パリからバルベックへのローカル線の旅をこよなく愛する<私>。各駅ごとにその駅名が代表する様々な風景がまだ見ぬ姿で広がっているに違いない、という<私>の想像力の翼をどこまでも羽ばたかされてくれる夢がローカル線にはあるからだ。プルーストは鉄道と自動車とを比較していう。「自動車というものは、いかなる神秘も尊重しない」。しかしプルーストのいう「いかなる神秘」とそのあっけない<解体>は一体どのような実感においてなのか。「私の連隊にいたある将校が、私には特別な存在に映り、名家の出にしてはあまりにも親切で飾り気がなく、ただの平凡な家の出にしてはあまりのも近寄りがたい神秘的存在に見えていたが、それは私がよその晩餐会で同席しただれそれの義兄や従兄だと知らされたときのようなもの」だと。以前はバルベックから「かけ離れたものと想いこんでいたさまざまな場所」を、自動車は<不意に結びつける>ことで、あらゆる神秘性を一挙に吹き飛ばす効果を持つ。資本主義の世界化に伴いあらゆるものがデジタル化され<接続・切断・別のものとの再接続>がますます可能になってくればくるほど不可避的に生じる脱神秘化の傾向であり、どんな<神話>も解体せずにはおかない資本主義の本領の一つである。<神話>は始めからア・プリオリに存在するわけではまるでなく、逆にあちこちに散らばった<諸断片>の人為的モザイクこそ<神話>に他ならないとプルーストは教えている。
「ところが自動車というものは、いかなる神秘も尊重しない。アンカルヴィルを通りすぎ、私の目にまだその家並みの残像が焼きついている最中、パルヴィル(パテルニ・ヴィラ)へ通じる抜け道のだらだら坂をくだっていたとき、通りかかった高台から海を目にした私は、ここはなんという場所かと訊ねた運転手が答えないうちに、それがボーモンだと気づいた。じつは小鉄道に乗るたびに、そうとは知らぬまま同じようにボーモンのそばを通りかかっていたのだ。そこはパルヴィルから二分のところだったからである。私の連隊にいたある将校が、私には特別な存在に映り、名家の出にしてはあまりにも親切で飾り気がなく、ただの平凡な家の出にしてはあまりのも近寄りがたい神秘的存在に見えていたが、それは私がよその晩餐会で同席しただれそれの義兄や従兄だと知らされたときのようなもので、ボーモンも、私がかけ離れたものと想いこんでいたさまざまな場所と不意に結びついてその神秘性を喪失し、この地方のなかに然るべき位置を占めたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.348~349」岩波文庫 二〇一五年)
例えば<私>にとって「小説」というステレオタイプ(紋切型)な枠組みが無効化され、実際の道端など「べつのところで出会ったなら、ほかの人たちとなんら変わらぬ存在に見えたかもしれないと考えてぞっとした」というふうに。「小説という閉ざされた雰囲気」=<暴露>、「べつのところで出会ったなら」=<覗き見>。「ほかの人たちとなんら変わらぬ存在」=<冒瀆>。どれもプルーストが目指した三大テーマである。
「私は、ボヴァリー夫人やサンセヴェリーナ夫人も、もし小説という閉ざされた雰囲気とはべつのところで出会ったなら、ほかの人たちとなんら変わらぬ存在に見えたかもしれないと考えてぞっとした」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.349」岩波文庫 二〇一五年)
しかし<私>はなぜ鉄道にこだわるのか。「町の名のみ掲げる駅という広大な場所への到着は、駅がその町の具体化であるように、ようやくその町へ近づけることを約束してくれるものと思われる」限りで、それは<或る夢>と<別の夢>とを架橋するトランス(横断的)記号性を持っている。ゆえに「鉄道の場合、われわれは夢想にさそわれ、町の名に要約される全体像として最初に想い描いた町のなかへと、劇場の観客よろしく幻想をいだきながら運ばれる」ことを実現する。或る場所から別の場所への移動がまるで異なる二つの世界への価値変動であるような場合、その移動がもたらすトランス(横断的)記号性はより一層深い快感を与えてくれるからに他ならない。鉄道は駅ごとに停車する。切断と横断とがめくるめく入れ換わる。そのたびに次々と場面を切り換え回転させるスペクタクルのように<神話化><脱神話化><再神話化>をどんどん実現していく。
「鉄道における目的地というのは、出発時にはほとんど観念的なものであり、また到着時にも観念的なものにとどまるので、だれひとり住む者とてなく町の名のみ掲げる駅という広大な場所への到着は、駅がその町の具体化であるように、ようやくその町へ近づけることを約束してくれるものと思われる。鉄道の場合、われわれは夢想にさそわれ、町の名に要約される全体像として最初に想い描いた町のなかへと、劇場の観客よろしく幻想をいだきながら運ばれる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.349~350」岩波文庫 二〇一五年)
だからといってプルーストは自動車の登場が鉄道旅行固有の想像力・幻想性を壊したといって非難しているわけではない。両者の比較はプルーストにとって<科学とは何か>という問いかけなのだ。
「そのかわり自動車は、その目的地を発見させ、コンパスで測ったみたいにわれわれ自身でその位置を確定させ、列車の場合よりもずっと入念な探検家の手つきで、はるかに精密な正確さでもって、正真正銘の幾何学、みごとな『土地の測量』を実感させてくれるように思われる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.350~351」岩波文庫 二〇一五年)
第一次世界大戦前夜。科学は比類ない高度化を果たしていた。もとよりそれは一層厳密化していた科学の分野で使用される専門用語の比類ない高度化だった。近現代における<他者の土地>への侵略はいつも<土地の測量>から始まる。作家プルーストの見地からすれば当然、<科学とは何か>という問いかけはいつも<言語とは何か>という問いかけへ横断せずにはいられないのだ。
BGM1
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「ところが自動車というものは、いかなる神秘も尊重しない。アンカルヴィルを通りすぎ、私の目にまだその家並みの残像が焼きついている最中、パルヴィル(パテルニ・ヴィラ)へ通じる抜け道のだらだら坂をくだっていたとき、通りかかった高台から海を目にした私は、ここはなんという場所かと訊ねた運転手が答えないうちに、それがボーモンだと気づいた。じつは小鉄道に乗るたびに、そうとは知らぬまま同じようにボーモンのそばを通りかかっていたのだ。そこはパルヴィルから二分のところだったからである。私の連隊にいたある将校が、私には特別な存在に映り、名家の出にしてはあまりにも親切で飾り気がなく、ただの平凡な家の出にしてはあまりのも近寄りがたい神秘的存在に見えていたが、それは私がよその晩餐会で同席しただれそれの義兄や従兄だと知らされたときのようなもので、ボーモンも、私がかけ離れたものと想いこんでいたさまざまな場所と不意に結びついてその神秘性を喪失し、この地方のなかに然るべき位置を占めたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.348~349」岩波文庫 二〇一五年)
例えば<私>にとって「小説」というステレオタイプ(紋切型)な枠組みが無効化され、実際の道端など「べつのところで出会ったなら、ほかの人たちとなんら変わらぬ存在に見えたかもしれないと考えてぞっとした」というふうに。「小説という閉ざされた雰囲気」=<暴露>、「べつのところで出会ったなら」=<覗き見>。「ほかの人たちとなんら変わらぬ存在」=<冒瀆>。どれもプルーストが目指した三大テーマである。
「私は、ボヴァリー夫人やサンセヴェリーナ夫人も、もし小説という閉ざされた雰囲気とはべつのところで出会ったなら、ほかの人たちとなんら変わらぬ存在に見えたかもしれないと考えてぞっとした」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.349」岩波文庫 二〇一五年)
しかし<私>はなぜ鉄道にこだわるのか。「町の名のみ掲げる駅という広大な場所への到着は、駅がその町の具体化であるように、ようやくその町へ近づけることを約束してくれるものと思われる」限りで、それは<或る夢>と<別の夢>とを架橋するトランス(横断的)記号性を持っている。ゆえに「鉄道の場合、われわれは夢想にさそわれ、町の名に要約される全体像として最初に想い描いた町のなかへと、劇場の観客よろしく幻想をいだきながら運ばれる」ことを実現する。或る場所から別の場所への移動がまるで異なる二つの世界への価値変動であるような場合、その移動がもたらすトランス(横断的)記号性はより一層深い快感を与えてくれるからに他ならない。鉄道は駅ごとに停車する。切断と横断とがめくるめく入れ換わる。そのたびに次々と場面を切り換え回転させるスペクタクルのように<神話化><脱神話化><再神話化>をどんどん実現していく。
「鉄道における目的地というのは、出発時にはほとんど観念的なものであり、また到着時にも観念的なものにとどまるので、だれひとり住む者とてなく町の名のみ掲げる駅という広大な場所への到着は、駅がその町の具体化であるように、ようやくその町へ近づけることを約束してくれるものと思われる。鉄道の場合、われわれは夢想にさそわれ、町の名に要約される全体像として最初に想い描いた町のなかへと、劇場の観客よろしく幻想をいだきながら運ばれる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.349~350」岩波文庫 二〇一五年)
だからといってプルーストは自動車の登場が鉄道旅行固有の想像力・幻想性を壊したといって非難しているわけではない。両者の比較はプルーストにとって<科学とは何か>という問いかけなのだ。
「そのかわり自動車は、その目的地を発見させ、コンパスで測ったみたいにわれわれ自身でその位置を確定させ、列車の場合よりもずっと入念な探検家の手つきで、はるかに精密な正確さでもって、正真正銘の幾何学、みごとな『土地の測量』を実感させてくれるように思われる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.350~351」岩波文庫 二〇一五年)
第一次世界大戦前夜。科学は比類ない高度化を果たしていた。もとよりそれは一層厳密化していた科学の分野で使用される専門用語の比類ない高度化だった。近現代における<他者の土地>への侵略はいつも<土地の測量>から始まる。作家プルーストの見地からすれば当然、<科学とは何か>という問いかけはいつも<言語とは何か>という問いかけへ横断せずにはいられないのだ。
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