白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて12

2022年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

(2)絵画。第十回。


「婆娑羅シリーズ3・茶室からの蹲」

いかがでしたでしょうか。参考になれば幸いです。

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Blog21・<制度>への一撃/贈与としての芸術

2022年06月19日 | 日記・エッセイ・コラム
顔貌性は「制度・習慣」であり、利便的な反面、いつも大多数の支持を取り付けることによってマイノリティを抑圧・排除する装置として機能する。だが人間社会の中では、とりわけ社会人になってからも以前と変わらぬ良好な友情・友愛の政治学を保存・維持している人々がいる。そんな場合には特に「制度・習慣」に合わせて生きているのがよいとはまったくとまでは行かずとも、少なくとも、必ずしも限らないと言わねばならない。ニーチェを経由してデリダが提唱した「友愛の政治学」はその関係に各自ともども意識的な「応答責任性」を常に持とうとしている点で、現代社会において極めて重要な技術を身につけている人々であると言える。だがしかし「友愛の政治学」を維持継続していくために大変役立つのが芸術とそのあり方並びに応用技術だと考えないわけにはいかない。むしろ国家単位では政治家こそが率先して身に付けていて当り前なのだが残念な状況に陥っていることは認めないといけないだろう。しかしまたそれならそれなりに一体何がどう見えていないのか。ニーチェ流にいうと<よく見る>ための<よい方法>はないものか。プルースト読解を通して述べてきたこととパラレルな事情なのだが、それこそ芸術による<贈与>、与える側も与えられる側もいずれにしても「与えてやっている」という債権債務関係抜きの<贈与>として生き抜かれなければならない。ツァラトゥストラのいう「至高の技術」。今最も必要であるにもかかわらず今最もマイナー化していく危機に迫られていること。だが大事なものは大事だとしか言えないのがもどかしい。

「そこでおまえは学んだのだ。ーーー正しく与えることは、正しく受けるよりも、むずかしいということを。また、よく贈るということは、一つの《技術》であり、善意の究極の離れ業(わざ)、狡知(こうち)をきわめる巨匠の芸であることを」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第四部・進んでなった乞食(こじき)・P.433」中公文庫 一九七三年)

だが決定的に不可能かといえばそうでもない。プルーストのいう芸術の機能は本来的にそれを持ち合わせている。それは「ハッと」させる。衝撃を与える。そしてその瞬間までとは比較にならない桁違いの思考を高速で促すが、それは「注意を凝らすとずいぶん前から知っていたことにもときには異なる光が当てられ、一度も注目したことのなかったものに気づくことがある」という形で到来する。

「偉大な芸術家は、それぞれほかの芸樹家とはまるで違っているように見え、われわれが日常生活で求めても得られない強烈な個性の実感を与えてくれる!そんなことを考えていたとき、私はソナタの一小節にハッとした。それは私がよく知っている一小節であったが、注意を凝らすとずいぶん前から知っていたことにもときには異なる光が当てられ、一度も注目したことのなかったものに気づくことがある」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.353~354」岩波文庫 二〇一六年)

さらに、その瞬間に気づくのはそのような形の<贈与>は、往々にして<横断的>だということであるだろう。次のセンテンスを見てみよう。或る時、アルベルチーヌの顔の「ほくろ」の位置が曖昧で<私>は戸惑いを覚える。たがそれを記憶の中で捉えた時、ふと思い出したことは異性や同性についての見解ではなかった。「ヴァントゥイユのソナタで私を魅了した楽節の出てくるのが記憶のなかではアンダンテだったりフィナーレだったりとあやふやだったものが、ある日、楽譜を手にしてそれがスケルツォだったと知って回想のなかで本来の位置に固定できたように」と、音楽を<横断してきた>かのように、思い出して固定可能になったという事実に注目せねばなるまい。

「その朝、アルベルチーヌと私が形成したカップルは、堤防のあちこちで顔を合わせて立ち止まり、二言、三言、ことばを交わすと別れて、べつべつに違う方向に散歩をつづける他のカップルと同じだった。私は、こうしてアルベルチーヌが動かずにいてくれる機会を捉えて、ほくろがどこにあるかをよく見て、最終的な正しい位置を知ろうとした。ところが、ヴァントゥイユのソナタで私を魅了した楽節の出てくるのが記憶のなかではアンダンテだったりフィナーレだったりとあやふやだったものが、ある日、楽譜を手にしてそれがスケルツォだったと知って回想のなかで本来の位置に固定できたように、想い出してあるときは頬に、あるときはあごにあると想いこんでいたほくろは、上唇の鼻の下に永久に固定された。想いも寄らない作品のなかで暗唱している詩句に出会って驚くようなものである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.504」岩波文庫 二〇一二年)

そうであって始めて芸術はその本領を発揮するのである。越えられないと思われていた巨大な壁を一瞬で崩壊させる力を持つ。

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