ゴモラ(女性同性愛)にせよソドム(男性同性愛)にせよ「たがいに欲望をいだくと、しばしば一種の光学現象が生じて、ひと筋の燐光のようなものが一方から他方へ流れるものだ」とプルーストはいう。欲望の流れについてなのだが、次の箇所の後半で、ゴモラにしてもソドムにしても同様の努力が続けられていると述べる。「散りぢりになったゴモラの住民は、それぞれの町や村で、離ればなれになったメンバーと合流して聖書の都市を再建しようとしている」。「これまた世のいたるところで、たとえ目指す再建が断続的なものとはいえ、ソドムから追放され、望郷の念に駆られた、偽善的でときには勇敢な者たちによって同様の努力がつづけられている」。
「カジノのホールなどでふたりの娘がたがいに欲望をいだくと、しばしば一種の光学現象が生じて、ひと筋の燐光のようなものが一方から他方へ流れるものだ。ついでに言っておくと、たとえ計測不可能なものとはいえこのような物質化した光に助けられ、大気の一部を燃えあがらせるこうした幽体の合図によって、散りぢりになったゴモラの住民は、それぞれの町や村で、離ればなれになったメンバーと合流して聖書の都市を再建しようとしているのである。その一方、これまた世のいたるところで、たとえ目指す再建が断続的なものとはいえ、ソドムから追放され、望郷の念に駆られた、偽善的でときには勇敢な者たちによって同様の努力がつづけられているのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.558~559」岩波文庫 二〇一五年)
だからといってプルーストはそれらの実際の再建を肯定するわけではない。
「だが作者としては、致命的な誤りにさしあたり警告を発しておきたかったのである。その誤りとは、シオニズムの運動が鼓舞されたのと同じように、ソドミストの運動を起こして、ソドムの町を再建せんとするところにある」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.86~87」岩波文庫 二〇一五年)
というのは多数派であろうと少数派であろうと戦後イスラエルが犯した決定的失敗のように国家主義的ナショナリズムには重ね重ね危惧を抱いていたからである。しかし一方、なぜ「再建の努力」が続いているのは間違いないと言うのだろうか。プルーストは人間の内的な営みについて極めて根本的な洞察力を持っていた。ニーチェの言葉でいうと次の一節に要約される。
「性欲の妄想は、それが引き裂かれるなら、つねにおのずからふたたび編まれる一つの網である」(ニーチェ「生成の無垢・上・八七五・P.485」ちくま学芸文庫 一九九四年)
また「目指す再建が断続的なものとはいえ」というフレーズにも注目したい。例えばアルベルチーヌの場合、他の女性に向けてまったく切れ目のない同性愛欲望を感じているかといえばまるでそうではない。異性愛にせよ同性愛にせよ欲望の対象のことを想像したり目の前に対象が出現したりした場合に限られる。それはあくまで「断続的」なものだ。そうでなければ性欲の合間に食欲や睡眠欲が出現する余地は一つもないからである。さらにそれ以上に重要なの事情として、「失われた時を求めて」という作品自体が複雑怪奇な組み換えと組み合わせとに満ちた「断続的」方法で描かれているということを忘れないようにしたいと思う。
さて、バルベックの浜辺でアルベルチーヌを注視していた女はどうなったか。思いのほか「冷淡な態度に接して」、遠近法的倒錯に陥り、「意外な驚きを感じた」とある。プルーストはそのような感覚についてこう書いている。
「女はアルベルチーヌとはねんごろになれると確信していたので、その冷淡な態度に接して、パリの住人ではないがこの町になじんでいた外国人が久しぶりに数週間の予定でパリに戻ってきて、いつも楽しい夜をすごしていた小さな劇場があった場所に銀行が建っているのを見たときのような、意外な驚きを感じたのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.559」岩波文庫 二〇一五年)
ここでもまたルノワールの絵画を例とした百年間の勘違いが当てはまる。
「ある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)
さらに<私>にとってアルベルチーヌの言葉はどうなのか。例えば「ある娘にたいしてアルベルチーヌは、さっさと、冷淡かつ礼儀正しく、大きな声で、『そう、五時ごろにはテニスに出かけ、あすの朝の八時ごろには海水浴をするの』と答えると、そう告げた相手からそそくさと離れる。そんなやり口には、逢い引きの場所と時間を告げているにせよ、逢い引きの約束を小声で告げたあと『勘づかれ』ないよう実際には意味のない文言を大声で言っているだけにせよ、人をだまそうとする恐ろしい思惑が感じられた」。
「アルベルチーヌはどうかといえば、カジノでも、浜辺でも、ほかのどこでも、だれか娘を相手に度を越した奔放な振る舞いに出たことはなかったと言える。ほかの娘にたいするアルベルチーヌの振る舞いはむしろ極端に冷淡かつ無関心とさえ思われるほどであったが、それは育ちのよさのあらわれというよりは、疑念の目をくらます策略かと思われた。ある娘にたいしてアルベルチーヌは、さっさと、冷淡かつ礼儀正しく、大きな声で、『そう、五時ごろにはテニスに出かけ、あすの朝の八時ごろには海水浴をするの』と答えると、そう告げた相手からそそくさと離れる。そんなやり口には、逢い引きの場所と時間を告げているにせよ、逢い引きの約束を小声で告げたあと『勘づかれ』ないよう実際には意味のない文言を大声で言っているだけにせよ、人をだまそうとする恐ろしい思惑が感じられた。そのあと自転車に乗って全速力で走り去るアルベルチーヌを見ていると、ほとんど話もできなかったこの娘とこれから落ち合うのだろうと考えずにはいられなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.560~561」岩波文庫 二〇一五年)
アルベルチーヌは<私>にも聞こえるように、「そう、五時ごろにはテニスに出かけ、あすの朝の八時ごろには海水浴をするの」としか言っていない。文字通り受け取ればただ単にそれだけのことに過ぎない。ところが<私>はますます疑念を膨らませてしまう。なぜそうなるのか。
「言語はもろもろの大きな先入見を含んでおり、また維持している、たとえば、《一つの》語でもって表わされるものは当然また《一つの》出来事であるという先入見がそうである。意欲、欲求、衝動ーーーこれらは複雑なものなのだ!」(ニーチェ「生成の無垢・下・三三・P.28」ちくま学芸文庫 一九九四年)
別の言い方をすれば「沈み浮き彫りが観察者にとって浮き彫りに変わる場合」のように受け止めるほかないからである。
「私たちは、私たちが《よく知っている》ものしか見てとらない。私たちの目は無数の形式の取り扱い方を絶えず練習している、ーーー形象の構成要素の大部分は感官印象ではなくて、《空想の所産》なのだ。感官から得られるのは小さな誘因や動機にすぎず、これが次いで空想によって仕上げられる。『《無意識のもの》』に代えるに《空想》をもってすべきである。空想が与えるものは無意識の推論というよりは、むしろ《たまたま思い浮べられた可能性》である(たとえば沈み浮き彫りが観察者にとって浮き彫りに変わる場合)」(ニーチェ「生成の無垢・下・八四・P.60~61」ちくま学芸文庫 一九九四年)
プルーストはいう。
「だがわれわれの愛する女が口にしたことばは、純粋なまま長く保存されるわけではない。それは傷んで、腐ってゆく」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.562」岩波文庫 二〇一五年)
しかしプルーストがそう言うのは、変質するのはあくまでシニフィエ(意味されるもの・内容)の側であってシニフィアン(意味するもの・身振り・言葉)の側ではない点を見ておこう。例えば、或る言葉が「ゲルマント大公妃」という「称号」の場合。プルーストではこうなる。
「かくして称号と名前とは同一であるから、なおもゲルマント大公妃なる人は現存するが、その人は私をあれほど魅了した人とはなんの関係もなく、いまや亡き人は、称号と名前を盗まれてもどうするすべもない死者であることは、私にとって、その城館をはじめエドヴィージュ大公女が所有していたものをことごとくほかの女が享受しているのを見ることと同じくらい辛いことだった。名前の継承は、すべての継承と同じで、またすべての所有権の簒奪と同じで、悲しいものである。かくしてつねに、つぎからつぎへと途絶えることなく新たなゲルマント大公妃が、いや、より正確に言えば、千年以上にわたり、その時代ごとに、つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられるただひとりのゲルマント大公妃があらわれ、この大公妃は死を知らず、移り変わるもの、われわれの心を傷つけるものなどには関心を示さないだろう。同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くすからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.98~99」岩波文庫 二〇一九年)
そしてプルーストでなくてもそうなるし実際そうなっている。
BGM1
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BGM3
「カジノのホールなどでふたりの娘がたがいに欲望をいだくと、しばしば一種の光学現象が生じて、ひと筋の燐光のようなものが一方から他方へ流れるものだ。ついでに言っておくと、たとえ計測不可能なものとはいえこのような物質化した光に助けられ、大気の一部を燃えあがらせるこうした幽体の合図によって、散りぢりになったゴモラの住民は、それぞれの町や村で、離ればなれになったメンバーと合流して聖書の都市を再建しようとしているのである。その一方、これまた世のいたるところで、たとえ目指す再建が断続的なものとはいえ、ソドムから追放され、望郷の念に駆られた、偽善的でときには勇敢な者たちによって同様の努力がつづけられているのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.558~559」岩波文庫 二〇一五年)
だからといってプルーストはそれらの実際の再建を肯定するわけではない。
「だが作者としては、致命的な誤りにさしあたり警告を発しておきたかったのである。その誤りとは、シオニズムの運動が鼓舞されたのと同じように、ソドミストの運動を起こして、ソドムの町を再建せんとするところにある」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.86~87」岩波文庫 二〇一五年)
というのは多数派であろうと少数派であろうと戦後イスラエルが犯した決定的失敗のように国家主義的ナショナリズムには重ね重ね危惧を抱いていたからである。しかし一方、なぜ「再建の努力」が続いているのは間違いないと言うのだろうか。プルーストは人間の内的な営みについて極めて根本的な洞察力を持っていた。ニーチェの言葉でいうと次の一節に要約される。
「性欲の妄想は、それが引き裂かれるなら、つねにおのずからふたたび編まれる一つの網である」(ニーチェ「生成の無垢・上・八七五・P.485」ちくま学芸文庫 一九九四年)
また「目指す再建が断続的なものとはいえ」というフレーズにも注目したい。例えばアルベルチーヌの場合、他の女性に向けてまったく切れ目のない同性愛欲望を感じているかといえばまるでそうではない。異性愛にせよ同性愛にせよ欲望の対象のことを想像したり目の前に対象が出現したりした場合に限られる。それはあくまで「断続的」なものだ。そうでなければ性欲の合間に食欲や睡眠欲が出現する余地は一つもないからである。さらにそれ以上に重要なの事情として、「失われた時を求めて」という作品自体が複雑怪奇な組み換えと組み合わせとに満ちた「断続的」方法で描かれているということを忘れないようにしたいと思う。
さて、バルベックの浜辺でアルベルチーヌを注視していた女はどうなったか。思いのほか「冷淡な態度に接して」、遠近法的倒錯に陥り、「意外な驚きを感じた」とある。プルーストはそのような感覚についてこう書いている。
「女はアルベルチーヌとはねんごろになれると確信していたので、その冷淡な態度に接して、パリの住人ではないがこの町になじんでいた外国人が久しぶりに数週間の予定でパリに戻ってきて、いつも楽しい夜をすごしていた小さな劇場があった場所に銀行が建っているのを見たときのような、意外な驚きを感じたのである」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.559」岩波文庫 二〇一五年)
ここでもまたルノワールの絵画を例とした百年間の勘違いが当てはまる。
「ある新進作家が発表しはじめた作品では、ものとものとの関係が、私がそれを結びつける関係とはあまりにも異なるせいか、私には書いていることがほとんど理解できなかった。たとえばその作家はこう書く、『撒水管はみごとに手入れされたもろもろの街道に感嘆していた』(これはさして難しくないので、その街道沿いにすいすい進んでゆくと)『それらの街道は五分ごとにブリアンやクローデルから出てきた』。こうなるともはや私には理解できなかった。町の名が出てくるはずだと思っていたのに、人名が出てきたからである。ただし私は、出来の悪いのはこの文ではなく、私のほうに最後までゆき着くだけの体力も敏捷さも備わっていない気がした。そこでもう一度はずみをつけて、手脚も駆使して、ものとものとの新たな関係が見える地点にまで到達しようとした。そのたびに私は、文の中ほどまで来ると、のちに軍隊で梁木(りょうぼく)と呼ばれる訓練をしたときのように、ふたたび落伍した。それでもやはり私は、その新進作家にたいして、体操の成績にゼロをもらう不器用な子がずっと上手(じょうず)な子に向けるような賞賛の念をいだいた。そのころから私はベルゴットにさほど関心しなくなった。その明快さがもの足りなく思えたのだ。その昔には、フロマンタンが描くありとあらゆるものがだれにもそれとわかり、ルノワールの筆になるとなにを描いたものかわからない、といった時代もあったのである。趣味のいい人たちは、現在、ルノワールは十八世紀の大画家だと言う。しかしそう言うとき、人びとは『時間』の介在を忘れている。ルノワールが、十九世紀のさかなでさえ、大画家として認められるのにどれほど多くの時間を要したかを忘れているのである。そのように認められるのに、独創的な画家や芸術家は、眼科医と同じ方法をとる。絵画や散文によるその療法は、かならずしも快くはないが、治療が終わると、それを施した者は『さあ見てごらんなさい』と言う。すると世界は(一度だけ創造されたのではなく、独創的な芸術家があらわれるたびに何度も創造し直される)、昔の世界とはまるで異なるすがたであらわれ、すっかり明瞭に見える。通りを歩く女たちも昔の女とは違って見えるが、それはルノワールの描く女だからであり、昔はそんなものは女ではないと言われていたルノワールの描いた女だからにほかならない。馬車もルノワールの描いたものだし、水も空も同様である。われわれは、その画を最初に見たときには、どうしても森にだけは思えず、たとえばさまざまな色合いを含んではいるが森に固有の色合いだけは欠いたタピスリーに思えたものだが、そんな森と今やそっくりの森を散歩したい欲求に駆られる。創造されたばかりの新たな世界、しかしやがて滅びる世界とは、このようなものである。この世界は、さらに独創的な新しい画家や作家がつぎの地殻の大変動をひきおこすまでつづくだろう」(プルースト「失われた時を求めて6・第三篇・二・二・一・P.339~342」岩波文庫 二〇一三年)
さらに<私>にとってアルベルチーヌの言葉はどうなのか。例えば「ある娘にたいしてアルベルチーヌは、さっさと、冷淡かつ礼儀正しく、大きな声で、『そう、五時ごろにはテニスに出かけ、あすの朝の八時ごろには海水浴をするの』と答えると、そう告げた相手からそそくさと離れる。そんなやり口には、逢い引きの場所と時間を告げているにせよ、逢い引きの約束を小声で告げたあと『勘づかれ』ないよう実際には意味のない文言を大声で言っているだけにせよ、人をだまそうとする恐ろしい思惑が感じられた」。
「アルベルチーヌはどうかといえば、カジノでも、浜辺でも、ほかのどこでも、だれか娘を相手に度を越した奔放な振る舞いに出たことはなかったと言える。ほかの娘にたいするアルベルチーヌの振る舞いはむしろ極端に冷淡かつ無関心とさえ思われるほどであったが、それは育ちのよさのあらわれというよりは、疑念の目をくらます策略かと思われた。ある娘にたいしてアルベルチーヌは、さっさと、冷淡かつ礼儀正しく、大きな声で、『そう、五時ごろにはテニスに出かけ、あすの朝の八時ごろには海水浴をするの』と答えると、そう告げた相手からそそくさと離れる。そんなやり口には、逢い引きの場所と時間を告げているにせよ、逢い引きの約束を小声で告げたあと『勘づかれ』ないよう実際には意味のない文言を大声で言っているだけにせよ、人をだまそうとする恐ろしい思惑が感じられた。そのあと自転車に乗って全速力で走り去るアルベルチーヌを見ていると、ほとんど話もできなかったこの娘とこれから落ち合うのだろうと考えずにはいられなかった」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.560~561」岩波文庫 二〇一五年)
アルベルチーヌは<私>にも聞こえるように、「そう、五時ごろにはテニスに出かけ、あすの朝の八時ごろには海水浴をするの」としか言っていない。文字通り受け取ればただ単にそれだけのことに過ぎない。ところが<私>はますます疑念を膨らませてしまう。なぜそうなるのか。
「言語はもろもろの大きな先入見を含んでおり、また維持している、たとえば、《一つの》語でもって表わされるものは当然また《一つの》出来事であるという先入見がそうである。意欲、欲求、衝動ーーーこれらは複雑なものなのだ!」(ニーチェ「生成の無垢・下・三三・P.28」ちくま学芸文庫 一九九四年)
別の言い方をすれば「沈み浮き彫りが観察者にとって浮き彫りに変わる場合」のように受け止めるほかないからである。
「私たちは、私たちが《よく知っている》ものしか見てとらない。私たちの目は無数の形式の取り扱い方を絶えず練習している、ーーー形象の構成要素の大部分は感官印象ではなくて、《空想の所産》なのだ。感官から得られるのは小さな誘因や動機にすぎず、これが次いで空想によって仕上げられる。『《無意識のもの》』に代えるに《空想》をもってすべきである。空想が与えるものは無意識の推論というよりは、むしろ《たまたま思い浮べられた可能性》である(たとえば沈み浮き彫りが観察者にとって浮き彫りに変わる場合)」(ニーチェ「生成の無垢・下・八四・P.60~61」ちくま学芸文庫 一九九四年)
プルーストはいう。
「だがわれわれの愛する女が口にしたことばは、純粋なまま長く保存されるわけではない。それは傷んで、腐ってゆく」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・二・P.562」岩波文庫 二〇一五年)
しかしプルーストがそう言うのは、変質するのはあくまでシニフィエ(意味されるもの・内容)の側であってシニフィアン(意味するもの・身振り・言葉)の側ではない点を見ておこう。例えば、或る言葉が「ゲルマント大公妃」という「称号」の場合。プルーストではこうなる。
「かくして称号と名前とは同一であるから、なおもゲルマント大公妃なる人は現存するが、その人は私をあれほど魅了した人とはなんの関係もなく、いまや亡き人は、称号と名前を盗まれてもどうするすべもない死者であることは、私にとって、その城館をはじめエドヴィージュ大公女が所有していたものをことごとくほかの女が享受しているのを見ることと同じくらい辛いことだった。名前の継承は、すべての継承と同じで、またすべての所有権の簒奪と同じで、悲しいものである。かくしてつねに、つぎからつぎへと途絶えることなく新たなゲルマント大公妃が、いや、より正確に言えば、千年以上にわたり、その時代ごとに、つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられるただひとりのゲルマント大公妃があらわれ、この大公妃は死を知らず、移り変わるもの、われわれの心を傷つけるものなどには関心を示さないだろう。同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くすからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.98~99」岩波文庫 二〇一九年)
そしてプルーストでなくてもそうなるし実際そうなっている。
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