白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・脱神話闘争としての記号論的機械状プルースト

2022年06月02日 | 日記・エッセイ・コラム
夜の料理を共にしながらサン=ルーの友人が論じる次の文章に「互換性」というフレーズが出てくる。「そんな部隊が果たした役割はべつの戦闘でべつの部隊が果たした役割とそっくりとなって、歴史のなかに互換性のある例として引用される」。軍隊には無数の軍隊がある。しかし少なくとも二つの軍隊が等価性を持つ場合、そこに事実上の「互換性」という抽象的概念がリアルに浮かび上がる。

「『きみが突然むっとしたりせず、ぼくにも言わせてくれるなら』とサン=ルーの友人がことばを継いだ、『きみのいまの発言につけ加えておきたいのは、戦闘がたがいに模倣し合い重なり合うのは指揮官の知性だけのせいではないということだ。指揮官の判断の誤りで(たとえば敵の力量の評価が不十分で)自軍のすべての部隊に途方もない犠牲を強いることがあり、そんな犠牲をきわめて崇高な献身によってなしとげる部隊があると、そんな部隊が果たした役割はべつの戦闘でべつの部隊が果たした役割とそっくりとなって、歴史のなかに互換性のある例として引用される。一八七〇年だけに話を限るとしても、サン=プリヴァにおけるプロイセンの親衛隊や、フルシュヴィレールとヴィサンブールにおけるアルジェリア狙撃兵団の例があるからね』。『なるほど!互換性のある、とは至言だ!すばらしい!きみは頭がいい』とサン=ルーは言った。特殊なものの背後に一般的なものが存在することを教えられるたびに興味をそそられる私は、最後に挙げられたいくつかの例に無関心ではいられなかった」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.253~254」岩波文庫 二〇一三年)

<私>は室内にいるというだけではない。<私>は「大きく広がる夜から隔離されている」と感じる。ただ単に物質的なだけの「隔離」ではない。「外部のあらゆる気がかりから」、「ゲルマント夫人の想い出からも」、隔離されている。その条件とは何か。「サン=ルーの好意」、「その友人の好意」、「食事の部屋をおおう暖かさ」、「洗練された料理の風味」、というふうに、それらすべての「おかげ」だとプルーストは書く。

「私は大きく広がる夜から隔離されている気がした(凍てつく夜の闇はずっと遠くまで広がり、そこからときどき聞こえてくる汽車の汽笛はこの場にいる歓びをいっそう募らせるばかりだし、幸いなことに時計の音の告げる時刻は、目の前の青年たちがふたたびサーベルをつけて帰らなければならない時刻にはまだ遠かった)。それだけではなく私は、外部のあらゆる気がかりから、いや、ゲルマント夫人の想い出からもほぼ隔離されている気がした。いずれもサン=ルーの好意のおかげであり、その友人の好意がそれにいっそうの厚みをつけ加えてくれるおかげであり、この小さな食事の部屋をおおう暖かさのおかげでもあり、供される洗練された料理の風味のおかげでもあった」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.254~255」岩波文庫 二〇一三年)

完璧な隔離とは同一的な社会生活からの排除であり、なおかつ別の仕方で保障された<別の価値体系共同体>を設立することだ。

さて。いつどのように進行していくのかさっぱりわからない「ウクライナ情勢」について。第一次世界大戦終結時にヴァレリーはこう述べた。「軍事的危機はたぶん終わった」。しかし「知的危機は、より微妙であり、その性質からして、この上なくまぎらわしい様相を呈する」。なぜなら知的危機は「(本来的に隠蔽をこととする世界に属するから)、その正確な姿、その《相》をなかなか明らかにしない」というわけだ。

「軍事的危機はたぶん終わった。経済的危機はいまだにいささかも衰えを見せていない。しかし知的危機は、より微妙であり、その性質からして、この上なくまぎらわしい様相を呈するものであるが(なぜならそれは本来的に隠蔽をこととする世界に属するから)、その正確な姿、その《相》をなかなか明らかにしない」(ヴァレリー「精神の危機」『精神の危機・P.11』岩波文庫 二〇一〇年)

ヴァレリーのいう「知的危機」はどんな危機なのか。例えば一九三九年(昭和十四年)の「ノモンハン戦争」を「ノモンハン事件」と言い換える行為に等しい。戦争であるにもかかわらず事件として固定してみたり、逆に事件に過ぎない事態を大袈裟に戦争という言葉を用いて覆い隠してしまうような行為を指していう。そして「その正確な姿、その《相》」を「なかなか明らかにしない」し「明らかに」されようとしない。ところがまるで一切合切消滅してしまうかといえばそうでもない。芸術という方法があるからである。芸術はふだんなら「けっして把握されることのできないもの、すなわち純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすることができた」。だがそのエッセンスを取り出すに当たって「観察」しようとすると「感覚」が阻害される。また「過去を考察」するにしても「未来への期待」にしても、自分の知性が自分自身に都合のいいように加工=変造してしまい<単純なストーリー>に仕上げてしまう。すると接近することさえままならず、把握したと感じたはずの<断片>はたちまち現実性を奪われてしまうということが起こってくる。

「それは過去の一瞬、というだけのものであろうか?はるかにそれ以上のものかもしれない。むしろ過去にも現在にも共通し、この両者よりもはるかに本質的なものであろう。これまでの人生において、現実があれほど何度も私を失望させたのは、私が現実を知覚したとき、美を享受しうる唯一の器官である私の想像力が、人は不在のものしか想像できないという避けがたい法則ゆえに、現実にたいしては働かなかったからである。ところが突然、ところが突然、自然のすばらしい便法のおかげで、この厳格な法則が無効とされ、停止され、自然がある感覚ーーーフォークやハンマーの音とか、本の同一のタイトルとかーーーを過去のなかにきらめかせて想像力にその感覚を味わわせると同時に、それを現在のなかにもきらめかせ、音を聞いたり布に触れたりすることによって私の感覚を実際に震わせたことで、想像力の夢に、ふだんは欠けている存在感が付与されたのだ。そしてこの巧妙なからくりのおかげで、わが存在は、ふだんはけっして把握されることのできないもの、すなわち純粋状態にある若干の時間をーーーほんの一瞬の持続にすぎないがーーー手に入れ、それだけを切り離し、不動のものにすることができたのである。私があれほど幸福に身を震わせながら、皿に当たるスプーンと車輪を叩くハンマーとに共通する音を聞いたり、ゲルマント邸の中庭とサン・マルコ洗礼堂とに共通する不揃いな敷石を踏みしめたりしたとき、私のうちによみがえった存在は、さまざまなもののエッセンスのみを糧とし、おのが実体、おのが無上の喜びをそのエッセンスのなかにのみ見出すのだ。この存在は、現在を観察するときには感覚がそのエッセンスをとりだすことができないがゆえに、また過去を考察するときには知性がその過去を干からびさせてしまうがゆえに、また未来を期待するときには、未来を築くための材料となる現在と過去のさまざまな断片から、意志が自分の指定する実用的な目的にかなう断片だけを保存し、その断片の現実性を奪ってしまうがゆえに、衰弱してしまう」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.442~443」岩波文庫 二〇一八年)

しかし必ずしも芸術はそうではない。<或る価値体系>に陥ってばかりの人間に向けて<別の価値体系>の側から異次元のリアルを見せつける力を持つ。プルーストはこう述べる。

「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界は、われわれの見ている世界と同じでものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じようにわれわれには未知のままとどまるだろう。芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。これらの世界は、無限のかなたを回転するさまざまな星の世界よりもはるかに相互に異なる世界であり、その光の出てくる源がレンブラントと呼ばれようとフェルメールと呼ばれようと、その光源が消えて何世紀も経ったあとでも、なおもわれわれに特殊な光を送ってくれるのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.491」岩波文庫 二〇一八年)

ところでフェルメールについて少しばかり言及しておこう。またレンブラントと比較してフェルメールが優れているとか劣っているとかいう優劣の問題は全然関係ない。レンブラントが「光と闇と」を大胆に絵画化したのに対しフェルメールは「光」を新しく見出したという点で注意深くありたいと思うのである。フェリックス・ガタリはいう。

「諸事件の速度を緩慢にしたり加速したりすることはスキゾ分析の仕事ではない。スキゾ分析は次のことを決して忘れない。妥協や、後戻りや、進みすぎや、断絶や、革命が、コントロールしたり、あるいは超コード化したりしようとすることよりも、これを単に記号論的にかつ機械状に援助することが問題であるようなプロセスに属するものであるということである」(ガタリ「機械状無意識・第1部・第6章・P.205」法政大学出版局 一九九〇年)

例えば、作品「絵画芸術の寓意」左下の箱の金具、「デルフトの眺望」右端に描かれている繋留された船体、そしてとりわけ「牛乳を注ぐ召使い」にあるテーブルの上へごろごろとランダムに置かれたパンはあたかもたった今鉱脈から掘り返されてきたばかりのごつごつした金塊のようだ。デリダなら「散種されたスペルマ」とでも呼ぶであろう作品。音楽でいえばシェーンベルクのピアノソナタを思い起こさせる。

シェーンベルク「Three Piano Pieces op.11」

しかし実物のフェルメール作品に触れる機会は残念ながら余りない。だからといってあっけなく絶望的になるのは軽はずみに過ぎる。日本の美術館だと陶磁器の分野で「窯変天目茶碗」に良質のものが幾つかある。その内部を覗き込んでみよう。見る側と見られる側との<あいだ>で共鳴し共振し合うものがもしあればその瞬間こそまさしく新しい<出会い>というにふさわしい衝撃が与えられるに違いない。

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