白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて2

2022年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについてブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問について。第二回。

今回は(3)陶芸です。

十五年位前に一年半ほど取り組んでいました。現在は電気釜をお借りするための会費が捻出できないので残念ながら休止中です。


信楽白釉耳付小壺


半磁器土オブジェ


備前白釉徳利・ぐい呑み


信楽飴釉徳利・ぐい呑み


備前白釉ぐい呑み


信楽透明釉ぐい呑


備前一輪挿し


黒土面取花入


備前×信楽白釉一輪挿し


信楽一輪挿し


左:備前ぐい呑み 右:信楽ぐい呑み


備前×古信楽一輪挿し

いかがでしたでしょうか。参考になれば幸いです。なお(1)「決して無理のない範囲内でギターのエクササイズ」につきましては、いつ頃になるかわかりませんが機材の都合がつき次第、試聴できるようにしたいと考えています。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・劇的嫉妬の効果/拷問としての沈黙/<狂人・スパイ>への意志「サン=ルー」

2022年06月04日 | 日記・エッセイ・コラム
ゲルマント夫人のことを想うと、とプルーストは書く。<私>はどうなるか。「公爵夫人に会いたい一念に押し流されそうになる。ある日は一方へと近づき、べつの日には他方へと近づき、安定した平衡状態を保つことができない」。問われているのは「安定した平衡状態を保つこと」ではなく逆に「安定した平衡状態を保つことができない」という必然性だ。「ある日は一方へと近づき、べつの日には他方へと近づき」。どういうことだろうか。間違いなく、<私>はいつも一人の同一の人間ではまるでないということだ。そんな<私>でしかないにもかかわらず、しかし欲望する人間が友人のサン=ルーの場合、<私>は余裕を持ってサン=ルーを観察することができる。だがあくまでもプルーストが重要視しているのは観察ではなく感受性の側だ。エルスチールやヴァントゥイユといった芸術家だけに与えられた《感性》を特権的変換装置として位置付けている。ところで愛人からの手紙に目を通したサン=ルーの身体。「不安」の湧出を腹の底から感じ取る。それもまた《感性》の一種なのだがサン=ルーは芸術家ではない。その激痛を<別の価値体系>へ変換して置き換えることができない。するといつまで経っても一方的にサン=ルーばかりが苦悶にのたうち回るほかなくなる。さらに愛人の側は「沈黙」という手段を選んでいる。愛人の沈黙は愛する側にとって「拷問」以外の何ものでもない。

「沈黙は愛されている側の人間によって意のままに行使されると、恐ろしい力を発揮する。待つ者の不安を募らせるのである。相手から遠ざけられていることほど、その相手に近づきたいと思わせる要因はないし、そもそも沈黙以上に越えがたい障壁があるだろうか?沈黙は拷問であり、監獄で沈黙を強いられた者は発狂することがある、と言った人もいる。だが、愛する相手の沈黙に耐えることはーーー自分が沈黙を守ることにもましてーーーなんという拷問であろう!」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.264」岩波文庫 二〇一三年)

ロベール(サン=ルー)は深い嫉妬に陥っているようだ。「このように沈黙は実際にロベールの頭を狂わせた」。どのようにして?「嫉妬と後悔によって」。プルーストはいう。「沈黙それ自体が牢獄なのである」と。

「ロベールはこう考える、『こんなふうに押し黙っていいるとは、どんな理由があるのか?俺を騙してほかの男とつき合っているのではないか?』。また、こうも考える、『こんなふうに押し黙っているとは、俺のどこが悪かったというのか?俺を憎んでいるのかもしれない、しかも未来永劫に』。かくしてロベールはわが身を責める。このように沈黙は実際にロベールの頭を狂わせたのだが、それは嫉妬と後悔によってなのだ。そもそもこの手の沈黙は、牢獄の沈黙よりも残酷で、沈黙それ自体が牢獄なのである。沈黙というものはたしかに非物質的なものではあるが、それが入りこめない囲いとなり、捨てられた者のまなざしの光は、ふたりのあいだに介在する真空の層を通過できないのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.264~265」岩波文庫 二〇一三年)

よく知られているようにこの種の本能は実にしばしば自殺/他殺へ向かう。「ロベールはわが身を責める」。そのことによって。ニーチェはいう。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫 一九四〇年)

次の箇所でプルーストはサン=ルーを<裏切り>という馴染みのテーマへ叩き込む。

「沈黙ほどに恐ろしい照明があるだろうか?なにしろその照明は、ひとりの不在の女ではなく無数の不在の女を映し出し、おまけにそのひとりひとりがべつの裏切りに身を委ねるさまを映し出すのだから」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.265」岩波文庫 二〇一三年)

まるで身体を幻覚に乗っ取られたかのような、ありもしない想像的シーンの具体性にうなされるほかない。愛する側の強度は「相手から遠ざけられてい」ればいるほど備給される。増大する。備給されればされるほど愛する側の「牢獄」さはますます厚みを増してくる。<私>から見たサン=ルーはどう映っているのだろう。シャルリュスの「まなざし」について以前引いた。

「見知らぬ人の前でそんなまなざしをするのは、なんらかの理由でその見知らぬ人に触発されて他の人なら想いも寄らぬ考えをいだく男ーーーたとえば狂人やスパイーーーだけである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.246」岩波文庫 二〇一二年)

おそらくそうだ。「狂人やスパイ」。ロベール(サン=ルー)は<私>の友人であると同時に「狂人」でもあり「スパイ」でもある。ありあまる嫉妬の力によって「友人、狂人、スパイ」とせわしなく変化する。

さて、連日報道されている「ウクライナ情勢」だが今だによくわからない部分が多い。多過ぎる。アルトーが自身の身体で絶望的に演じた有機体からの逃走。そのために必要な準備は、しかし、とても簡単なことだ。「人間に器官なき身体を作ってやる」こと。

「私は強調する、その身体構造を作り直すため、と。人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。決心して、彼を裸にし、彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねばならぬ、

神、
そして神とともに
その器官ども。

私を監禁したいなら監禁するがいい、しかし器官ほどに無用なものはないのだ。

人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため」『神の裁きと訣別するため・P.44~45』河出文庫 二〇〇六年)

アルトーが批判する「自動性」は「習慣・制度」に従って生きることしかしない態度であり「自動性から解放」を宣言する。従ってプルーストではこうなる。

「私に必要なのは、自分をとり巻くどれほど些細な表徴にも(ゲルマント、アルベルチーヌ、ジルベルト、サン=ルー、バルベックといった表徴にも)、習慣のせいで失われてしまったその表徴のもつ意味をとり戻してやることだ。そうして現実を捉えることができたら、その現実を表現しそれを保持するために、その現実とは異なるもの、つまり素早さを身につけた習慣がたえず届けてくれるものは遠ざけなければならない」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.494~495」岩波文庫 二〇一八年)

アルトーのいう「有機体」はすべてが接続され、ほとんど全面的なまで一般化・記号化・凡庸化・家畜化された社会体のことを指している。だからそのような有機体を構成する要素としての諸器官からの逃走を呼びかけてやまないのだ。またアルトーは精神障害を患っていたため「錯乱」した者というレッテルを貼られていた。しかしどの選択肢を選んだとしても「錯乱者」呼ばわりされるのなら、有機的社会体の構成要素の一つとして「錯乱」してなお気づかずにいるより「大地からじかに錯乱を食べる」重要性を強調する。

「大地からじかに錯乱を食べる民の方が私ははるかに好きである」(アルトー「神の裁きと訣別するため」『神の裁きと訣別するため・P.12』河出文庫 二〇〇六年)

アルトーによるペヨトルについての考察。

(1)「意識は自分にとって何が良いか、何が無価値か知っている。それゆえ自分が危険を犯さず《有益》なものとして集めることができる思考と感情が何であるか、そして自分の自由の実現にとって有害なものとは何か知っている。ーーー意識はとりわけ自分という存在がどこまで行くか、どこまでまだ《達していない》か、《どこまでは行く権利を持たないか知っている。さもなければ非現実、幻覚的なもの、成就されていないもの、準備されていないものに陥ってしまうのだ》」(アルトー『タラウマラ・P.41』河出文庫 二〇一七年)

(2)「通常の意識が到達できず《シグリ》によってのみわれわれが到達できる一つの平面の上にある。これはあらゆる詩の神秘そのものである。ーーーしかし人間存在には別の平面が存在し、それは薄暗く形を成さず、そこに意識は侵入せず、この平面は無明の広がりや、場合によっては、脅威のような何かで意識を取り囲む。そしてこれもまた冒険的な感覚や知覚を出現させるのである。それは病んだ意識を犯すあつかましい幻想なのだ。意識は、もし何も自分を引き止めるものが見つからなければ、それに身を委ね、まるごとそこに溶けてしまう。そしてペヨトルはこの恐ろしい方面で、<悪>に対する唯一の防壁となるのだ」(アルトー「タラウマラ・P.42~43」河出文庫 二〇一七年)

(3)「『シグリを飲むことは、まさに服用量を超えないことである。なぜならシグリは<無限>であり、癒しの臨床的作用の神秘は、われわれの有機体がどのような比率でそれを用いるかにかかっているからである。必要量を超えることは作用を《台無しにする》』ことである」(アルトー「タラウマラ・P.25」河出文庫 二〇一七年)

ここで「必要量を超えることは作用を《台無しにする》」と警告されている。ドゥルーズ=ガタリのいう「慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要であり、オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない」へ接続されていることに注意しよう。

「非分節化すること、有機体であることをやめるとは、いったいどんなことか。それがどんなに単純で、われわれが毎日していることにすぎないかをどう言い表わせばよいだろう。慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要であり、オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫 二〇一〇年)

それは何も薬物を摂取せよというわけでも何でもない。いっそキノコになって鳥の歌や風の歌を聴けということにほかならない。

ジョン・ケージ「バード・ケージ」

また「ウクライナ情勢」について、ただ一つだけに過ぎないとはいえ、ロシア軍侵攻による効用が認められる。ニーチェはそれを「社会秩序に反抗する暴動」と呼んでいる。

「《犯罪》は『社会秩序に反抗する暴動』という概念のうちの一つである。暴徒は『罰せられる』のではなくて、《制圧される》のである。暴徒というものは憐れむべき軽蔑すべき人間でもありうるが、それ自体では暴動にはなんら軽蔑すべきものはない、ーーーしかも、現今のごとき社会に関して暴動をおこすということは、それ自体ではまだ人間の価値を低劣ならしめはしない。そうした暴徒は、攻撃することを要する何ものかを私たちの社会で感取しているということのゆえに、畏敬をうけてすらよい場合がある、ーーーすなわち、それは、その暴徒が私たちを仮眠からめざめさせる場合である」(ニーチェ「権力への意志・下・七四〇・P.257」ちくま学芸文庫 一九九三年)

世界を「仮眠からめざめさせる」効用があるばかりか、その効用は実際に証明されつつある。

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