白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて

2022年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについてブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問について。現状では差し当たり次の二点ということになるでしょうか。

(1)決して無理のない範囲内でギターのエクササイズ。

(2)絵画を描くこと。

ここでは「(2)絵画」について少しばかり紹介させて頂きたいとおもいます。いずれも絵葉書の裏面を利用した定型サイズです。家紋などのデザインの描き方はネット検索すれば幾らでも見つかるのでコンパスと定規と筆記用具さえあれば定型デザインを利用しなくても描くことができます。あくまでリハビリにならなければ意味がないのでネットから借用して貼り付けるだけの方法ではもったいないと思ってこのような方法を選択しました。


「薔薇1」


「薔薇2」


「薔薇3」


「薔薇4」


「李朝白磁面取壺と<えのころぐさ>」


「アラベスク模様絨毯と白菊」


「管理された性の憂鬱」


「散種としてのスペルマ」


「琵琶湖の夕景」


「元ノラ猫タマの後ろ姿」


「追悼 エドワード・ヴァン・ヘイレン」

いかがでしたでしょうか。参考になれば幸いです。


Blog21・ゲルマント夫人=アルベルチーヌの不穏な<リアル>

2022年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
サン=ルーとの会食に飽きてしまったわけではない。ただゲルマント夫人に会えないこと、忘却できないこと、それが衝撃となって<私>を通例の習慣的制度的思考から連れ出し、新しく思考するよう思考させる。<私>が受けている衝撃の強度は「ゲルマント夫人に会えないのが淋しくて息もできなくなる」ほどであり、例えれば「腕の立つ解剖医によって私の胸の一部が切りとられ、それと同じ大きさの非物質的な苦しみとか、それと同等の憂愁や恋心とかに置き換えられたみたいになる」。しかし内臓はどこまでいっても内蔵でしかない。そうなると「内臓の代わりにある人への充たされぬ想いを嵌めこまれたのに等しく、いくら縫合がうまく実施されても、やっとの想いで生きるほかなく、そんな想いは内臓よりも大きな位置を占めるのか、たえずその想いが気にかかる事態とな」るほかない。そうして<私>は自分で「自分の身体の一部を《考え》ざるをえない」次元へ飛躍する。

「夜など、レストランに行こうと町を突っ切っているとき、ゲルマント夫人に会えないのが淋しくて息もできなくなることがあり、すると腕の立つ解剖医によって私の胸の一部が切りとられ、それと同じ大きさの非物質的な苦しみとか、それと同等の憂愁や恋心とかに置き換えられたみたいになる。そうなると内臓の代わりにある人への充たされぬ想いを嵌めこまれたのに等しく、いくら縫合がうまく実施されても、やっとの想いで生きるほかなく、そんな想いは内臓よりも大きな位置を占めるのか、たえずその想いが気にかかる事態となり、おまけに自分の身体の一部を《考え》ざるをえないというのはなんとあいまいな事態であることか!」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.259~260」岩波文庫 二〇一三年)

ニーチェの言葉を思い出さないだろうか。

「より驚嘆すべきものはむしろ《身体》である。いくら感嘆しても感嘆しきれないのは、いかにして人間の《身体》が可能になったか、ということである。すなわち、〔身体を構成する〕各生命体は、依存し従属しながらも、しかも他方では、或る意味で命令し、そして自分の意志に基づいて行為しながら、そこに、これらかずかずの生命体のこのような巨大な統合〔としての身体〕が、全体として生き、成長し、そして或る期間存続することがいかにして可能であるのか、ということであるーーー、そして、これは明らかに意識によって起こるのでは《ない》!」(ニーチェ「生成の無垢・下・三四三・P.192」ちくま学芸文庫 一九九四年)

不意の思い出が衝撃化している。夫人の思い出はとても危険な爆発物ででもあるかのようだ。<私>はアルベルチーヌのことをまるで忘却してしまっている。その位置に今いるのはゲルマント夫人であり、<私>の日常は「形の定まらぬ丘の揺れうごく頂(いただき)のよう」に「ある日は一方へと近づき、べつの日には他方へと近づき、安定した平衡状態を保つことができない」。

「いまや毎日が、形の定まらぬ丘の揺れうごく頂(いただき)のようなもので、一方では忘却へと降りてゆける気がするのに、他方では公爵夫人に会いたい一念に押し流されそうになる。ある日は一方へと近づき、べつの日には他方へと近づき、安定した平衡状態を保つことができないのだ」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.262」岩波文庫 二〇一三年)

これが内臓だったなら内臓移植で埋め合わせることもできる。だがゲルマント夫人に向けられた欲望が厄介なのは、それが外科手術ではまったく収拾不可能な事態だという点にある。しかしこのような<私>について病気だということはできない。どんな欲望であってもそれだけを取り出してきてただちに病気だと判断することができないのと同様に。

ところで「安定した平衡状態を保つことができない」とあるわけだが、では、欲望の対象がアルベルチーヌの場合はどうだろうか。アルベルチーヌに接吻する有名なシーンから引いてみよう。

「まずは視線から接吻するよう勧められた私の口が頬に近づくにつれて、移動する視線はつぎからつぎへと新たな頬を目の当たりにした。ルーペで眺めるみたいに間近で見る首は、皮膚のきめの粗さのなかにたくましさをあらわにして、顔の性格を一変させてしまった」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.61」岩波文庫 二〇一四年)

<私>が「接吻するよう勧められた」眼差しはまるで映画のようにじわじわアルベルチーヌの顔へ肉迫していく。すると「ルーペで眺めるみたいに間近で見る首は、皮膚のきめの粗さのなかにたくましさをあらわにして」くる。光り輝くバルベックの浜辺をエレガントに歩いていたアルベルチーヌの美しい肌が今度はあたかも獣じみて見えてくる。変化する。このように次々と変容していく顔貌性に注目するとすればフェリックス・ガタリの次の方法が有効だろう。「トランス-言語学」という横断的テキスト性は不穏なまでの魅力を放ってみえる。

「記号学(セミオロジー)。記号体系を言語活動の諸法則との関係から研究するトランス-言語学的学問領域としてのもの(ロラン・バルトの立場)」(ガタリ「機械状無意識・第1部・第1章・P.19」法政大学出版局 一九九〇年)

プルースト作品は静的なものではまるでない。逆に驚くほど動的なものだ。次の箇所でも述べている。「その人の秘めるあらゆる可能性がまるで容器からつぎつぎと取り出されたかのように、私には無数のアルベルチーヌが見えた。この娘は、いくつもの顔をもつひとりの女神よろしく、私が最後に見た娘に近づこうとすると、すぐまさべつの娘に変わってしまう」。だからといってただ単なる変容と言って済ましてしまえば過ちを犯してしまうことになるだろう。人間は誰しも少しずつ変わっていくのは当然のことだ。にもかかわらず「失われた時を求めて」は作品全体が共鳴・共振し合っている。おそらく、言葉で説明することは至難の業と言わねばならない。ここではその役割を音楽に演じてもらいたいと思う。

ブーレーズ「プリ・スロン・プリ<マラルメの肖像>」

「私からするとこの技法だけが、接吻と同じく、一定の外観をもつ一個の事物と信じていたものから、それと同一の多数のべつのものを出現させることができるのだ。いずれもある視点から生じたものだが、どの視点もいずれ劣らぬ正当性を備えているからである。とどのつまり、バルベックにおいてアルベルチーヌが私の目にしばしば違って見えたのと同じで、今や、ひとりの人間がわれわれとの多様な出会いにおいて見せる風姿や色合いの変化の速度を桁外れに早めることによって、私がそんな出会いのすべてを数秒のなかに収めては、その人の個性を多様化する現象を実験的に再創造しようとしたかのように、私の唇がアルベルチーヌの頬に達するまでの短い行程のあいだに、その人の秘めるあらゆる可能性がまるで容器からつぎつぎと取り出されたかのように、私には無数のアルベルチーヌが見えた。この娘は、いくつもの顔をもつひとりの女神よろしく、私が最後に見た娘に近づこうとすると、すぐまさべつの娘に変わってしまう」(プルースト「失われた時を求めて7・第三篇・三・二・二・P.61~63」岩波文庫 二〇一四年)

微妙な差異が認められないだろうか。「私には無数のアルベルチーヌが見えた。この娘は、いくつもの顔をもつひとりの女神よろしく、私が最後に見た娘に近づこうとすると、すぐまさべつの娘に変わってしまう」。或る写真から別の写真へ、という変化ではなく、生成変化は<或る写真>と<別の写真>との<あいだ>で生じている。この生成こそ何より生々しく<リアル>なのではと思われる。

BGM1

BGM2

BGM3