今やパリ大学医学部教授のコタール。とはいえ幼少期から大貴族の中で、その生活様式・生活環境を習慣的に見慣れて育ったわけではまるでない。例えば「称号」ばかりはなるほど「男爵・侯爵」であっても、実際会うたびに退屈この上ないジョークを繰り返す親戚や、興ざめさせる一方の洒落でしかないにもかかわらずもう何十年も同じ洒落を飛ばし続け一人で悦に入っている貴族仲間に対する「慣れ」が「ない」。すると次のように人間の身体などもはやどうでもよく「貴族の称号」の側が、そしてそれのみが、その人間と親交を持つ人々の価値を決定づけると信じて疑わなくなる。
「コタールの同類である多くの人は、貴族の称号をもつそうした婦人たちに瞠目してそのサロンを貴族の粋(すい)を集めた中枢だと想いこむが、じつはその婦人たるやヴィルパリジ夫人とその女友だち(いっしょに育った貴族たちからもはやつき合ってもらえない凋落した大貴婦人たち)にさえ及ばぬ存在なのである。その婦人たちとの友情を自慢の種にしていた人たちが回想録を上梓して、その婦人たちとそこに招待されていた婦人たちの名前を記したとしても、だれひとりとして、ゲルマント夫人はもとよりカンブルメール夫人でさえ、それがだれなのかわからないだろう。しかしそれでいいのだ!」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.77~78」岩波文庫 二〇一五年)
さらに一旦先にそこだけを切断して取り出された「貴族の称号」を、今度は改めてその人物の内部に押し付け押し込み祭り上げる。ニーチェがそれらを差して「いつもやっているよう」な勘違いの実例として呆れ返りつつ、遠近法的倒錯と名づけ、パロディ化している方法。コタールのようなスノビズム丸出しの人々は「貴族の称号」を持つ人物と同席したというだけのことでもう「実際に王族のなかで暮らした人たちよりも、はるかに封建時代への夢に想像力をかき立てられてい」くほかない。
「コタールがその婦人に貴族というものが凝縮されていると想いこむのは、婦人の肩書きが怪しげであればあるほど、そのグラス類にも銀製食器にも便箋にもトランクのうえにも王冠のマークがついているからである。フォーブール=サン=ジェルマンの中枢で暮らしたと想いこんでいる多くのコタールのような人間のほうが、実際に王族のなかで暮らした人たちよりも、はるかに封建時代への夢に想像力をかき立てられていたのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.78」岩波文庫 二〇一五年)
コタールの妄想は限度を忘れて果てしなく舞い上がる。
「『そうですか!じゃあカンブルメール侯爵夫人に会えるわけですな?』と言ったコタールは、にやにやして、それで助平根性と恋愛遊戯をほのめかしたつもりでいたが、そのじつカンブルメール夫人がきれいな人かどうかも知らなかった。ただ侯爵夫人という称号だけを聞いて、威風堂々とした艶(つや)っぽい貴婦人のイメージが脳裏に浮かんだにすぎない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.88」岩波文庫 二〇一五年)
ところが一方、そもそもヴェルデュラン夫人はラ・ラスプリエールの別荘をカンブルメール老侯爵夫人から借りているのであって、貸し手のカンブルメール夫人を一度は晩餐会に招待しておくのは不可欠だという打算がある。もう一方のカンブルメール夫人としてはヴェルデュラン夫人が「数億円」の遺産を相続したと聞いて今後もリゾート・シーズンになると欠かさず借りてくれることが見込める大切な借家人に見えたため双方の利害が一致したというに過ぎない。
なお列車内の会話でコタールはヴェルデュラン夫人が相続した遺産を「約百七十五億円」と言いふらしており、およそ百七十億円以上の「違い」がある。カンブルメール夫人が「聞いた」金額とコタールが「言っている」金額とではまるで異なっているわけだが真相は謎だ。しかしなぜ迷宮入りするかは単純な話であって、言語という「記号」を介してしか伝達することのできない話だからである。したがってこの箇所でプルーストが語っているのはまたしても記号論講義なのだ。
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「コタールの同類である多くの人は、貴族の称号をもつそうした婦人たちに瞠目してそのサロンを貴族の粋(すい)を集めた中枢だと想いこむが、じつはその婦人たるやヴィルパリジ夫人とその女友だち(いっしょに育った貴族たちからもはやつき合ってもらえない凋落した大貴婦人たち)にさえ及ばぬ存在なのである。その婦人たちとの友情を自慢の種にしていた人たちが回想録を上梓して、その婦人たちとそこに招待されていた婦人たちの名前を記したとしても、だれひとりとして、ゲルマント夫人はもとよりカンブルメール夫人でさえ、それがだれなのかわからないだろう。しかしそれでいいのだ!」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.77~78」岩波文庫 二〇一五年)
さらに一旦先にそこだけを切断して取り出された「貴族の称号」を、今度は改めてその人物の内部に押し付け押し込み祭り上げる。ニーチェがそれらを差して「いつもやっているよう」な勘違いの実例として呆れ返りつつ、遠近法的倒錯と名づけ、パロディ化している方法。コタールのようなスノビズム丸出しの人々は「貴族の称号」を持つ人物と同席したというだけのことでもう「実際に王族のなかで暮らした人たちよりも、はるかに封建時代への夢に想像力をかき立てられてい」くほかない。
「コタールがその婦人に貴族というものが凝縮されていると想いこむのは、婦人の肩書きが怪しげであればあるほど、そのグラス類にも銀製食器にも便箋にもトランクのうえにも王冠のマークがついているからである。フォーブール=サン=ジェルマンの中枢で暮らしたと想いこんでいる多くのコタールのような人間のほうが、実際に王族のなかで暮らした人たちよりも、はるかに封建時代への夢に想像力をかき立てられていたのかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.78」岩波文庫 二〇一五年)
コタールの妄想は限度を忘れて果てしなく舞い上がる。
「『そうですか!じゃあカンブルメール侯爵夫人に会えるわけですな?』と言ったコタールは、にやにやして、それで助平根性と恋愛遊戯をほのめかしたつもりでいたが、そのじつカンブルメール夫人がきれいな人かどうかも知らなかった。ただ侯爵夫人という称号だけを聞いて、威風堂々とした艶(つや)っぽい貴婦人のイメージが脳裏に浮かんだにすぎない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.88」岩波文庫 二〇一五年)
ところが一方、そもそもヴェルデュラン夫人はラ・ラスプリエールの別荘をカンブルメール老侯爵夫人から借りているのであって、貸し手のカンブルメール夫人を一度は晩餐会に招待しておくのは不可欠だという打算がある。もう一方のカンブルメール夫人としてはヴェルデュラン夫人が「数億円」の遺産を相続したと聞いて今後もリゾート・シーズンになると欠かさず借りてくれることが見込める大切な借家人に見えたため双方の利害が一致したというに過ぎない。
なお列車内の会話でコタールはヴェルデュラン夫人が相続した遺産を「約百七十五億円」と言いふらしており、およそ百七十億円以上の「違い」がある。カンブルメール夫人が「聞いた」金額とコタールが「言っている」金額とではまるで異なっているわけだが真相は謎だ。しかしなぜ迷宮入りするかは単純な話であって、言語という「記号」を介してしか伝達することのできない話だからである。したがってこの箇所でプルーストが語っているのはまたしても記号論講義なのだ。
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