オデットへ向けたスワンの欲望は日増しに加速していく。そしてオデットを意識するあまり、仕事用のデスクの上に「エテロの娘の複製をおいた」。
「スワンは仕事机のうえに、オデットの写真のように、エテロの娘の複製をおいた」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.101」岩波文庫 二〇一一年)
「エテロの娘」はユダヤ教でモーセの妻のこと。ヘブライ語で「小鳥」を意味する。モーセが神に殺されそうになった時、妻のチッポラが二人の間にできた男子(ゲルショム)をいきなり割礼して夫モーセの危機を救ったエピソードが「出エジプト記」に見える。
「モーセが途中、ある所に泊った時、ヤハウェは彼を襲って彼を殺そうとした。チッポラは尖った石を取ってその子の陽の皮を切り、モーセの脚に触れさせて言った、『本当にあなたはわたしにとってハサン・ダーミーム(血の割礼を受けた人)です』。そこでヤハウェはモーセを放免された。チッポラがあの時ハサン・ダーミームと言ったのは割礼を受けた者のことであった」(「出エジプト記・第四章・P.16~17」岩波文庫 一九六九年)
性別を問わず人間の性器の一部を切り取る割礼の儀式について。
「そして神はアブラハムに言われた、『だから君はわたしの契約を守らなければならない、君も君の後の子孫も幾代(いくよ)にかけて。わたしと君たちおよびその裔(すえ)との間の契約、君たちが守るべきわたしの契約は次の通りだ。君たちすべての男はみな割礼(かつれい)を受くべきことである。君たちはその陽(よう)の肉を切るべきである、これがわたしと君たちとの間の契約のしるしとなるのだ。君たちの中の男は生後八日に割礼を受けることを代々の定めとする。家で生まれた奴隷も、君の裔でないすべての外国人から金で買われてきた奴隷も同じである。すなわち君の家で生まれた奴隷も、金で買われた奴隷も同じく割礼を受くべきである。わたしの契約は君たちの肉に印せられて、永遠の契約となるのである。その陽の肉に割礼を受けていない無割礼の者がいたなら、その者はわたしの契約を破ったのだから民の中から絶たれねばならない』」(「創世記・第十七章・P.45」岩波文庫 一九五六年)
ユダヤ教の教義は「契約」ということに並々ならぬ重点が置かれている。例えばマルクス「資本論」を見ると次の「契約」という言葉を含む記述は重要事項として前提されている。
「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫 一九七二年)
さらにアブラハムが息子イサクを神への生贄として捧げるシーン。
「アブラハムは燔祭の薪をとってその子イサクに背負わせ、手に火と刀をとり二人一緒に進んで行った。イサクがその父アブラハムに向かって、『お父さん』と言う。アブラハムは、『はい、わが子よ』と答える。イサクは言う、『火と薪の用意はあるのに、燔祭の子羊は何処にあるのです』。アブラハムは答えて言った、『神御自身が燔祭の子羊を備え給うだろう、わが子よ』。かくて二人はともに進んで行った。ついに彼らはアブラハムに言われたその場所に着いた。アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、その子イサクをしばって祭壇の薪の上においた。かくてアブラハムはその手を伸ばし、刀を執って、まさにその子をほふろうとした。その時ヤハウェの使いが天より彼に呼びかけて、『アブラハムよ、アブラハムよ』と言った。アブラハムは『はい、ここに』と言う。ヤハウェの使いが言われた、『君の手を子供に加えるな。彼に何もしてはいけない。というのは今こそわたしは君が神を畏れる者であることを知ったのだ。君は君の子、君の独子(ひとりご)をも惜しまずにわたしに献げようとしたからだ』。アブラハムが眼をあげて見ると、見よ、一匹の牡羊がいてやぶにその角がひっかかっていた。アブラハムは行ってその牡羊を備え、それをその子のかわりに燔祭(はんさい)として捧げた」(「創世記・第二十二章・P.59~60」岩波文庫 一九五六年)
デリダはこのシーンについて「死の贈与」と銘打ってこう論じている。
「《犠牲の一般的エコノミー》は、複数の『論理』ないしは複数の『計算』に基づいて配分されることになるだろう。計算、論理、そして厳密な意味でのエコノミーなどは、それらの限界から出発して、このような《犠牲のエコノミー》において賭けられ、宙づりにされ、エポケー〔判断中止〕されているものを指し示すのだ。こうしたさまざまなエコノミーと同じように、『同じことに帰着する』ということは、汲み尽くすことのできない働きであり続けることもありうるのだ。こうしてあたかもイサクの犠牲がキリスト教を『準備』していたかのように、決然とそれを再キリスト教化ないし前キリスト教化するにあたって、キルケゴールは結論として、その名を挙げることなく『マタイによる福音書』を思い出させる。『なぜなら、神は隠れたことを見たまい、苦悩を知りたまい、涙を数えたまい、そして、何ものをも忘れたまわぬからである』。神が隠れたことを見ている、神は知っている。だが神はあたかも、アブラハムがしようとしていること、決断すること、しようと決断していることが何なのかを知らないかのようだ。神はアブラハムがすべての希望を捨て、取り返しのつかないようなかたちで愛する息子を神に捧げようと決断しておののいたのを確かめたのちに、アブラハムに息子を返す。アブラハムは死を、いや死より悪いものを耐え忍ぶことを受け入れた。それも計算もなしに、投資もなしに、再び自己に回収する当てもなしに受け入れたのだ。だから一見したところ、報酬や褒美の彼岸で、エコノミー〔=経済〕の彼岸で、報い(サラリー)を期待することなく受け入れたようにもみえる。エコノミーの犠牲がなければ、自由な責任も決断もない(決断はつねに計算の彼岸にある)のだが、この場合にエコノミーの犠牲とは、〔ギリシア語の〕オイコノミアすなわち家(オイコス)の掟、住まいや特有財産(プロプル)〔=夫婦共有財産制における夫婦の特有財産〕や私有財産、近親者の愛や情愛などの法などの犠牲にほかならない。ある瞬間に、アブラハムは絶対的犠牲のしるし、すなわち近親者に与えられた死、もっとも大切な唯一の息子への絶対的な愛に与えられた死のしるしを与える。ある瞬間に、犠牲はほとんど成就される。なぜなら、瞬間だけが、時の非-経過だけが、殺害者の振り上げられた手を殺害そのものから隔てているからだ。だから絶対的な切迫という捉えがたい瞬間には、アブラハムはもはや決断したことを変えることはできず、またそれを中断するこさえできない。したがって、《この瞬間に》、つまり決断を行為から隔てることさえないような切迫において、神はアブラハムに息子を返し、至高者〔=主権者〕としての絶対的な贈与として、犠牲をエコノミーの中に再び組み入れようと決断する。そのときこの絶対的な贈与は報酬に似たものである。
『マタイによる福音書』を出発点にして、私たちは『返す』とは何を意味するのかと問うことになる(『隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて〔=返して〕くださる』)。エコノミーなき贈与、死の贈与ーーーそれも値がつけられないほど価値がある者の死の贈与ーーーが、交換や報酬や循環やコミュニケーションの希望なしに果たされることが確実に思われた瞬間に、神は返すことを、生命を返すことを、愛する息子を返すことを決断する。アブラハムと神のあいだの秘密について語ること、それは犠牲としての贈与があるようにするために、両者のあいだであらゆるコミュニケーションが中断されなければならないことを意味する。言葉、記号、意味、約束の交換としてのコミュニケーションであれ、財産や物や富や所有物の交換としてのコミュニケーションであれ、すべてのコミュニケーションは中断されなければならない。アブラハムはあらゆる意味とあらゆる所有物を放棄するーーーそのときにこそ絶対的な義務としての責任が始まるのだ。アブラハムは神と非-交換の関係にある。彼は神に語ることはなく、神から応答も報酬も期待しないからこそ、秘密の中に閉じ込められている。応答すなわち責任はつねに、《お返し》すなわち報酬や報いなどを求める危険を冒しがちだが、それはみずからを失う危険でもある。応答や責任は、それが待ち受けていると同時に、当てにしたり〔=期限前に引き渡してもらったり〕、排除したり、望んだりはできないような交換という危険を冒すのだ。アブラハムにとって息子の命が自分の命よりも貴重だったことはかなりの根拠をもって言えると思うが、まさにこの息子の命を断念することによって、アブラハムは勝利する。彼は勝利するという危険を冒すのだ。さらに正確に言うならば、勝利することを断念し、応答も報奨も、彼に返されるべきもの、彼に《戻ってくる〔=彼に帰属する〕》ようなものは何も期待しないことによって(私はかつて散種を『父に戻ってこないもの』と定義したが、そのときにアブラハム的な断念の瞬間を描き出すこともできただろう)、アブラハムはこの絶対的な断念の瞬間に、神から息子を返してもらう。まさに同じ瞬間に、犠牲にしようとすでに心に決めていた息子を返してもらうのだ。返してもらえたのは、アブラハムが計算しなかったからである。『上出来だ』と、この上級で至高の計算を脱神秘化する者は言うだろう。この上位の計算とは、もはや計算しないことにある。父の法の下で、エコノミーは贈与の非エコノミーをふたたび自分のものにする。生命の贈与、あるいは結局同じことだが、死の贈与という非エコノミーを。
『マタイによる福音書』(第六章)に戻ろう。強迫観念的な反復のようにして、一つの真理が三度にわたって回帰してくる。『隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて〔=返して〕くださる』という文のことである。この真理は諳誦する=心で学ぶべきだ。これが『諳誦すべき』真理だというのは、第一に、反復される定型表現、反復可能な定型表現を、理解することなく学ばなくてはならないような気がするからである(すでに述べた『tout autreはtout autreである』の場合と同様である。この一種のあいまいな諺を、ひとは封印されたメッセージのように、理解することもなく伝えたり運んだりできる。手から手へ伝え、口から口へささやくのだ)。これが、意味の彼方において、『諳誦する』ということである。じつのところ神は、知ることも計算することも、何かを当てにすることもなく贈与することを要求するが、それは計算することなく与えなくてはならないからである。このことが意味の彼方に連れて行ってくれるのだ。だが『諳誦する=心で学ぶ』べきだというのはもうひとつ別の根拠を持っている。この〔聖書の〕一節は、心についての、心とは何であるかについての省察ないしは説教であるからだ。さらに正確に言うならば、心がおのれの正当な場に回帰したとするならば、どのようなもので《あるべき》なのかについての省察ないしは説教なのである。心の本質、すなわち心がそれに固有なかたちで、あるべきものとなるような場所、心がそれに固有なかたちで場を持つような場所、すなわちみずからの正当な《所在地〔=用地〕》において場を持つような場所、こうしたことはなんらかの経済(エコノミー)論的なものを連想させる。なぜならば、心の場とは、真の富の場、財宝の場、もっともよい資本蓄積の場所である、というよりはむしろ、そのような場所であるべく求められ、そう運命づけられているのからである。心の正しい所在地(アンプラスマン)とは、もっともよい資本投資(プラスマン)の場なのである。ご存じの通り、福音書のこの一節は、正義の問い、とりわけいわば経済論的な正義の問いを中心に展開している。施し、報酬、負債、富の蓄積などである。天上のエコノミーと地上のエコノミーの分割こそが、心の正当な場所を定めさせてくれる。山上で三回目に『隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる』(言い換えるならば、地上のエコノミーを犠牲にできたならば、あなたは天上のエコノミーを当てにすることができる、ということだ)と述べたあとで、イエスは次のように教える。
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
心はどこにあるのか。心とは、真の宝を未来において隠しているような場所にあるだろう。その真の宝は地上では見えない。その資本は、目に見え、感じ取ることができるような地上のエコノミーの彼方で蓄積されている。地上のエコノミーは、堕落しており、腐りやすく、虫が食ったり、さび付いたり、盗人に盗み出されたりしやすい。このことは、天上の資本の価値なき価格をほのめかしているばかりではない。天上の資本は見えない。価値が下落することもなく、盗まれることもない。天上の金庫のほうが安全で、封印を破られることもなく、強盗からも、売買の計算からも完全に守られている。価値が下落することのないこの資本は、無限に利潤を生みつづける。それは無限に安全な投資であり、最上のものよりさらによい投資、価格なき富なのだ」(デリダ「死を与える・4・P.193~200」ちくま学芸文庫 二〇〇四年)
読解の鍵は「贈与、犠牲、エコノミー」といったフレーズ。ニーチェから。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)
またその章の冒頭でデリダはボードレールを引用している。
「危険の大きさゆえに、対象の抹殺を赦してもいいと思うほどだ」(「ボードレール批評3・異教派・P.52」ちくま学芸文庫 一九九九年)
こんなにも愛の深淵を覗き込んでいるスワン。底なしだというのに。そしてスワンは日頃の生活様式まで変わってくる。まるで別人になる。
「実際、スワンはもはやこれまでと同じ人間ではなかったのである。スワンから、だれか女を紹介してほしいという手紙が届くことはもうけっしてなかった。どんな女にも興味を示さず、女たちに会える場所に出かけることもなくなった。レストランでも田舎でも、つい昨日まではスワンだと識別でき、つねに変わらぬスワンの態度と思えたのとは、まるで正反対の態度をとったのである。それほどに恋の情念は、心のなかに一時的にべつの性格が生じたかと思えるほど、それまでの性格を駆逐し、元の性格に示されていた不変の兆候を廃棄してしまう!」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.122」岩波文庫 二〇一一年)
スワンの恋心はもはや衝撃としての欲望へ変貌している。「例の楽節を聴いているときのスワンの顔を見ていると、呼吸が楽になる麻酔剤でも吸引しているのかと思えた」。スワンにとってヴァントゥイユの「小楽節」はもはやドラッグだ。「音楽のもたらす快感、スワンの心にやがて本物の欲求を生み出す快感は、それを感じている瞬間、さまざまな香水の匂いを嗅(か)いで試してみるときの快感に似ていた」。ここまで来るともう地獄を見るまでわからなくなるに違いない。どこか近現代人の依存症と似ている。スワンの場合はヴァントゥイユの音楽がドラッグの機能を持つ。「一角獣のように聴覚だけで世界を感知する非現実の存在になったと感じる」。
「例の楽節を聴いているときのスワンの顔を見ていると、呼吸が楽になる麻酔剤でも吸引しているのかと思えた。音楽のもたらす快感、スワンの心にやがて本物の欲求を生み出す快感は、それを感じている瞬間、さまざまな香水の匂いを嗅(か)いで試してみるときの快感に似ていた。それはわれわれ人間とは無縁の世界で、ただ感覚だけが到達できると思われる世界に触れたときの快感である。スワンにとって大きな安らぎであり、不思議な変革の場所だったのはーーースワンの絵画愛好家としてのどれほど繊細な目にも、風俗観察者としてのどれほど鋭利な精神にも、無味乾燥な人生が永久にぬぐいきれない傷痕をとどめていたからーーー、自分が人類とは無縁の、目も見えなければ論理的能力も奪われた存在となり、まるで空想上の一角獣のように聴覚だけで世界を感知する非現実の存在になったと感じることだった」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.126」岩波文庫 二〇一一年)
想像力で加工=変造して次のような妄想に耽りだすスワン。
「オデットから陰気な表情で見つめられると、スワンはボッティチェリの『モーセの生涯』に登場するにふさわしい顔をふたたび目(ま)の当たりにした気がして、その顔をくだんの画面のなかに再配置し、オデットの首を必要なだけ傾ける。そのように十五世紀にまでさかのぼってシスティーナ礼拝堂の壁面に女のすがたをテンペラで描き終えてもなお、その女がピアノの前で接吻され抱かれるのを待っているのだと考えると、画の女が生身の生を備えているという想念にきわめて強い力で陶酔に誘われる。そして目を血走らせ、むさぼり食らうように顎をつき出すと、ボッティチェリの描いた処女にとびかかり、その頬を両手で挟みつけるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.128」岩波文庫 二〇一一年)
ところがそんな芸術の効用も実はその点にあると言わねばならない。「この世のものと思えない純粋な存在らしきものが空中を通りかかり、目にみえない伝言を開示してくれる」とはどういうことか。芸術は<或る価値体系>の内部に閉じ込められてしまった人々にまったく<別の価値体系>があることをそっと教えてくれ、新しい地平を切り開いて見せてくれるもののうち、最も有効な方法の一つだ。
「ヴァイオリンの音にはーーーたとえば楽器が見えない場合、聞こえてきた音とそれが出てきた楽器のイメージとが結びつかず、イメージによる音響の修正ができていないためーーーある種のコントラルトの音と共通する点があり、その奏でる音には女性歌手が加わっているような錯覚にとらわれることがある。目をあげると、見えるのは中国の高価な箱のような楽器の胴だけなのに、ときおり人をあざむくセイレーンの叫び声に惑わされる。ときに練達の楽器が魔法にかけられたように震えだし、その奥に囚われた精霊のもがく音が、聖水盤に落ちた悪魔の声のように聞こえてくる。ときにはまた、この世のものと思えない純粋な存在らしきものが空中を通りかかり、目にみえない伝言を開示してくれる」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.353」岩波文庫 二〇一一年)
こんなふうに。
「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界は、われわれの見ている世界と同じでものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じようにわれわれには未知のままとどまるだろう。芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。これらの世界は、無限のかなたを回転するさまざまな星の世界よりもはるかに相互に異なる世界であり、その光の出てくる源がレンブラントと呼ばれようとフェルメールと呼ばれようと、その光源が消えて何世紀も経ったあとでも、なおもわれわれに特殊な光を送ってくれるのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.491」岩波文庫 二〇一八年)
プルーストは具体例を上げてもいる。ここではルノワール。
「ある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)
まるで気づかなかったものや聴いたことがなかったもの。だがしかしそれは確かに存在する。そのような事情にこれまで気づかなかったのはなぜか。ガタリはいう。
「彼の分析そのものは彼をトランス-主体的およびトランス-客体的抽象的諸機械装置の収集へと向かわしめ、彼はわれわれにそれらの綿密な描写、それも言うまでもなく絶妙の筆致を伴った描写を見せている」(ガタリ「機械状無意識・第2部・第1章・P.259」法政大学出版局 一九九〇年)
音楽ではヴァントゥイユが、絵画ではエルスチールが、実現させてみせた。ますますリゾーム化していくばかりの世界の中で、世界が脱中心化すればするほど逆に「トランス的=横断的」な<スキゾ分析>もまた同様に重要性を増していく。なお、昨今ではネット社会の大規模化に伴い、資本の論理に回収されないにもかかわらず、ただ単に<トランス的=横断的>なだけではない分子革命的というべき芸術的感性が不意打ち的に出現するという前代未聞のスリルが雷鳴のように轟き渡ることさえ少なくない。マイナーな次元であっても、むしろ逆にマイナーであること自体が有利な条件となって世界に割り込んでくるのだ。
BGM1
BGM2
BGM3
「スワンは仕事机のうえに、オデットの写真のように、エテロの娘の複製をおいた」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.101」岩波文庫 二〇一一年)
「エテロの娘」はユダヤ教でモーセの妻のこと。ヘブライ語で「小鳥」を意味する。モーセが神に殺されそうになった時、妻のチッポラが二人の間にできた男子(ゲルショム)をいきなり割礼して夫モーセの危機を救ったエピソードが「出エジプト記」に見える。
「モーセが途中、ある所に泊った時、ヤハウェは彼を襲って彼を殺そうとした。チッポラは尖った石を取ってその子の陽の皮を切り、モーセの脚に触れさせて言った、『本当にあなたはわたしにとってハサン・ダーミーム(血の割礼を受けた人)です』。そこでヤハウェはモーセを放免された。チッポラがあの時ハサン・ダーミームと言ったのは割礼を受けた者のことであった」(「出エジプト記・第四章・P.16~17」岩波文庫 一九六九年)
性別を問わず人間の性器の一部を切り取る割礼の儀式について。
「そして神はアブラハムに言われた、『だから君はわたしの契約を守らなければならない、君も君の後の子孫も幾代(いくよ)にかけて。わたしと君たちおよびその裔(すえ)との間の契約、君たちが守るべきわたしの契約は次の通りだ。君たちすべての男はみな割礼(かつれい)を受くべきことである。君たちはその陽(よう)の肉を切るべきである、これがわたしと君たちとの間の契約のしるしとなるのだ。君たちの中の男は生後八日に割礼を受けることを代々の定めとする。家で生まれた奴隷も、君の裔でないすべての外国人から金で買われてきた奴隷も同じである。すなわち君の家で生まれた奴隷も、金で買われた奴隷も同じく割礼を受くべきである。わたしの契約は君たちの肉に印せられて、永遠の契約となるのである。その陽の肉に割礼を受けていない無割礼の者がいたなら、その者はわたしの契約を破ったのだから民の中から絶たれねばならない』」(「創世記・第十七章・P.45」岩波文庫 一九五六年)
ユダヤ教の教義は「契約」ということに並々ならぬ重点が置かれている。例えばマルクス「資本論」を見ると次の「契約」という言葉を含む記述は重要事項として前提されている。
「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫 一九七二年)
さらにアブラハムが息子イサクを神への生贄として捧げるシーン。
「アブラハムは燔祭の薪をとってその子イサクに背負わせ、手に火と刀をとり二人一緒に進んで行った。イサクがその父アブラハムに向かって、『お父さん』と言う。アブラハムは、『はい、わが子よ』と答える。イサクは言う、『火と薪の用意はあるのに、燔祭の子羊は何処にあるのです』。アブラハムは答えて言った、『神御自身が燔祭の子羊を備え給うだろう、わが子よ』。かくて二人はともに進んで行った。ついに彼らはアブラハムに言われたその場所に着いた。アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、その子イサクをしばって祭壇の薪の上においた。かくてアブラハムはその手を伸ばし、刀を執って、まさにその子をほふろうとした。その時ヤハウェの使いが天より彼に呼びかけて、『アブラハムよ、アブラハムよ』と言った。アブラハムは『はい、ここに』と言う。ヤハウェの使いが言われた、『君の手を子供に加えるな。彼に何もしてはいけない。というのは今こそわたしは君が神を畏れる者であることを知ったのだ。君は君の子、君の独子(ひとりご)をも惜しまずにわたしに献げようとしたからだ』。アブラハムが眼をあげて見ると、見よ、一匹の牡羊がいてやぶにその角がひっかかっていた。アブラハムは行ってその牡羊を備え、それをその子のかわりに燔祭(はんさい)として捧げた」(「創世記・第二十二章・P.59~60」岩波文庫 一九五六年)
デリダはこのシーンについて「死の贈与」と銘打ってこう論じている。
「《犠牲の一般的エコノミー》は、複数の『論理』ないしは複数の『計算』に基づいて配分されることになるだろう。計算、論理、そして厳密な意味でのエコノミーなどは、それらの限界から出発して、このような《犠牲のエコノミー》において賭けられ、宙づりにされ、エポケー〔判断中止〕されているものを指し示すのだ。こうしたさまざまなエコノミーと同じように、『同じことに帰着する』ということは、汲み尽くすことのできない働きであり続けることもありうるのだ。こうしてあたかもイサクの犠牲がキリスト教を『準備』していたかのように、決然とそれを再キリスト教化ないし前キリスト教化するにあたって、キルケゴールは結論として、その名を挙げることなく『マタイによる福音書』を思い出させる。『なぜなら、神は隠れたことを見たまい、苦悩を知りたまい、涙を数えたまい、そして、何ものをも忘れたまわぬからである』。神が隠れたことを見ている、神は知っている。だが神はあたかも、アブラハムがしようとしていること、決断すること、しようと決断していることが何なのかを知らないかのようだ。神はアブラハムがすべての希望を捨て、取り返しのつかないようなかたちで愛する息子を神に捧げようと決断しておののいたのを確かめたのちに、アブラハムに息子を返す。アブラハムは死を、いや死より悪いものを耐え忍ぶことを受け入れた。それも計算もなしに、投資もなしに、再び自己に回収する当てもなしに受け入れたのだ。だから一見したところ、報酬や褒美の彼岸で、エコノミー〔=経済〕の彼岸で、報い(サラリー)を期待することなく受け入れたようにもみえる。エコノミーの犠牲がなければ、自由な責任も決断もない(決断はつねに計算の彼岸にある)のだが、この場合にエコノミーの犠牲とは、〔ギリシア語の〕オイコノミアすなわち家(オイコス)の掟、住まいや特有財産(プロプル)〔=夫婦共有財産制における夫婦の特有財産〕や私有財産、近親者の愛や情愛などの法などの犠牲にほかならない。ある瞬間に、アブラハムは絶対的犠牲のしるし、すなわち近親者に与えられた死、もっとも大切な唯一の息子への絶対的な愛に与えられた死のしるしを与える。ある瞬間に、犠牲はほとんど成就される。なぜなら、瞬間だけが、時の非-経過だけが、殺害者の振り上げられた手を殺害そのものから隔てているからだ。だから絶対的な切迫という捉えがたい瞬間には、アブラハムはもはや決断したことを変えることはできず、またそれを中断するこさえできない。したがって、《この瞬間に》、つまり決断を行為から隔てることさえないような切迫において、神はアブラハムに息子を返し、至高者〔=主権者〕としての絶対的な贈与として、犠牲をエコノミーの中に再び組み入れようと決断する。そのときこの絶対的な贈与は報酬に似たものである。
『マタイによる福音書』を出発点にして、私たちは『返す』とは何を意味するのかと問うことになる(『隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて〔=返して〕くださる』)。エコノミーなき贈与、死の贈与ーーーそれも値がつけられないほど価値がある者の死の贈与ーーーが、交換や報酬や循環やコミュニケーションの希望なしに果たされることが確実に思われた瞬間に、神は返すことを、生命を返すことを、愛する息子を返すことを決断する。アブラハムと神のあいだの秘密について語ること、それは犠牲としての贈与があるようにするために、両者のあいだであらゆるコミュニケーションが中断されなければならないことを意味する。言葉、記号、意味、約束の交換としてのコミュニケーションであれ、財産や物や富や所有物の交換としてのコミュニケーションであれ、すべてのコミュニケーションは中断されなければならない。アブラハムはあらゆる意味とあらゆる所有物を放棄するーーーそのときにこそ絶対的な義務としての責任が始まるのだ。アブラハムは神と非-交換の関係にある。彼は神に語ることはなく、神から応答も報酬も期待しないからこそ、秘密の中に閉じ込められている。応答すなわち責任はつねに、《お返し》すなわち報酬や報いなどを求める危険を冒しがちだが、それはみずからを失う危険でもある。応答や責任は、それが待ち受けていると同時に、当てにしたり〔=期限前に引き渡してもらったり〕、排除したり、望んだりはできないような交換という危険を冒すのだ。アブラハムにとって息子の命が自分の命よりも貴重だったことはかなりの根拠をもって言えると思うが、まさにこの息子の命を断念することによって、アブラハムは勝利する。彼は勝利するという危険を冒すのだ。さらに正確に言うならば、勝利することを断念し、応答も報奨も、彼に返されるべきもの、彼に《戻ってくる〔=彼に帰属する〕》ようなものは何も期待しないことによって(私はかつて散種を『父に戻ってこないもの』と定義したが、そのときにアブラハム的な断念の瞬間を描き出すこともできただろう)、アブラハムはこの絶対的な断念の瞬間に、神から息子を返してもらう。まさに同じ瞬間に、犠牲にしようとすでに心に決めていた息子を返してもらうのだ。返してもらえたのは、アブラハムが計算しなかったからである。『上出来だ』と、この上級で至高の計算を脱神秘化する者は言うだろう。この上位の計算とは、もはや計算しないことにある。父の法の下で、エコノミーは贈与の非エコノミーをふたたび自分のものにする。生命の贈与、あるいは結局同じことだが、死の贈与という非エコノミーを。
『マタイによる福音書』(第六章)に戻ろう。強迫観念的な反復のようにして、一つの真理が三度にわたって回帰してくる。『隠れたことを見ておられるあなたの父が報いて〔=返して〕くださる』という文のことである。この真理は諳誦する=心で学ぶべきだ。これが『諳誦すべき』真理だというのは、第一に、反復される定型表現、反復可能な定型表現を、理解することなく学ばなくてはならないような気がするからである(すでに述べた『tout autreはtout autreである』の場合と同様である。この一種のあいまいな諺を、ひとは封印されたメッセージのように、理解することもなく伝えたり運んだりできる。手から手へ伝え、口から口へささやくのだ)。これが、意味の彼方において、『諳誦する』ということである。じつのところ神は、知ることも計算することも、何かを当てにすることもなく贈与することを要求するが、それは計算することなく与えなくてはならないからである。このことが意味の彼方に連れて行ってくれるのだ。だが『諳誦する=心で学ぶ』べきだというのはもうひとつ別の根拠を持っている。この〔聖書の〕一節は、心についての、心とは何であるかについての省察ないしは説教であるからだ。さらに正確に言うならば、心がおのれの正当な場に回帰したとするならば、どのようなもので《あるべき》なのかについての省察ないしは説教なのである。心の本質、すなわち心がそれに固有なかたちで、あるべきものとなるような場所、心がそれに固有なかたちで場を持つような場所、すなわちみずからの正当な《所在地〔=用地〕》において場を持つような場所、こうしたことはなんらかの経済(エコノミー)論的なものを連想させる。なぜならば、心の場とは、真の富の場、財宝の場、もっともよい資本蓄積の場所である、というよりはむしろ、そのような場所であるべく求められ、そう運命づけられているのからである。心の正しい所在地(アンプラスマン)とは、もっともよい資本投資(プラスマン)の場なのである。ご存じの通り、福音書のこの一節は、正義の問い、とりわけいわば経済論的な正義の問いを中心に展開している。施し、報酬、負債、富の蓄積などである。天上のエコノミーと地上のエコノミーの分割こそが、心の正当な場所を定めさせてくれる。山上で三回目に『隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる』(言い換えるならば、地上のエコノミーを犠牲にできたならば、あなたは天上のエコノミーを当てにすることができる、ということだ)と述べたあとで、イエスは次のように教える。
あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。
心はどこにあるのか。心とは、真の宝を未来において隠しているような場所にあるだろう。その真の宝は地上では見えない。その資本は、目に見え、感じ取ることができるような地上のエコノミーの彼方で蓄積されている。地上のエコノミーは、堕落しており、腐りやすく、虫が食ったり、さび付いたり、盗人に盗み出されたりしやすい。このことは、天上の資本の価値なき価格をほのめかしているばかりではない。天上の資本は見えない。価値が下落することもなく、盗まれることもない。天上の金庫のほうが安全で、封印を破られることもなく、強盗からも、売買の計算からも完全に守られている。価値が下落することのないこの資本は、無限に利潤を生みつづける。それは無限に安全な投資であり、最上のものよりさらによい投資、価格なき富なのだ」(デリダ「死を与える・4・P.193~200」ちくま学芸文庫 二〇〇四年)
読解の鍵は「贈与、犠牲、エコノミー」といったフレーズ。ニーチェから。
「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)
またその章の冒頭でデリダはボードレールを引用している。
「危険の大きさゆえに、対象の抹殺を赦してもいいと思うほどだ」(「ボードレール批評3・異教派・P.52」ちくま学芸文庫 一九九九年)
こんなにも愛の深淵を覗き込んでいるスワン。底なしだというのに。そしてスワンは日頃の生活様式まで変わってくる。まるで別人になる。
「実際、スワンはもはやこれまでと同じ人間ではなかったのである。スワンから、だれか女を紹介してほしいという手紙が届くことはもうけっしてなかった。どんな女にも興味を示さず、女たちに会える場所に出かけることもなくなった。レストランでも田舎でも、つい昨日まではスワンだと識別でき、つねに変わらぬスワンの態度と思えたのとは、まるで正反対の態度をとったのである。それほどに恋の情念は、心のなかに一時的にべつの性格が生じたかと思えるほど、それまでの性格を駆逐し、元の性格に示されていた不変の兆候を廃棄してしまう!」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.122」岩波文庫 二〇一一年)
スワンの恋心はもはや衝撃としての欲望へ変貌している。「例の楽節を聴いているときのスワンの顔を見ていると、呼吸が楽になる麻酔剤でも吸引しているのかと思えた」。スワンにとってヴァントゥイユの「小楽節」はもはやドラッグだ。「音楽のもたらす快感、スワンの心にやがて本物の欲求を生み出す快感は、それを感じている瞬間、さまざまな香水の匂いを嗅(か)いで試してみるときの快感に似ていた」。ここまで来るともう地獄を見るまでわからなくなるに違いない。どこか近現代人の依存症と似ている。スワンの場合はヴァントゥイユの音楽がドラッグの機能を持つ。「一角獣のように聴覚だけで世界を感知する非現実の存在になったと感じる」。
「例の楽節を聴いているときのスワンの顔を見ていると、呼吸が楽になる麻酔剤でも吸引しているのかと思えた。音楽のもたらす快感、スワンの心にやがて本物の欲求を生み出す快感は、それを感じている瞬間、さまざまな香水の匂いを嗅(か)いで試してみるときの快感に似ていた。それはわれわれ人間とは無縁の世界で、ただ感覚だけが到達できると思われる世界に触れたときの快感である。スワンにとって大きな安らぎであり、不思議な変革の場所だったのはーーースワンの絵画愛好家としてのどれほど繊細な目にも、風俗観察者としてのどれほど鋭利な精神にも、無味乾燥な人生が永久にぬぐいきれない傷痕をとどめていたからーーー、自分が人類とは無縁の、目も見えなければ論理的能力も奪われた存在となり、まるで空想上の一角獣のように聴覚だけで世界を感知する非現実の存在になったと感じることだった」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.126」岩波文庫 二〇一一年)
想像力で加工=変造して次のような妄想に耽りだすスワン。
「オデットから陰気な表情で見つめられると、スワンはボッティチェリの『モーセの生涯』に登場するにふさわしい顔をふたたび目(ま)の当たりにした気がして、その顔をくだんの画面のなかに再配置し、オデットの首を必要なだけ傾ける。そのように十五世紀にまでさかのぼってシスティーナ礼拝堂の壁面に女のすがたをテンペラで描き終えてもなお、その女がピアノの前で接吻され抱かれるのを待っているのだと考えると、画の女が生身の生を備えているという想念にきわめて強い力で陶酔に誘われる。そして目を血走らせ、むさぼり食らうように顎をつき出すと、ボッティチェリの描いた処女にとびかかり、その頬を両手で挟みつけるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.128」岩波文庫 二〇一一年)
ところがそんな芸術の効用も実はその点にあると言わねばならない。「この世のものと思えない純粋な存在らしきものが空中を通りかかり、目にみえない伝言を開示してくれる」とはどういうことか。芸術は<或る価値体系>の内部に閉じ込められてしまった人々にまったく<別の価値体系>があることをそっと教えてくれ、新しい地平を切り開いて見せてくれるもののうち、最も有効な方法の一つだ。
「ヴァイオリンの音にはーーーたとえば楽器が見えない場合、聞こえてきた音とそれが出てきた楽器のイメージとが結びつかず、イメージによる音響の修正ができていないためーーーある種のコントラルトの音と共通する点があり、その奏でる音には女性歌手が加わっているような錯覚にとらわれることがある。目をあげると、見えるのは中国の高価な箱のような楽器の胴だけなのに、ときおり人をあざむくセイレーンの叫び声に惑わされる。ときに練達の楽器が魔法にかけられたように震えだし、その奥に囚われた精霊のもがく音が、聖水盤に落ちた悪魔の声のように聞こえてくる。ときにはまた、この世のものと思えない純粋な存在らしきものが空中を通りかかり、目にみえない伝言を開示してくれる」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.353」岩波文庫 二〇一一年)
こんなふうに。
「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界は、われわれの見ている世界と同じでものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じようにわれわれには未知のままとどまるだろう。芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。これらの世界は、無限のかなたを回転するさまざまな星の世界よりもはるかに相互に異なる世界であり、その光の出てくる源がレンブラントと呼ばれようとフェルメールと呼ばれようと、その光源が消えて何世紀も経ったあとでも、なおもわれわれに特殊な光を送ってくれるのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.491」岩波文庫 二〇一八年)
プルーストは具体例を上げてもいる。ここではルノワール。
「ある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)
まるで気づかなかったものや聴いたことがなかったもの。だがしかしそれは確かに存在する。そのような事情にこれまで気づかなかったのはなぜか。ガタリはいう。
「彼の分析そのものは彼をトランス-主体的およびトランス-客体的抽象的諸機械装置の収集へと向かわしめ、彼はわれわれにそれらの綿密な描写、それも言うまでもなく絶妙の筆致を伴った描写を見せている」(ガタリ「機械状無意識・第2部・第1章・P.259」法政大学出版局 一九九〇年)
音楽ではヴァントゥイユが、絵画ではエルスチールが、実現させてみせた。ますますリゾーム化していくばかりの世界の中で、世界が脱中心化すればするほど逆に「トランス的=横断的」な<スキゾ分析>もまた同様に重要性を増していく。なお、昨今ではネット社会の大規模化に伴い、資本の論理に回収されないにもかかわらず、ただ単に<トランス的=横断的>なだけではない分子革命的というべき芸術的感性が不意打ち的に出現するという前代未聞のスリルが雷鳴のように轟き渡ることさえ少なくない。マイナーな次元であっても、むしろ逆にマイナーであること自体が有利な条件となって世界に割り込んでくるのだ。
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