白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・ヴェルデュラン夫人のサロンを離れたエルスチール/シャルリュスの「笑い」

2022年09月16日 | 日記・エッセイ・コラム
エルスチールはかつてヴェルデュラン夫人のサロンの一員だった。今やそうではない。エルスチールの恋愛関係がどれほど奔放であってもヴェルデュラン夫人がそう簡単にエルスチールを手放すようなことはなかっただろう。重大問題に映って見えているのはヴェルデュラン夫人のスノッブ的野望からみて望ましくない女性とばかり関係を持つエルスチールの振る舞いに対してである。エルスチールが自ら進んで関係を持ちたがる女性、そして遂に夫婦になった女性とはどんな女性なのか。「相手の女はどれもこれも当否はともかくヴェルデュラン夫人に言わせると『おつむの弱い女』」。エルスチールの愛称は「ティッシュ」。ヴェルデュラン夫人は立て続けにまくし立てる。「これだけははっきり申しあげなくてはなりません、わたくしどもの《ティッシュ》はなかんずく《ばかの骨頂》だったと」。

「エルスチールは、小集団の一員であったときでも、ひとりの女と何日もつづけてすごすことがあり、相手の女はどれもこれも当否はともかくヴェルデュラン夫人に言わせると『おつむの弱い女』で、そんなことは聡明な男のすることではないと夫人は考えていたからである。『でも』と夫人は、いかにも公平を期しているような顔をして言った、『あのふたりは似た者同士の夫婦だと思います。そりゃ、あんた退屈な女にはついぞお目にかかったことはございませんし、あんな女と二時間もすごさくてはならないとしたら気が変になるでしょう。でもうわさではエルスチールは、その女のことを頭がいいと考えているとか。ですからこれだけははっきり申しあげなくてはなりません、わたくしどもの《ティッシュ》はなかんずく《ばかの骨頂》だったと。あの人ったら、この目でしかと確認しましたが、みなさんには想像もつかないような女や、わたくしどもの小派閥にはとうてい受け入れられないほど愚かな女に、つぎつぎ夢中になりました。あげくの果てに、そんな女に手紙を書いたり、そんな女を相手に議論したりするんです、あのエルスチールがですよ!それでもあの人には、いろいろ魅力的な面があります。そりゃ魅力的ですよ、魅力的といっても、言うまでもなく、なんともばかばかしいものですけれど』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.209~210」岩波文庫 二〇一五年)

ヴェルデュラン夫人の言葉だけを読んでいるとヴェルデュラン夫人のサロンの側からエルスチールを排除したかのように見える。ところが実際は逆で、エルスチールの側がもはやヴェルデュラン夫人のサロンに魅力を感じなくなるとともに見切り見捨てたというのが真相。プルーストはエルスチールのようなタイプの男性について、あえて擁護するわけではなく非難するわけでもなく、次のように述べている。

「よくもあんな女を愛するものだと人が不思議に思うような凡庸な女のほうが、聡明な女よりも、その男たちの世界をはるかに豊かにする。男たちは女の発言のひとつひとつの背後に嘘を嗅ぎつけ、女が行ったというどんな家の背後にもべつの家を、どんな行動やどんな人の背後にもべつの行動やべつの人を嗅ぎつける。おそらくその男たちは、どれがほんとうの家や行動や人なのか知らないし、それを知るまで奮起する気力も、知りうる可能性も持たないだろう。嘘つきの女は、じつに簡単な手口で、その手口を変える手間をかけずとも大勢の人間をだますことができるし、そのうえ、その手口を見抜けるはずの同じ人間を何度もだますことさえできる。これらすべてが感じやすい聡明な男たちの眼前にきわめて奥深い世界をつくりだすので、男たちの嫉妬心はその深さを測ってみたくなり、男たちの知性はその深さに興味をそそられずにはいないのである」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.437~438」岩波文庫 二〇一七年)

しかしこの文章はプルースト独自の心理学について述べられたものではない。むしろプルーストは心理学について何一つ述べていないに等しい。例えば「男たちは女の発言のひとつひとつの背後に嘘を嗅ぎつけ、女が行ったというどんな家の背後にもべつの家を、どんな行動やどんな人の背後にもべつの行動やべつの人を嗅ぎつける」とある箇所。プルーストが言及しているのは「発言のひとつひとつの背後にも」とか「女が行ったというどんな家の背後にも」とか「どんな行動やどんな人の背後にもべつの行動やべつの人を嗅ぎつける」とかいった、今でいうストーカー的行動様式ではなく、或る身振り(言語)が別の身振り(言語)を次々と増殖させずにはおかない記号論的コノテーションの不可避性についてである。それがストーカー的行動様式に見えるのは心理学というカテゴリーに捕われているからそう見えるほかないのであって、なおかつストーカー的行動様式を論じるにしても、いったん心理学というステレオタイプ(紋切型)なカテゴリーから切り離し、記号論的コノテーションの無限増殖性として置き換え直してみる必要性があるに違いない。

ヴェルデュラン夫人が「《ばかの骨頂》」と言っている点についてプルーストは「愚行」にしても「長い時間を経てようやくあらわれる異常」にしても「そもそも奇行に走らない魅力的な人などほとんど存在しない」と述べる。ということはそのタイプの人々はあちこちにいるということを言っているだけではなくて、一人の人間の中にさえ<愚行・異常・奇行・魅力>がどれほど密集しているか、たった一人の人間の中にどれほど多様な人格が混在しているか、誰にもわからないと言っていることに注目したいと思う。

「ヴェルデュラン夫人がそんなことを言ったのは、真に優れた人間はいくらでもばかげたことをするものだと確信していたからである。これは間違った考えであるが、とはいえ一面の真理を含んでいる。人間の『愚行』はたしかに堪えがたいものである。しかし長い時間を経てようやくあらわれる異常というものは、人間の頭脳のなかに人間には不向きなきわめて微妙な考えがはいりこんだ結果なのである。それゆえ魅力的な人たちの奇行にわれわれは憤慨するが、そもそも奇行に走らない魅力的な人などほとんど存在しないのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.210~211」岩波文庫 二〇一五年)

ところでこの場にシャルリュスが同席いることを忘れてはいけない。シャルリュスの「笑い」にはおそらく数えきれないほど多くの女性の内在が見てとれる。次のように。

「それは氏独特の笑いであった。それはおそらくバイエルンなりロレーヌなりの祖母から受け継いだ笑いで、その祖母も同じ祖先の女性から受け継いでいたので、ヨーロッパのあちこちの古い小宮廷では何世紀にもわたり変わらぬ笑い声が同じように響いて、人びとはその声の貴重な特徴を、めったにお目にかかれないある種の古楽器の特徴のように味わうことができたはずである。ある人物の全体像を余すところなく描くには、そのすがたの描写に加えて声の模写が必要になるはずで、この繊細にして軽やかな小さな笑い声を欠いてはシャルリュス氏という人物の描写は不完全になりかねない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.213」岩波文庫 二〇一五年)

少なくとも祖母から始まっている。さらに詳細を期するためにはシャルリュスの声について描写されねばならないとある。ではシャルリュスの声とはどのような声か。

「氏の声そのものが、このような微妙な考えを表明するときには高音となり、中音域を充分に鍛えていないために青年と女が交互に歌う二重唱のように聞こえるコントラルトの声に似て、許嫁(いいなづけ)の娘たちや修道女たちの合唱隊を内にふくむ意外なやさしさを帯びるがゆえの愛情がにじみ出るように思われた。とはいえ自分の声のなかにこんなふうに若い娘の一団を宿していると聞こえることは、あらゆる女性化に怖じけづくシャルリュス氏にとっては、どんなに遺憾なことだったであろう。しかもこの娘たちの一団は、感情にまつわる曲目を演奏したり転調したりするときにあらわれるだけではない。シャルリュス氏が話しているあいだ頻繁に聞こえてくるのは、寄宿舎の女生徒やコケットな娘の一団の甲高(かんだか)く無邪気な笑いで、それが悪意にみちた歯に衣(きぬ)着せぬ抜け目のないもの言いによって、そばにいる氏の声を調整してしまうのである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.271」岩波文庫 二〇一二年)

とりわけ「笑い方」に特徴が出やすいようだ。祖先の女性、少なくともシャルリュスの知る祖母はもとより、「寄宿舎の女生徒やコケットな娘の一団の甲高(かんだか)く無邪気な笑い」まで、見たり聞いたり出会ったりしてきた女性のほぼ全員が内在化されていると言わねばならない。とすればたった一人のシャルリュスの中に一体どれほど多くの、おそらく無数の、多様性に満ちた女性がいるのか。プルーストの問いかけはそういうことではないだろうか。

BGM1

BGM2

BGM3