白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて24

2022年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。以前育てていた黒バラは工事のため撤去しました。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。またバラだと次々芽を出してくるのであまり手間のかからない良質なエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“Princess of Infinity”」(2022.9.13)

前回撮影は二〇二二年九月九日。この種は蕾の時期はピンク色、花弁が大きくなるにしたがって白く染まるタイプ。なので前回撮影時は薄ピンク(左)だったものが今日はさらに白さをまして旬を迎えほんのり薄ピンクになっています。また蕾の時期からすでに白みがかっていたもの(右)はほぼ白くサイズから見ても旬の印象です。

参考になれば幸いです。

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Blog21・カンブルメール夫人とヴェルデュラン夫人/シャルリュスが演じる「倒錯者」特有の<身振りの政治学>

2022年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
カンブルメール夫人とヴェルデュラン夫人との違いは前者が別荘の貸し手であり後者が借り手であるという以上の違いを見せる。ヴェルデュラン夫人からすればもはや別荘を買い取ることもできる程度の財力を持っているため、賃貸契約上、卑屈になって対応する必要性はない。すると両者の違いが財力さえ問題外とする対立構造を発生させるのは何ゆえか。ラ・ラスプリエールの別荘というそれなりの歴史的建築物にふさわしい家具・調度品にはどんな様式のものがふさわしいかという価値体系の違いが新しい対立の条件として主題化されてくる。またここで登場しているカンブルメール夫人はカンブルメール若夫人であって、別荘の貸主であるカンブルメール老夫人ではないものの、若夫人は老夫人とも対立している。若夫人と老夫人との対立はもちろん財力には何の関係もない。

プルーストの文章を見ると、この対立は、若夫人がドビュッシーの愛好家であり、老夫人はショパンの愛好家だという価値観の違いにおいて最も色濃く現れるというほかない記述が選択されており、その記述に接して始めて読者の目には、これは先に世代間対立があるわけではなく、価値観の対立が大きくものを言っていることに気づかされる。たとえ世代が異なっていても価値観が同じならばこのような親子対立は発生しようがない。芸術愛好家の世界では何がどのように見えているか、聴こえているか、あるいは見えてしかるべきか、聴こえてしかるべきか、それらが貴族かブルジョワかを問わず大問題になるのだ。

一方プルーストは、カンブルメール若夫人とヴェルデュラン夫人との滑稽でしかない意地の張り合いについてとっとと述べてしまうと、すぐにまたシャルリュスの同性愛へテーマを移している。長文なので三箇所に分けた。

(1)異性愛者に限らず「倒錯者」は「こちらが愛してもいない相手から愛されるのは我慢ならない」という気持ちがとりわけ強烈に増殖するということ。(2)「倒錯者」はなぜ「こちらが愛してもいない相手から愛されるのは我慢ならない」という気持ちをとりわけ強烈に増殖させざるを得ないのかについて。主だったシチュエーションが事例に上げられている。「倒錯者」特有の身振り=<身体の政治学>であるとも言える。その意味ではもはや一九〇〇年当時のフランスの「尻軽女」ではなく、今の日本の政治家たちの態度の取り方が最も身近な参考例になるだろう。(3)愛と嫉妬の論理的研究。

(1)「倒錯者は、自分が気に入った相手には熱烈な愛想のよさを示す反面、自分を気に入った相手にはつれない軽蔑をあらわにする。人が愛される楽しさを異口同音に語るのは、その楽しさがつねに妨げられる運命にあるがゆえに欺瞞というほかないが、こちらが愛してもいない相手から愛されるのは我慢ならないというのは一般的法則であって、たしかにこの法則はシャルリュスの同類だけに当てはまるものではない。われわれは、そんな相手、つまり、こちらを愛しているというよりもこちらにうるさくつきまとうと言いたくなる女とつき合うぐらいなら、だれでもいい、その女ほどの魅力も愛想も才気も持ちあわせぬ女とつき合うほうがまだましだと思う。それほど毛嫌いされる女でも、こちらを愛さなくなれば、はじめてわれわれの目に魅力や愛想や才気をとり戻すだろう。この意味では、気に入らない男に言い寄られた倒錯者のいらだちも、こうした普遍的法則が奇妙な形で同性の相手へと移し替えられたものでしかないと考えられる。ところがこのいらだちは、倒錯者にあっては、はるかに強烈なのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.158~159」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「それゆえ倒錯者は、一般の人がそんないらだちを感じてもそれを隠そうとするのにたいして、その元凶たる相手にいらだちを容赦なく見せつける。もっとも相手が女ならそんなことをしないのは、たとえばシャルリュス氏のゲルマント大公妃にたいする態度を見れば明らかで、氏は大公妃の熱愛にうんざりしながらも悪い気はしなかった。ところが倒錯者は、べつの男から特殊な嗜好を見せつけられるだけで、それが自分と同じ嗜好であることを理解しないからか、あるいは自分でそれを感じているかぎりは美化されているその嗜好がじつは悪徳とみなされていることを想い出して不愉快になるからか、あるいはなんの損にもならない機会をとらえて華々しく名誉回復を図りたいからか、あるいは欲に目がくらんでつぎつぎと軽率な行動に走っていたのに、その欲望を感じなくなったとたん、自分の正体を見破られるのを怖れるからか、あるいは気に入った相手なら、どんな遠方までも相手の青年のあとをつけまわし、その青年が劇場でほかの友人たちと同席のときでもじっと目をそらさず、そのせいで青年と友人たちが仲違いしても平気といった臆面もない態度で相手に迷惑をかけていたのに、いざべつの男のいかがわしい態度で自分が迷惑をこうむる段になると怒り心頭に発するからか、いずれによせ倒錯者は、気に入らぬ同類からちょっと見つめられただけで、こう言うのだ、『あなたねえ、私をなんだと思っている?(相手は倒錯者をただそれとみなしたにすぎない。)あなたの気がしれんね、いくらつきまとっても無駄だよ、勘違いもいいとこだ』。それどころか相手に平手打ちを食らわせることもあるうえ、その不用意な同類の知り合いが目の前にいたりすると、憤慨してこう言う、『へえ、あんな変態のお知り合いですか?いやな目つきのヤツですな!ーーーなんたる礼儀知らずだ!』。このさいシャルリュス氏はそこまでの態度を取らなかったが、気を悪くして冷ややかな表情をした。それは尻軽ではない女たちが、自分が尻軽だと思われていると感じたときに見せる表情、いや、尻軽な女たちであればなおのこと見せる表情である」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.159~160」岩波文庫 二〇一五年)

(3)「おまけにべつの倒錯者を前にした倒錯者が目の当たりにするのは、まずは自分自身の不愉快なイメージで、それが命の通わぬただのイメージであれば自尊心を傷つけられるだけであるが、それどころか目の前にいるのはべつの自分自身とはいえ生身の存在で、自分と同様の行動に出ては、自分の恋愛体験の邪魔をして自分を痛めつけることもできる存在なのである。それゆえ倒錯者は、自己保存の本能から、ライバルになりうるその男を悪しざまに言うが、そんな悪口を言う相手に選ぶのは、その悪口を言いふらしてライバルをおとしめてくれる人たち(第一の倒錯者がそんなふうに第二の倒錯者をけなしても、第一の倒錯者について情報を集めることのできる人たちから見れば嘘つきとみなされるのでないかと心配する必要のない人たち)か、それとも第一の倒錯者が『ひっかけた』青年かで、とりわけいつなんどき奪われるやもしれぬその青年には、自分を相手にするならことごとく有利になることでも、べつの男にそそのかされてやると一生の不覚になりかねぬと言い聞かせなければならないからである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.160~161」岩波文庫 二〇一五年)

さらにシャルリュスについて。その身体には無数の女性たちが内在していると前に述べた。この箇所で新しく、なおかつ明瞭に、無数の女性たちのうちはっきり名前の上がっている人物として「義姉のゲルマント公爵夫人」さえ姿を現していると言わねばならない。

「氏は平静をとり戻したが、いまだに両性具有のウェヌスの影響下にあって、ときどきかすかにヴェルデュラン夫妻に微笑むだけで口を開こうとはせず、口元をゆるめるだけで、いっとき甘えるように目を輝かせたりすると、あれほど男らしさに憧れていた氏なのに、まるで義姉のゲルマント公爵夫人の挙措とそっくりだった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.162」岩波文庫 二〇一五年)

なぜシャルリュスは無数の女性を内在化させるに至ったか。生まれたばかりのシャルリュスの身体に男性器があるかないかは多様な人格内在化の過程にとってほとんど関係がない。ラカンはいう。

「鏡像段階というのは、精神分析がこの用語にあたえる全き意味で《同一化のひとつとして》理解するだけで十分です。すなわち、主体が或る像〔を自分のものとして〕引き受ける時みずからに生ずる変形ということで、ーーーそれがこの時相の作用として予定されていることは、精神分析における《イマーゴ》という古い用語の慣用によって十分に示されています。

この、自由に動くこともできなければ、栄養も人に頼っているような、まだ《口のきけない》状態にある小さな子供が、自分の鏡像をこおどりしながらそれとして引き受けるということは、《わたし》というものが原初的な形態へと急転換していくあの象徴的母体を範例的な状況のなかで明らかにするようにみえるのですが、その後になって初めて《わたし》は他者との同一化の弁証法のなかで自分を客観化したり、言語活動が《わたし》にその主体的機能を普遍性のなかでとりもどさせたりします。

重要な点は、この形態が《自我》という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列のなかへ位置づけるということであり、ーーーあるいはむしろそれは、主体が《わたし》として自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです。

このように、主体が幻影のなかでその能力を先取りするのは身体の全体的形態によってなのですが、この形態は《ゲシュタルト》としてのみ、すなわち、外在性においてのみ主体に与えられるものであって、そこではたしかにこの形態は構成されるものというより構成するものではありながら、とりわけこの形態は、主体が自分でそれを生気づけていると体験するところの騒々しい動きとは反対に、それを凝固させるような等身の浮彫りとしてまたそれを逆転させる対称性のもとであらわれるのです。したがって、この《ゲシュタルト》について言えば、そのプレグナンツは、たとえその運動様式が無視できるにしても、種に関連していると考えなければならないわけで、ーーーその出現のこれら二つの局面によってこのゲシュタルトは、《わたし》の精神的恒常性を象徴すると同時にそれがのちに自己疎外する運命をも予示するものです。さらにその《ゲシュタルト》はさまざまの対応をはらんでいますが、これによって、《わたし》は、いわば人間が彼を支配する幻影にみずからを投影する立像と一体化するわけであり、結局は、曖昧な関係のなかで世界がみずからを完成させようとする自動人形と一体化するわけなのです。

じじつ、《イマーゴ》についていえば、そのヴェールに覆われた顔がわれわれの日常経験や象徴的有効性の半影のなかで輪郭をあらわすのを見てとるというのはわれわれの特権ですし、ーーー個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに《自己身体のイマーゴ》が幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現われる《分身》の出現に認めている以上、鏡像は可視的世界への戸口であるようにみえます。

鏡像段階の明らかにする空間的な騙取のなかに、人間の自然的現実が有機体として不十分であることの結果を認めさせますーーー。けれども自然とのこうした関係は人間では生体内部の或る種の裂開によって、つまり生まれてから数ヶ月の違和感の徴候と共働運動の不能があわらにする<原初的不調和>によって変化させられます。

《鏡像段階》はその内的進行が不十分さから先取りへと急転するドラマなのですがーーーこのドラマは空間的同一化の罠にとらえられた主体にとってはさまざまの幻像を道具立てに使い、これら幻像はばらばらに寸断された身体像から整形外科的とでも呼びたいその全体性の形態へとつぎつぎに現われ、ーーーそしてついに自己疎外する同一性という鎧をつけるにいたり、これは精神発達の全体に硬直した構造を押しつけることになります」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126~129』弘文堂 一九七二年)

シャルリュスを通してだけでもどれほど多くの情報が詰め込まれているか。しかし驚嘆すべきはシャルシュス一人に留まらない。とともに、せっかく登場したばかりのモレルはどうなっていくのだろうか。

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