ヴェルデュラン家のサロンで若いピアニストがヴァントゥイユのソナタを弾き始めた。演奏が或る箇所へ差しかかったとき、スワンに緊張が走る。それは「スワンの愛するあの楽節だった」。
「ところでヴェルデュラン夫人宅で若いピアニストが演奏をはじめて数分もたたないころ、突然、二小節にわたって高音がつづいたあと、スワンには近づいてくるものが見えた。この長くつづく響きの下、孵化(ふか)の秘密を覆いかくすべく張りめぐらされた音の帳(とばり)から逃れ出てきたかのように、ひそかにざわめきつつ分割されてあらわれたのは、空気のように軽やかで香(かぐわ)しい、スワンの愛するあの楽節だった」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.71」岩波文庫 二〇一一年)
画家のエルスチールは「ヴァントゥイユには精神錯乱の怖れがあると聞いた」とスワンに囁く。そこでプルーストは<私>のふりを装ってこう記述する。「狂気とは論理的因果関係の錯乱がことばにあらわれたものなので、純粋な楽曲にそのような因果関係は皆無であり、ソナタに狂気が認められるというのは雌犬や馬の狂気と同じく、実際に観察されるとはいえ不可解な現象に思えた」と。ア・プリオリな因果関係などどこをどう探してみてもまったくない、それは「人間が何かの衝撃を受けるや瞬時に<習慣・制度>に従って脳内で偽造・変造・加工され、正当な因果関係を持たされた上でやおら出現することしかできないものだ」とすでにニーチェの言葉が響き渡っていた時代である。言語が制度であるように、また顔が制度であるように、さらに一切の<身振り>が制度として受け止められることで始めて意味を伝達することが可能になるように、この時のスワンはヴァントゥイユのソナタが十分正当性ある因果関係を持って出現したと信じて疑っていない。ではしかし、なぜ不意に心を奪われたのが「スワンの愛するあの楽節」だったのか。そこだけが特権的に切断されているではないか。というのも逆に、一連のソナタに見えるものであっても、どの箇所でも構わず、或る箇所だけを他の箇所と切り離して取り上げ周囲の人々の前に提示することが可能なからにほかならない。ゆえに因果関係に絶対性はないのだ。むしろ逆に、接続・切断・再接続・置き換え・アレンジメントは、いつもすでに行われているということになる。
「画家は、ヴァントゥイユには精神錯乱の怖れがあると聞いたという。そしてソナタにその兆候の認められる箇所があると請けあった。スワンはこの指摘をばかげているとは思わなかったが、気にはなった。というのも狂気とは論理的因果関係の錯乱がことばにあらわれたものなので、純粋な楽曲にそのような因果関係は皆無であり、ソナタに狂気が認められるというのは雌犬や馬の狂気と同じく、実際に観察されるとはいえ不可解な現象に思えたのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.76~77」岩波文庫 二〇一一年)
ヴァントゥイユのピアノ・ソナタの「小楽節」は少なくとも<私>には途方もなく特権的なものとして出現する。そしてたちまち<私>を虜(とりこ)にせずにはおかない。<私>がその「小学説」を聴くといつも別世界へ移動したような気がしてならない。
「ヴァントゥイユから与えられた漠然とした感覚は、回想に由来するものではなく(マルタンヴィルの鐘塔の印象と同じく)印象に由来するものなので、その音楽のゼラニウムの芳香については、物質的な説明を見出すのではなく、その深い等価物を見出すべきであり、つまりヴァントゥイユがそれによって世界を『聞きとり』、その世界を自分の外に投げだしたやり方ともいうべき、色あざやかな未知の祝祭(ヴァントゥイユの個々の作品はそこから分離した断片、真紅の裂け目をもつ破片であるかに思われる)を見出すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.420」岩波文庫 二〇一七年)
芸術という営みはそんなふうに<他者>として<私>に到来し、<私>にはこれまで未知のものだった世界を見せてくれる。その意味で芸術の価値はいつも変動している。その限りではなるほど「利得」がある。ところが芸術にもいろいろある。ヴァントゥイユの音楽を面白く思っていない人々の側から見れば全然面白くない事態ではある。見えていなかったものを見せたり、聞こえていなかったことを聞こえるようにさせたりする芸術の価値は、それゆえ、逆の立場からみれば<危険なもの>だ。プルーストはいう。
「ヴァントゥイユの音楽は《実際にある危険を孕んだ》ものであり、いわば呪いを担っており、いずれにせよ用心なしにはこれに近づきえないであろう」(ガタリ「機械状無意識・第2部・第2章・P.275」法政大学出版局 一九九〇年)
文学ではプルーストだけでなく、カフカ、ジョイス、ベケットなどがそれに当たる。彼らの出現以前は誰も気づかなかったか少なくとも言語化できなかった違和感で充満しつつある当時のヨーロッパ世界の多層的・分裂的で日ごとに奇妙な変質を遂げていく日常を言語化・可視化したからだ。
まるで今の世情にそっくりそのまま接近していると思われないだろうか。ウクライナ情勢と世界経済のリゾーム的諸関係を見ているとそう考えずにはおれない。というのはつい先日、映画「第三の男」を見たからである。誰が何者なのかわからない状況で人間は何を考えどう動こうとするのか。たまたまだが考えるために見たわけだが。
たびたび言及されているように、まるでカフカ「審判」を思わせないではいられない。<第三の男>を探し出すための途方もない困難性。幾つも立ちはだかる矛盾だらけで意味不明な事情の数々。様々な人々の<まなざし>の交錯。ウィーンの下水路は縦横無尽に枝分かれしていて、なおかつ延々続いていきそうだ。また作品「城」に出てくる機構の<可動的>な手続きの網目。誰にどのように相談すればいいのかさっぱりわからなくなっていく。また「審判」で提案され採用される、どこまでも延長可能な決済の引き延ばし。どこから始まってどこで終わるのかさっぱりわからない世界。例えば「審判」でも「城」でもKの監視人が出てくる。監視人たちはいつも二人で行動するそっくり瓜二つの人間。しかも身体の動きはしばしば急激な硬直に襲われる。プルーストは「甲高(かんだか)い笑いをともなう痙攣にとり憑かれる」と述べている。
「おまけに正直に言えば、そんな新参者のなかには、内部で女が男と一体を成しているばかりか、それを醜く外にあらわす者がいて、ヒステリー患者のように両膝と両手を震わせ、甲高(かんだか)い笑いをともなう痙攣にとり憑かれると、とうていふつうの男には見えない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.60」岩波文庫 二〇一五年)
一方には疑わしくパラノイアめいた数々の眼差し。もう一方にはどんどん分裂していくスキゾフレニーな地下道の逃走線。一向に進展せず空回りばかりしている警察組織。登場する特権的女性はオーストリアではなく外国人であるがゆえに特権性を帯びている。まるで「審判」のレーニや「城」のフリーダのように振る舞う。ともかく地下の経路は逃走線として<リゾーム>そのものを成していると言えるだろう。
光と闇との交錯はなるほど対照的で美しいが、その意味的境界線はどこまでも不明確であり、従って<位置決定不可能性>として出現している。そしてウィーンの人々は誰もが誰かを覗いているのだが、何かこれといった目的を持って監視しているわけではない。ただひたすら<覗く>ばかりであり、「審判」冒頭で逮捕されたKとKの部屋を<覗き込む>住人たちを思わせる。そして彼ら住人たちも互いに<覗き-覗かれ>合っているかのようだ。言いようのない不気味な視線にいつも<監視>されているわけだが、誰が<覗いて>いるのか、<覗かれる側>からは決して見えない。住人同士もまた<覗き合っている>。プルーストのテーマの一つ<覗き>が映画「第三の男」の中へあらかじめ割り込ませてあったかのようだ。住人たちはごくふつうの人間なのだが、しかしその機能としては誰もが不気味な<まなざし>として登場している。住人たちは率先して<まなざし>であることを欲望しているかのようだ。
「《ただ、欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外のなにものも存在しないのである》。社会的再生産の最も抑制的なまた最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生みだされるものなのだ。あれこれの条件の下で欲望から派生する組織の中で生みだされるものなのだ。われわれは、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、『何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦うのか』といった問題に。いかにして、ひとは、<パンを切りつめても、もっと多くの税金を>などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。またある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしも盗みをしないということである。何故、人々は幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにもこれらのものを《欲する》ことまでしているのか」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.44」河出書房新社 一九八六年)
地上のすぐ下には下水路が流れ地下茎を成すリゾームが縦横に走っている。しかしなぜリゾームなのだろう。またなぜ女性はレーニやフリーダのように<援助者>として登場するのだろうか。
BGM1
BGM2
BGM3
「ところでヴェルデュラン夫人宅で若いピアニストが演奏をはじめて数分もたたないころ、突然、二小節にわたって高音がつづいたあと、スワンには近づいてくるものが見えた。この長くつづく響きの下、孵化(ふか)の秘密を覆いかくすべく張りめぐらされた音の帳(とばり)から逃れ出てきたかのように、ひそかにざわめきつつ分割されてあらわれたのは、空気のように軽やかで香(かぐわ)しい、スワンの愛するあの楽節だった」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.71」岩波文庫 二〇一一年)
画家のエルスチールは「ヴァントゥイユには精神錯乱の怖れがあると聞いた」とスワンに囁く。そこでプルーストは<私>のふりを装ってこう記述する。「狂気とは論理的因果関係の錯乱がことばにあらわれたものなので、純粋な楽曲にそのような因果関係は皆無であり、ソナタに狂気が認められるというのは雌犬や馬の狂気と同じく、実際に観察されるとはいえ不可解な現象に思えた」と。ア・プリオリな因果関係などどこをどう探してみてもまったくない、それは「人間が何かの衝撃を受けるや瞬時に<習慣・制度>に従って脳内で偽造・変造・加工され、正当な因果関係を持たされた上でやおら出現することしかできないものだ」とすでにニーチェの言葉が響き渡っていた時代である。言語が制度であるように、また顔が制度であるように、さらに一切の<身振り>が制度として受け止められることで始めて意味を伝達することが可能になるように、この時のスワンはヴァントゥイユのソナタが十分正当性ある因果関係を持って出現したと信じて疑っていない。ではしかし、なぜ不意に心を奪われたのが「スワンの愛するあの楽節」だったのか。そこだけが特権的に切断されているではないか。というのも逆に、一連のソナタに見えるものであっても、どの箇所でも構わず、或る箇所だけを他の箇所と切り離して取り上げ周囲の人々の前に提示することが可能なからにほかならない。ゆえに因果関係に絶対性はないのだ。むしろ逆に、接続・切断・再接続・置き換え・アレンジメントは、いつもすでに行われているということになる。
「画家は、ヴァントゥイユには精神錯乱の怖れがあると聞いたという。そしてソナタにその兆候の認められる箇所があると請けあった。スワンはこの指摘をばかげているとは思わなかったが、気にはなった。というのも狂気とは論理的因果関係の錯乱がことばにあらわれたものなので、純粋な楽曲にそのような因果関係は皆無であり、ソナタに狂気が認められるというのは雌犬や馬の狂気と同じく、実際に観察されるとはいえ不可解な現象に思えたのである」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.76~77」岩波文庫 二〇一一年)
ヴァントゥイユのピアノ・ソナタの「小楽節」は少なくとも<私>には途方もなく特権的なものとして出現する。そしてたちまち<私>を虜(とりこ)にせずにはおかない。<私>がその「小学説」を聴くといつも別世界へ移動したような気がしてならない。
「ヴァントゥイユから与えられた漠然とした感覚は、回想に由来するものではなく(マルタンヴィルの鐘塔の印象と同じく)印象に由来するものなので、その音楽のゼラニウムの芳香については、物質的な説明を見出すのではなく、その深い等価物を見出すべきであり、つまりヴァントゥイユがそれによって世界を『聞きとり』、その世界を自分の外に投げだしたやり方ともいうべき、色あざやかな未知の祝祭(ヴァントゥイユの個々の作品はそこから分離した断片、真紅の裂け目をもつ破片であるかに思われる)を見出すべきであろう」(プルースト「失われた時を求めて11・第五篇・二・P.420」岩波文庫 二〇一七年)
芸術という営みはそんなふうに<他者>として<私>に到来し、<私>にはこれまで未知のものだった世界を見せてくれる。その意味で芸術の価値はいつも変動している。その限りではなるほど「利得」がある。ところが芸術にもいろいろある。ヴァントゥイユの音楽を面白く思っていない人々の側から見れば全然面白くない事態ではある。見えていなかったものを見せたり、聞こえていなかったことを聞こえるようにさせたりする芸術の価値は、それゆえ、逆の立場からみれば<危険なもの>だ。プルーストはいう。
「ヴァントゥイユの音楽は《実際にある危険を孕んだ》ものであり、いわば呪いを担っており、いずれにせよ用心なしにはこれに近づきえないであろう」(ガタリ「機械状無意識・第2部・第2章・P.275」法政大学出版局 一九九〇年)
文学ではプルーストだけでなく、カフカ、ジョイス、ベケットなどがそれに当たる。彼らの出現以前は誰も気づかなかったか少なくとも言語化できなかった違和感で充満しつつある当時のヨーロッパ世界の多層的・分裂的で日ごとに奇妙な変質を遂げていく日常を言語化・可視化したからだ。
まるで今の世情にそっくりそのまま接近していると思われないだろうか。ウクライナ情勢と世界経済のリゾーム的諸関係を見ているとそう考えずにはおれない。というのはつい先日、映画「第三の男」を見たからである。誰が何者なのかわからない状況で人間は何を考えどう動こうとするのか。たまたまだが考えるために見たわけだが。
たびたび言及されているように、まるでカフカ「審判」を思わせないではいられない。<第三の男>を探し出すための途方もない困難性。幾つも立ちはだかる矛盾だらけで意味不明な事情の数々。様々な人々の<まなざし>の交錯。ウィーンの下水路は縦横無尽に枝分かれしていて、なおかつ延々続いていきそうだ。また作品「城」に出てくる機構の<可動的>な手続きの網目。誰にどのように相談すればいいのかさっぱりわからなくなっていく。また「審判」で提案され採用される、どこまでも延長可能な決済の引き延ばし。どこから始まってどこで終わるのかさっぱりわからない世界。例えば「審判」でも「城」でもKの監視人が出てくる。監視人たちはいつも二人で行動するそっくり瓜二つの人間。しかも身体の動きはしばしば急激な硬直に襲われる。プルーストは「甲高(かんだか)い笑いをともなう痙攣にとり憑かれる」と述べている。
「おまけに正直に言えば、そんな新参者のなかには、内部で女が男と一体を成しているばかりか、それを醜く外にあらわす者がいて、ヒステリー患者のように両膝と両手を震わせ、甲高(かんだか)い笑いをともなう痙攣にとり憑かれると、とうていふつうの男には見えない」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.60」岩波文庫 二〇一五年)
一方には疑わしくパラノイアめいた数々の眼差し。もう一方にはどんどん分裂していくスキゾフレニーな地下道の逃走線。一向に進展せず空回りばかりしている警察組織。登場する特権的女性はオーストリアではなく外国人であるがゆえに特権性を帯びている。まるで「審判」のレーニや「城」のフリーダのように振る舞う。ともかく地下の経路は逃走線として<リゾーム>そのものを成していると言えるだろう。
光と闇との交錯はなるほど対照的で美しいが、その意味的境界線はどこまでも不明確であり、従って<位置決定不可能性>として出現している。そしてウィーンの人々は誰もが誰かを覗いているのだが、何かこれといった目的を持って監視しているわけではない。ただひたすら<覗く>ばかりであり、「審判」冒頭で逮捕されたKとKの部屋を<覗き込む>住人たちを思わせる。そして彼ら住人たちも互いに<覗き-覗かれ>合っているかのようだ。言いようのない不気味な視線にいつも<監視>されているわけだが、誰が<覗いて>いるのか、<覗かれる側>からは決して見えない。住人同士もまた<覗き合っている>。プルーストのテーマの一つ<覗き>が映画「第三の男」の中へあらかじめ割り込ませてあったかのようだ。住人たちはごくふつうの人間なのだが、しかしその機能としては誰もが不気味な<まなざし>として登場している。住人たちは率先して<まなざし>であることを欲望しているかのようだ。
「《ただ、欲望というものと社会というもののみが存在し、それ以外のなにものも存在しないのである》。社会的再生産の最も抑制的なまた最も致命的な形態でさえも、欲望そのものによって生みだされるものなのだ。あれこれの条件の下で欲望から派生する組織の中で生みだされるものなのだ。われわれは、このあれこれの個々の条件を分析しなければならないであろう。したがって、政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、『何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属する《ために》戦うのか』といった問題に。いかにして、ひとは、<パンを切りつめても、もっと多くの税金を>などと叫ぶことになるのか。ライヒがいうように、驚くべきことは、ある人々が盗みをするということではない。またある人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしも盗みをしないということである。何故、人々は幾世紀もの間、搾取や侮辱や奴隷状態に耐え、単に他人のためのみならず、自分たち自身のためにもこれらのものを《欲する》ことまでしているのか」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.44」河出書房新社 一九八六年)
地上のすぐ下には下水路が流れ地下茎を成すリゾームが縦横に走っている。しかしなぜリゾームなのだろう。またなぜ女性はレーニやフリーダのように<援助者>として登場するのだろうか。
BGM1
BGM2
BGM3
