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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・プルーストとローカル鉄道/<或る夢>と<別の夢>とを架橋するトランス(横断的)記号性

2022年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
パリからバルベックへのローカル線の旅をこよなく愛する<私>。各駅ごとにその駅名が代表する様々な風景がまだ見ぬ姿で広がっているに違いない、という<私>の想像力の翼をどこまでも羽ばたかされてくれる夢がローカル線にはあるからだ。プルーストは鉄道と自動車とを比較していう。「自動車というものは、いかなる神秘も尊重しない」。しかしプルーストのいう「いかなる神秘」とそのあっけない<解体>は一体どのような実感においてなのか。「私の連隊にいたある将校が、私には特別な存在に映り、名家の出にしてはあまりにも親切で飾り気がなく、ただの平凡な家の出にしてはあまりのも近寄りがたい神秘的存在に見えていたが、それは私がよその晩餐会で同席しただれそれの義兄や従兄だと知らされたときのようなもの」だと。以前はバルベックから「かけ離れたものと想いこんでいたさまざまな場所」を、自動車は<不意に結びつける>ことで、あらゆる神秘性を一挙に吹き飛ばす効果を持つ。資本主義の世界化に伴いあらゆるものがデジタル化され<接続・切断・別のものとの再接続>がますます可能になってくればくるほど不可避的に生じる脱神秘化の傾向であり、どんな<神話>も解体せずにはおかない資本主義の本領の一つである。<神話>は始めからア・プリオリに存在するわけではまるでなく、逆にあちこちに散らばった<諸断片>の人為的モザイクこそ<神話>に他ならないとプルーストは教えている。

「ところが自動車というものは、いかなる神秘も尊重しない。アンカルヴィルを通りすぎ、私の目にまだその家並みの残像が焼きついている最中、パルヴィル(パテルニ・ヴィラ)へ通じる抜け道のだらだら坂をくだっていたとき、通りかかった高台から海を目にした私は、ここはなんという場所かと訊ねた運転手が答えないうちに、それがボーモンだと気づいた。じつは小鉄道に乗るたびに、そうとは知らぬまま同じようにボーモンのそばを通りかかっていたのだ。そこはパルヴィルから二分のところだったからである。私の連隊にいたある将校が、私には特別な存在に映り、名家の出にしてはあまりにも親切で飾り気がなく、ただの平凡な家の出にしてはあまりのも近寄りがたい神秘的存在に見えていたが、それは私がよその晩餐会で同席しただれそれの義兄や従兄だと知らされたときのようなもので、ボーモンも、私がかけ離れたものと想いこんでいたさまざまな場所と不意に結びついてその神秘性を喪失し、この地方のなかに然るべき位置を占めたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.348~349」岩波文庫 二〇一五年)

例えば<私>にとって「小説」というステレオタイプ(紋切型)な枠組みが無効化され、実際の道端など「べつのところで出会ったなら、ほかの人たちとなんら変わらぬ存在に見えたかもしれないと考えてぞっとした」というふうに。「小説という閉ざされた雰囲気」=<暴露>、「べつのところで出会ったなら」=<覗き見>。「ほかの人たちとなんら変わらぬ存在」=<冒瀆>。どれもプルーストが目指した三大テーマである。

「私は、ボヴァリー夫人やサンセヴェリーナ夫人も、もし小説という閉ざされた雰囲気とはべつのところで出会ったなら、ほかの人たちとなんら変わらぬ存在に見えたかもしれないと考えてぞっとした」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.349」岩波文庫 二〇一五年)

しかし<私>はなぜ鉄道にこだわるのか。「町の名のみ掲げる駅という広大な場所への到着は、駅がその町の具体化であるように、ようやくその町へ近づけることを約束してくれるものと思われる」限りで、それは<或る夢>と<別の夢>とを架橋するトランス(横断的)記号性を持っている。ゆえに「鉄道の場合、われわれは夢想にさそわれ、町の名に要約される全体像として最初に想い描いた町のなかへと、劇場の観客よろしく幻想をいだきながら運ばれる」ことを実現する。或る場所から別の場所への移動がまるで異なる二つの世界への価値変動であるような場合、その移動がもたらすトランス(横断的)記号性はより一層深い快感を与えてくれるからに他ならない。鉄道は駅ごとに停車する。切断と横断とがめくるめく入れ換わる。そのたびに次々と場面を切り換え回転させるスペクタクルのように<神話化><脱神話化><再神話化>をどんどん実現していく。

「鉄道における目的地というのは、出発時にはほとんど観念的なものであり、また到着時にも観念的なものにとどまるので、だれひとり住む者とてなく町の名のみ掲げる駅という広大な場所への到着は、駅がその町の具体化であるように、ようやくその町へ近づけることを約束してくれるものと思われる。鉄道の場合、われわれは夢想にさそわれ、町の名に要約される全体像として最初に想い描いた町のなかへと、劇場の観客よろしく幻想をいだきながら運ばれる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.349~350」岩波文庫 二〇一五年)

だからといってプルーストは自動車の登場が鉄道旅行固有の想像力・幻想性を壊したといって非難しているわけではない。両者の比較はプルーストにとって<科学とは何か>という問いかけなのだ。

「そのかわり自動車は、その目的地を発見させ、コンパスで測ったみたいにわれわれ自身でその位置を確定させ、列車の場合よりもずっと入念な探検家の手つきで、はるかに精密な正確さでもって、正真正銘の幾何学、みごとな『土地の測量』を実感させてくれるように思われる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.350~351」岩波文庫 二〇一五年)

第一次世界大戦前夜。科学は比類ない高度化を果たしていた。もとよりそれは一層厳密化していた科学の分野で使用される専門用語の比類ない高度化だった。近現代における<他者の土地>への侵略はいつも<土地の測量>から始まる。作家プルーストの見地からすれば当然、<科学とは何か>という問いかけはいつも<言語とは何か>という問いかけへ横断せずにはいられないのだ。

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Blog21・ラ・ラスプリエールの庭が語る<無数に可能な散策>とその「凝縮」/逃走線としての「心地よい切断」

2022年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストはラ・ラスプリエールの庭がどのような庭か、「何キロにもわたる周辺のすべての散策をいわば凝縮した観があった」と述べる。「すべての散策」とあるように「散策」は唯一ではなく逆に<無数に可能>なことを前提としている。そしてそれら無数に可能な散策を「凝縮」することもまた可能であり、少なくともその一つが「ラ・ラスプリエールの庭」だということを意味する。唯一絶対的な<或る価値体系>にばかり支配されているわけではまるでなく、一つの「凝縮」によって<別の価値体系>に基づく別の庭を出現させることができた。そこでは次の文章のように、変容された<様々な・無数の・多様な>風景を見るだけでなく聞くことも可能である。

「そもそもラ・ラスプリエールの庭は、何キロにもわたる周辺のすべての散策をいわば凝縮した観があった。まずは庭が、一方の側からは谷間を、もう一方の側からは海を見おろす高台にあったからで、つぎに片側のたとえば海側だけについて述べても、木々のあいだに見晴らしのいい場所がいくつも設けられていて、こちらからある水平線を見渡せるかと思うと、あちらからはべつの水平線を見渡せる。そうした見晴らしのいい場所にはそれぞれベンチが置いてあり、バルベックが見えるベンチ、バルヴィルが見えるベンチ、ドゥーヴィルが見えるベンチにつぎつぎと腰をおろすことができる。一方しか眺められないところでも、ベンチが断崖の多少なりとも切り立ったところに置かれていたり、やや引っこんだ場所に置かれていたりする。これらのベンチからは、前景には緑の木々が、その奥にはすでに見渡すかぎりの水平線が望めるが、小径のつづきをたどってつぎのベンチまで行くと水平線がどこまでも広がり、そこからは海の円形の全貌が見渡せる。そこでは波の音までが正確に聞きとれるが、しかしその波の音も庭の奥まったところまでは届かず、波は見えても音はもはや聞こえない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.337」岩波文庫 二〇一五年)

そう描かれているのを見た読者は再びプルーストの方法論に出くわしたと気づく。不意打ちされたと。なぜならこれと同じことが音楽家ヴァントゥイユの方法にも、画家エルスチールの方法にも採用されているからである。同一の価値体系に従っている限りどんな人間も唯一絶対的な<或る価値体系>にのみ従って見えたり聞こえたりするに過ぎない。だがプルーストはあたかもニーチェが「神は死んだ」と言ったように、唯一絶対的な<或る価値体系>による支配の死を宣告している。経済で言えば世界中に「変動相場制」が行き渡ったということに他ならず、無数の価値体系が出現するとともに世界の<見え方>もまた無数に分裂したことを意味する。資本主義はとうとう世界を制覇した。それはしかし資本主義にとって資本主義固有の逆説の出現を伴う。次のように。ドゥルーズ=ガタリから二箇所。

(1)「資本主義の極限は、まぎれもなく分裂症的なものであるが、資本主義はこの自分の限界にたえず近づくことをやめないのだ。分裂者は、器官なき身体の上で、脱コード化した種々の流れの主体としてーーー資本家より資本家的であり、プロレタリアよりプロレタリア的である主体としてーーー存在するものであるが、資本主義は自分の全力をあげてこの分裂者を生みだそうとするのだ。この傾向をさらに遠くまでたえず進み続けるならば、資本主義は、ついに、自分自身が一切の流れとともに月世界に送られる地点にまで到達することであろう。しかし、じっさいには、ひとはまだこうした事態を何もみたわけではない。分裂症がわれわれの病気、われわれの時代の病気であるといわれるとき、現代の生活が狂気を生むことを端的に意味しているだけなのだと考えてはならない。ここでは生活の様式ではなくて、生産の進行が問題なのだ。たとえば、<分裂症患者において意味が変質する現象>と<産業社会のすべての段階において不協和が増大するメカニズム>との間に平行関係が存在していることは、コードの破綻という見地からすればもはやきわめて明確であるが、いまはまたこうした単純な平行関係が問題であるのではない。じつは、われわれが言おうとしているのは次のことなのである。すなわち、資本主義は、その生産の過程において恐るべき分裂症の爆薬を生みだすものであり、そのためそれ自身は、自分のもっている抑制の全力をこれに対抗せしめることになるが、しかし分裂症の爆薬は、資本主義の進行の極限としてたえず再生産され続けるものなのだ、ということなのである。なぜなら、資本主義は、自分の極限に向かう傾向につき進むものであると同時に、またみずからこの傾向を妨げ抑制することをやめないものであるからである。それは、自分の極限をみずから志向するものであると同時に、またみずからこの極限を拒絶することをやめないものなのである。資本主義は、想像的な土地であれ、象徴的な土地であれ、あらゆる種類の残滓的な模造の土地を設立あるいは再興して、この土地の上で、よかれあしかれ、抽象量を根拠とする種々の人物を再コード化して、この土地の中にこれらの人物をはめ込もうとするのだ。《国家》も、故郷も、家庭も、一切が再び舞い戻り甦ることになる。この点はまさに、イデオロギーの上からいえば、資本主義が『これまで信じられてきたものの一切をよせ集めた、雑色の絵』だといわれるゆえんである。実在するものは、ありえないことがないものである。それは、ますます人工的なるものとなる。ーーーマルクスは、<利潤率が傾向的に低下する>とともに、<剰余価値の絶対量が増大する>という二重の運動を相反傾向の法則と呼んだ。<種々の流れが脱コード化し脱土地化する>とともに、<それらの流れが再び激しく模造の再土地化をうける>という二重の運動が存在するということが、右の法則の系として考えられる。資本主義機械が、種々の流れから剰余価値を引きだすために、これらの流れを脱土地化し脱コード化して、これらを公理系化すればするほど、官僚機械や公安組織のような、資本主義の付属装置は、剰余価値の増大する部分を吸収しながら、ますます<再-土地化>をすすめることになるのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.49~50」河出書房新社 一九八六年)

(2)「分裂者については、こういえる。かれがたえず移り歩き、さまよい、よろめき続けているその頼りない歩みからいって、かれは、自分自身の器官なき身体の上で社会体を果てしなく崩壊させながら、たえず脱土地化の道をどこまでも遠くへとつき進んでゆくひとなのだ。恐らく、あの分裂者の散歩は、みずから大地を再び発見し直すかれ自身の独自の仕方なのである、と。分裂症患者は、資本主義の極限に身をおいているのである。かれは、資本主義に内属するその発育の衝動であり、その剰余生産物であり、そのプロレタリアであり、それを殺戮する天使である。かれは一切のコードを混乱させ、欲望の脱コード化した種々の流れをもたらす。実在するものは流れる。<《過程》>の二つの様相が再び結ばれる。〔欲望する生産の〕形而上学的過程と社会的生産の歴史的過程とが。前者は、自然の中にあるいは大地の核心の只中に住まう『ダイモン』にわれわれを触れさせる、あの形而上学的過程であり、後者は、社会機械が脱土地化するのに応じて、欲望する諸機械の自律性を回復させる、あの社会的生産の歴史的過程である。分裂症とは、社会的生産の極限としての欲望する生産にほかならない。したがって、欲望する生産が現われるのは、またこの生産と社会的生産との体制の相違が現われるのは、最後においてであって、最初においてではない。一方の生産と他方の生産との間には、実在の生成というひとつの生成の運動があるのみである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第一章・P.50」河出書房新社 一九八六年)

プルーストは<別の価値体系>への移動が、<移動する人間の価値を変える>ことに注目している。次の三箇所で述べられていることはいずれも同じことを指しているのだが、あえて三分割して記述されたものだ。

(1)「ところがここはパリではないので、私にとっては環境の魅力が、集まりの楽しさのみならず、客人たちの質まで高めてくれた。あれこれの社交人士との出会いも、パリではまったく嬉しくなくても、その人が遠くからフェテルヌなりシャントピーの森なりを通ってラ・ラスプリエールまでやって来たとなると、性格も重要度も一変して、なにやら楽しいできごとになる。ときには、客人が私の知り尽くしている人で、スワン夫妻邸で会うのならとうてい出かける気にはならない人の場合もある。ところがそんな人の名前も、この断崖のうえでは違ったふうに響くもので、劇場でよく耳にする俳優の名前も、なにか特別の公演かガラ公演のポスターにでもべつの色で印刷されているのを見ると、想いがけない状況ゆえに俄然その俳優の名声が高まるのと似ている」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.339~340」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「田舎ならみすぼらしく見える数本の木が植わるだけの庭の一角でも、それがガブリエル大通りとかモンソー通りとかに存在するのなら億万長者にしか許されない桁はずれの贅沢になるにも似て、その反対に、パリの夜会では二流の貴族でも、月曜の午後のラ・ラスプリエールではその価値がぐっと高まるのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.340」岩波文庫 二〇一五年)

(3)「淡彩画の描かれた窓間壁(まどあいかべ)のそばに置かれ、赤く縁どりされたクロスをかけたテーブルに座ると、すぐにガレットや、フイユテ・ノルマンや、サンゴ玉のようなサクランボを盛りつけた舟形のタルトや、『ディプロマット』などが出てきて、招待客たちも、窓という窓のむこうに紺碧の深いカップのように広がってすぐそばに見える海とともにつねに目にとまるせいか、ただちに変貌をとげ、根本的に変身して、なにやらはるかに貴重な存在と化してしまう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.340~341」岩波文庫 二〇一五年)

というような場所移動に伴う価値変動についてマルクスは次のように述べている。

「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫 一九七二年)

とはいえ、ただ単に運輸業における生産過程と剰余価値の生産について述べているわけではない。流通とはどういうことだろうか。場所移動そのものが<別の価値体系>への移動でなければ何らの<差額>も生産されないという意味を汲み取ることが重要なのだ。この<差額>が発生するのは必ずしも長距離である必要はなく、<差額>が発生する条件として十分な移動であればどれほど短距離であっても構わない。というのは、場所移動にあたり<差額>が発生する限りで始めて<差額>は<利子>に転化され資本化されるからである。そうでなければ資本はびた一文たりとも資本として実現されない。ゆえにどんな多国籍企業も巨大であればあるほど生産拠点をできる限り労働力の安価な地域に置く。従ってかつては安価な労働力の集積地(日本でいう「寄せ場」)が世界各地にあった。ところが今や巨大多国籍企業はグローバルネットワークの実現によって安価な労働力がどんな地域に住んでいようと容易く出会う(マッチングさせる)ことができる。世界の「寄せ場化」=「寄せ場としての世界」が加速していると言えるだろう。さらに今の日本のように円の価値を動かそうとしても、また同時にどれほど懸命に働いたとしてもなお、その前提として日米地位協定が壁になっている状況では、円は、同時に日本と日本で働くすべての労働者は、ただひたすらアメリカの従属国として<ただ働き>に近い労働環境へ叩き込まれていくばかりだ。また逆に、高まる一方の反米感情を沈静化させようとして一時的に為替介入を容認したとしてもそれこそ文字通り「一時的」なまやかしに過ぎない。なぜなら反米感情の高まりは日米地位協定それ自体に内在する潜在的大事故なのであり、その危機をよく知っているからこそ一時的為替介入が容認されることも<あり得る>という対処法でしかないからである。

にもかかわらず実質増税するほかない日本政府は無能を通り越してもはやどうかしているとしか思えないわけだが。どれほど生活レベルを落としてみても低賃金ばかり続いている現状では、百円の商品購入に当たって、その実質的負担は三百円にも九百円にもなるわけで、購入したい商品であっても購入できない事態が続発し、とりわけ中小零細企業従業員は消費者としての立場からますます落ちこぼれていく。消滅する。中小零細が消滅すればたちまちそれまでは大企業従業員だった人々が今度は自動的に中小零細企業従業員の立場へ転落する。日本にとっては負のスパイラルかもしれないが資本主義にとっては順調な進行というほかない。このまま条件が変わらなければいずれ日本は先進国から叩き出されるだろう。だからといって社会補償(年金その他)を切り捨てることもできない。そもそも資本主義がロシア革命を消化できたのはなぜか。次のように資本主義が学んだからである。

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない。こうして、《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第三章・P.303~304」河出書房新社 一九八六年)

プルーストに戻ろう。といってもプルーストが言っていることとドゥルーズ=ガタリが言っていることとは、それほどかけ離れているとは言い難い。<或る価値体系>から<別の価値体系>へ移動する動作のうちに、そもそも価値変動が含まれる、ということ以外の何ものでもないからである。

「なぜなら田舎では、久しく会っていない人と出会ったり知らない人に紹介されたりするのが、パリで暮らしているときのように煩わしいことではなく、あまりにも世間から隔離されているせいで郵便の配達時刻さえ楽しみとなるような生活の空虚な広がりを心地よく中断してくれるからである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.342」岩波文庫 二〇一五年)

このような意味での場所移動。過剰接続は禁物。「心地よい切断」の重要性を読み取りたいと思う。

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