白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・スワンの愛の冒瀆的二重性

2022年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム
ヴィルパリジ夫人たちは各々関心のある話を連鎖・交錯させつつそれぞれの輪を描いている。そんな時シャルル・モレルが<私>のところへやって来て「有名な女優たちや一流の粋筋の女(ココット)たちの写真」を見せてくれた。モレルは<私>を<あなた>と呼ぶ。対等の関係というよりも「あなたは素晴らしい」と賛辞を贈る時に用いる<あなた>だ。

「その写真を見せてもらっているあいだ私は、青年モレルが私にたいして対等の者を相手にする口をきくことに気づいた。父親のほうは私の両親に語りかけるのにいつも『三人称』しか使わなかったものだがその息子は、できるかぎり『旦那さま』(ムッシュー)とは言わず『あなた』と言うのが嬉しいらしい。どの写真にも、たいてい『私の最良の友に』といった献辞が記されている。それより恩師らずでずっと思慮ぶかい女優などは『友人のなかで最良の人に』と書いていた。聞くところでは、そう書いておけばその女優は、私の叔父はけっして自分の最良の友ではなく、それとはほど遠い存在で、こまごました世話を一番よくやってくれた人、自分が利用した人、よくできた人、さしずめ、めでたい老いぼれ、などと言うことができるというのだ」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.208」岩波文庫 二〇一三年)

もっとも、モレルは明確な目的があって<私>に近づこうとしている。ゲルマント家の中庭でチョッキ屋を営んでいるジュピアンの姪と知り合いになりたいらしい。わかりやすい態度なのか、<私>もまた、モレルに合わせて<あなた>を採用した。

「モレルは、私から『親しい友』と呼んでいただくほどの知り合いでないことはわきまえているから、娘の前では『もちろん親しい先生はまずいでしょうがーーーでも、もしよかったら、親しい大衆芸術家』とは言ってもらってかまわないとほのめかしたが、私は店にはいいると、サン=シモンなら『称号を与える』と呼んだはずの行為はさしひかえ、モレルが何度も『あなた』とくり返すのにたいして、こちらも『あなた』と答えるにとどめた」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.211」岩波文庫 二〇一三年)

ここで一度はっきりさせておかねばならないことがある。名前の場合は特に問題ないけれども、文章の場合、自分が使用する言語について自分が生まれ育った土地の言葉でない言葉を使用するほかない立場というものがある。有名な思想家ではデリダの場合がそうだ。アルジェリアで生まれ育った。かつてフランスの植民地だったからアルジェリアの公用語はフランス語である。デリダはアルジェリア生まれのフランス人である。何かいびつなひび割れのようなものを感じないだろうか。デリダはこういっている。書籍のタイトルからして「他者の単一言語使用」という、どこか挑発的なものを感じさせるものが採用されている。

「もちろん、人はいくつもの言語を話すことができる。一つならずの言語において運用能力をそなえた主体たちがいる。或る人々は、同時にいくつもの言語で書きさえする(さまざまな補綴、さまざまな接ぎ木、翻訳、転換)。しかし、彼らはそのことをつねに絶対的特有言語を目指して行っているのではなかろうか?そして、いまだ未開の一つの言語への約束の中で?昨日は聴き取れなかったたった一つの詩への?私が口を開くたびに、私が話し、あるいは書くたびに、私は《約束しているのだ》。望むと望まざるとにかかわらず。約束の宿命的な性急さーーーここではそれを、当然ながらそれに結びついている意志や意図あるいは言わんとすること=意義作用〔vouloir-dire〕の諸価値から分離する必要がある。この約束のパフォーマティヴは、他にも数ある《スピーチ・アクト》のうちの一つというわけではない。それは他のすべてのパフォーマティヴに含まれているものなのだ。そして、この約束こそが来たるべき一つの言語の単一性を告げ知らせるのである。『一つの言語があるのでなければならない』(それは必然的に『なぜなら、それは存在しないから』あるいは『というのも、それが欠けているから』ということを言外にほのめかしている)、『私は一つの言語を約束する』、すなわち、同時にあらゆる言語に先立つ『一つの言語が約束されている』ということこそが、あらゆる言葉を呼び寄せるのであり、かつ、一つひとつの言語にと同時にあらゆる言葉にすでに属しているのである。この到来への呼びかけは、言語を前もって結集させる。それは、言語を迎え入れ、言語を寄せ集めるーーーその同一性や統一性のうちにではなく、その自己性のうちにですらなく、その自己への差異の結集の単一性ないし特異性のうちに。すなわち、自己《に対する》差異のうちにというよりも、むしろ自己《とともにある》差異のうちに。《一つの》言語を、特有言語の単一性を与えるーーーだがそれも、それを与えることを約束することによってそうするーーーこの約束の外で語ることは可能ではない。この《統一性なき単一性》の外へ出ることは問題にはなり得ない。それは、他者と対立させられる必要はないし、他者から区別される必要すらない。それは、他者《の》単一言語なのだ。この《の》が意味しているのは所有権でもなければ出自でもない。言語は他者のものであり、他者からやって来たものであり、他者の到来《そのもの》なのである」(デリダ「たった一つの、私のものではない言葉(他者の単一言語使用)・8・P.128~129」岩波書店 二〇〇一年)

このようなケースは大変多い。今後はもっと増えるだろう。その場の状況次第でどちらかを選択して使い分ける方法もあるにはある。しかし、ではなぜ、使い分ける必要があるのか。どちらでもいいしミックスさせても構わない。にもかかわらず、なぜ人々は単一言語にこだわるのだろうか。慎重かつ注意深く使い分ける必要性が出てくるのか。デリダがやたらと<ダブル・バインド>にこだわる必然性はこんなところにも不意に顔を覗かせる。

さてしかし、プルーストはモレルが持ってきた写真の話を続けていく。<私>はその中に「スワン夫人」の写真を見つける。かつて「粋筋の女(ココット)」=「カフェやキャバレーの踊り子・売春婦など」として生計を立てていた女性である。しばしばあるケースなのだが。モレルの態度はやけにさっぱりしている。目的が違うとそんなことはまるでどうでもよくなるものだ。しかも社交界なのでスワン夫人のような「元=踊り子」などは星の数ほどもいるのでさして珍しくもない。ただ、かつてのスワン夫人とモレルの叔父との関係をどう位置づけるべきかモレルはよく知らない。「私の叔父はこのご婦人と親しかったのでしょうか?いったい叔父の生涯のどの時期にこのご婦人を位置づけたらいいのか」。モレルが当惑しているのはその点である。

「私は青年の父親が届けさせた写真のなかにエルスチールの描いたミス・サクリパン(つまりオデット)の写真があったことに非常に驚いて、シャルル・モレルを正門まで送ってゆきながら、こう言った、『あなたに訊いてもわからないかもしれないのですが、私の叔父はこのご婦人と親しかったのでしょうか?いったい叔父の生涯のどの時期にこのご婦人を位置づけたらいいのか見当もつかないのですが、スワンさんのことを想うとそれが気になるのですーーー』。『そうそう、申しあげるのを忘れるところでしたが、父はあなたのご注意をこのご婦人に向けるよう私に勧めておりました。実際この裏社交界の女(ドゥミ・モンデーヌ)は、あなたが最後に叔父さまにお会いになられた日、叔父さまのところで昼食をとっていました。私の父は、あなたをお通していいのか、よくわからなかったそうです。この尻軽女はあなたがすっかり気に入ったそうで、またお会いするつもりでいたのです。ところがちょうどそのとき、父から聞いたところではお宅にもめごとがあって、あなたは二度と叔父さまにはお会いになりませんでした』」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.212」岩波文庫 二〇一三年)

次のセンテンスは笑わせる。どこからどう見ても「粋筋の女(ココット)」=「カフェやキャバレーの踊り子・売春婦など」としか見えない衣装をまとった女性と、今やスワン夫人として社交界を渡っている女性とを、一人の女性として合成して考えなくてはならなくなる。プルーストが言いたがっているのはスワン夫人の二重性についてだ。<私>にこう思考するよう促している。スワン夫人としては確実に一人しかいないわけだが、にもかかわらず実をいえば、「ふたりは私の想い出のなかでかけ離れた別人だった」と。諸商品の無限の系列のようなアルベルチーヌがいるようにスワン夫人もまた無限の系列を描いていたのだと。見た目はなるほど一人の人間に過ぎない。とはいえ、その中に一体どれくらいの人間がいるのか。激しく自己分裂を繰り返しつつ華麗な人生を送ってきた女性の一人には違いない。

「そのとき青年が微笑んだのは、遠くからジュピアンの姪に別れをつげるためだった。娘のほうも青年を見つめていて、おそらく青年の端正なほっそりした輪郭の顔や軽やかな髪、晴れやかな目などにみとれていたのだろう。私はといえば、青年の手を握りながら、スワン夫人に想いを馳せ、これからは夫人と『バラ色の服の婦人』を同一人物と考えなくてはならないのかと考えて愕然とした。それほどふたりは私の想い出のなかでかけ離れた別人だったのである」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.213」岩波文庫 二〇一三年)

ところでスワン夫人について。プルーストは意外なほど多くの文章を情報として読者に提供する。スワンにとってスワン夫人は、第一に音楽の楽節として出現したようだ。<スワン>は<スワン夫人というばらばらの情報>を音楽の一節に変換されたものとして受け取る<受容体>の機能へ還元される。始めのうちはなかなか曖昧なままだ。

「そのとき聞こえる音は、高低や長短によって、たしかにわれわれの眼前でさまざまな大きさの表面を占めてアラベスクを描き、われわれに拡がりとか、繊細さとか、安定とか、気まぐれとかを感じさせてくれる」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.66」岩波文庫 二〇一一年)

何度か繰り返されるリフレインが印象深く記憶されるに従って、夫人のイメージも徐々に明晰な輪郭を与えられる。

「いまやスワンは、ひとつの楽節がしばしのあいだ音のうえに立ちのぼるのをはっきり見わけることができた」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.67」岩波文庫 二〇一一年)

そしてスワンが帰宅した時すでに、スワンにとってスワン夫人はなくてはならない女性へと変換されていた。

「家に帰ると、スワンはその楽節を必要とした。まるでちらっと見かけた通りすがりの女から人生に新たなイメージ、自分の感性にこれまでにない大きな価値をもたらすイメージを授けられた男のような気分だった」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.68」岩波文庫 二〇一一年)

そこで、スワンが注意深く踏んでいったに違いない痕跡を辿ってみたいと思う。ころころよく変わる多義的な、少なくとも両義的な<愛>の様相についてレヴィナスから引こう。

(1)「覆いをとって発見することがここで意味しているのは、秘密を開示することよりも、むしろ蹂躙することである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第4部・P.177」岩波文庫 二〇〇六年)

(2)「冒瀆的な官能は見ることがない。覆いをとって発見することは、それが《見ることを欠いた志向性》であるがゆえに、光をはなつこともない。覆いをとって発見されるものは《意味作用》として呈示されることがなく、どのような地平もそれによって照明されることがない。女性的なものが呈示する顔は、顔のかなたへとおもむく顔である。愛される女性の顔は、《エロス》によって冒瀆される秘密を《表出するのではない》。その顔は表出することをやめてしまう。あるいはこう言ったほうがよければ、愛される女性の顔が表出するものは、表出することの拒否にほかならない。表出されるものはつまり、語りと慎ましさのおわりであり、現存の秩序がとつぜん中断することにほかならないのである。女性の顔においては、官能的なもののあいまいさによって、表出の純粋さがすでにくもらされている。表出が慎しみのなさに転じ、この慎しみのなさは無よりもわずかなものを語るあいまいさにすでに近づいている。それはあらかじめ笑いとからないになってしまっているのである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第4部・P.177~178」岩波文庫 二〇〇六年)

(3)「意味作用という原初的なできごとは顔として生起する。顔がなにものかとの《関係で》、ある意味作用を受けとるわけではない。顔はそれ自体で意味し、その意味作用は意味付与に先行している。意味あるふるまいはあらかじめ顔の光のうちに浮かび上がるのであり、顔は光がそのうちで見られる光を拡散するのである。顔について説明する必要はない。顔から、いっさいの説明は開始されるからである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第4部・P.179~180」岩波文庫 二〇〇六年)

(4)「不敬すらも顔を前提している。始原的なものとさまざまな事物は、敬意と不敬との埒外にある。挑発的なものの無-意味なありかたを裸形が獲得しうるためには、顔がすでに知覚されている必要がある。女性の顔のうちで、この光と影とがふたたびむすびあわされている。女性的なものとは、くもりが光をとり囲み、すでにそれを侵食しているような顔である。エロスという、一見すると非社会的なものである関係すら、否定的なかたちであっても社会的なものとかかわっている。女性的なありかたをとった顔のこの反転ーーー顔にかかわるこの歪みーーーによって、顔の意味あるありかたのただなかで無-意味が生じる。顔のうちに無-意味がこのように現前すること、あるいは無-意味が有-意味的なありかたに関係づけられることーーーそこでは顔の清らかさと慎ましさが、みだらなものとの境界上に位置しており、みだらなものはなお斥けられながらもすでにまぢかにあって、すぐそこまで接近しているーーーが、女性の美という原本的なできごと、美が女性的なもののうちでまとうことになる際だった意味という、原本的できごとなのである」(レヴィナス「全体性と無限・下・第4部・P.183~184」岩波文庫 二〇〇六年)

身体の美というのは一方からもう一方への<あいだ>に出現する生成変化の運動をいうのだ。その生々しさはとてもではないが「習慣・制度」で捕獲することのできない<外部>にほかならない。バルトならこういうだろう。

「身体の中で最もエロティックなのは《衣服が口を開けている所》ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である」(バルト「テクストの快楽・P.18」みすず書房 一九七七年)

漲(みなぎる)る活力などまるでいらない。ほんの僅かな風のいたずらほどの裂け目が稲妻のように走る。ただそれだけで愛という欲望は世界を一挙に不安に陥れることさえ稀ではない。

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