<私>がはじめてヴィルパリジ夫人を訪れた時のこと。夫人のサロンには黄色い絹の壁布がめぐらせてあった。壁には「ゲルマント家やヴィルパリジ家の一族の肖像画と並んで、マリー=アメリー王妃、ベルギー王妃、ジョワンヴィル大公、オーストリア皇后らのーーーモデルとなった本人から贈られたーーー肖像画が掛けてある」。また「ヴィルパリジ夫人は、大時代(おおじだい)な黒いレースのボンネットをかぶって(夫人がそんなものを捨てずに身につけていたのは地方色ゆたかな時代物にたいする抜け目なき本能からで、ブルターニュ地方のホテルの主人が、顧客がほとんどパリの人になっても、メイドたちにはそつなく土地のかぶりものと広い袖を着用させるのと同じである)、小さな机の前に座っていた」。ヴィルパリジ夫人は自ら水彩画を描くのを趣味にしている。そして「机のうえには、夫人の絵筆やパレットや描きさしの花の水彩画と並んで、さまざまなグラスや受け皿やカップにモスローズや、ジニアや、ニゲラが活けてあり、ちょうど訪問客のごったがえすときで夫人が描くのをやめたそんな花は、十八世紀版画に出てくる花屋の台に並べられた商品のように見える」。
「その壁布を背景にして、ボーヴェ織りのタピスリーを張ったソファーや立派な肘掛け椅子が、熟したフランボワーズのような紫がかったバラ色を浮かびあがらせている。そこにはゲルマント家やヴィルパリジ家の一族の肖像画と並んで、マリー=アメリー王妃、ベルギー王妃、ジョワンヴィル大公、オーストリア皇后らのーーーモデルとなった本人から贈られたーーー肖像画が掛けてある。ヴィルパリジ夫人は、大時代(おおじだい)な黒いレースのボンネットをかぶって(夫人がそんなものを捨てずに身につけていたのは地方色ゆたかな時代物にたいする抜け目なき本能からで、ブルターニュ地方のホテルの主人が、顧客がほとんどパリの人になっても、メイドたちにはそつなく土地のかぶりものと広い袖を着用させるのと同じである)、小さな机の前に座っていた。机のうえには、夫人の絵筆やパレットや描きさしの花の水彩画と並んで、さまざまなグラスや受け皿やカップにモスローズや、ジニアや、ニゲラが活けてあり、ちょうど訪問客のごったがえすときで夫人が描くのをやめたそんな花は、十八世紀版画に出てくる花屋の台に並べられた商品のように見える」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.31〜32」岩波文庫 二〇一三年)
諸商品の無限の系列を思わせる記述だ。それが貨幣と交換されるかされないかはまったく別の話として。そしてまた壁に飾られた名だたる人々の肖像画もその系列と並置されているということができる。この並置。最も特権的な上流社交界に出入りする人々の肖像画との並置。その瞬間、衝撃的暴力というべき場面を読者は目撃するほかないからだ。というのも並置されるやその限りでいきなりヴィルパリジ夫人の水彩画は「マリー=アメリー王妃、ベルギー王妃、ジョワンヴィル大公、オーストリア皇后ら」の肖像画との等価性を出現させるからである。
この箇所でゲルマント公爵夫人は一体どのような機能へ変換されているかを見ておこう。二点上げる。
(1)「ゲルマント夫人はすでに腰をおろしていた。その名前に貴族の肩書が伴うゆえか、夫人の身体には公爵領がつけ加わり、それが夫人のまわりに投影され、サロンのなかで夫人の座る腰掛けクッションのまわりにだけ、ゲルマントの森ならではの黄金(こがね)色の光の射しこむ緑陰のひんやりした空気が広がっていた。ただし公爵夫人の顔にはそんな森との類似は読みとれず、私は意外な気がした。その顔には森の木々を想わせるものはなにひとつ存在せず、せいぜい頬に浮きでた赤い斑点がーーー頬にこそゲルマントの名が紋章のように映し出されて然るべきなのにーーー野外での長時間にわたる乗馬のイメージではなく、その結果をあらわしているに過ぎない」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.71」岩波文庫 二〇一三年)
(2)「いずれにしても私は、万人にとってゲルマント公爵夫人という名が指し示しているのはこの夫人なのだ、その名のあらわす想像もつかぬ生活を内包しているのはこの身体なのだ、と自分に言い聞かせた。この身体はそんな生活を今このサロンのさまざまな人たちのあいだに持ちこんでいるが、サロンのほうもそんな生活を四方八方からとり囲み、とり囲まれた生活がこれまたサロンに強力な作用をおよぼすから、そんな生活の拡がりの尽きる箇所には泡立つ縁によってその境界が示されているような気がした」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.72」岩波文庫 二〇一三年)
いずれもゲルマント夫人は「記号に過ぎない」とプルーストはいう。驚くべきはこの上なく華麗な上流社交界の様相ではまるでなく、その逆でもなく、サロンの中心にあるものは別の箇所で語られているように「空虚」のようなものであり、なおかつその場は「虚無の王国」だというのである。そこで読者にとって思い出されるのは<東京>とは何かという問いだ。けれども、その前には大小様々な風貌を持つ幾つもの問いが群れをなして動き回っている。蓮實重彦は小津安二郎論でこう述べる。読んでみよう。
「一人娘の原節子を嫁に出して大和の故郷に引きこもった老夫婦は、茶の間に坐っている。背後には土間の竈と積みあげた薪の束がみえているのみである。だが、彼らの視線は、不意に、観客には見えてはいない縁側の向うに何ものかを認める。畦道を進んで行く嫁入りの行列である。このショットのもたらす鮮烈な衝撃は、娘の身の上を案じる親たちの感慨に見るものが共感する以前に、画面には示されていない縁側を介して、外部と内部とが通底する点からくるものだ。視線とその対象とが連続するショットとして示され、その因果関係があまりに明白であるとき、小津にあっては、必ず説話論的な事件が導入される。それは、別れであり、死であり、家族の崩壊である。その瞬間に、あの抽象的な密閉空間は不意に途方もなく開かれた世界へと変貌する。『東京物語』の最後で、尾道の家にとり残された笠智衆の前に海の光景が拡がり出すのもそうしたときである」(蓮実重彦「監督 小津安二郎・5・P.176」ちくま学芸文庫 二〇一六年)
蓮實重彦が論じているのは失われた過去へのノスタルジーとはまったく何の関係もない。原節子演じる「一人娘を嫁に出し」た瞬間に生じる「別れであり、死であり、家族の崩壊である」。生々しい。外国の映画評論家や思想家が小津作品を論じて「もののあわれ」の概念を抽出して絶賛するのとはまるで違う。作品「秋刀魚の味」を見ても「秋刀魚」は一つも出てこない。逆に高級魚「鱧(はも)」が出てくる。この「食べること」というテーマについて蓮實重彦は一章を割いて述べている。さすがというべきか、東大総長を歴任しただけのことはあると言えるかもしれない。ところがしかし「食べること」の中に「飲酒」が入っているのは極めてありふれた光景ではあるのだが、蓮實重彦は<飲酒>と<泥酔>との区別を付けていない。冠婚葬祭を通過儀礼の一つとして見た場合、家族構成が再編されるのは当り前のことだ。しかしそれが決定的になるのは一体どこで、なのか。
「『東京物語』の最後で、尾道の家にとり残された笠智衆の前に海の光景が拡がり出す」と蓮實重彦はいう。その少し前のシーンを思い起こそう。笠智衆は「尾道の家にとり残され」る直前に友人たちと会って徹底的に<泥酔>する。食べるとか飲むとかといったレベルを遥かに越えて泥酔する。原節子との「別れ」に際して社会的文法を支離滅裂に解体させるまで泥酔する。新しい世帯が一つ増えるだけに過ぎないといってしまえば短絡的過ぎるだろう。小規模とはいえ社会構成の再編なのは確実なのであって、そのためにはそれまで維持されてきた諸関係は一旦破綻されねばならない。ゆえに笠智衆は<泥酔>するのではなく<泥酔>することを要請されるのだ。そこで古代ギリシアで定期的に行われたディオニュソス祭を想起しよう。エウリピデス「バッコスの信女たち」から。
「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫 一九八六年)
古代の国家共同体が新しく更新され再編され生産される際、一度は必ず社会の法<社会的文法>は解体されなければ次へ行くことはできない。「東京物語」で笠智衆を始め三人が泥酔し朦朧しやかましく騒ぎ立てるのは家族を最小限とする共同体の再編に当たって監督=小津でさえおそらく気づかず、無意識的かつ必然的にフィルム体験化された<儀式>にほかならない。
BGM1
BGM2
BGM3
「その壁布を背景にして、ボーヴェ織りのタピスリーを張ったソファーや立派な肘掛け椅子が、熟したフランボワーズのような紫がかったバラ色を浮かびあがらせている。そこにはゲルマント家やヴィルパリジ家の一族の肖像画と並んで、マリー=アメリー王妃、ベルギー王妃、ジョワンヴィル大公、オーストリア皇后らのーーーモデルとなった本人から贈られたーーー肖像画が掛けてある。ヴィルパリジ夫人は、大時代(おおじだい)な黒いレースのボンネットをかぶって(夫人がそんなものを捨てずに身につけていたのは地方色ゆたかな時代物にたいする抜け目なき本能からで、ブルターニュ地方のホテルの主人が、顧客がほとんどパリの人になっても、メイドたちにはそつなく土地のかぶりものと広い袖を着用させるのと同じである)、小さな机の前に座っていた。机のうえには、夫人の絵筆やパレットや描きさしの花の水彩画と並んで、さまざまなグラスや受け皿やカップにモスローズや、ジニアや、ニゲラが活けてあり、ちょうど訪問客のごったがえすときで夫人が描くのをやめたそんな花は、十八世紀版画に出てくる花屋の台に並べられた商品のように見える」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.31〜32」岩波文庫 二〇一三年)
諸商品の無限の系列を思わせる記述だ。それが貨幣と交換されるかされないかはまったく別の話として。そしてまた壁に飾られた名だたる人々の肖像画もその系列と並置されているということができる。この並置。最も特権的な上流社交界に出入りする人々の肖像画との並置。その瞬間、衝撃的暴力というべき場面を読者は目撃するほかないからだ。というのも並置されるやその限りでいきなりヴィルパリジ夫人の水彩画は「マリー=アメリー王妃、ベルギー王妃、ジョワンヴィル大公、オーストリア皇后ら」の肖像画との等価性を出現させるからである。
この箇所でゲルマント公爵夫人は一体どのような機能へ変換されているかを見ておこう。二点上げる。
(1)「ゲルマント夫人はすでに腰をおろしていた。その名前に貴族の肩書が伴うゆえか、夫人の身体には公爵領がつけ加わり、それが夫人のまわりに投影され、サロンのなかで夫人の座る腰掛けクッションのまわりにだけ、ゲルマントの森ならではの黄金(こがね)色の光の射しこむ緑陰のひんやりした空気が広がっていた。ただし公爵夫人の顔にはそんな森との類似は読みとれず、私は意外な気がした。その顔には森の木々を想わせるものはなにひとつ存在せず、せいぜい頬に浮きでた赤い斑点がーーー頬にこそゲルマントの名が紋章のように映し出されて然るべきなのにーーー野外での長時間にわたる乗馬のイメージではなく、その結果をあらわしているに過ぎない」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.71」岩波文庫 二〇一三年)
(2)「いずれにしても私は、万人にとってゲルマント公爵夫人という名が指し示しているのはこの夫人なのだ、その名のあらわす想像もつかぬ生活を内包しているのはこの身体なのだ、と自分に言い聞かせた。この身体はそんな生活を今このサロンのさまざまな人たちのあいだに持ちこんでいるが、サロンのほうもそんな生活を四方八方からとり囲み、とり囲まれた生活がこれまたサロンに強力な作用をおよぼすから、そんな生活の拡がりの尽きる箇所には泡立つ縁によってその境界が示されているような気がした」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・一・P.72」岩波文庫 二〇一三年)
いずれもゲルマント夫人は「記号に過ぎない」とプルーストはいう。驚くべきはこの上なく華麗な上流社交界の様相ではまるでなく、その逆でもなく、サロンの中心にあるものは別の箇所で語られているように「空虚」のようなものであり、なおかつその場は「虚無の王国」だというのである。そこで読者にとって思い出されるのは<東京>とは何かという問いだ。けれども、その前には大小様々な風貌を持つ幾つもの問いが群れをなして動き回っている。蓮實重彦は小津安二郎論でこう述べる。読んでみよう。
「一人娘の原節子を嫁に出して大和の故郷に引きこもった老夫婦は、茶の間に坐っている。背後には土間の竈と積みあげた薪の束がみえているのみである。だが、彼らの視線は、不意に、観客には見えてはいない縁側の向うに何ものかを認める。畦道を進んで行く嫁入りの行列である。このショットのもたらす鮮烈な衝撃は、娘の身の上を案じる親たちの感慨に見るものが共感する以前に、画面には示されていない縁側を介して、外部と内部とが通底する点からくるものだ。視線とその対象とが連続するショットとして示され、その因果関係があまりに明白であるとき、小津にあっては、必ず説話論的な事件が導入される。それは、別れであり、死であり、家族の崩壊である。その瞬間に、あの抽象的な密閉空間は不意に途方もなく開かれた世界へと変貌する。『東京物語』の最後で、尾道の家にとり残された笠智衆の前に海の光景が拡がり出すのもそうしたときである」(蓮実重彦「監督 小津安二郎・5・P.176」ちくま学芸文庫 二〇一六年)
蓮實重彦が論じているのは失われた過去へのノスタルジーとはまったく何の関係もない。原節子演じる「一人娘を嫁に出し」た瞬間に生じる「別れであり、死であり、家族の崩壊である」。生々しい。外国の映画評論家や思想家が小津作品を論じて「もののあわれ」の概念を抽出して絶賛するのとはまるで違う。作品「秋刀魚の味」を見ても「秋刀魚」は一つも出てこない。逆に高級魚「鱧(はも)」が出てくる。この「食べること」というテーマについて蓮實重彦は一章を割いて述べている。さすがというべきか、東大総長を歴任しただけのことはあると言えるかもしれない。ところがしかし「食べること」の中に「飲酒」が入っているのは極めてありふれた光景ではあるのだが、蓮實重彦は<飲酒>と<泥酔>との区別を付けていない。冠婚葬祭を通過儀礼の一つとして見た場合、家族構成が再編されるのは当り前のことだ。しかしそれが決定的になるのは一体どこで、なのか。
「『東京物語』の最後で、尾道の家にとり残された笠智衆の前に海の光景が拡がり出す」と蓮實重彦はいう。その少し前のシーンを思い起こそう。笠智衆は「尾道の家にとり残され」る直前に友人たちと会って徹底的に<泥酔>する。食べるとか飲むとかといったレベルを遥かに越えて泥酔する。原節子との「別れ」に際して社会的文法を支離滅裂に解体させるまで泥酔する。新しい世帯が一つ増えるだけに過ぎないといってしまえば短絡的過ぎるだろう。小規模とはいえ社会構成の再編なのは確実なのであって、そのためにはそれまで維持されてきた諸関係は一旦破綻されねばならない。ゆえに笠智衆は<泥酔>するのではなく<泥酔>することを要請されるのだ。そこで古代ギリシアで定期的に行われたディオニュソス祭を想起しよう。エウリピデス「バッコスの信女たち」から。
「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫 一九八六年)
古代の国家共同体が新しく更新され再編され生産される際、一度は必ず社会の法<社会的文法>は解体されなければ次へ行くことはできない。「東京物語」で笠智衆を始め三人が泥酔し朦朧しやかましく騒ぎ立てるのは家族を最小限とする共同体の再編に当たって監督=小津でさえおそらく気づかず、無意識的かつ必然的にフィルム体験化された<儀式>にほかならない。
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