ソルボンヌ大学哲学教授ブリショ。「洗濯女」(女中・姉妹・娼婦の系列)に手を出して将来のキャリアの危機に陥っていることに気づかず、寸手のところをヴェルデュラン夫人に救われた名物教授だ。そのとき「はた」と我にかえったブリショはそれまで「洗濯女」に向けられていた性的欲望を撤収し、ヴェルデュラン夫人に置き換える。ほどなくカルト的レベルにまで執着する信仰にも似た熱烈なブリショの愛欲が嫌になった夫人はブリショに軽蔑を込めて軽くあしらうようになる。そこまでは前にも述べた。ところでブリショは後天的な目の病気を患っている。徐々に視力が失われていく症状で今やほとんど全盲に近い。先天的でなく後天的なケースでよく耳にすることはあるだろう。その内面は大変多くの場合、次のように進行する。
「そもそも病気が、本人からしだいに視力を奪うことによって、ブリショに視覚のありがたみを啓示したのだ。ある品物を手放すことに決めたとき、たとえばそれを贈りものにしようと決めたとき、はじめてわれわれはそれをしげしげと眺め、それを惜しみ、そのすばらしさを賞讃できるのと同様である」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.61」岩波文庫 二〇一五年)
だがヴェルデュラン夫人のサロンの常連だというだけのことで鼻高々の俗物ブリショに対する夫人の軽蔑とは別の立場に立つと、ブリショの目の病気の進行の様子はプルーストの次の文章におそろしく似て見える。
「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)
反復するのだ。第一の段階から第二の段階、さらに第三の段階へ。しかし注意しよう。まったく同一のものが反復するわけではない。同一のものは反復しない。或る生成変化の<時間>を経て次の段階に入ったと呼び得る症状が可視化されて始めて反復されたと言うことができる。生成変化に伴う「差異化」の出現が先立たねばならない。だから何かの出来事が反復される時、同一性が先か差異化が先かという問いについて、ここでは差異の側が先でありなおかつ差異を伴わなければ反復はないと言うことができる。
ヘーゲルは歴史的事件の反復について、同一のものは少なくとも一度は対立し合う両極に分裂しなければならず、両極に対立したもの同士の闘争を経て再び同一の全体性が出現するというのだが、ただしその際に出現する全体性は以前に同一であったものとはまるで異なる別の全体性となって反復すると述べている。ヘーゲル弁証法に従う限りそれはそれで正しい。だがヘーゲルは新しい全体性の出現のために差異の必要性を認めていながら、一方、差異については大急ぎで新しく出現した同一的全体性の中へ回収してしまう。そこにヘーゲルの保守性があからさまになっているわけだが、しかしヘーゲルが慌てて同一性を打ち立てているからといって、分裂の契機と差異性の必要不可欠性を覆い隠して弁証法の大いなる可能性を打ち消しているわけでは何らないし、弁証法の可能性自体は何一つ傷ついていない。むしろ歴史化するとはどういうことかを始めて世界の哲学史に刻み込んだ業績をもみ消してしまう必要などどこにもない。むしろヘーゲルの方法に内在する同一性への回帰優先的態度をニーチェの指摘にしたがって転倒させれば、そっくりそのまま、差異のないところにはどんな反復もなく、したがってどんな歴史もないということをヘーゲルは自分自身で語ってしまっているということがわかればそれで良いのである。
またもう一点。ニーチェの指摘によって明るみに出された生成変化的反復について、プルーストが恋愛について述べているかのように見えて、実のところ「欲望」について述べていることは、ニーチェだけでは説明しきれないか不十分な部分を含む。近代資本主義の登場とともに出現した<脱中心化>という現象がそうだ。この点に関してはマルクスから次の箇所が有効である。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)
さてようやく<私>が戻ってくる。というか、<私>はすべてを見ていた。プルーストのいつもの方法、要するに<私>はもとからその場にいたことが描かれる。読者は不意打たれる。「私は、そのとき突然」、とプルーストはいう。読者は昼寝から叩き起こされた気分で思わず手から本をすべり落としそうになる。で、「そのとき突然」どうしたのか。「小さなカジノのダンスホールでコタールから指摘されたことを想い出し、まるで目に見えない鎖で身体の一器官と想い出のイメージとがつながれたかのように、アンドレの乳房に自分の乳房を押しつけるアルベルチーヌのイメージが私の心に耐えがたい苦痛を与えた」。けれどもこの時の苦痛は「さほど長くはつづかなかった」。ドンシエールの駅でサン=ルーに会った時、アルベルチーヌがサン=ルーに例の馴れ馴れしい媚態を示したからである。「アルベルチーヌがほかの女たちと関係をもつことはもはやありえないと思われたからで、一昨日、私の恋人がサン=ルーに色目をつかったことでかき立てられた新たな嫉妬がそれ以前の嫉妬を忘れさせてくれたのだ」。なるほど「新たな嫉妬がそれ以前の嫉妬を忘れさせてくれた」には違いないが<私>はそれを異性愛の系列に編入できたことで、サン=ルーに対する嫉妬の強度を或る種の安堵が上回り、覆い隠すことができたのだ。何に安堵したか。「異性愛の嗜好があれば必然的に同性愛の嗜好は排除されるものと信じていた」という根拠のない安堵である。
「ところが、このよく知らない面々のおかげで最初から気がまぎれていた私は、そのとき突然、小さなカジノのダンスホールでコタールから指摘されたことを想い出し、まるで目に見えない鎖で身体の一器官と想い出のイメージとがつながれたかのように、アンドレの乳房に自分の乳房を押しつけるアルベルチーヌのイメージが私の心に耐えがたい苦痛を与えた。この苦痛はさほど長くはつづかなかった。アルベルチーヌがほかの女たちと関係をもつことはもはやありえないと思われたからで、一昨日、私の恋人がサン=ルーに色目をつかったことでかき立てられた新たな嫉妬がそれ以前の嫉妬を忘れさせてくれたのだ。私は多くのおめでたい人間と同じで、異性愛の嗜好があれば必然的に同性愛の嗜好は排除されるものと信じていたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.62~63」岩波文庫 二〇一五年)
しかしなぜ「目に見えない鎖で身体の一器官と想い出のイメージとがつながれたかのように、アンドレの乳房に自分の乳房を押しつけるアルベルチーヌのイメージが」スピノザのいうように不意に<私>を襲ったのか。
「もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう」(スピノザ「エチカ・上・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫 一九五一年)
滑稽この上ない身振りを繰り返す「このよく知らない面々のおかげで最初から気がまぎれていた」からに過ぎない。<私>の欲望が「そのとき突然」、切断されて新しい欲望へ再接続されたからである。ドゥルーズ=ガタリの言葉ではこうなる。
「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.146~147」河出書房新社 一九八六年)
欲望は「左翼の祭典なのではない」。とともに「右翼の祭典なのでもない」。むしろ考えたいのは、左右を問わず、事実上おそれているのは自分たち自身の「欲望」がありとあらゆるグローバルネットワークを通して制御しきれなくなる瞬間、一体誰が、あるいは何が、それを統制することができるのか、もはや予想不能に陥っていることから到来する得体の知れぬ<不安>に対してである。この<不安>は目に見えない。ゆえに人間はいつまで経っても落ち着くことができず、結果的に自分に対する脅威を<他者>に置き換えてますます<敵>を増殖させていくばかりで、いつまで経っても居眠り一つできない世界をまるで終わらない砂漠のように広げてしまっている。
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「そもそも病気が、本人からしだいに視力を奪うことによって、ブリショに視覚のありがたみを啓示したのだ。ある品物を手放すことに決めたとき、たとえばそれを贈りものにしようと決めたとき、はじめてわれわれはそれをしげしげと眺め、それを惜しみ、そのすばらしさを賞讃できるのと同様である」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.61」岩波文庫 二〇一五年)
だがヴェルデュラン夫人のサロンの常連だというだけのことで鼻高々の俗物ブリショに対する夫人の軽蔑とは別の立場に立つと、ブリショの目の病気の進行の様子はプルーストの次の文章におそろしく似て見える。
「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)
反復するのだ。第一の段階から第二の段階、さらに第三の段階へ。しかし注意しよう。まったく同一のものが反復するわけではない。同一のものは反復しない。或る生成変化の<時間>を経て次の段階に入ったと呼び得る症状が可視化されて始めて反復されたと言うことができる。生成変化に伴う「差異化」の出現が先立たねばならない。だから何かの出来事が反復される時、同一性が先か差異化が先かという問いについて、ここでは差異の側が先でありなおかつ差異を伴わなければ反復はないと言うことができる。
ヘーゲルは歴史的事件の反復について、同一のものは少なくとも一度は対立し合う両極に分裂しなければならず、両極に対立したもの同士の闘争を経て再び同一の全体性が出現するというのだが、ただしその際に出現する全体性は以前に同一であったものとはまるで異なる別の全体性となって反復すると述べている。ヘーゲル弁証法に従う限りそれはそれで正しい。だがヘーゲルは新しい全体性の出現のために差異の必要性を認めていながら、一方、差異については大急ぎで新しく出現した同一的全体性の中へ回収してしまう。そこにヘーゲルの保守性があからさまになっているわけだが、しかしヘーゲルが慌てて同一性を打ち立てているからといって、分裂の契機と差異性の必要不可欠性を覆い隠して弁証法の大いなる可能性を打ち消しているわけでは何らないし、弁証法の可能性自体は何一つ傷ついていない。むしろ歴史化するとはどういうことかを始めて世界の哲学史に刻み込んだ業績をもみ消してしまう必要などどこにもない。むしろヘーゲルの方法に内在する同一性への回帰優先的態度をニーチェの指摘にしたがって転倒させれば、そっくりそのまま、差異のないところにはどんな反復もなく、したがってどんな歴史もないということをヘーゲルは自分自身で語ってしまっているということがわかればそれで良いのである。
またもう一点。ニーチェの指摘によって明るみに出された生成変化的反復について、プルーストが恋愛について述べているかのように見えて、実のところ「欲望」について述べていることは、ニーチェだけでは説明しきれないか不十分な部分を含む。近代資本主義の登場とともに出現した<脱中心化>という現象がそうだ。この点に関してはマルクスから次の箇所が有効である。
「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)
ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)
さてようやく<私>が戻ってくる。というか、<私>はすべてを見ていた。プルーストのいつもの方法、要するに<私>はもとからその場にいたことが描かれる。読者は不意打たれる。「私は、そのとき突然」、とプルーストはいう。読者は昼寝から叩き起こされた気分で思わず手から本をすべり落としそうになる。で、「そのとき突然」どうしたのか。「小さなカジノのダンスホールでコタールから指摘されたことを想い出し、まるで目に見えない鎖で身体の一器官と想い出のイメージとがつながれたかのように、アンドレの乳房に自分の乳房を押しつけるアルベルチーヌのイメージが私の心に耐えがたい苦痛を与えた」。けれどもこの時の苦痛は「さほど長くはつづかなかった」。ドンシエールの駅でサン=ルーに会った時、アルベルチーヌがサン=ルーに例の馴れ馴れしい媚態を示したからである。「アルベルチーヌがほかの女たちと関係をもつことはもはやありえないと思われたからで、一昨日、私の恋人がサン=ルーに色目をつかったことでかき立てられた新たな嫉妬がそれ以前の嫉妬を忘れさせてくれたのだ」。なるほど「新たな嫉妬がそれ以前の嫉妬を忘れさせてくれた」には違いないが<私>はそれを異性愛の系列に編入できたことで、サン=ルーに対する嫉妬の強度を或る種の安堵が上回り、覆い隠すことができたのだ。何に安堵したか。「異性愛の嗜好があれば必然的に同性愛の嗜好は排除されるものと信じていた」という根拠のない安堵である。
「ところが、このよく知らない面々のおかげで最初から気がまぎれていた私は、そのとき突然、小さなカジノのダンスホールでコタールから指摘されたことを想い出し、まるで目に見えない鎖で身体の一器官と想い出のイメージとがつながれたかのように、アンドレの乳房に自分の乳房を押しつけるアルベルチーヌのイメージが私の心に耐えがたい苦痛を与えた。この苦痛はさほど長くはつづかなかった。アルベルチーヌがほかの女たちと関係をもつことはもはやありえないと思われたからで、一昨日、私の恋人がサン=ルーに色目をつかったことでかき立てられた新たな嫉妬がそれ以前の嫉妬を忘れさせてくれたのだ。私は多くのおめでたい人間と同じで、異性愛の嗜好があれば必然的に同性愛の嗜好は排除されるものと信じていたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.62~63」岩波文庫 二〇一五年)
しかしなぜ「目に見えない鎖で身体の一器官と想い出のイメージとがつながれたかのように、アンドレの乳房に自分の乳房を押しつけるアルベルチーヌのイメージが」スピノザのいうように不意に<私>を襲ったのか。
「もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう」(スピノザ「エチカ・上・第二部・定理一八・P.122」岩波文庫 一九五一年)
滑稽この上ない身振りを繰り返す「このよく知らない面々のおかげで最初から気がまぎれていた」からに過ぎない。<私>の欲望が「そのとき突然」、切断されて新しい欲望へ再接続されたからである。ドゥルーズ=ガタリの言葉ではこうなる。
「いくたの革命家がどう考えているにしろ、欲望はその本質において革命的なのである。ーーー革命的であるのは欲望であって、左翼の祭典なのではない。ーーーいかなる社会といえども、真に欲望の定立を許すときには、搾取、隷属、位階秩序の諸構造は必ず危険にさらされることになるのだ。(愉快な仮定であるが)、ひとつの社会がこれらの諸構造と一体をなすものであれば、そのときには、そうだ、欲望は本質的にこの社会を脅かすことになるのだ。だから、欲望を抑制し、さらにはこの抑制よりももっと有効なるものをさえ見つけだして、ついには抑制、位階秩序、搾取、隷属といったものそのものをも欲望させるようにすることが、社会にとってはその死活にかかわる重大事となるのである。次のような初歩的なことまでも語らなければならないとは、全く腹立たしいことである。欲望が社会を脅かすのは、それが母と寝ることを欲するからではなくて、それが革命的であるからである、といったことまでも語らなければならないとは。このことが意味していることは、欲望が性欲とは別のものであるということではなくて、性欲と愛とがオイディプスの寝室の中では生きていないということである。むしろ、この両者は、もっと広い外海を夢みて、規制秩序の中にはストック〔貯蔵〕されない異質な種々の流れを移動させるものなのである。欲望は革命を『欲する』のではない。欲望は、それ自身において、いわば意識することなく、自分の欲するものを欲することによって革命的なのである」(ドゥルーズ=ガタリ「アンチ・オイディプス・第二章・P.146~147」河出書房新社 一九八六年)
欲望は「左翼の祭典なのではない」。とともに「右翼の祭典なのでもない」。むしろ考えたいのは、左右を問わず、事実上おそれているのは自分たち自身の「欲望」がありとあらゆるグローバルネットワークを通して制御しきれなくなる瞬間、一体誰が、あるいは何が、それを統制することができるのか、もはや予想不能に陥っていることから到来する得体の知れぬ<不安>に対してである。この<不安>は目に見えない。ゆえに人間はいつまで経っても落ち着くことができず、結果的に自分に対する脅威を<他者>に置き換えてますます<敵>を増殖させていくばかりで、いつまで経っても居眠り一つできない世界をまるで終わらない砂漠のように広げてしまっている。
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