主題はサン=ルーとその愛人との恋愛関係、と言いたいところだがプルーストは二人の間でこじれている恋愛関係を主題化しつつ、その実、郵便的な伝達方法と電信電話的な伝達機械装置との違いに注目する。なお、サン=ルーたちの恋愛関係が上層にあり伝達様式の違いが深層で語られているわけではまるでない。郵便的な方法と電信電話的な機械装置との違いについてもまた意識されている以上、上層/深層という区別はもはや意味をなさないということをもプルーストは論じているからだ。パリから郊外のドンシエール駐屯地までようやく電話が通じるようになった頃のエピソードとして前提されている。
電話は「魔法」のようだと<私>はいう。「いきなり何百里もの距離をとび越えて、われわれの耳元にまで、こちらの勝手な希望どおりの時刻にやって来てくれる」のだから。目の前にいないはずの人間が突如目の前に出現する。言葉は電話という機械装置を通してそれまでの人間の生活様式を根底からひっくり返した。
「相手はテーブルに座ったまま住んでいる町(祖母の場合はパリ)に居て、こちらとは異なる空のかならずしも同じではない天候のもと、こちらの知る由(よし)もない状況と関心事にとり巻かれ、それをこちらに伝えようとしているのだが、そんな相手が(相手の浸っている雰囲気とともに)いきなり何百里もの距離をとび越えて、われわれの耳元にまで、こちらの勝手な希望どおりの時刻にやって来てくれるのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.289~290」岩波文庫 二〇一三年)
また「われわれはお伽噺(とぎばなし)の人物にでもなった気分で、その願いを聞き入れた魔法使いが、われわれの祖母や婚約者が本をひもといたり涙を流したり花を摘んだりするさまをこの世のものとは思えぬ光のなかに出現させてくれる」。しかしただそれだけのことなら電話でなくて郵便で十分だと思われないだろうか。ところが「祖母や婚約者はそれを見ているわれわれのすぐそばにいるのに、じつは遠く離れた現地にとどまったままである。こんな奇蹟」、とプルーストは述べる。電話の普及はプルーストに単なる驚きではなく衝撃を与えた。これまでのヨーロッパで支配的だった習慣・制度の一つががらりと変わる一九〇〇年代初頭。
「われわれはお伽噺(とぎばなし)の人物にでもなった気分で、その願いを聞き入れた魔法使いが、われわれの祖母や婚約者が本をひもといたり涙を流したり花を摘んだりするさまをこの世のものとは思えぬ光のなかに出現させてくれるわけで、そんな祖母や婚約者はそれを見ているわれわれのすぐそばにいるのに、じつは遠く離れた現地にとどまったままである。こんな奇蹟が実現するには、唇を魔法の小さな板に近づけてーーーときにはいささか時間のかかることもあるが、それは承知のうえだーーー『警護の処女たち』を呼び出すだけでいい」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.290」岩波文庫 二〇一三年)
郵便が語る言葉と電話が語る言葉とではどう違うのか。同じ内容の文章であってもなお違いを感じさせるのはなぜか。問題は<速度>の違いにある。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十七・P.101~102」岩波文庫 一九四〇年)
そうニーチェがいうように<速度>はそれ自体がすでに武器である。
「武器と道具が、運動や速度と結ぶ関係は『傾向として』(近似的に)同じではないということである。武器と速度の次のような相互補足関係を強調したこともまたポール・ヴィリリオの本質的な貢献の一つであるーーーすなわち、武器が速度を発明する、あるいは速度の発見が武器を発明するということである(武器の投射的性格はこれに由来する)」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・十二・遊牧論あるいは戦争機械・P.99」河出文庫 二〇一〇年)
<私>は『警護の処女たち』と形容する。女性の電話交換手のことだがその前に「電話交換局」の機能についてベルクソンから引こう。
「脳とは、かくて私たちの見るところでは、一種の電話交換局にほかならないはずである。その役割は『通信を伝えること』あるいはそれを待機させることにある。脳は、じぶんが受容したものになにものも付加しない。とはいえ、あらゆる感覚器官は、その延長の終端を脳にまで送りこんでおり、脊髄と延髄にぞくする運動機構のいっさいが、選定された代表者をそこに置いているわけだ。だから脳は、まぎれもなく一箇の中枢なのであり、末梢の刺戟はこの中枢で、あれこれの運動機構と関係づけられる。ただしその関係は、選択されたものであって、強制されたものではもはやないのである。いっぽう、膨大な数の運動をみちびく〔神経〕通路が、この皮質のなかでは《すべて同時に》、末梢から到来する同一の興奮に対して開放されることがありうる。したがってこの興奮には、脳のなかで無限に分割され、かくてまた無数の、ただ生まれようとしているにすぎない運動性反応のうちで散逸する可能性もある。こうして、脳の役割はある場合には、受けとった運動を、選択された反応器官へみちびくことであり、またべつの場合にはこの運動に対して、運動の通路の全体を開放することにある。後者の場合なら、それは、当の運動にふくまれている可能な反応のすべてを素描し、みずから分散しながら分解してゆくためなのである。いいかえてみよう。脳とは、受けとられた運動との関係においては分解の器官であり、実行される運動との関係にあっては選択の器官であるように、私たちには思われる。しかしながら、いずれの場合にしてもその役割は、運動を伝達したり、分割したりすることに限定されている。くわえていえば、皮質の上位の中枢においても、神経の諸要素は認識をめざして作動しているわけではない。これは、脊髄が認識を目的とするものでなかったのと同様である。それらは、複数の可能な行動を一挙に下描きするか、そのうちのひとつを組織化するか、そのいずれかを遂行するにすぎない」(ベルクソン「物質と記憶・P.59~60」岩波文庫 二〇一五年)
要するにその作業は人間の脳の機能へ翻訳可能なものだ。そしてベルグソンはそのうちの極めて重要な思考運動について逆円錐形の図を用いて説明した。次のような結果が得られる。点Sに向かえば向かうほど現実へ加速する。逆にABレベルでは夢でも見ているようにふらふら漂っているばかりだ。人々は常にその中間のいずれかのレベルを反復している。
「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321図5~322」岩波文庫 二〇一五年)
だが、あたかも天空から舞い降りた天使にも似た「処女たち」はなぜ「警護」する側にいるのだろう。<監視・検閲>するからである。「この乙女たちは、毎日その声を聞いても決して顔を見ることはできないが、目もくらむ真っ暗闇の扉という扉をぬかりなく監視しているわれらが『守護天使たち』であり、不在の者をそばに出現させてくれるがそのすがたを見るのは許してくれない『全能の女神たち』」だとプルーストは記す。
「この乙女たちは、毎日その声を聞いても決して顔を見ることはできないが、目もくらむ真っ暗闇の扉という扉をぬかりなく監視しているわれらが『守護天使たち』であり、不在の者をそばに出現させてくれるがそのすがたを見るのは許してくれない『全能の女神たち』であり、音の甕(かめ)をたえず空にしてはそれを一杯にして伝達しあう目に見えぬ世界の『ダナイスたち』であり、だれにも聞かれていないと思って女友だちにそっと恋心を打ち明けているときに無慈悲にも『お聞きします』と叫ぶ皮肉好きの『フリアイたち』であり、たえずいらいらして『秘儀』に仕える修道女たちであり、目には見えぬ『霊界』のすぐ気を悪くする巫女(みこ)であり、とどのつまり電話の『交換嬢たち』なのだ!」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.290~291」岩波文庫 二〇一三年)
なかでも「決して顔を見ることはできないが、目もくらむ真っ暗闇の扉という扉をぬかりなく監視している」点でフーコーの論じた<パノプティコン>を思い起こさせないわけにはいかない。
「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社 一九七七年)
そこで「電話の『交換嬢たち』」が媒介する限りで<私>と<祖母たち>とは始めて両者の目の前に忽然と互いの姿を目撃することになるのだろうか。とすれば「電話の『交換嬢たち』」を経ないと<私>と<祖母たち>との間には何らの交換関係も生まれないことになる。その意味で「電話の『交換嬢たち』」の機能は貨幣に等しい。ところが貨幣市場は貨幣恐慌というパニック状態にしばしば襲われる。貨幣が通例通りに機能してくれなくては誰もが困る。すると「たったいままで、ブルジョアは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していた。商品こそは貨幣だ、と。いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ!という声が響きわたる」。そうマルクスはいうのだが。
「貨幣恐慌が起きるのは、ただ、諸支払の連鎖と諸支払の決済の人工的な組織とが十分に発達している場合だけのことである。この機構の比較的一般的な撹乱が起きれば、それがどこから生じようとも、貨幣は、突然、媒介なしに、計算貨幣というただ単に観念的な姿から姿から堅い貨幣に一変する。それは、卑俗な商品では代わることのできないものになる。商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う。たったいままで、ブルジョアは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していた。商品こそは貨幣だ、と。いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ!という声が響きわたる。鹿が清水を求めて鳴くように、彼の魂(たましい)は貨幣を、この唯一の富を求めて叫ぶ」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.242」国民文庫 一九七二年)
にもかかわらず貨幣はすでに紙幣として流通しているし流通しないわけにはいかない。すべての商品交換は貨幣を媒介することで可能になる。その条件は「貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去る」ことでなければならない。
「貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物にいたっては、なおさらである。貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去るのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.232」国民文庫 一九七二年)
すると必ずしも金と交換されなくても紙幣で十分なのではという疑問は常に頭を掠めないではおかない。価値を現わすのは金だけに許された絶対的特権ではない。貨幣も紙幣も金も流通していなければ、それらはほとんどどれもまるで何ものでもない。そしてこう言うことができる。なぜ紙幣は金でもないのに価値を持つのか。
「金は価値をもつから流通するのであるが、紙幣は流通するから価値をもつのである」(マルクス「経済学批判・第一部・第一篇・第二章・P.156」岩波文庫 一九五六年)
流通するから価値をもつ。その通りだ。そして<武器としての速度>。電子マネーやキャッシュレス決済ばかりが幅を効かせる世界が見えてきそうだ。なのになぜ現在、思いのほか、電子マネーやキャッシュレス決済への移動ははかどっていないような気がするのか。というのは、流通し流通させるためには欠けているものがあるからだ。
ベルゴットがフェルメール「デルフトの眺望」の「小さな黄色い壁面」に気づいた時のことを思い出そう。それがなければベルゴットはフェルメール「デルフトの眺望」を素通りしていたに違いない。「小さな黄色い壁面」は絵画全体の中でほんの小さなスペースに「くっついて」いるだけでしかないように見える。だがそれは細部だから重要なのではなくベルゴットにとって新鮮極まりない<違和感>として、衝撃として、見出されたからにほかならない。
また「『ほとんどペルシャ風の教会』ということば」にばかり気を奪われていた<私>はエルスチールに「たがいにむさぼり合うシナ風ともいえる龍が描かれてい」ることを教えられて始めてその建築物の価値に気づく。「彫刻のこんな小さな部分」という差異的な箇所が衝撃を与える。
「私はエルスチールに、ほとんどペルシャ風の建物があるものと期待していたことが、おそらく失望の一因になったのだろうと言った。『とんでもない』とエルスチールは私に答えた、『むしろ大いに当たっている面があります。いくつかの部分は、まるでオリエント風です。柱頭の彫刻には、きわめて正確にペルシャの主題を再現しているものがありますから、オリエントの伝統が存続していたというだけでは充分な説明にはなりません。きっと彫刻家は、船乗りたちが持ち帰った小箱でも模写したのでしょう』。実際、あとでエルスチールが見せてくれた柱頭の彫刻には、たがいにむさぼり合うシナ風ともいえる龍が描かれていた。バルベックでは、『ほとんどペルシャ風の教会』ということばが示唆していたものとは似ても似つかぬ建物の全体に気をとられ彫刻のこんな小さな部分など見過ごしていたのだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.434」岩波文庫 二〇一二年)
そしてフェルメール「デルフトの眺望」にせよ「たがいにむさぼり合うシナ風ともいえる龍が描かれている建物」にせよ、ほんの僅かな差異的部分がすぐ傍にある《衝撃》として見出されることで新しく反復することができるようになるのだ。「デルフトの眺望」右端の小さな黄色い部分。それは次のように見える。
「というのもこの写真は、私がすでに経験していたゲルマント夫人とのさまざまな出会いに、さらに新たな出会いをつけ加えるものであったからだ。いや、それ以上のもとと言うべきか、まるでふたりの関係に突然の進展が生じて、夫人が庭用の帽子をかぶって私のそばに立ち止まり、はじめて頬の膨らみとか、うなじの曲がり具合とか、眉の端とか(それまでは夫人があっという間に通りすぎたり私の印象が混乱していたり記憶があやふやだったりして私には覆い隠されていたもの)を心ゆくまで眺めさせてくれたのに等しいからである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.170~171」岩波文庫 二〇一三年)
その部分を凝視すると写真のように緻密ではあるけれども、船体の側面にも散りばめられた光のように、揺らいでいることに気づくだろう。大きな絵画の中で目立つものではなく逆にその傍にくっついているような小さな部分からもたらされる衝撃と揺らぎ。それは欠けているのでは決してなく、ただ、今なお見出されていないに過ぎない。
BGM1
BGM2
BGM3
電話は「魔法」のようだと<私>はいう。「いきなり何百里もの距離をとび越えて、われわれの耳元にまで、こちらの勝手な希望どおりの時刻にやって来てくれる」のだから。目の前にいないはずの人間が突如目の前に出現する。言葉は電話という機械装置を通してそれまでの人間の生活様式を根底からひっくり返した。
「相手はテーブルに座ったまま住んでいる町(祖母の場合はパリ)に居て、こちらとは異なる空のかならずしも同じではない天候のもと、こちらの知る由(よし)もない状況と関心事にとり巻かれ、それをこちらに伝えようとしているのだが、そんな相手が(相手の浸っている雰囲気とともに)いきなり何百里もの距離をとび越えて、われわれの耳元にまで、こちらの勝手な希望どおりの時刻にやって来てくれるのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.289~290」岩波文庫 二〇一三年)
また「われわれはお伽噺(とぎばなし)の人物にでもなった気分で、その願いを聞き入れた魔法使いが、われわれの祖母や婚約者が本をひもといたり涙を流したり花を摘んだりするさまをこの世のものとは思えぬ光のなかに出現させてくれる」。しかしただそれだけのことなら電話でなくて郵便で十分だと思われないだろうか。ところが「祖母や婚約者はそれを見ているわれわれのすぐそばにいるのに、じつは遠く離れた現地にとどまったままである。こんな奇蹟」、とプルーストは述べる。電話の普及はプルーストに単なる驚きではなく衝撃を与えた。これまでのヨーロッパで支配的だった習慣・制度の一つががらりと変わる一九〇〇年代初頭。
「われわれはお伽噺(とぎばなし)の人物にでもなった気分で、その願いを聞き入れた魔法使いが、われわれの祖母や婚約者が本をひもといたり涙を流したり花を摘んだりするさまをこの世のものとは思えぬ光のなかに出現させてくれるわけで、そんな祖母や婚約者はそれを見ているわれわれのすぐそばにいるのに、じつは遠く離れた現地にとどまったままである。こんな奇蹟が実現するには、唇を魔法の小さな板に近づけてーーーときにはいささか時間のかかることもあるが、それは承知のうえだーーー『警護の処女たち』を呼び出すだけでいい」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.290」岩波文庫 二〇一三年)
郵便が語る言葉と電話が語る言葉とではどう違うのか。同じ内容の文章であってもなお違いを感じさせるのはなぜか。問題は<速度>の違いにある。
「彼らは運命のように、理由も理性も遠慮も口実もなしにやって来る。電光のようにそこに来ている。余りに恐ろしく、余りに突然で、余りに説得的で、余りに『異様』なので、全く憎いと思うことさえできないほどである。彼らの仕事は本能的な形式創造、形式打刻である。それは存在するかぎりの最も無意的な、最も無意識的な芸術家である。ーーー要するに、彼らの出現する所にはある新しいものが、《生きた》支配形態が成立する。そしてこの支配形態のうちでは、諸部分や諸機能はそれぞれ限局されつつしかも関係づけられており、また全体に関して『意味』を孕(はら)んでいないものには決して場所を与えられない」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十七・P.101~102」岩波文庫 一九四〇年)
そうニーチェがいうように<速度>はそれ自体がすでに武器である。
「武器と道具が、運動や速度と結ぶ関係は『傾向として』(近似的に)同じではないということである。武器と速度の次のような相互補足関係を強調したこともまたポール・ヴィリリオの本質的な貢献の一つであるーーーすなわち、武器が速度を発明する、あるいは速度の発見が武器を発明するということである(武器の投射的性格はこれに由来する)」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・十二・遊牧論あるいは戦争機械・P.99」河出文庫 二〇一〇年)
<私>は『警護の処女たち』と形容する。女性の電話交換手のことだがその前に「電話交換局」の機能についてベルクソンから引こう。
「脳とは、かくて私たちの見るところでは、一種の電話交換局にほかならないはずである。その役割は『通信を伝えること』あるいはそれを待機させることにある。脳は、じぶんが受容したものになにものも付加しない。とはいえ、あらゆる感覚器官は、その延長の終端を脳にまで送りこんでおり、脊髄と延髄にぞくする運動機構のいっさいが、選定された代表者をそこに置いているわけだ。だから脳は、まぎれもなく一箇の中枢なのであり、末梢の刺戟はこの中枢で、あれこれの運動機構と関係づけられる。ただしその関係は、選択されたものであって、強制されたものではもはやないのである。いっぽう、膨大な数の運動をみちびく〔神経〕通路が、この皮質のなかでは《すべて同時に》、末梢から到来する同一の興奮に対して開放されることがありうる。したがってこの興奮には、脳のなかで無限に分割され、かくてまた無数の、ただ生まれようとしているにすぎない運動性反応のうちで散逸する可能性もある。こうして、脳の役割はある場合には、受けとった運動を、選択された反応器官へみちびくことであり、またべつの場合にはこの運動に対して、運動の通路の全体を開放することにある。後者の場合なら、それは、当の運動にふくまれている可能な反応のすべてを素描し、みずから分散しながら分解してゆくためなのである。いいかえてみよう。脳とは、受けとられた運動との関係においては分解の器官であり、実行される運動との関係にあっては選択の器官であるように、私たちには思われる。しかしながら、いずれの場合にしてもその役割は、運動を伝達したり、分割したりすることに限定されている。くわえていえば、皮質の上位の中枢においても、神経の諸要素は認識をめざして作動しているわけではない。これは、脊髄が認識を目的とするものでなかったのと同様である。それらは、複数の可能な行動を一挙に下描きするか、そのうちのひとつを組織化するか、そのいずれかを遂行するにすぎない」(ベルクソン「物質と記憶・P.59~60」岩波文庫 二〇一五年)
要するにその作業は人間の脳の機能へ翻訳可能なものだ。そしてベルグソンはそのうちの極めて重要な思考運動について逆円錐形の図を用いて説明した。次のような結果が得られる。点Sに向かえば向かうほど現実へ加速する。逆にABレベルでは夢でも見ているようにふらふら漂っているばかりだ。人々は常にその中間のいずれかのレベルを反復している。
「すなわち、点Sであらわされる感覚-運動メカニズムと、ABに配置される記憶の全体とのあいだにはーーー私たちの心理学的な生における無数の反復の余地があり、そのいずれもが、同一の円錐のA’B’、A”B”などの断面で描きだされる、ということである。私たちがABのうちに拡散する傾向をもつことになるのは、じぶんの感覚的で運動的な状態からはなれてゆき、夢の生を生きるようになる、その程度に応じている。たほう私たちがSに集中する傾向を有するのは、現在のレアリテにより緊密にむすびつけられて、運動性の反応をつうじて感覚性の刺戟に応答する、そのかぎりにおいてのことである。じっさいには正常な自我であれば、この極端な〔ふたつの〕位置のいずれかに固定されることはけっしてない。そうした自我は、両者のあいだを動きながら、中間的な断面があらわす位置をかわるがわる取ってゆくのだ。あるいは、ことばをかえれば、みずからの表象群に対して、ちょうど充分なだけのイマージュと、おなじだけの観念を与えて、それらが現在の行動に有効なかたちで協力しうるようにするのである」(ベルクソン「物質と記憶・P.321図5~322」岩波文庫 二〇一五年)
だが、あたかも天空から舞い降りた天使にも似た「処女たち」はなぜ「警護」する側にいるのだろう。<監視・検閲>するからである。「この乙女たちは、毎日その声を聞いても決して顔を見ることはできないが、目もくらむ真っ暗闇の扉という扉をぬかりなく監視しているわれらが『守護天使たち』であり、不在の者をそばに出現させてくれるがそのすがたを見るのは許してくれない『全能の女神たち』」だとプルーストは記す。
「この乙女たちは、毎日その声を聞いても決して顔を見ることはできないが、目もくらむ真っ暗闇の扉という扉をぬかりなく監視しているわれらが『守護天使たち』であり、不在の者をそばに出現させてくれるがそのすがたを見るのは許してくれない『全能の女神たち』であり、音の甕(かめ)をたえず空にしてはそれを一杯にして伝達しあう目に見えぬ世界の『ダナイスたち』であり、だれにも聞かれていないと思って女友だちにそっと恋心を打ち明けているときに無慈悲にも『お聞きします』と叫ぶ皮肉好きの『フリアイたち』であり、たえずいらいらして『秘儀』に仕える修道女たちであり、目には見えぬ『霊界』のすぐ気を悪くする巫女(みこ)であり、とどのつまり電話の『交換嬢たち』なのだ!」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.290~291」岩波文庫 二〇一三年)
なかでも「決して顔を見ることはできないが、目もくらむ真っ暗闇の扉という扉をぬかりなく監視している」点でフーコーの論じた<パノプティコン>を思い起こさせないわけにはいかない。
「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・第三部・第三章・P.204」新潮社 一九七七年)
そこで「電話の『交換嬢たち』」が媒介する限りで<私>と<祖母たち>とは始めて両者の目の前に忽然と互いの姿を目撃することになるのだろうか。とすれば「電話の『交換嬢たち』」を経ないと<私>と<祖母たち>との間には何らの交換関係も生まれないことになる。その意味で「電話の『交換嬢たち』」の機能は貨幣に等しい。ところが貨幣市場は貨幣恐慌というパニック状態にしばしば襲われる。貨幣が通例通りに機能してくれなくては誰もが困る。すると「たったいままで、ブルジョアは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していた。商品こそは貨幣だ、と。いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ!という声が響きわたる」。そうマルクスはいうのだが。
「貨幣恐慌が起きるのは、ただ、諸支払の連鎖と諸支払の決済の人工的な組織とが十分に発達している場合だけのことである。この機構の比較的一般的な撹乱が起きれば、それがどこから生じようとも、貨幣は、突然、媒介なしに、計算貨幣というただ単に観念的な姿から姿から堅い貨幣に一変する。それは、卑俗な商品では代わることのできないものになる。商品の使用価値は無価値になり、商品の価値はそれ自身の価値形態の前に影を失う。たったいままで、ブルジョアは、繁栄に酔い開化を自負して、貨幣などは空虚な妄想だと断言していた。商品こそは貨幣だ、と。いまや世界市場には、ただ貨幣だけが商品だ!という声が響きわたる。鹿が清水を求めて鳴くように、彼の魂(たましい)は貨幣を、この唯一の富を求めて叫ぶ」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.242」国民文庫 一九七二年)
にもかかわらず貨幣はすでに紙幣として流通しているし流通しないわけにはいかない。すべての商品交換は貨幣を媒介することで可能になる。その条件は「貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去る」ことでなければならない。
「貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物にいたっては、なおさらである。貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去るのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.232」国民文庫 一九七二年)
すると必ずしも金と交換されなくても紙幣で十分なのではという疑問は常に頭を掠めないではおかない。価値を現わすのは金だけに許された絶対的特権ではない。貨幣も紙幣も金も流通していなければ、それらはほとんどどれもまるで何ものでもない。そしてこう言うことができる。なぜ紙幣は金でもないのに価値を持つのか。
「金は価値をもつから流通するのであるが、紙幣は流通するから価値をもつのである」(マルクス「経済学批判・第一部・第一篇・第二章・P.156」岩波文庫 一九五六年)
流通するから価値をもつ。その通りだ。そして<武器としての速度>。電子マネーやキャッシュレス決済ばかりが幅を効かせる世界が見えてきそうだ。なのになぜ現在、思いのほか、電子マネーやキャッシュレス決済への移動ははかどっていないような気がするのか。というのは、流通し流通させるためには欠けているものがあるからだ。
ベルゴットがフェルメール「デルフトの眺望」の「小さな黄色い壁面」に気づいた時のことを思い出そう。それがなければベルゴットはフェルメール「デルフトの眺望」を素通りしていたに違いない。「小さな黄色い壁面」は絵画全体の中でほんの小さなスペースに「くっついて」いるだけでしかないように見える。だがそれは細部だから重要なのではなくベルゴットにとって新鮮極まりない<違和感>として、衝撃として、見出されたからにほかならない。
また「『ほとんどペルシャ風の教会』ということば」にばかり気を奪われていた<私>はエルスチールに「たがいにむさぼり合うシナ風ともいえる龍が描かれてい」ることを教えられて始めてその建築物の価値に気づく。「彫刻のこんな小さな部分」という差異的な箇所が衝撃を与える。
「私はエルスチールに、ほとんどペルシャ風の建物があるものと期待していたことが、おそらく失望の一因になったのだろうと言った。『とんでもない』とエルスチールは私に答えた、『むしろ大いに当たっている面があります。いくつかの部分は、まるでオリエント風です。柱頭の彫刻には、きわめて正確にペルシャの主題を再現しているものがありますから、オリエントの伝統が存続していたというだけでは充分な説明にはなりません。きっと彫刻家は、船乗りたちが持ち帰った小箱でも模写したのでしょう』。実際、あとでエルスチールが見せてくれた柱頭の彫刻には、たがいにむさぼり合うシナ風ともいえる龍が描かれていた。バルベックでは、『ほとんどペルシャ風の教会』ということばが示唆していたものとは似ても似つかぬ建物の全体に気をとられ彫刻のこんな小さな部分など見過ごしていたのだろう」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.434」岩波文庫 二〇一二年)
そしてフェルメール「デルフトの眺望」にせよ「たがいにむさぼり合うシナ風ともいえる龍が描かれている建物」にせよ、ほんの僅かな差異的部分がすぐ傍にある《衝撃》として見出されることで新しく反復することができるようになるのだ。「デルフトの眺望」右端の小さな黄色い部分。それは次のように見える。
「というのもこの写真は、私がすでに経験していたゲルマント夫人とのさまざまな出会いに、さらに新たな出会いをつけ加えるものであったからだ。いや、それ以上のもとと言うべきか、まるでふたりの関係に突然の進展が生じて、夫人が庭用の帽子をかぶって私のそばに立ち止まり、はじめて頬の膨らみとか、うなじの曲がり具合とか、眉の端とか(それまでは夫人があっという間に通りすぎたり私の印象が混乱していたり記憶があやふやだったりして私には覆い隠されていたもの)を心ゆくまで眺めさせてくれたのに等しいからである」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.170~171」岩波文庫 二〇一三年)
その部分を凝視すると写真のように緻密ではあるけれども、船体の側面にも散りばめられた光のように、揺らいでいることに気づくだろう。大きな絵画の中で目立つものではなく逆にその傍にくっついているような小さな部分からもたらされる衝撃と揺らぎ。それは欠けているのでは決してなく、ただ、今なお見出されていないに過ぎない。
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