白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて15

2022年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

(2)絵画。第十二回。


「婆娑羅シリーズ5・深夜の避暑」


「婆娑羅シリーズ6・クリムゾンの庭園」

いかがでしたでしょうか。参考になれば幸いです。

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Blog21・恋愛と音楽とのトランス記号論的流通性/生産への意志

2022年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
ヴァントゥイユの音楽は哲学しているわけではない。逆にヴァントゥイユの音楽は哲学しないというわけでもない。ただそれは「生成」する。そして「生成」するものはいつも「生成変化」しないではおれず、従って「散りぢりになった小楽節という形をとって崩壊してゆく」。<諸断片>へと解体される。ところがこの解体は目的としての解体を目指しているわけではなく、逆に<微分化への意志>として「生成する」。ソナタは「散りぢりになった小楽節という形をとって」脱コード化を押し進める。それぞれの小楽節は散在する<分子>として再構成される準備に入っていく。

「例の小楽節が、すっかり消え去る前に、そこに含まれるさまざまな要素に分解され、散りぢりになった状態でなおもいっとき漂ったとき、私にとってそれは、スワンの場合と違って、消えゆくアルベルチーヌの使者とはならなかった。小楽節が私のうちに目醒めさせたのは、スワンの場合とはかならずしも同様の連想ではなかったのである。私がとりわけ心を打たれたのは、アルベルチーヌへの愛が私の生涯を通じて形づくられたように、ソナタの全過程を通じて形づくられるフレーズの入念な彫琢であり、さまざまな試みや反復であり、要するにフレーズの『生成』であった。そしていまや自分の愛を形づくったさまざまな要素が、ある日には嫉妬の面、べつの日にはまたべつの面といったふうに、日ごとにひとつまたひとつと消え去り、結局すこしずつ当初のかすかな発端へ戻ってゆくのを理解していた私は、ほかならぬその愛が、散りぢりになった小楽節という形をとって崩壊してゆくのを目の当たりにする想いがした」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.314~315」岩波文庫 二〇一七年)

音楽を構成する最低限度の分子へと微分化され「散りぢりになった小楽節」は変奏曲のように少しずつ違ったものへと変化していく。<私>の恋愛は変奏曲のように次々とアレンジを変えて反復される。もはや中心というものはどこにもない。「愛と嫉妬」という過酷なテーマであるにもかかわらず、脱コード化の運動はどんどん反復されるとともに差異の反復がさらなる差異を発生させる「生成-機械」へ変わっていく。ヴァントゥイユの音楽は今や<音楽-生産機械>として、善悪の彼岸において、<贈与としての生産>へ変容する。

また「娘たちがひとつに凝縮されていた私の愛という、消滅しつつある星が、いまやふたたび散乱し、こうして塵のように飛散する星雲と化す」。娘たちも<私>も「ふたたび散乱し」そして「塵のように飛散する星雲と化す」。<私>は中心ではないのだ。娘たちもまた中心ではあり得ない。

「日曜日にアルベルチーヌと出かけた車からそうしたように、このよく晴れた日に数えきれぬほど花咲いた。すると娘たちのひとりのうえに注いだ私のまなざしとたちまち対になったのは、アルベルチーヌならこの娘たちにこっそり投げかけたにちがいない、好奇心あふれる、盗み見るような、ずうずうしい、捉えがたい想いを反映したまなざしでで、そのまなざしは、青味をおびて謎めいた翼を羽ばたかせて私のまなざしと一体になり、それまではいたって自然のままであったこの小径の様相を一変させるには、私自身の欲望だけでは十分でなかっただろう。その欲望が私にとって未知な点はなにひとつなかったからである。ときには少し悲しい小説を読んで、いきなり過去へ連れ戻されることがある。というのもある種の小説は、一時的に正式の喪に服するようなもので、習慣を廃棄してわれわれをふたたび人生の現実に触れさせてくれるのであるが、それは悪夢のように数時間つづくだけである。なぜなら習慣の力なり、その力によって生みだされる忘却なり、頭脳には習慣と闘って真実を再創造する能力がないせいで習慣の力によって再生される陽気さなりのほうが、優れた書物の催眠術のような暗示力をはるかに凌駕するからで、書物の暗示力は、すべての暗示力と同じく、きわめて短時間の効果しか持たない。そもそも私がバルベックで最初にアルベルチーヌと知り合いたいと望んだのは、街なかの通りや郊外の街道であれほど何度も見かけて私の足を止めさせた娘たちを代表するのがアルベルチーヌだと思われたからであり、私にとってアルベルチーヌがその娘たちを要約しうる娘だったからではないか。その娘たちがひとつに凝縮されていた私の愛という、消滅しつつある星が、いまやふたたび散乱し、こうして塵のように飛散する星雲と化すのは、当然のなりゆきではなかろうか。あらゆる娘が私にはアルベルチーヌかと思われ、私が内心にいだくイメージは至るところにアルベルチーヌを見出させた。たとえば小径の曲がり角で車に乗りこむ娘がまざまざとアルベルチーヌを想い出させ、そのふっくらした身体つきがアルベルチーヌそっくりだったので、いっとき私は、いま見たのはアルベルチーヌ本人ではないか、死んだというのはつくり話で自分はだまされていたのではないかといぶかった。こんな小径の角で、もしかするとバックベックでのことだったかもしれないけれど、やはり同じような格好で車に乗りこむアルベルチーヌが目に浮かんだが、そのころのアルベルチーヌは人生になんと信頼を寄せていたことだろう。ところでその娘が車に乗りこむ動作を、私は散歩の途中でさっと消えてゆく皮相な外観として自分の目だけで見ていたわけではない。いわば永続する行為となったその動作は、そこにいまや余分につけ加えられた側面から、つまりかくも官能的に、またかくも悲しくわが心に寄り添った側面から、過去のなかへも広がっていくように思われたからである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.318~320」岩波文庫 二〇一七年)

娘たちの「散乱」を見る<私>は娘たちの生成変化とともに「変動」する。「変動」することについてプルーストは小説家として「変動指標をも示すべきであろう」と述べる。

「小説家は、主人公の生涯を語るさい、つぎつぎと生じる恋愛をほぼそっくりに描くことによって、自作の模倣ではなく新たな創造をしている印象を与えることができる。というのも奇をてらうより、反復のなかに斬新な真実を示唆するほうが力づよいからである。さらに小説家は、恋する男の性格のなかに、人が人生の新たな地帯、べつの地点に到達するにつれて目立つようになる変動指標をも示すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.537」岩波文庫 二〇一二年)

一切は<生産>であり<生産の生産>へ転化する。ドゥルーズ=ガタリから。

「われわれは、分裂症を自然主義的なひとつの極点に固定しようとしているのではない。分裂症患者が典型的に類的に生きているものは、自然の特定のある極点なのでは全くない。そうではなくて、それは、生産の過程としての自然なのである。では、ここでいう<過程>とはいかなる意味であるのか。恐らく、ある次元においては、自然と産業とははっきりと区別される。すなわち、ある観点からいえば、産業は自然に対立している。ところが他の観点からいえば、産業は自然からその原料をひきだし、また別の観点からいえば、産業はその廃棄物を自然にかえしている、等々。(自然と社会との関係も同様である)。ところがこんどは、<自然ー人間>、<自然ー産業>、<自然ー社会>の三者を区別する関係が考えられるが、この関係は、社会の中で『生産』『分配』『消費』と呼ばれる相対的に自律した三領域を区別する条件とさえなっている。しかし、一般にこうした次元の区別は、発展した形体構造の中に認められるが、(マルクスが指摘したように)それはたんに資本の存在と分業過程とを前提としているだけではない。資本家であることがもたらす次のような誤った意識をも前提としているのだ。すなわち、資本家であることは、必ず全体の進行の中で資本家自身やまたこの進行の諸領域をそれぞれ独立に凝固固定しているものとして誤って意識することであるからである。この意識が誤っているのは、実際にはーーー錯乱(妄想)の中に宿るまばゆくも暗い真実が示しているようにーーー、相対的に独立した領域や回路といったものは存在しないからである。すなわち、生産はただちに消費であり、登録である。登録と消費は直接に生産を規定しているが、しかもそれはまったく生産そのもののただなかにおいてである。だから、一切は生産なのだ。ここに存在するのは、《生産の生産》⦅能動と受動との生産⦆であり、《登録の生産》⦅分配と配置との生産⦆であり、《消費の生産》⦅享楽と不安と苦悩との生産⦆なのである。一切はまさしく生産であるから、登録はただちに消費され消尽されて、この消費は直接に再生産される」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.15~16」河出書房新社 一九八六年)

娘たちは<私>にとってまるでわけのわからない「星雲」だったことはたびたび述べられる。娘たちは始めに「ひとかたまり」の「星雲」として登場したからである。

「いまだ私は、こうした目鼻立ちのどのひとつにも、不可分な特徴としてだれか特定の少女に結びつけるには至っていない。私の目の前に(まるで異なる多様な容姿が隣りあい、ありとあらゆる色調が寄り集まって、それが目を瞠(みは)る調和を形づくってはいたが、さりとて通過してゆくときにははっきり聴きわけられてもやがて忘れ去るさまざまな楽節を明確に区別して認識できない音楽の場合のように、混沌としたこの集団が通りすぎてゆくその順序にしたがい)、つぎからつぎへと白い卵形の顔、黒い目、緑の目があらわれ出ても、私にはそれが今しがた魅惑されたのと同じものかどうか判然とせず、それをほかの少女と区別して識別できる娘のものとみなしていいのかどうかもわからなかった。やがて私もその少女たちを区別できるようになるが、私の視界にはいまだその区別が存在しないため、少女のグループから伝わってきたのは調和のとれたうねりにすぎず、流れるように動いてゆく美しい集団の絶えまない移動にすぎなかった」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.329」岩波文庫 二〇一二年)

その後<私>はだんだん一人一人を区別できるようになる。そのあいだずっと<私>が押し進めていたのは娘たちを<個体化>する作業だ。「星雲」のままではその後もただ単なる「娘たちの一団」であり「ひとかたまり」であるに過ぎなかったろう。個体化することを経て始めて一人一人を区別・認識できるようになる。そのために必要不可欠な道具が「望遠鏡」だとプルーストはいうのである。

「私がいずれ聖堂のなかに刻みつけたいと願うさまざまな真実の捉えかたに共感してくれた人たちでさえ、その真実を私が『顕微鏡』でのぞくように発見したと褒めたたえてくれたが、さまざまなことがらを知覚するのに使ったのはそれとは逆の『望遠鏡』であり、それらがたしかにきわめて小さく見えるのは、はるか遠くにあるからで、その一つ一つが実際には一個の世界なのだ」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.287~288」岩波文庫 二〇一九年)

そしてガタリだと横断的スキゾ分析を推し進める。プルーストは意識的にそうしたわけではまるでない。ところがプルーストはあからじめ無意識的に、スキゾ分析のための膨大な資料を作品として提出している。「星雲」から「個体化」という流れの中で、バルベック滞在の主題の一つは、娘たちの一団(星雲)の諸成分たる一人一人の娘の「個体化」という主題が繰り広げられていたことを読者はようやくはっきり知ることになる。「塵のように飛散する星雲」は何度も繰り返しアレンジされ提出されてくる。その都度違った人間=差異的人間として出現する。

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