白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・ステレオタイプ(紋切型)装置から逃走するプルースト/バルトのエレガンス

2022年06月23日 | 日記・エッセイ・コラム
第一にアルベルチーヌからジルベルトへ、あるいはジルベルトからアルベルチーヌへと、欲望としての<私>の強度はどちらへも容易に傾きやすい点。第二にアルベルチーヌとジルベルトとの<あいだ>を、瞬時に<私>は<移動できる>という点。第三にアルベルチーヌに逃走線を与え、<私>を自殺の苦悩から解放することには成功した。だがアルベルチーヌには死を与えている点。これら三つの謎がどれも可能なのはなぜか。社会的規模のステレオタイプ(紋切型)に関わる。

まず始めに必要最低限の条件が要請される。ニーチェの言葉から四箇所引いておこう。(1)「風習・制度」について。(2)「責任・約束」を果たさせるために行われた<人間の数値化>という加工=変造過程。(3)意識的なレベルにおいて人間は自分が習得した「言語を用いてしか思考することはできない」という限界について。(4)政治・経済・人間関係など、すべての社会生活の中でいつも変動している「債権債務関係」について。

(1)「風習とはしかし行為と評価の《慣習的な》方式である。慣習の命令が全くない事物には、倫理もまったくない。そして生活が慣習によって規定されることが少なければ少ないだけ、それだけ一層倫理の範囲は小さくなる。自由な人間はあらゆる点で自分に依存し、慣習に依存しないことを《望む》から、非倫理的である。人類のすべての原始的な状態にあっては、『悪い』ということは、『個人的』、『自由な』、『勝手な』、『慣れていない』、『予測がつかない』、『測りがたい』というほどのことを意味している。そのような状態の尺度でいつも測られるので、ある行為が、慣習が命令するからでは《なくて》、別な動機(たとえば個人的な利益のために)、それどころか、かつてその慣習を基礎づけていたまさにその動機自身からなされるときですら、その行為は非倫理的と呼ばれ、その行為をする者からさえそう感じられる。なぜなら、その行為は慣習に対する服従から行なわれたのではないからである。慣習とは何か?それは、われわれにとって《利益になるもの》を命令するからではなくて、《命令する》という理由のためにわれわれが服従する、高度の権威のことである」(ニーチェ「曙光・九・P.25」ちくま学芸文庫 一九九三年)

(2)「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫 一九四〇年)

(3)「《われわれの心に浮かんでいる言葉》ーーーわれわれは、自分の考えをいつも持ち合わせの言葉で表現する。あるいは私の疑念の全体を表現すると、われわれはどの瞬間にも、それをほぼ表現し得る言葉をわれわれが持ち合わせているような、まさにそういう考えだけしか持たない」(ニーチェ「曙光・二五七・P.279」ちくま学芸文庫 一九九三年)

(4)「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫 一九四〇年)

そして「習慣」はよりいっそう暴力的かつ強固な「掟・制度」へ変貌する。数値化された人間は「掟・契約」に則って就業あるいは解雇される。労賃も同じく「契約」に基づく。マルクスはいう。

「契約をその形態とするこの法的関係は、法律的に発展してもいなくても、経済的関係がそこに反映している一つの意志関係である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.155」国民文庫 一九七二年)

手持ちの言葉でしか思考できないのは誰もがそうだし、また、債権債務関係は人間社会の隅から隅まで浸透している。事実上、人間は、思考の運動もまた<掟としての「思考・制度」>の範疇でしか運動できないほど窮屈で不自由な社会環境の中へ生まれてくる。人間が社会性を内在化させている限り、ニーチェのいう債権債務関係はいつどこにいても絡みついて離れようとしない。とはいえ、執着心で凝り固まった<制度の内在化>からいとも簡単に逃れ出ることができる人々も若干いて、ドゥルーズ=ガタリはそのケースを「スキゾ」(分裂的逃走)と呼んだ。そもそも資本主義は念入りな機械状統合失調状態であって、放置しておけば際限なく脱コード化(脱領土化)していくばかりでたちまち崩壊する。けれども人間の統合失調者と違う点が最後に出現して崩壊の寸前で身を上手くかわす。こんなふうに。

「資本主義の極限は、まぎれもなく分裂症的なものであるが、資本主義はこの自分の限界にたえず近づくことをやめないのだ。分裂者は、器官なき身体の上で、脱コード化した種々の流れの主体としてーーー資本家より資本家的であり、プロレタリアよりプロレタリア的である主体としてーーー存在するものであるが、資本主義は自分の全力をあげてこの分裂者を生みだそうとするのだ。この傾向をさらに遠くまでたえず進み続けるならば、資本主義は、ついに、自分自身が一切の流れとともに月世界に送られる地点にまで到達することであろう。しかし、じっさいには、ひとはまだこうした事態を何もみたわけではない。分裂症がわれわれの病気、われわれの時代の病気であるといわれるとき、現代の生活が狂気を生むことを端的に意味しているだけなのだと考えてはならない。ここでは生活の様式ではなくて、生産の進行が問題なのだ。たとえば、<分裂症患者において意味が変質する現象>と<産業社会のすべての段階において不協和が増大するメカニズム>との間に平行関係が存在していることは、コードの破綻という見地からすればもはやきわめて明確であるが、いまはまたこうした単純な平行関係が問題であるのではない。じつは、われわれが言おうとしているのは次のことなのである。すなわち、資本主義は、その生産の過程において恐るべき分裂症の爆薬を生みだすものであり、そのためそれ自身は、自分のもっている抑制の全力をこれに対抗せしめることになるが、しかし分裂症の爆薬は、資本主義の進行の極限としてたえず再生産され続けるものなのだ、ということなのである。なぜなら、資本主義は、自分の極限に向かう傾向につき進むものであると同時に、またみずからこの傾向を妨げ抑制することをやめないものであるからである。それは、自分の極限をみずから志向するものであると同時に、またみずからこの極限を拒絶することをやめないものなのである。資本主義は、想像的な土地であれ、象徴的な土地であれ、あらゆる種類の残滓的な模造の土地を設立あるいは再興して、この土地の上で、よかれあしかれ、抽象量を根拠とする種々の人物を再コード化して、この土地の中にこれらの人物をはめ込もうとするのだ。《国家》も、故郷も、家庭も、一切が再び舞い戻り甦ることになる。この点はまさに、イデオロギーの上からいえば、資本主義が『これまで信じられてきたものの一切をよせ集めた、雑色の絵』だといわれるゆえんである。実在するものは、ありえないことがないものである。それは、ますます人工的なるものとなる。ーーーマルクスは、<利潤率が傾向的に低下する>とともに、<剰余価値の絶対量が増大する>という二重の運動を相反傾向の法則と呼んだ。<種々の流れが脱コード化し脱土地化する>とともに、<それらの流れが再び激しく模造の再土地化をうける>という二重の運動が存在するということが、右の法則の系として考えられる。資本主義機械が、種々の流れから剰余価値を引きだすために、これらの流れを脱土地化し脱コード化して、これらを公理系化すればするほど、官僚機械や公安組織のような、資本主義の付属装置は、剰余価値の増大する部分を吸収しながら、ますます<再-土地化>をすすめることになるのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・第四節・P.49~50」河出書房新社 一九八六年)

重い課題だ。多国籍型大規模金融機関のように重々しい。しかもなお極限まで引っ張ってきて裏切る。一方「分裂者」はどうか。

「分裂者については、こういえる。かれがたえず移り歩き、さまよい、よろめき続けているその頼りない歩みからいって、かれは、自分自身の器官なき身体の上で社会体を果てしなく崩壊させながら、たえず脱土地化の道をどこまでも遠くへとつき進んでゆくひとなのだ。恐らく、あの分裂者の散歩は、みずから大地を再び発見し直すかれ自身の独自の仕方なのである、と。分裂症患者は、資本主義の極限に身をおいているのである。かれは、資本主義に内属するその発育の衝動であり、その剰余生産物であり、そのプロレタリアであり、それを殺戮する天使である。かれは一切のコードを混乱させ、欲望の脱コード化した種々の流れをもたらす。実在するものは流れる。<《過程》>の二つの様相が再び結ばれる。〔欲望する生産の〕形而上学的過程と社会的生産の歴史的過程とが。前者は、自然の中にあるいは大地の核心の只中に住まう『ダイモン』にわれわれを触れさせる、あの形而上学的過程であり、後者は、社会機械が脱土地化するのに応じて、欲望する諸機械の自律性を回復させる、あの社会的生産の歴史的過程である。分裂症とは、社会的生産の極限としての欲望する生産にほかならない。したがって、欲望する生産が現われるのは、またこの生産と社会的生産との体制の相違が現われるのは、最後においてであって、最初においてではない。一方の生産と他方の生産との間には、実在の生成というひとつの生成の運動があるのみである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・第四節・P.50」河出書房新社 一九八六年)

ここでドゥルーズ=ガタリが参照している「分裂者」はサミュエル・ベケット作品の登場人物たち。例えば「モロイ」。モロイは何をしているのか。何かしているとして、しかしその行為に意味はあるのか。モロイ以外の人間には何らの意味も持たないか、むしろ「反=意味的」でさえある。そこにベケット本来の独創性がある。もしベケットを忘れたいというのなら画家の山下清も哲学者のウィトゲンシュタインも忘れられなくてはならないだろう。

さてその上で、社会的規模でしつこく根づいている陰湿なステレオタイプ(紋切型)について考えよう。「エロティックなもの」と「ステレオタイプなもの」とはまるで次元の異なる二つの混同に過ぎない点について。次のようにバルトはいう。

「身体の中で最もエロティックなのは《衣服が口を開けている所》ではなかろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析が的確にいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちらちら見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現-消滅の演出である。

それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない。順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスをみたいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)《希望》に包含される。逆説的にいえば(それが大量消費されるからそういうのだが)、それはテクストの快楽よりずっと知的な快楽である。もしすべての物語(すべての真相暴露)が(不在の、隠れた、あるいは、三位一体をなす)『父』を登場させることにあるとすれば、それは(起源と結末を裸にする、知る、認識する)オイディプース的な快楽なのであるーーーこのことを説話形式と家族構造と裸体の禁忌の密接なつながりを説明するだろう。われわれの文明においては、この三つは、息子たちに覆いを掛けられたノアの神話の中にすべて集約されているのである。

しかし最も古典的な物語(ゾラやバルザックやディッケンズやトルストイの小説)には、いわば薄められた合成語分離法とでもいうべきものがある。われわれは全体を同じ緊張度で読みはしない。テクストの《完全性》をあまり大事にしない、無造作なリズムで読む。知りたい一心で、なるべく早く物語の白熱する部分(それは常に物語の関節であり、謎や運命の暴露を進行させる部分だ)に到ろうとして、(《退屈》そうに思われる)ある箇所を斜め読みしたり、抜かしたりする。描写や説明や考察や会話はとばしても罰は受けない(誰も見ていないから)。その時、われわれは、舞台に跳び上がって、すばやくダンサーの服を脱がせ、ストリップの先を急がせるキャバレーの客に似ている。《急がせるといっても、順序に従って》、だ。つまり、一方では、儀式の挿話(エピソード)を尊重し、他方では、それを早めるのである(ミサを《はしょる》司祭のように)。快楽の源泉であり、技法である合成語分離法は、ここで、散文的な二つの縁を向い合わせる。秘密を知るのに有用であるものと有用でないものを対立させる。それは単なる機能性の原理から生じた断層である。それは直接言語活動の構造からは生れない。言語活動の消費の時にだけ生れるのである。作者はそれを予見できない。すなわち、《読まれないであろうこと》を書こうとすることはできない。しかし、偉大な物語のもたらす快楽は、読むことと読まないことの織りなすリズムそのものだ。プルーストやバルザックや『戦争と平和』を逐語的に読んだ者がいるだろうか(プルーストの幸せ、それは、誰も、読むたびに、決して同じ箇所はとばさないだろうということだ)」(バルト「テクストの快楽・P.18~21」みすず書房 一九七七年)

バルト特有のユーモアが見られる。「われわれは、舞台に跳び上がって、すばやくダンサーの服を脱がせ、ストリップの先を急がせるキャバレーの客に似ている。《急がせるといっても、順序に従って》、だ」。ところでしかし、このユーモアこそ、このセンテンスの眼目である。「ストリップの先を急がせ」る場合でさえ「順序に従って」しか考えられないほど<すでに制度は内在化されている>というのである。だからおそらく、前もって準備された「性愛の政治学」を推し進めたがっている政府高級官僚機構にすれば内在化されている今の内容を別の内容に置き換えるだけで人間の性欲すらその都度政治的に活用されるようになるまでもう十年もかからないような気がしてくる。或る欲望政治学(紋切型A)を別の欲望政治学(紋切型B)へ置き換えるだけのことであって、根本的なレベルで「反=意味的」な新しい地平の<開かれ>としての導入とはまるで違うからである。以上、<私>は制度の中で制度を構成する機械装置の一つとしてすでに動いているとしか言えない。

<掟>を内在化させた機械装置<私>は「順序に従って」(あるいはその時その時の都合次第で)好きなように「アルベルチーヌからジルベルトへ、あるいはジルベルトからアルベルチーヌへ」<強度(力への意志)>を瞬時に向け換えることができる。それは<私>が社会的ステレオタイプ(紋切型)に従っているときに特にそうだ。また<私>が性愛的強度をジルベルトへ振り向けるケース。

「ジルベルトという名前が私のそばを通りすぎたとき、その場にいない人を話題にして単に名前を挙げたというのではなく、本人に呼びかけた名前であるだけに、名前の示す人物の存在がより切実に感じられた。かくして私のそばを通りすぎたとき、その名前は活動中というべきか、名前を投げ出した曲線が目標に近づくにつれ、その力は増大した。ーーーその名前が通りすぎたとき、それが運んでいると私に感じられたのは、その名で呼ばれた少女にかんする知識であり、基礎的概念である。それは私ではなく呼びかけた友人が持っているもので、その知識と概念には、ふたりの毎日の親密なつき合いについて、たがいの家への訪問について、この幸せな少女にとってはじつに身近で御しやすい存在であるだけに私には近寄りがたくて苦痛をもたらすほかないこの未知の存在について、その名前を口にしたときこの友だちが想いうかべたこと、少なくとも記憶にとどめていたことがすべて含まれていて、それなのに友人が大きな声に込めてその名前を大気中に投げ出したとき、その名は私をかすめて通りすぎ、私はそのなかに入りこめないのだった。ーーーその名前が通りすぎたとき、甘美なものを空中に発散させたのは、ほかでもない、その名前がスワン嬢の生活の目に見えないさまざまな局面、たとえば今夜、食後にその家でくり拡げられることがらに関係していたからである。ーーーその名前が通りすぎたとき、それは子供たちやつき添いの女中たちのあいだに天の使いが到来したように貴重な色合いの小さな雲を形づくったが、それはプッサンの描いた立派な庭園の上空に湧きあがる雲に似て、オペラの書割りでおびただしい馬や車を満載した雲が神々の生活のあらわれを克明に描いているのとそっくりだった。ーーーその名前が通りすぎたとき、最後になるがそれは、この禿げた芝草の枯れた芝生の一部であると同時にバドミントンに興じるブロンド娘の午後のひとときをも示す地点に(娘はいつまでも羽根を打ち上げたり受けたりしていたが、青い羽飾りをつけた子守役の女に呼ばれてようやくそれをやめた)、ヘリオトロープ色の小さなみごとな一筋の帯を投げかけると、それは反射光と同じで触れることのできないものの絨毯のようにふわりと芝生のうえに置かれ、その上をいつまでもぐずぐずとさまよい歩く私の足取りには、満たされない冒瀆の想いが込められていたかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・三・P.449~451」岩波文庫 二〇一一年)

ジルベルトはアルベルチーヌたちとは違った場所から登場している。だが<私>と彼ら彼女らとの関係はどこも違わない。<私>はまるで同じ方法で近づこうとする。しかし方法が同じであれば、途中で条件が変わらない限り、結果も同じだ。なぜなら「ジルベルト、アルベルチーヌ、アンドレ、ロズモンド、ジゼル」たちは<私>にとって置き換え可能だからである。次の三箇所の中にジルベルトを入れたとしても内容が変わることは決してないように。

(1)「アンドレは、ロズモンドやジゼルと同じように、いやこのふたり以上にやはりアルベルチーヌの友だちであり、その生き方を共有し、その物腰をまねていて、最初に見かけた日には私にはふたりの区別がつかなかった。バラの何本もの茎のように海を背景に浮かびあがるのが主たるその魅力というべきこの娘たちのあいだには、私がまだ娘たちと面識がなく、そのちのだれが現れても例の小さな集団が近くにいると告げて私を感激させてくれたあの頃と変わりのない、不分明な状態が支配していた。今でも私はそのひとりのすがたを見かけただけで嬉しくなり、その歓びには、どれくらいの割合かは言えないまでも、ひとりの娘のあとにほかの娘たちにも会えるという楽しみが、たとえその日はほかの娘たちが現れなくても、その噂をしたり、私が浜辺に出かけたことがその娘たちに伝わるだろうと考えたりする楽しみが混じりあっていた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.636」岩波文庫 二〇一二年)

(2)「最初の日に感じた魅力だけではなく、紛れもなく愛したいという願いが、だれと特定されないまま娘たちのあいだをさ迷っていた。それほどどの娘もごく自然にほかの娘と置き換わってしまうのだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.636」岩波文庫 二〇一二年)

(3)「私の欲望は、この娘たちのあいだをますます官能を刺激されてさ迷うようになった。娘たちの変幻きわまりない顔にもある程度目鼻立ちが整いはじめ、なおも変化することがあったとしても、ひとりひとりの不安定な伸縮自在の肖像がなんとか区別できるようになったからである。娘たちひとりずつの顔に見られる相違と比べれば、それぞれに目や鼻から口などの長さや幅にそれほどの相違が認められるとはたしかに考えられない。後者のほうは、娘たちがたがいにどれほど違って見えようとも、大同小異だったかもしれない。ところがわれわれの顔は、数学のような軽量に基づいて認識されるわけではない。そもそも顔の認識は、各部分の寸法を測ることから始まるのではなく、出発点とするのは表情であり、全体である」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.637~638」岩波文庫 二〇一二年)

ここでようやく「顔貌性」が問題とされる。というのも「顔」は「制度」だからである。花押、家紋、サインなど、それらは行使されればされるほど強固に固定化される。だからもし自分に属する音楽・絵画・文学や写真などに花押、家紋、サインなどを入れる場合、制度として定着しているからというのではなく、逆に、その都度いつも新しい唯一性の証明として刻印されるべきだろう。

さて、そんなところで、話題は変わる。「覆い隠す」動きに注意深くあらねばならない季節がやってきた。選挙だ。この忙しい時に。プルーストは芸術が知らず知らず果たしていく仕事についてこう語る。「われわれが勘違いして人生と呼んでいる実用上の用語や目的」はステレオタイプ(紋切型)のこと。「まさに正反対のもの」は習慣・制度が覆い隠してしまっているものをプルースト流に<暴露>することを指す。言うまでもなくプルーストはフランスの最上流階級のサロンに出入りできる立場だったため、あくまで文章はエレガントだ。

「物質や経験やことばの背後になにかべつのものを見出そうとするこの芸術家の仕事は、われわれが自分自身から逸れて暮らしているとき、また自尊心や情熱や知性や習慣などが真の印象をわれわれの目から完全に覆い隠すせいでその印象のうえにわれわれが勘違いして人生と呼んでいる実用上の用語や目的を貼りつけるとき、そうした自尊心や情熱や知性や習慣などがわれわれの内部で刻一刻と成し遂げている仕事とは、まさに正反対のものである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.491~492」岩波文庫 二〇一八年)

そしてこの文章の中にも(1)ニーチェ、(2)マルクス、の言葉が響いていることは重要。

(1)「私たちは、後を追って継起する規則的なものに馴れきってしまったので、《そこにある不思議なものを不思議がらないのである》」(ニーチェ「権力への意志・下・六二〇・P.153」ちくま学芸文庫 一九九三年)

(2)「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)

その自覚の上でプルーストは自分たち作家を含む芸術家の作品についてこう述べる。

「作家の書いた本は、それなくしては読者が自分自身のうちに見ることができないものを認識できるよう、提供する一種の光学機械にほかならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.521~522」岩波文庫 二〇一八年)

ヴァントゥイユの音楽、エルスチールの絵画、そして<プルーストの文学>が新たな「三位一体」を形成している。プルーストは自分で自分自身を差して「一種の光学機械」と述べる。そしてそれらはどれもモネ「エトルタの断崖」のように、目の前にあるにもかかわらず、それ以前には誰にも見えていなかったまるで新しい光景を同じ場所に出現させる。

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