白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて16

2022年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

(2)絵画。第十三回。


「婆娑羅シリーズ7・晴れのち曇り」

いかがでしたでしょうか。参考になれば幸いです。

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Blog21・<翻訳への意志>としてのプルースト

2022年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム
ありふれた知性で構築された一般的な想念というものはあらかじめ平板化されており、平均的かつ凡庸なレベルで広く通用する恣意的なステレオタイプ(紋切型)の文章しか現わさない。残念なことだ、と思ったのだろう、プルーストはいう。「無数の閉ざされた器のなかに封じこめられ、その器のひとつひとつにはまるで異なる色や匂いや温度が詰まっている」と。

「われわれが人生のある時期に口にしたいかに些細なことばといえども、論理的にはそれとは無関係なさまざまなものにとり囲まれ、そうしたものを反映していたにもかかわらず、理屈で考える際にはそうしたものをなんら必要としない理性によってくだんのことばや仕草から切り離されていたが、じつはどれほど単純な仕草や行為も、そうしたものーーーそれはある田舎のレストランの花咲く壁に映える夕べのバラ色の残照であったり、空腹感であったり、女への渇望であったり、贅沢の楽しみであったりする一方で、水の精(ウンディーネ)たちの肩のように水面からちらちらとすがたをあらわす音楽のフレーズをつつむ朝の海の青い渦巻であったりするーーーに囲まれ、無数の閉ざされた器のなかに封じこめられ、その器のひとつひとつにはまるで異なる色や匂いや温度が詰まっている点にあるのだ。おまけにこれらの器は、たんに夢によってであれ想念によってであれ、われわれがたえず変化してすごしてきた膨大な歳月のさまざま異なる高さに配されているので、われわれはことのほか多様な大気を吸っている気がするのである。われわれはそうした変化をもとよりそうとは気づかずに成し遂げてきたのだが、突然よみがえる想い出と現在のわれわれの状態とのあいだには、ほかの歳月や場所や時間におけるふたつの想い出のあいだに認められる隔たりと同じくきわめて大きな隔たりがあるから、両者に固有の独自性は措(お)くとしても、その隔たりだけでも両者をたがいに完全にべつなものとするに充分であろう」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.437~438」岩波文庫 二〇一八年)

言語化の過程で個々別々の差異が抹消され、一般的なものに置き換えられるのはどのようにしてか。ニーチェはいう。

「すべて語というものが、概念になるのはどのようにしてであるかと言えば、それは、次のような過程を経ることによって、ただちにそうなるのである、つまり、語というものが、その発生をそれに負うているあの一回限りの徹頭徹尾個性的な原体験に対して、何か記憶というようなものとして役立つべきだとされるのではなくて、無数の、多少とも類似した、つまり厳密に言えば決して同等ではないような、すなわち全く不同の場合にも同時に当てはまるものでなければならないとされることによって、なのである。すべての概念は、等しからざるものを等置することによって、発生するのである。一枚の木の葉という概念が、木の葉の個性的な差異性を任意に脱落させ、種々の相違点を忘却することによって形成されたものであることは、確実なのであって、このようにして今やその概念は、現実のさまざまな木の葉のほかに自然のうちには『木の葉』そのものとでも言いうるような何かが存在するかのような概念を呼びおこすのである」(ニーチェ「哲学者に関する著作のための準備草案」『哲学者の書・P.352~353』ちくま学芸文庫 一九九四年)

そこでプルーストは「一回限り」の自分の生涯を記すに当たって「われわれが記した文字ではなく、象徴的な文字からなる書物こそ、われわれのただひとつの書物である」とし、その指標として「印象」を持ってこようと考える。論理化された言語が正しいかどうかが問題なのではなく正しいかどうかを判断する基準がもはやないからだ。ニーチェ流にいえば「神の死」ということになるだろう。

「われわれが記した文字ではなく、象徴的な文字からなる書物こそ、われわれのただひとつの書物である。われわれのつくりだす想念が論理的に正しいことなどありえないからではなく、その想念が真実であるかどうかはわれわれには判断できないからである。ひとえに印象だけが、たとえその素材がいかにみすぼらしく、その傷痕がいかに捉えにくいものであろうと、真実の指標となり、それゆえ精神によって把握される価値があるのは印象だけである。というのも印象から精神が真実をひき出すことができるなら、印象だけが精神を一段と大きな完成へと導き、精神に純粋な歓びを与えることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.458」岩波文庫 二〇一八年)

プルーストのいう「印象」は「感性」という言葉に極めて近い。社会的文法に従って整えられる前の感性の言葉。それを捉えることができたなら、作品として、より一層高い完成度を目指すことができるだろうという。だがしかし、誤読される危険はいつもある。それが言語形式を取っている以上避けられない誤読だが、プルーストはこう述べる。

「なぜならその人たちは、私の考えでは、私の読者ではなく、自分自身の読者だからである。私の書物は、コンブレーのメガネ屋が客に差しだすレンズと同じく一種の拡大鏡にすぎず、私はその人たちに私の書物という自分自身を読むための手立てを提供しているにすぎないからだ。それゆえ私がその人たちに求めるのは、私を褒めたりけなしたりすることではなく、ただほんとうにこのとおりかどうか、その人たちが自分自身を読みとることばがたしかに私の書いたことばどおりであるかどうか、それを私に言ってくれることだけだろう(この点で両者の見解が一致しないこともあるが、それはかならずしも私が間違っていることに起因するわけではなく、ときには読者の目が私の書物に適した目ではなく、私の書物ではうまく自分自身を読みとれないことに起因する場合もある)」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.269」岩波文庫 二〇一九年)

なぜそのような誤読可能性が発生するのか。ヴァレリーから。

「このことを証明するためには、あらゆる領域においてわれわれが真に知ることが、もしくは知ると信じることができるのは、われわれ自身で《観察》しうるものか、もしくは《制作》しうるものにほかならず、作品を産む精神の観察と、その作品の或る価値を産む精神の観察とを、同一の意識状態、同一の注意のなかに集めることは不可能であることを注意するだけで十分であります。この二つの機能を同時に観察することのできる眼は存在しません。生産者と消費者は本質的に分離された二つの組織であります。作品は生産者にとっては《終結》であり、消費者にとっては、人の望みうる限り相互に無関係たりうるさまざまの発展の《始原》であります」(ヴァレリー「詩学序説」『世界の名著66・アラン/ヴァレリー・P.476~477』中公バックス 一九八〇年)

自分自身を含め作家の「義務と責務は、翻訳者のそれなのである」とプルーストは語る。

「あることがらがなんらかの印象を与えるとき、そのとき実際に生じていることを私が把握しようと努めていたならば、本質的な書物、唯一の真正な書物はすでにわれわれひとりひとりのうちに存在しているのだから、それを大作家はふつうの意味でなんら発明する必要がなく、ただそれを翻訳すればいいのだということに、私は気づいたはずである。作家の義務と責務は、翻訳者のそれなのである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.480」岩波文庫 二〇一八年)

さて読者は「ヴァントゥイユ嬢の女友だち」を覚えているだろうか。ヴァントゥイユの肖像の前でヴァントゥイユの娘と同性愛行為に耽り込んで遊んでいた友人である。この「ヴァントゥイユ嬢の女友だち」がヴァントゥイユの死後、残されたヴァントゥイユの仕事をまとめて「オーケストラ用の指示も」できるため、「ヴァントゥイユが遺した判読できない書きこみを何年もかけて解読し、だれひとり知らぬその判じ物の正しい読みかたを確定する」ことになり完成させた。プルーストではお馴染みの<冒瀆>のテーマと重なっている。ヴァントゥイユを崇拝対象に祭り上げたその上で、ヴァントゥイユの肖像の前のベッドで同性愛に耽る。けれども<冒瀆>のテーマはテーマとして、「ヴァントゥイユ嬢の女友だち」は、それ以上にリアルな生涯を歩んではいないだろうか。引用しておこう。

「ヴァントゥイユが死んだとき、残されたのは例のソナタだけで、ほかには存在しないも同然の、判読できぬメモしかないと言われていたからである。その判読できぬメモは、しかし根気と叡知と敬意を尽くしてついに解読されたのであり、それをなしとげたのは、ヴァントゥイユのそばで長らく暮らしたおかげで、その仕事のやりかたに通暁し、そのオーケストラ用の指示も判読できるただひとりの人、つまりヴァントゥイユ嬢の女友だちであった。この女友だちは、すでに大音楽家の生前から、娘が父親に寄せていた崇拝の念をその娘から学んでいたのである。この崇拝の念があったからこそふたりの娘は、本来の性向とは正反対の方向へと突きすすむ瞬間において、すでに語ったような冒瀆の行為に錯乱した快楽を覚えることができたのだ。父親を崇めて熱愛することは、娘が冒瀆に走るための条件そのものだったのである。もとよりふたりの娘はそうした冒瀆行為による官能の快楽など斥けて然るべきであったかもしれないが、しかしその快楽がふたりのすべてを示しているわけではなかった。おまけにそのような冒瀆行為は、ふたりの病的な肉体関係が、つまり混濁してくすぶる熱情が、気高く純粋な友情の炎に取って替わられるにつれてしだいにまれとなり、ついには完全に消えてしまった。ヴァントゥイユ嬢の女友だちの脳裏には、もしかすると自分がヴァントゥイユの死期を早めたのではないかという拭いきれぬ想いがよぎるときがあった。それでも女友だちは、ヴァントゥイユが遺した判読できない書きこみを何年もかけて解読し、だれひとり知らぬその判じ物の正しい読みかたを確定することによって、自分は音楽家の晩年を暗いものにしたが、その償いとして音楽家に不滅の栄光を保証したのだという慰めを得たのである。法律によって認知されない関係からも、結婚から生まれる親族の関係と同じほどに多様で複雑な、ただしはるかに揺るぎなき近親の関係が生じるものだ。それほど特異な性格の関係にこだわらなくても、たとえば不倫が正真正銘の愛に基づくものであれば、家族の情愛や肉親の義務をなんら揺るがすことはなく、むしろそれを再活性化することは、われわれが日々目にしているではないか?このとき不倫は、結婚によってたいてい空文化してしまったものに精神を吹きこんでいるのだ」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.162~163」岩波文庫 二〇一七年)

ニーチェのいう債権債務関係を清算したと言える。<冒瀆>は思春期に通過しておくべき常識的行為の一つに過ぎない。この箇所でプルーストが力点を置いているのはそういうことではない。「ヴァントゥイユ嬢の女友だち」は、ばらばらに残された困難な<諸断片>を丁寧に<翻訳>して他の人々にも読解可能にする。「ヴァントゥイユ嬢の女友だち」は、だから、ただ単なる「女友だち」から「翻訳家」へ生成したのだ。またプルーストはドストエフスキーを例に上げ、或る家を「新しい別の家へ翻訳した」作家として述べている。

「フェルメールではさまざまな布地や場所に、ある一定の魂が創造され、ある一定の色彩が創造されるように、ドストエフスキーではさまざまな人物が創造されるだけじゃなく、さまざまな家も創造されるんだ。『罪と罰』に出てくる、門番のいる『殺人』の家なんて、ロゴージンがナスターシャ・フィリッポヴナを殺してしまう、あの暗くて、細長く、天井の高い、おそろしく広い家、ドストエフスキーにおける『殺人』の家の傑作とも言うべきあの家と、同じくらいすばらしいものではなかろうか」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.431~432」岩波文庫 二〇一七年)

前者「門番のいる『殺人』の家」の箇所。

「だから出入りがはげしく、二つの門と二つの内庭にはほとんど人の行き来がたえたことがなかった。庭番も三、四人はたらいていた」(ドストエフスキー「罪と罰・上・第一部・1・P.10」新潮文庫 一九八七年)

後者「あの暗くて、細長く、天井の高い、おそろしく広い家」の箇所。

「その家はどす黒い緑色に塗られた、少しも飾りのない、陰気な感じのする大きな三階建てであった」ドストエフスキー「白痴・上・第二編・3・P.379」新潮文庫 一九七〇年)

新しい人間というのはエルスチールやヴァントゥイユがそうであったように、常に何か新しいものを見出す<発見者>として歴史に登場するのだとプルーストはいうのである。

しかしーーー。日本では選挙戦が始まった。しかし首のすげ換えができればまずまずと言われねばならないほど、有権者の関心は相変わらず低い。もはや民主主義自体が存続の危機に追い込まれてしまっている。

「《囚人たち》。ーーーある朝、囚人たちは作業庭のなかへ入っていった。そのとき牢番はいなかった。彼らのうちの或る連中は彼らなりにすぐに仕事にとりかかったが、ほかの連中は働かずに突っ立って、反抗的にあたりを見まわしていた。そこへ一人の男が現われて、大声でこう言った、『好きなだけ働けがいい、でなかったら何もしないがいい。どちらにしても同じことだ。お前たちの秘密の陰謀が露顕したのだ。牢番は最近お前たちの話を盗み聞きした。そして近日中にお前たちを恐ろしい審判にかけようとしている。お前たちの知ってのとおり、彼は峻烈だし、執念深い心の持ち主だ。だが、よく聴け、お前たちはいままでおれを誤解していた。おれは見かけ以上の者なのだ。おれは牢番の息子で、おれの言うことは彼に何でも通るのだ。おれはお前たちを救うことができるし、また救ってやるつもりだ。だが、よく聴くがいい、お前たちのなかでおれが牢番の息子であることを《信ずる》者たちだけだぞ。そうでない者たちは、自分の不信仰の実を刈りいれるがいいのだ』。しかも父親を思いどおり動かすことができるのだ。私はおまえたちを救うことができるし、救いたいとも考えている。ただし、むろんのこと、救ってやるのは、おまえたちのうちで私が看守の息子であることを<信じる>者だけだ。信じようとしない者たちは、その不信心の報いを受ければよい』。『だが』としばらくの沈黙のあとをうけてひとりの年配の囚人が言った、『われわれがお前さんのことを信じようと信じまいと、それがお前さんにどれだけ大切だというのだい?お前さんが本当に息子で、お前の言うとおりのことができるのなら、おれたちみんなのために取りなしをしてくれ。それこそお前さんのほんとうの思いやりというものだ。だが、信ずるとか信じないとかのお談義はよししてくれ!』『そして』とひとりの若い男が口をはさんで叫んだ、『おれもあいつを信じないよ。あいつは何か妙な空想をしているだけなんだ。おれは賭けてもいい、一週間たったっておれたちは今日とまったく同じにここにいるのさ、そして牢番は《何も》知っては《いない》のだ』。『いままでは何か知っていたにしても、いまはもう何も知ってはいない』と、いま庭へ出てきたばかりの最後の囚人が言った、『牢番はたったいま急に死んだのだ』。ーーー『おーい』と幾人かの者がごっちゃに叫んだ、『おーい!息子さん、息子さん、遺産のほうはどうなんだね?われわれは、どうやらいまは《お前さん》の囚人なんだね?』ーーー『おれがお前たちに言ったとおりだ』と、呼びかけられた男は穏やかに答えた。『おれはおれを信ずるすべての者たちを解放するだろう、おれの父がまだ生きているのと同じ確実さで』。ーーー囚人たちは笑わなかった、しかし肩をすくめてから、立ちどまる彼を残して、立ち去った」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・八四・P.337~338」ちくま学芸文庫 一九九四年)

というふうに、しばらくの間は有権者=「囚人」であることにほとんど変更はなさそうなムードがすでに日本全土を覆い尽くしているかのようだ。ますます蔓延するニヒリズム。ニーチェの警告が静々と聞こえてくる。

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