白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・シャルリュスの身体に内在化された無数の少女たち/「エルスチールが教えてくれていたダルヌタルの岩礁」について「それはここからは見えません」の両義的意味

2022年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
シャルリュスの人格の多様性について。次の箇所を例に取ろう。比較的大きく描かれている「氏のうつむき加減の顔には」以下の文章に目を通すと特に「マルサント夫人」(シャルリュスの姉)の影響ばかりが<内的女性としての>シャルリュスの態度の大半を育んできたかのように見える。だが桁外れに重要なのはそのすぐ前の箇所。「いままで暮らしてきた社交界で」身につけた「愛想のよさを示すさまざまなやりかたや手のこんだ表現はもとより」、もはや前提として「いそいそと科(しな)をつくると、まるで膨らんだペチコートで歩きにくいとでも言いたげに身体をゆったり揺らしながら、よちよちとヴェルデュラン夫人のほうへ進み出たが、その嬉しそうないかにも光栄と言わんばかりの表情」とある中で、最も注目すべきフレーズ「よちよちと」でなければならない。そこで始めてシャルリュスの身体に内在化されているのは「マルサント夫人」(シャルリュスの姉)どころではなく、「いままで暮らしてきた社交界で」<出会った>ありとあらゆる女性たち、なかでも「よちよちと」に代表される無数の少女たちの身振り(言語)が幼少期からすでにどんどん摂取されてきたと、プルーストはあっけなく<暴露>している。

「シャルリュス氏はというと、こうした重大な局面でも、いままで暮らしてきた社交界で、愛想のよさを示すさまざまなやりかたや手のこんだ表現はもとより、たとえ相手がただのプチ・ブルジョワであっても然るべきときには普段は秘蔵しているとっておきの厚情をおもてに出して役立てるすべも心得ているべきという行動指針を学んでいたので、いそいそと科(しな)をつくると、まるで膨らんだペチコートで歩きにくいとでも言いたげに身体をゆったり揺らしながら、よちよちとヴェルデュラン夫人のほうへ進み出たが、その嬉しそうないかにも光栄と言わんばかりの表情は、夫人のサロンに招待してもらえるのはこのうえない名誉だと思っているように見えた。氏のうつむき加減の顔には、満足感と礼儀正しさとが張り合い、愛想のいい笑みで小皺(こじわ)がよっている。まるでマルサント夫人が歩いてきたかと思われるほど、自然がシャルリュス氏の身体のなかに間違って入れこんだ女性のすがたが、そのとき如実に表に出ていた。もとより男爵は、この間違いを苦心惨憺して覆い隠し、男らしい外見を装ってはいた。しかし首尾よくそうできたと思っても、一方で男爵は同じ嗜好を保ちつづけていたから、ものごとを女として感じとる習性によって今度はあらたに女らしい外見を身につけ、こちらの外見は遺伝ゆえに生じたものではなっく、男爵個人の暮らしから生じたものであった。そして男爵は、社交上のつき合いさえすこしずつ女性ふうに考えるようになり、他人に嘘をつきすぎたからではなく自分自身に嘘をつきすぎたがゆえに、自分が嘘をついていることに気づかなくなるのと同じで、自分では女性化していることに気がつかず、本人としては(ヴェルデュラン家にはいってきたとき)大貴族の粋な男として礼儀正しさを自分の身体に余すところなく表現させたいと願ったにもかかわらず、シャルリュス氏がもはや理解できなくなったことを充分に理解している身体のほうは、《レディー・ライク》という形容がふさわしくなるほど男爵に大貴婦人の魅力をことごとく開陳させたのである。息子はかならずしも父親に似るわけではなく、たとえ倒錯者ではなく女を追いまわす男の場合でも息子というものは自分の顔によって母親の冒瀆を完成するという事実と、このようなシャルリュス氏の風貌とは、そもそも完全に切り離せるものだろうか?」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.133~135」岩波文庫 二〇一五年)

もはや無意識のうちにシャルリュスが自分の全身で演じた動作は、シャルリュスがヴェルデュラン夫人の前で見せた「風貌」がほかならぬ男性同性愛者のもの以外の何ものでもないということだけでなく、異性愛者の場合と同様、「息子というものは自分の顔によって母親の冒瀆を完成するという事実」という観点から見て「そもそも完全に切り離せるものだろうか?」とするプルースト特有の<冒瀆>のテーマをも浮上させて憚らない。

さらにシャルリュスの変身とほぼ同時に行われたモレルの変身については次の一節。モレルの変身はシャルリュスとともに出現した時点で同性愛的変身を示唆しているものの、晩餐会の場では第一に階級的変身という形を取る。確かにかつてモレルの父親は<私>の大叔父の従僕という屈辱的地位にあった。とはいえそれはもはや過去のことであってモレル自身はもう独立して軍楽隊に属している。従僕階級とは何の関係もない。ところが<私>と二人きりで言葉を交わす合間ができた瞬間、とっさに<私>=「旦那さま」、したがって「モレル=従僕の息子」と言葉遣いを置き換えて旧階級時代の関係を復活させる。

「『ヴェルデュラン夫人とご招待客のみなさまには、私の父が旦那さまの叔父さまのところでどのような仕事をしていたかは内密にしていただきたいのです。できれば旦那さまには、父は旦那さまご一家の広大なお屋敷の執事で、それゆえご両親さまとほぼ対等の者であったと言っていただけると幸いです』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.136~137」岩波文庫 二〇一五年)

<私>が請け合うやモレルはもう晩餐会の輪の中へ入り直し、ヴェルデュラン夫妻の招待客たちと交わり、熱心に親交を深めている。それは自分の過去の出自を隠蔽し新しい世界で成り上がっていこうとする俗物の態度と何ら変わらない。しかし、このようなほんの瞬間的なやりとりをわざわざプルーストが描いているのは、作家としてできる限り事情を丁寧に描こうしたというわけではないと考えないと説明がつかない。プルーストが言っていること。それは作品にある文字通り、言葉遣いを置き換えて旧階級時代の関係を復活させることはいつでも可能であり、次の瞬間にはもう一度言葉遣いを置き換えて新階級時代の関係と再接続させることもまたいつでも可能であるという、記号論的世界のありようなのだ。

そのことと関係しないようで実は深く関係しているやりとりが見える。さらにもう少し前の箇所でヴェルデュラン夫人が口にした重大な事実について引いておこう。

「私は、昂奮のあまり容易には満足せず、この時刻には虹色に映えてみごとな眺めだとエルスチールが教えてくれていたダルヌタルの岩礁がサロンから見えないのは残念だと言った。『ああ、それはここからは見えません。庭の端の<湾の眺望>までいらっしゃらなくては』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.128」岩波文庫 二〇一五年)

ヴェルデュラン夫人はいう。「エルスチールが教えてくれていたダルヌタルの岩礁」について「それはここからは見えません」。逆に場所を変えれば見えるところがあるということは前提であってもはや語られていない。ただ単に地理的場所移動したからといって「ダルヌタルの岩礁」をエルスチールが見るように<私>にも見えると考えるのは甚だしい勘違いである。ヴェルデュラン夫人はあくまで地理的場所移動してまで見に行く必要は今日でなくても構わないという単純な意味でしか述べていない。にもかかわらず「それはここからは見えません」という言葉が重要になるのはヴェルデュラン夫人にとってではなく<私>にとってでもなくプルーストが何度か触れてきたように、エルスチールが見るように「ダルヌタルの岩礁」を見ようとすれば、必要になるのは、画家エルスチールが獲得した<別の価値体系>への場所移動であって地理的場所移動などではまるでないという条件においてだ。

エルスチールのアトリエはバルベックの中心部ではなく郊外の森の中にあった。周囲の人々からは「変わり者・変人」として遠ざけられていた。孤立無縁に等しい環境に自ら進んで身を置いていた。世間の<習慣・因習>に侵食されたままでは何を見たとしても何一つ自分の感性で捉えることは不可能だといち早く見抜いていたからである。なお、エルスチールのモデル的人物の一人として上げられるモネだが、その連作「エトルタの断崖」は、以前から誰もが見ていたにもかかわらずまるで見えてはいなかった風景を絵画という方法で出現させプルーストを驚嘆させたことはプルースト自身の書簡からも伺える。

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Blog21・晩餐会直前、同性愛と地政学

2022年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
これまでヴェルデュラン夫妻の晩餐会でピアニストを務めてきたドシャンブルが死亡した。だがヴェルデュラン夫人はすでに先を見越していたのかたちまち今後の代役を見つけてきていた。晩餐会というにふさわしいプログラム設定のためには是が非でも音楽の時間を省略するわけにはいかないからだ。今度はピアニストではなくヴァイオリン奏者だという。名前はモレル。ドンシエール駐屯地の音楽隊所属。ということは<私>の大叔父の従僕だった男性の息子モレルにほかならない。さらにモレルはシャルリュス男爵というゲルマント家の貴族と一緒にやって来るという。瞬時に事情を察した<私>だが、どうなるともなんとも言わず、途端に慌ただしく騒ぎ出した周囲の話に耳を傾けておくことにする。なおシャルリュスに関する情報の違いについて、パリの大貴族たちの集結地フォーブール・サン=ジェルマンでの受け止め方と田舎のノルマンディー地方での受け止め方の違いがまるで逆転していることをプルーストはあらかじめこう述べている。

「シャルリュス氏を知らぬ者とてないフォーブール・サン=ジェルマンでは氏の習癖はけっして話題にならなかったが(そもそも大多数の人士はそれを知らず、ほかの人たちは疑念を覚えても、友情にしては度を越しているがプラトニックなもので、軽率だったのだろうと思い、真相を知る少数の人士はそれをひた隠しにして、ガラルドン夫人のような意地の悪い女がそれをほのめかしても肩をすくめるだけであった)、そんな少数の親しい者しか知らぬ習癖が、男爵の暮らす環境から遠く離れたところでは、話題にならぬどころか毎日のように物議を醸していたのである。それは、ある種の大砲の音が、なにも聞こえぬ干渉地帯を介して、はじめて聞こえるようなものだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.122~123」岩波文庫 二〇一五年)

ゆえにノルマンディー地方の社交界では次のような馬鹿げた事態が多発する。

「ほんとうの事実(男爵の性癖)をめぐる注釈の間違いをことさらに助長したのは、男爵のきわめて親しい友人であるがまったく肉体関係のないある作家が、そんな評判とはまるで無縁な人間だったのに、なぜかわからないが演劇界ではその種の評判を立てられていたことである。世間の人びとは、なにかの公演の初日に男爵とその作家がいっしょにいるのを見ると『ほらね』と言いあった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.124」岩波文庫 二〇一五年)

さらにノルマンディー地方の社交界では「ゲルマント公爵夫人はパルム大公妃と背徳的関係を結んでいる」という根も葉もない「伝説」が消え失せず逆に生き生きと生き延びていた。その仕組みはこうだ。

「それと同様に人びとは、ゲルマント公爵夫人はパルム大公妃と背徳的関係を結んでいると信じていた。これまた払拭しがたい伝説で、こんな伝説はふたりの貴婦人と身近に接していればたちどころに消え失せるのだが、その伝説を言いふらす人たちがこの貴婦人たちに近づけるのは、いかんせん劇場でオペラグラスを通してそのすがたを眺め、隣の席の予約客にその悪口を言うときだけなのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.124」岩波文庫 二〇一五年)

とはいえ地方の社交界の事実がパリ中心部の上流社交界に入ってくることはあってもまともに相手にされない。その違いは往年の大貴族たちが新興ブルジョワ階級をまともに相手にしないのとよく似ている。しかしこうした相互作用が何度も繰り返されるたびに結局のところ、れっきとした事実が単なる噂として、単なる噂がれっきとした事実として流通し合うことになり、双方ともにどこまでが事実であってどこからが事実でないか、そしてまた事実であるとしても関係の深さという観点から見るともはやさっぱりという状況を呈するようになっていた。今では到底考えられないいい加減さだ。そこにさらに、もはや新興ブルジョワ階級とは言えない大ブルジョワ階級とヨーロッパ帝国主義諸国家との鉄の結束が入ってきて第一次世界大戦を準備し始めてもいる。

「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫 一九七二年)

シャルリュスにとってヴェルデュラン家のサロンは社交界のうちに入っていない。勝手が違いすぎるためパリの上流社交界での振る舞いをつい忘れて逆に緊張してしまう。その身振りは「むしろ悪所に出かけることだったから、ひどく怖じけづいていた。はじめて娼家に足を踏みいれた中学生が、女将(パトロンヌ)にひどく敬意を払うようなものである」。そんな時、シャルリュスに限らず「無意識」が露出してしまい、こんな身振りを自己暴露してしまう。「貴族であろうとブルジョワであろうと、シャルリュスと同類の男の心に、こうした見ず知らずの人たちにたいする本能的な先祖返りの礼儀作法がはたらくときは、つねに女性の親戚の心が、女神のように補佐役となったり分身のように内部にとり憑いたりしてその男を支え、新たなサロンへと導き、一家の女主人のところへたどり着かせるまでのその男の態度をつくりあげる役目を担うのである」。

「シャルリュス氏からすると、ヴェルデュラン家の晩餐会に出るのは、ちっとも社交界に顔を出すことにはならず、むしろ悪所に出かけることだったから、ひどく怖じけづいていた。はじめて娼家に足を踏みいれた中学生が、女将(パトロンヌ)にひどく敬意を払うようなものである。それゆえ男っぽく冷淡に見せようとするシャルリュス氏のふだんの欲望は、(ドアが開かれて氏が登場したとき)伝統的な礼儀作法によって抑圧されてしまった。おどおどしていつもの態度をとりつくろう余裕がなく、つい無意識の手立てにすがると、そんな礼儀作法が目を醒ますのだ。貴族であろうとブルジョワであろうと、シャルリュスと同類の男の心に、こうした見ず知らずの人たちにたいする本能的な先祖返りの礼儀作法がはたらくときは、つねに女性の親戚の心が、女神のように補佐役となったり分身のように内部にとり憑いたりしてその男を支え、新たなサロンへと導き、一家の女主人のところへたどり着かせるまでのその男の態度をつくりあげる役目を担うのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.131~132」岩波文庫 二〇一五年)

そっくりの場面はすでに述べた。シャルリュスがジュピアンの前で見せ、<私>が<覗き見>したシーン。

「まばゆい日射しに目をしばたたく氏は、微笑んでいるようにも感じられ、こうして眺められた氏のくつろいだ自然な顔は愛情あふれる無防備なものに見えたから、もし人に見られていると知ったらシャルリュス氏はどれほど腹を立てただろうと考えないではいられなかった。というのも、あれほど男らしさに憧れ、おのが男らしさを鼻にかけていたこの男が私に想像させたもの、猫も杓子(しゃくし)も女みたいになよなよして耐えがたいと嘆いていたこの男がふと私に連想させたもの、その顔つきや表情や微笑みが一時的にかいま見せたもの、それはひとりの女だったからだ!」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・一・P.27」岩波文庫 二〇一五年)

だがシャルリュスの人格の特徴はただ単に内面に「ひとりの女」がいるということだけだろうか。本当に<一人だけ>だと言えるだろうか。まったく言えないどころかもっと無数の女性が入れ換わり立ち換わりしている。その点については次回に述べよう。

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