白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて14

2022年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

(3)花壇。第一回。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。以前育てていた黒バラは工事のため撤去しました。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。またバラだと次々芽を出してくるのであまり手間のかからない良質なエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“Princess of Infinity”」(2022.6.20)

いかがでしたでしょうか。参考になれば幸いです。

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Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて13

2022年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

(2)絵画。第十一回。越前画仙紙四枚(左上・右上・左下・右下の順)使用。


「婆娑羅シリーズ4・FAR BEYOND THE SUN(左上)」


「婆娑羅シリーズ4・FAR BEYOND THE SUN(右上)」


「婆娑羅シリーズ4・FAR BEYOND THE SUN(左下)」


「婆娑羅シリーズ4・FAR BEYOND THE SUN(右下)」

いかがでしたでしょうか。参考になれば幸いです。

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Blog21・ヴァントゥイユの七重奏曲がもたらす「未知の<横断性>」

2022年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストはヴァントゥイユの七重奏曲について「未知の色合い」という語彙を用いて語る。音楽について述べているのになぜ絵画を見る時のように「色合い」というのだろう。「あちこちの屋敷や美術館に散在する断片のなかにわれわれがそれと感知しうるひとつの世界、つまりエルスチールの世界という、エルスチールが眺めて生きた世界が存在するのと同じく、ヴァントゥイユの音楽が、音符から音符へ、タッチからタッチへとくり広げてみせる音は、想いも寄らぬひとつの世界の評価を絶した未知の色合いであり、その世界は、人びとがくだんの作品世界を聴くさまざまな機会を隔てている間合いによって断片化されているにすぎない」。すると或る種の絵画だけでなく或る種の音楽ももともと<諸断片>なのであり、それら無数に散在しているミクロな素材がモザイク化されているというわけだろうか。もう一度読み返してみよう。

「赤々とかがやく七重奏曲は、たしかに白いソナタとはまるで違っている。小楽節がそれに答えようとする臆病な問いかけは、海の上にかかる朝の空のいまだ生気なき赤味を震わせ、かくもかん高く短いこの世のものとは思われぬ響きをとどろかせ、奇妙な約束の実現を見届けんとするこの息を切らした懇願とは、まるで別物である。にもかかわらず、かくも相異なるフレーズは、じつは同じ要素でつくられているのだ。というのも、あちこちの屋敷や美術館に散在する断片のなかにわれわれがそれと感知しうるひとつの世界、つまりエルスチールの世界という、エルスチールが眺めて生きた世界が存在するのと同じく、ヴァントゥイユの音楽が、音符から音符へ、タッチからタッチへとくり広げてみせる音は、想いも寄らぬひとつの世界の評価を絶した未知の色合いであり、その世界は、人びとがくだんの作品世界を聴くさまざまな機会を隔てている間合いによって断片化されているにすぎない。かくも相異なるふたつの問いかけは、ソナタと七重奏曲のずいぶんかけ離れた動きを統御するもので、ソナタが、ひとつづきの純粋な線をいくつもの短い呼びかけに分断しているのにたいして、七重奏曲は、ばらばらの断片をふたたび分割しえない骨組みへ結びつけていると言えるし、前者は、おとなしく臆病で、ほとんど恬淡(てんたん)として哲学者のように達観しているのにたいし、後者は、切迫して、不安にとり憑かれ、哀願するような調子だと言えるが、にもかかわらずともにひとつの同じ祈りであって、内心のさまざまな日の出を目にしてほとばしり出たその祈りが、作曲家のべつべつの思考が織りなす異なる環境を通じて、つまり新たなものを創りだそうと作曲家が多年にわたり進展させてきた芸術上の探求を通じて、さまざまに屈折しているにすぎない。この祈り、ないし希望は、根本では同じひとつのものであり、いかなる装いをまとおうとヴァントゥイユのさまざまな作品のなかに共通してそれと認められるもので、その一方、ヴァントゥイユの作品にしか見出せないものである。音楽批評家なら、べつの偉大な音楽家たちの作品中に、これらのフレーズとの類縁関係や系譜を難なく見出せるだろうが、ただしそれは付随的な理由、外的な類似によって見出された類縁で、直接の印象によって感得されたというよりも、論証によって巧妙に見出されたにすぎない。これらヴァントゥイユのフレーズの与える印象が、ほかのどんな印象とも異なっているからには、科学から導き出されたかに見える結論にもかかわらず、やはり個人的なものは存在すると言わざるをえない。しかもヴァントゥイユがなんとしても斬新たらんとしたときにこそ、外見の違いの裏に、まさしく深い共通性が認められるのだ。そうではなくヴァントゥイユのひとりの作品のなかで同じフレーズを何度もとりあげ、それを多様化し、そのリズムを変えたり再度もとの形で登場させたりして楽しんでいるときに認められる故意の類似は、知性が産みだしたもので、必然的に表面的な類似にとどまるほかなく、異なる色彩のなかや別個のふたつの傑作のあいだにあらわになる意図せざる隠れた類似のように、人をハッとさせることはありえない。なぜなら前者の場合のヴァントゥイユは、なんとしても斬新たらんとして自分自身に問いかけ、創造する者として全力をふり絞るなかで自身の精髄にまで到達したわけで、その深奥では、どんな問いを投げかけられようとその精髄がつねに同じ音調で、つまり本人固有の音調で答えるからだ。ひとつの音調、このヴァントゥイユの音調は、ふたりの人間の声の調子や二種類の動物の鳴き声のあいだにわれわれが認める相違などよりはるかに大きな相違によって、ほかの音楽家たちの音調と区別される。これこそが正真正銘の相違で、ヴァントゥイユがおのれ自身に課した永遠の探求、さまざまな形でみずからに投げかけた問い、習慣とした思索と、べつの音楽家の思考とのあいだに存在する相違である。習慣とした思索といっても、天使の世界における思索のように、論理的思考の分析的形式をとり払った思索であるために、われわれはその思索の深さを測ることはできても、その思索を人間のことばで言いあらわすことはできない。肉体を離脱した霊魂が、たとえ霊媒に呼び出され、死の秘密について問いただされたとしても、それを人間のことばで言いあらわすことができないのと同じである。ある音調というのは、きょうの午後、私がふと気づいた後天的に獲得された独創性とか、音楽評論家ならさまざまな音楽家のあいだに見出しうる類縁関係とかをたとえ考慮に入れたとしても、独創的な音楽家たる偉大な歌い手たちが、なにはともあれ思わずそこまでわが身を高めそこへ立ちもどるほかない、ある唯一無二の音調であり、その音調こそ、魂がなにものにも還元できない個性的存在である証拠だからである。たとえヴァントゥイユが、もっと盛大なもの、もっと壮大なものを創ろうとか、あるいは生きのいい愉快なものを創ろうとか、あるいはわが目に見えたものを美化して聴衆の心に映し出そうとか試みたとしても、その同じヴァントゥイユが思わずそれらすべてを大波の下へ沈めてしまうのだ。この大波こそ、ヴァントゥイユの歌を永遠のものたらしめ、ただちにそれを本人の歌と認識させてくれるものである。この歌、ほかの人たちの歌とは異なり、本人のどの歌とも似通ったこの歌を、ヴァントゥイユはどこで学び、どこで聞いたのだろう?そう考えると芸術家はだれしも、ある未知の祖国、自分でも忘れている祖国、いずれべつの偉大な芸術家がこの地上をめざしてそこから船出する祖国とは異なる、そんな祖国に住まう人かと思われる」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.148~152」岩波文庫 二〇一七年)

この箇所に「ヴァントゥイユはどこで学び、どこで聞いたのだろう?」とある。ヴァントゥイユは紛れもなく通例とはまるで異なる世界を〔音楽を通して〕可視化することに成功したのだ。しかしそれだけでは多くの芸術家もまた創造者だと言えてしまうのではなかろうか。それでいいのだろうか。疑問は払拭されない。ともすれば心境はふたたび諦めへと影を落としそうになる。今夜も不眠の苦痛をなめなければならないのだろうか。鬱々しているところへ、斜めから思いがけずガタリはいう。

「ところが一方、七重奏曲音楽の動き自体は、彼をこのような家族中心主義的思い出、属領化された愛情独占的諸様式へのこのような再転落からはほと遠いところへと運ぶこととなるであろう。今やそこに住みつく抽象的機械装置は、実際、どんな時でも、どんな方向であっても、諸人物、諸顔面、諸印象、諸時代、等々を『横断する』ことが可能なのである」(ガタリ「機械状無意識・第2部・第2章・P.331」法政大学出版局 一九九〇年)

そう。その通り。<横断的>であること。一極集中を目指さないこと。そう心がけておくに越したことはない。だがそうかといって、幾つかの多国籍企業の傘下に先進諸国の側が詰め込まれてしまっている二重転倒した社会では、いつも次のような要請が<法の名>において、まるで暴風雨のように吹き付けてこない日はない。

「家庭は欲望の生産の中に導入されて、最も幼いころから欲望のおきかえを⦅つまり信じられないような欲望の抑圧を⦆操作することになる。家庭は、社会的生産によって、抑圧に派遣されるのである。ところで、家庭がこうして欲望の登録の中にすべりこむことができるのは、先にみたように、この登録が行われる器官なき身体が既に自分自身において欲望する生産に対する《根源的な抑圧》を行使しているからである。この根源的な抑圧を利用してこれに《いわゆる二次的な抑圧》を重ねることが、家庭の仕事なのである。この二次的な抑圧は、家庭に委托されているのだとも、あるいは家庭がこの抑圧に派遣されているのだともいってもいい。(精神分析は、この一次、二次の二つの抑圧の間の相違をいみじくも指摘したが、しかしこの相違の有効範囲とこの両抑圧の体制の区別を示すには至っていない)。したがって、いわゆる抑圧は、実在する欲望する生産を抑圧することに満足せず、この抑圧されたものに、みかけのおきかえられたイマージュを与えて、家庭的登録をもって欲望の登録の代りとしてしまうことになる。欲望する生産の集合が、周知のオイディプス的形象をとることになるのは、この欲望する生産が家庭的に翻訳されている場合でしかないのだ。つまり、<背信の翻訳>の場合でしかない」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.151~152」河出書房新社 一九八六年)

ただ単に見守っているばかりでよいのか?ますます混乱してくる。カントはいう。

「我々はいま純粋悟性の国を遍く巡り歩いて、この国のあらゆる地方を仔細に観察してきたばかりでなく、国中を端から端まで踏査して、この国土に存する一切のものにそれぞれ然るべき位置を規定した。しかしこの国は一つの島である。そして自然そのものによって一定不変の限界をめぐらされている。この国土は真理の国(いかにも魅惑的な名称だ)であり、波立ちさわぐ渺茫たる海に囲まれている、そしてこの大洋こそ仮象の誠の棲処なのである。ここには霧堤と呼ばれる濃霧の厚い層と、忽ち溶け去る数多の氷山とがあって、望み見る人をして新らたな陸地と思い誤らしめ、また発見を求めて群れつどう船人達を絶えず徒らな希望をもって欺きつつ彼等を冒険の淵に巻き込む、しかも船人達は彼等の希望を捨て去ることもできず、さりとてまたこれを成就することもできないのである。ところで我々はこの大洋を隈なく捜索して、そこに何ものかを見出す望みがあるかどうかを確かめるために海上へ乗り出そうとしているのであるが、しかしそれに先きだち、今や立ち去ろうとするこの国の地図に一瞥を与えて、次の問題を考察しておくことは有益であると思う。その第一は、もし我々の定住し得るような土地がこの国以外にはまったく存在しないとしたら、我々はこの国土にあるところのものをもってとにかく満足できるかどうか、或は止むを得ず満足せねばならぬかどうか、ーーーまた第二は、いったい我々はどんな権原があってこの土地を我々自身のものであると主張するのか、また我々に対して提起される一切の敵視的な要求をしりぞけて、我々の身の安全をそうして保ち得るのか、という問題である」(カント「純粋理性批判・上・1・第一部・第二篇・第三章・P.319~320」岩波文庫 )

カントは「今や立ち去ろうとするこの国の地図に」と述べる。ところが諸外国は別としても日本で生活していくほかない人間にとって「今や立ち去ろうとする」ことがどれほど有効か。まだ誰もわかっているわけではない。

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