していてはいけない」、逆に「ドイツのために死を賭けるべき」ではないか、という論理が成立する。この論理がナチス・ドイツに戦争への根拠を与えた。
プルーストへ戻ろう。いささか過剰なサン=ルーの奮闘のおかげで<私>はサン=ルーの友人たちから「過大評価」されてしまう。こうある。
「われわれが食事をしたりおしゃべりをしたりして現実の生活をおくるとき、その時点でわれわれをとり巻くものはいかに些細なものといえども途方もなく拡大されるのが常で、そんな度外れな過大評価を受けたものに比べるとその余のものは、この世に存在しないも同然で、そんな巨大化したものにはとうてい対抗できず、それと比べれば夢のごとくはかないものになり果てるものだが、そんな過大評価のおかげで、私は兵営のさまざまな要人たちに興味を覚えはじめていた」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.233」岩波文庫 二〇一三年)
重要なのは「度外れな過大評価を受けたものに比べるとその余のものは、この世に存在しないも同然」になってしまうことだ。互いに対等な尊敬という適度な人間関係ではなく、逆に「崇拝」ともいうべき不均衡な関係が出現する。ニーチェはいう。
「崇拝は崇拝される対象のもつオリジナルな、しばしばはなはだしく奇異な特徴や特異体質を消去するものであるーーー《崇拝とはそれそのものを見ないことなのである》」(ニーチェ「反キリスト者・三一」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.209』ちくま学芸文庫 一九九四年)
<私>はサン=ルーに向かって<私>を神にして欲しいと頼んだ覚えなど一つもないのだが。
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