巨大ターミナルを舞台とした小説は無数にある。だが「ソドムとゴモラ」篇の後半はグランドホテルのあるリゾート地バルベックからやや「ずれ」たローカル線沿線地帯へ舞台が移動する。舞台の移動であるとともに作品の移動でもある点にも注目したいと思う。
アルベルチーヌと<私>がこれから訪れようとするのはヴェルデュラン家の晩餐会(水曜の会)だ。バルベック駅には二人から少し離れたところにニッシム・ベルナールがいる。グランドホテルのボーイを早くも見捨てしまったようで今は沿線近郊の「農園レストラン『オ・スリジエ』のボーイとねんごろになっていた」。新しい愛人は双子の兄弟の兄。「そっくりのトマト」とあるように瓜二つの「顔が真っ赤で、まるで首のうえにトマトをのせているとしか見えなかった」。
「氏はしばらく前から『アタリー』の合唱隊の少年を裏切って、近郊のかなり繁盛している農園レストラン『オ・スリジエ』のボーイとねんごろになっていた。この目鼻立ちの粗野なボーイは、顔が真っ赤で、まるで首のうえにトマトをのせているとしか見えなかった。これとそっくりのトマトが、双子(ふたご)の弟の首のうえにものっていた。私利私欲のない目で眺めればこの瓜ふたつの顔はなかなか見事というほかなく、まるで自然が一時的に工業化して同一の製品を生産した観がある」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.21~22」岩波文庫 二〇一五年)
だがプルーストはこの双子の兄弟のことを「一号トマト・二号トマト」と描き分けている。「一号トマト」(兄)は同性愛者であり「二号トマト」(弟)は異性愛者。ニッシム・ベルナールはひたすら「一号トマト」(兄)を愛しているわけだが余りにも双子の顔が瓜二つなので農園レストラン『オ・スリジエ』にやって来るたび、間違って「双子の弟のほうに声をかけてこう言う、『よかったらどうだい?今夜でも』」。それほど似ているのだが似ているのはあくまでも見た目ばかりだ。
「あいにくニッシム・ベルナール氏の見方はそうではなかった。その類似は外面的なものでしかなく、二号トマトはもっぱらご婦人方に愛されることに無我夢中なのにたいして、一号トマトはある種の殿方の嗜好に応えるのに目がないという。ところがこの年老いたイスラエルの民は、一号トマトとすごした楽しい時間の想い出にいわば条件反射のように駆り立てられて『オ・スリジエ』へやって来るたびに、近視ゆえに(とはいえ近視ではない人でもふたりを取り違えたであろう)、そうとは知らぬまにアンフィトリオン役を演じてしまい、双子の弟のほうに声をかけてこう言う、『よかったらどうだい?今夜でも』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.22」岩波文庫 二〇一五年)
プルーストはベルナールが「アンフィトリオン役を演じてしま」うと書いている。モリエールの喜劇で有名な名だが、メルキュールによって偽のソジと本物のソジとに分裂させられ、しょげかえっている本物のソジに対してアンフィトリオンはどのような役割を演じているだろうか。ラカンが講義録の中で指摘しているように聞き手としての理想的態度を示している。相手が召使いに過ぎないとはいえ決して頭ごなしに叱りつけない態度は高く評価されてしかるべきであり、一六六八年パレ=ロワイヤルでの初演から三五四年を経た現在の日本社会でこそむしろテキストとして読まれてよいのではとさえ感じる。一部引用。
「アンフィトリヨン 結局、家の中には入らなかったのか?
ソジ 入るも入らないも!いやはや、どうやって入れっていうんです?私は全然こっちの言うことを聞いてくれないし、ドアのまえで通せんぼしてたんですよ。
アンフィトリヨン 何だと?
ソジ 棒で殴られたんですよ。おかげで背中がまだひどく痛むんです。
アンフィトリヨン 棒で殴られただと?
ソジ そうなんです。
アンフィトリヨン 誰に?
ソジ 私です。
アンフィトリヨン おまえがおまえを殴ったのか?
ソジ ええ、私です。ここにいる私じゃなくて、お屋敷にいるほうの私が、すごい力で私を殴ったんです。ーーー冗談で言ってるんじゃありません。さっき会った私は、今お話ししている私よりも一枚うわ手なんです。腕っぷしは強いし、勇気はあるし、そのあかしが私の身体に刻まれているんです。その私は悪熊みたいに私をたたきのめしたんです。まったく手がつけられませんよ。
アンフィトリヨン 話の続きを聞こう。それでアルクメーヌには会ったのか?
ソジ いいえ。
アンフィトリヨン どうしてだ?
ソジ どうしようもなかったんです。
アンフィトリヨン 何て奴だ!どうして役目を果たさなかった?言ってみろ。
ソジ 何度同じことを言わせれば気が済むんですか?だから、私、この私よりも強い私、その私が力づくでドアの前で通せんぼしたんです。私はその私の言いなり。その私は自分だけが私だってことにしたがって、その私は私に嫉妬して、その私には勇気があって、臆病な私に怒りを爆発させたんです。つまりですね、お屋敷にいるその私は、その私こそ私の主人だってところを見せて、その私が私をたたきのめしたんですよ」(モリエール「アンフィトリヨン・第二幕・第一場」『モリエール全集6・P.186~188』臨川書店 二〇〇一年)
アンフィトリヨンに化けてアルクメーヌとベッドを共にしたのは他でもないジュピター(ユピテル・ゼウス)であり、メルキュールはただジュピターの命令に忠実に従っただけのことだ。そうはいうものの、たとえジュピターであろうとなかろうとメルキュールを使ってアルクメーヌを騙したのは確かである。ところが本物のアンフィトリヨンはアルクメーヌに騙されたと主張できるだろうか。古代ギリシア=古代ローマの最高神ジュピター(ユピテル・ゼウス)を相手に騙されたとは主張できない。アルクメーヌも同様だが、もっとも、ラカンは講義録の中でアルクメーヌについて、本物のアンフィトリヨンからだけでなく古代ギリシア=古代ローマの最高神ジュピター(ユピテル・ゼウス)からも愛されたことになり、最も得をしたのはアルクメーヌではとジョークを飛ばしている。
さて、ローカル線に乗ってドンシエールへ到着した<私>とアルベルチーヌ。そこで二人はサン=ルーと久々に再会する。が、サン=ルーは所用のため間もなく駅を出発。そこへ入れ違いにシャルリュスが登場する。ヴェルデュラン家の晩餐会へ向かう途中だ。ほぼ同時だろう、<私>は駅のフォームで一人の美青年が列車待ちしているのに気づいた。<私>たちとは逆方向へ行く列車に乗る様子。そこへシャルリュスが急いで<私>に近づき声をかけた。列車待ちしているその美青年を呼んできてくれといつもの横柄な態度でいう。シャルリュスの態度にはもう慣れてしまっている<私>は仕方なくその美青年を呼びに行った。ところが近づいてよく見るとその美青年は何と<私>の叔父のかつての従僕の息子だった。名はモレル。今はドンシエール駐屯地の軍楽隊に所属しているという。ヴァイオリン担当。そこへシャルリュスがぐいと体を入れてきた。モレルに「ひと晩五百フラン(約二十五万円)で音楽を聴かせてくれないか」と持ちかけた。実はシャルリュスとモレルとはまったくの初対面。事情はこうだ。
「シャルリュス氏はモレルとはぜんぜん面識がなく、モレルのほうもシャルリュス氏などまったく知らなかったのだ。氏は、軍人とはいえ竪琴の記章しか身につけていないその男に目がくらむと同時に気おくれがし、衝動に駆られて私にその男を連れてくるように頼んだわけで、その男がまさか私の知り合いだとは夢にも想わなかったのだろう。いずれにしても五百フランの申し出は、モレルにとってはそれまでつき合いがなかったことを補って余りあるものだったにちがいない。ふたりが、私たちの路面(トラム)のすぐそばにいることなどお構いなしに、しゃべりつつけるのを私は目撃したからである。そしてシャルリュス氏がさきほどモレルと私に近づいたやりかたを想い出した私は、それが氏の親戚の男たちが通りで女をひっかけるやりかたにそっくりだと気づいた。ただ狙われた対象の性が違うだけである。人はある一定の年齢になると、たとえ自分のなかに相異なる変遷が生じようと、ますます自分自身になるにつれて、その一族固有の特徴をますます際立たせるものらしい。というのも自然は、おのがタピスリーの調和のとれた図柄を編みつづけながら、ときに構図の単調さを破って、描く形に変化をつけるからである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.37~38」岩波文庫 二〇一五年)
これからヴェルデュラン夫妻主催の晩餐会へ一緒に出かけることになった。ヴェルデュラン夫人はどうしているだろうか。新興勢力のサロンである。一方、ここで一旦、前半で<私>の憧れの的だったゲルマント公爵夫人の身振り・特徴をおさらいしておこう。
「大公夫人のうちには、才気あふれるゲルマント家の一族として、メリメから受けつがれ、最近ではメイヤックとアレヴィの芝居のなかに表現されている、常套句や紋切り型の感情を排した才気煥発の気風の名残(なごり)がいまだに脈打っていた」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.324」岩波文庫 二〇一一年)
プルーストはそんな大貴族の系列に繋がるゲルマント公爵夫人と新興ブルジョワ階級の中で台頭してきたヴェルデュラン夫人とその周辺とを描き分けることになる。
BGM1
BGM2
BGM3
アルベルチーヌと<私>がこれから訪れようとするのはヴェルデュラン家の晩餐会(水曜の会)だ。バルベック駅には二人から少し離れたところにニッシム・ベルナールがいる。グランドホテルのボーイを早くも見捨てしまったようで今は沿線近郊の「農園レストラン『オ・スリジエ』のボーイとねんごろになっていた」。新しい愛人は双子の兄弟の兄。「そっくりのトマト」とあるように瓜二つの「顔が真っ赤で、まるで首のうえにトマトをのせているとしか見えなかった」。
「氏はしばらく前から『アタリー』の合唱隊の少年を裏切って、近郊のかなり繁盛している農園レストラン『オ・スリジエ』のボーイとねんごろになっていた。この目鼻立ちの粗野なボーイは、顔が真っ赤で、まるで首のうえにトマトをのせているとしか見えなかった。これとそっくりのトマトが、双子(ふたご)の弟の首のうえにものっていた。私利私欲のない目で眺めればこの瓜ふたつの顔はなかなか見事というほかなく、まるで自然が一時的に工業化して同一の製品を生産した観がある」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.21~22」岩波文庫 二〇一五年)
だがプルーストはこの双子の兄弟のことを「一号トマト・二号トマト」と描き分けている。「一号トマト」(兄)は同性愛者であり「二号トマト」(弟)は異性愛者。ニッシム・ベルナールはひたすら「一号トマト」(兄)を愛しているわけだが余りにも双子の顔が瓜二つなので農園レストラン『オ・スリジエ』にやって来るたび、間違って「双子の弟のほうに声をかけてこう言う、『よかったらどうだい?今夜でも』」。それほど似ているのだが似ているのはあくまでも見た目ばかりだ。
「あいにくニッシム・ベルナール氏の見方はそうではなかった。その類似は外面的なものでしかなく、二号トマトはもっぱらご婦人方に愛されることに無我夢中なのにたいして、一号トマトはある種の殿方の嗜好に応えるのに目がないという。ところがこの年老いたイスラエルの民は、一号トマトとすごした楽しい時間の想い出にいわば条件反射のように駆り立てられて『オ・スリジエ』へやって来るたびに、近視ゆえに(とはいえ近視ではない人でもふたりを取り違えたであろう)、そうとは知らぬまにアンフィトリオン役を演じてしまい、双子の弟のほうに声をかけてこう言う、『よかったらどうだい?今夜でも』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.22」岩波文庫 二〇一五年)
プルーストはベルナールが「アンフィトリオン役を演じてしま」うと書いている。モリエールの喜劇で有名な名だが、メルキュールによって偽のソジと本物のソジとに分裂させられ、しょげかえっている本物のソジに対してアンフィトリオンはどのような役割を演じているだろうか。ラカンが講義録の中で指摘しているように聞き手としての理想的態度を示している。相手が召使いに過ぎないとはいえ決して頭ごなしに叱りつけない態度は高く評価されてしかるべきであり、一六六八年パレ=ロワイヤルでの初演から三五四年を経た現在の日本社会でこそむしろテキストとして読まれてよいのではとさえ感じる。一部引用。
「アンフィトリヨン 結局、家の中には入らなかったのか?
ソジ 入るも入らないも!いやはや、どうやって入れっていうんです?私は全然こっちの言うことを聞いてくれないし、ドアのまえで通せんぼしてたんですよ。
アンフィトリヨン 何だと?
ソジ 棒で殴られたんですよ。おかげで背中がまだひどく痛むんです。
アンフィトリヨン 棒で殴られただと?
ソジ そうなんです。
アンフィトリヨン 誰に?
ソジ 私です。
アンフィトリヨン おまえがおまえを殴ったのか?
ソジ ええ、私です。ここにいる私じゃなくて、お屋敷にいるほうの私が、すごい力で私を殴ったんです。ーーー冗談で言ってるんじゃありません。さっき会った私は、今お話ししている私よりも一枚うわ手なんです。腕っぷしは強いし、勇気はあるし、そのあかしが私の身体に刻まれているんです。その私は悪熊みたいに私をたたきのめしたんです。まったく手がつけられませんよ。
アンフィトリヨン 話の続きを聞こう。それでアルクメーヌには会ったのか?
ソジ いいえ。
アンフィトリヨン どうしてだ?
ソジ どうしようもなかったんです。
アンフィトリヨン 何て奴だ!どうして役目を果たさなかった?言ってみろ。
ソジ 何度同じことを言わせれば気が済むんですか?だから、私、この私よりも強い私、その私が力づくでドアの前で通せんぼしたんです。私はその私の言いなり。その私は自分だけが私だってことにしたがって、その私は私に嫉妬して、その私には勇気があって、臆病な私に怒りを爆発させたんです。つまりですね、お屋敷にいるその私は、その私こそ私の主人だってところを見せて、その私が私をたたきのめしたんですよ」(モリエール「アンフィトリヨン・第二幕・第一場」『モリエール全集6・P.186~188』臨川書店 二〇〇一年)
アンフィトリヨンに化けてアルクメーヌとベッドを共にしたのは他でもないジュピター(ユピテル・ゼウス)であり、メルキュールはただジュピターの命令に忠実に従っただけのことだ。そうはいうものの、たとえジュピターであろうとなかろうとメルキュールを使ってアルクメーヌを騙したのは確かである。ところが本物のアンフィトリヨンはアルクメーヌに騙されたと主張できるだろうか。古代ギリシア=古代ローマの最高神ジュピター(ユピテル・ゼウス)を相手に騙されたとは主張できない。アルクメーヌも同様だが、もっとも、ラカンは講義録の中でアルクメーヌについて、本物のアンフィトリヨンからだけでなく古代ギリシア=古代ローマの最高神ジュピター(ユピテル・ゼウス)からも愛されたことになり、最も得をしたのはアルクメーヌではとジョークを飛ばしている。
さて、ローカル線に乗ってドンシエールへ到着した<私>とアルベルチーヌ。そこで二人はサン=ルーと久々に再会する。が、サン=ルーは所用のため間もなく駅を出発。そこへ入れ違いにシャルリュスが登場する。ヴェルデュラン家の晩餐会へ向かう途中だ。ほぼ同時だろう、<私>は駅のフォームで一人の美青年が列車待ちしているのに気づいた。<私>たちとは逆方向へ行く列車に乗る様子。そこへシャルリュスが急いで<私>に近づき声をかけた。列車待ちしているその美青年を呼んできてくれといつもの横柄な態度でいう。シャルリュスの態度にはもう慣れてしまっている<私>は仕方なくその美青年を呼びに行った。ところが近づいてよく見るとその美青年は何と<私>の叔父のかつての従僕の息子だった。名はモレル。今はドンシエール駐屯地の軍楽隊に所属しているという。ヴァイオリン担当。そこへシャルリュスがぐいと体を入れてきた。モレルに「ひと晩五百フラン(約二十五万円)で音楽を聴かせてくれないか」と持ちかけた。実はシャルリュスとモレルとはまったくの初対面。事情はこうだ。
「シャルリュス氏はモレルとはぜんぜん面識がなく、モレルのほうもシャルリュス氏などまったく知らなかったのだ。氏は、軍人とはいえ竪琴の記章しか身につけていないその男に目がくらむと同時に気おくれがし、衝動に駆られて私にその男を連れてくるように頼んだわけで、その男がまさか私の知り合いだとは夢にも想わなかったのだろう。いずれにしても五百フランの申し出は、モレルにとってはそれまでつき合いがなかったことを補って余りあるものだったにちがいない。ふたりが、私たちの路面(トラム)のすぐそばにいることなどお構いなしに、しゃべりつつけるのを私は目撃したからである。そしてシャルリュス氏がさきほどモレルと私に近づいたやりかたを想い出した私は、それが氏の親戚の男たちが通りで女をひっかけるやりかたにそっくりだと気づいた。ただ狙われた対象の性が違うだけである。人はある一定の年齢になると、たとえ自分のなかに相異なる変遷が生じようと、ますます自分自身になるにつれて、その一族固有の特徴をますます際立たせるものらしい。というのも自然は、おのがタピスリーの調和のとれた図柄を編みつづけながら、ときに構図の単調さを破って、描く形に変化をつけるからである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.37~38」岩波文庫 二〇一五年)
これからヴェルデュラン夫妻主催の晩餐会へ一緒に出かけることになった。ヴェルデュラン夫人はどうしているだろうか。新興勢力のサロンである。一方、ここで一旦、前半で<私>の憧れの的だったゲルマント公爵夫人の身振り・特徴をおさらいしておこう。
「大公夫人のうちには、才気あふれるゲルマント家の一族として、メリメから受けつがれ、最近ではメイヤックとアレヴィの芝居のなかに表現されている、常套句や紋切り型の感情を排した才気煥発の気風の名残(なごり)がいまだに脈打っていた」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.324」岩波文庫 二〇一一年)
プルーストはそんな大貴族の系列に繋がるゲルマント公爵夫人と新興ブルジョワ階級の中で台頭してきたヴェルデュラン夫人とその周辺とを描き分けることになる。
BGM1
BGM2
BGM3
