最初に置かれた第一篇「スワン家のほうへ」を迂回して第二篇「花咲く乙女たちのかげに」の後半「土地の名・土地」から始めたのには理由がある。バルベック滞在のエピソードが有名だからではなくてプルーストの問いかけがバルベックへの移動から始まっていると思うからである。移動ということ。さらに移動していた場所からそもそも住んでいた地点への回帰。そこから始まる日本の小説作品の中に夏目漱石「道草」があるが、ほかにも「三四郎」や「門」などは<移動>から始まっている。前者は移動中、後者は移動した落ち着き先から。さらに「坑夫」の主人公は<移動>してばかり。そして「明暗」に至ると連載途中で終わっている。現代の読者は漱石文学の中に「病気/症例」を見る。だが、おそらく漱石は近代日本という運動体がそもそも「病気」から、しかもかなり重篤な「症状」から始まったとみている。そしてまたプルーストの<私>は、一体どこの誰なのか、最後までわからないまま終わってしまう。とすれば近代という時代は世界史的規模で「病んでいた」のだと言うことができる。しかし現代は近代を克服できたのか。できていない。漱石の主人公たちが迂回してばかりいるように、今の日本社会も迂回してばかりだ。
プルーストと漱石とでは主題が異なるけれども、現代人が彼らの作品の中に「病気/症状」を読み取るとすれば、プルーストも漱石も逆に現代人の日常生活そのものが「病気/症状」に映って見えるに違いない。だからといってどちらが偉い偉くないという話は論外あるいは場外乱闘とでも言うべきか。しかし読者というのは案外、場外乱闘を好むものだ。ところが問題はそういうことではなく、両者に共通の傾向として、漱石作品もそうだがプルースト作品もまた、ほんのちょっとした違和感を鍵としてあちこちで提出されている。どこから来てどこへ行くのかという主題は共通のテーマだが、その周辺に目をやると、たちまち持ちきれないほど大量の<断片>が群をなして転がっていることに気づくほかない。ちなみにガタリはそれら<諸断片>のことを指して<諸成分>と呼んでいるが。次の一節は<私>が侵してしまっている、まさしく一般的な次元で往々にしてありがちな検討結果である。
「よく考えてみれば、私の経験の素材はいずれ私の書物の素材となるが、結局その素材はスワンに由来するものだった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.531」岩波文庫 二〇一八年)
しかしこの一節はあながちまったくの的外れというわけでもない。「失われた時を求めて」には中心点がない。中心がないという資格で絶対的な起源を決定することはできない。<できない>わけであって<間違い>ともまた違うのである。問いはそんなところにはなく、脱中心的な運動ばかりが言語化されてぞろぞろ接続され切断され再接続され、といったふうに永遠回帰していきそうな気配を濃厚に漂わせているただならぬ<諸断片>のモザイクだという次元を浮遊している。あたかも「亡霊」のように。そしてこのモザイクはモザイク自体が動くのである。それこそ「亡霊」のように。パズルのピースはいつも必ずぴたりと一致するわけではまるでない。むしろ一致しない。もう「亡霊」の乱舞を静かに見届けるほか方法を失ってしまうかのようにできている。スワンでないと言えるのはなぜか。次の箇所にこうある。
「『これだったのか、ソナタの小楽節がスワンに提示していた幸福とは。ところがスワンは勘違いして、この幸福を恋の喜びと同一視してしまい、この幸福を芸術創造のなかに見出すすべを知らなかった。これだったのか、ソナタの小楽章にもまして七重奏曲の赤味を帯びた神秘的な呼びかけが、私にこの世を超えるものとして予感させてくれた幸福とは。ところがスワンはこの七重奏曲を知ることができなかった。自分のために用意された真実が明らかになる前に世を去った多くの人と同じように、死んでしまったからだ。もっともこの真実は、スワンの役に立つことはなかっただろう』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.453」岩波文庫 二〇一八年)
プルーストはそう記述している。それが確かなら、始まりは「スワン」であるかのように映って見えているばかりであって、本当は「ヴァントゥイユの七重奏曲」から前方へも後方へも引き延ばされてきたと言えてしまうからである。難儀な話だ。そこでプルーストは次の言葉を挿入してくる。すると辻褄が合う。
「作家にとって印象は、科学者にとっての実験に相当するが、ただし科学者にあっては知性の仕事が先に立つのにたいして、作家にあってはそれが後まわしになるという違いがある」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458~459」岩波文庫 二〇一八年)
なんと懐かしいフレーズだろう。マルクスはいう。
「あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼ら自身の社会的な産物の秘密を探りだそうとする。なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な産物だからである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫 一九七二年)
けれどもここではまだ、問いの次元が見えそうになっている、というだけのことだ。重要なのは<外へ出る>こと、<外へ>出してやること、ではなかったか。プルーストはいう。それができるのは芸術だけだと。「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる」と。
「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界は、われわれの見ている世界と同じでものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じようにわれわれには未知のままとどまるだろう。芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。これらの世界は、無限のかなたを回転するさまざまな星の世界よりもはるかに相互に異なる世界であり、その光の出てくる源がレンブラントと呼ばれようとフェルメールと呼ばれようと、その光源が消えて何世紀も経ったあとでも、なおもわれわれに特殊な光を送ってくれるのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.491」岩波文庫 二〇一八年)
ところでスワンはただ単にスノッブな知識人ではなく日常的にフェルメール研究に打ち込んでいる。
「それでもごくまれにオデットが午後、家に訪ねてくる日がある。するとスワンの夢想や再会したばかりのフェルメール研究は、中断された」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.131」岩波文庫 二〇一一年)
この「中断/切断」。中断や切断を通して、迂路を経て始めて中心へ向かうことができる。だがそれこそ迂路でしかないという点で、ますます中心は遥か彼方に遠ざかってしまう。ところでしかし、なぜ「迂路」なのか。ニーチェはいう。
「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫 一九九三年)
ということが確かなら、かつての戦争の総括を今の戦争で消去しようとしているのだろうか、世界は。なおプルースト自身、フランス社交界の中身の虚無性を暴露したくてたまらないらしいのだが、批判している知識人たちの中にプルースト自身が含まれていることをよく承知の上で批判している。揶揄したくてたまらないようなのだ。
BGM1
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プルーストと漱石とでは主題が異なるけれども、現代人が彼らの作品の中に「病気/症状」を読み取るとすれば、プルーストも漱石も逆に現代人の日常生活そのものが「病気/症状」に映って見えるに違いない。だからといってどちらが偉い偉くないという話は論外あるいは場外乱闘とでも言うべきか。しかし読者というのは案外、場外乱闘を好むものだ。ところが問題はそういうことではなく、両者に共通の傾向として、漱石作品もそうだがプルースト作品もまた、ほんのちょっとした違和感を鍵としてあちこちで提出されている。どこから来てどこへ行くのかという主題は共通のテーマだが、その周辺に目をやると、たちまち持ちきれないほど大量の<断片>が群をなして転がっていることに気づくほかない。ちなみにガタリはそれら<諸断片>のことを指して<諸成分>と呼んでいるが。次の一節は<私>が侵してしまっている、まさしく一般的な次元で往々にしてありがちな検討結果である。
「よく考えてみれば、私の経験の素材はいずれ私の書物の素材となるが、結局その素材はスワンに由来するものだった」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.531」岩波文庫 二〇一八年)
しかしこの一節はあながちまったくの的外れというわけでもない。「失われた時を求めて」には中心点がない。中心がないという資格で絶対的な起源を決定することはできない。<できない>わけであって<間違い>ともまた違うのである。問いはそんなところにはなく、脱中心的な運動ばかりが言語化されてぞろぞろ接続され切断され再接続され、といったふうに永遠回帰していきそうな気配を濃厚に漂わせているただならぬ<諸断片>のモザイクだという次元を浮遊している。あたかも「亡霊」のように。そしてこのモザイクはモザイク自体が動くのである。それこそ「亡霊」のように。パズルのピースはいつも必ずぴたりと一致するわけではまるでない。むしろ一致しない。もう「亡霊」の乱舞を静かに見届けるほか方法を失ってしまうかのようにできている。スワンでないと言えるのはなぜか。次の箇所にこうある。
「『これだったのか、ソナタの小楽節がスワンに提示していた幸福とは。ところがスワンは勘違いして、この幸福を恋の喜びと同一視してしまい、この幸福を芸術創造のなかに見出すすべを知らなかった。これだったのか、ソナタの小楽章にもまして七重奏曲の赤味を帯びた神秘的な呼びかけが、私にこの世を超えるものとして予感させてくれた幸福とは。ところがスワンはこの七重奏曲を知ることができなかった。自分のために用意された真実が明らかになる前に世を去った多くの人と同じように、死んでしまったからだ。もっともこの真実は、スワンの役に立つことはなかっただろう』」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.453」岩波文庫 二〇一八年)
プルーストはそう記述している。それが確かなら、始まりは「スワン」であるかのように映って見えているばかりであって、本当は「ヴァントゥイユの七重奏曲」から前方へも後方へも引き延ばされてきたと言えてしまうからである。難儀な話だ。そこでプルーストは次の言葉を挿入してくる。すると辻褄が合う。
「作家にとって印象は、科学者にとっての実験に相当するが、ただし科学者にあっては知性の仕事が先に立つのにたいして、作家にあってはそれが後まわしになるという違いがある」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458~459」岩波文庫 二〇一八年)
なんと懐かしいフレーズだろう。マルクスはいう。
「あとになって、人間は象形文字の意味を解いて彼ら自身の社会的な産物の秘密を探りだそうとする。なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な産物だからである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫 一九七二年)
けれどもここではまだ、問いの次元が見えそうになっている、というだけのことだ。重要なのは<外へ出る>こと、<外へ>出してやること、ではなかったか。プルーストはいう。それができるのは芸術だけだと。「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる」と。
「われわれは芸術によってのみ自分自身の外に出ることができ、この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。他人の見ている世界は、われわれの見ている世界と同じでものではなく、その景色もまた、芸術がなければ月の景色と同じようにわれわれには未知のままとどまるだろう。芸術のおかげでわれわれは、自分の世界というただひとつの世界を見るのではなく、多数の世界を見ることができ、独創的な芸術家が数多く存在すればそれと同じ数だけの世界を自分のものにできる。これらの世界は、無限のかなたを回転するさまざまな星の世界よりもはるかに相互に異なる世界であり、その光の出てくる源がレンブラントと呼ばれようとフェルメールと呼ばれようと、その光源が消えて何世紀も経ったあとでも、なおもわれわれに特殊な光を送ってくれるのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.491」岩波文庫 二〇一八年)
ところでスワンはただ単にスノッブな知識人ではなく日常的にフェルメール研究に打ち込んでいる。
「それでもごくまれにオデットが午後、家に訪ねてくる日がある。するとスワンの夢想や再会したばかりのフェルメール研究は、中断された」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.131」岩波文庫 二〇一一年)
この「中断/切断」。中断や切断を通して、迂路を経て始めて中心へ向かうことができる。だがそれこそ迂路でしかないという点で、ますます中心は遥か彼方に遠ざかってしまう。ところでしかし、なぜ「迂路」なのか。ニーチェはいう。
「今では何か戦争が勃発するやいなや、きまっていつも同時に民族の最も高貴な人士の胸中にすら、秘密にされてはいるものの一つの喜びが突然に生ずる。彼らは有頂天になって新しい《死》の危険へと身を投ずる、というのも彼らは祖国への献身のうちに、やっとのことであの永いあいだ求めていた許可をーーー《自分たちの目的を回避する》許可を手に入れたと、信ずるからだ。ーーー戦争は、彼らにとって、自殺への迂路(うろ)である、しかも良心の呵責をともなわぬ迂路である」(ニーチェ「悦ばしき知識・三三八・P.358~359」ちくま学芸文庫 一九九三年)
ということが確かなら、かつての戦争の総括を今の戦争で消去しようとしているのだろうか、世界は。なおプルースト自身、フランス社交界の中身の虚無性を暴露したくてたまらないらしいのだが、批判している知識人たちの中にプルースト自身が含まれていることをよく承知の上で批判している。揶揄したくてたまらないようなのだ。
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