白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「稲妻」としてのシャルリュス/自動車の出現と「風景」の変容

2022年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
シャルリュスが情愛の高まりを抑えきれず給仕頭のエメに宛てた手紙の一節。

「『拝啓。小生に招かれ挨拶されんと躍起になるもついぞかなわぬ多くの輩が目にすればさぞや腰を抜かすほどに、小生としては粉骨砕身したにもかかわらず、若干の説明を貴下の耳に入れるには至らず。説明と申しても、もとより貴下からさように頼まれた筋合いのものではなく、小生ならびに貴下の尊厳からしてこれを欠くべからざるものと信じたがゆえにほかならぬ』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.322」岩波文庫 二〇一五年)

日本で言えばあたかも森鷗外「舞姫」を思わせる文体であって、手紙を受け取ったエメには何のことかさっぱり理解できない。

「石炭をば早(は)や積み果てつ。中等室の卓(つくえ)のほとりはいと静にて、熾熱燈(しねつとう)の光の晴れがましきも徒(いたずら)なり。今宵(こよい)は夜毎(よごと)にここに集ひ来る骨牌(カルタ)仲間も『ホテル』に宿りて、舟に残れるは余(よ)一人のみなれば」(「舞姫」『森鷗外全集1・P.7』ちくま文庫 一九九五年)

何がシャルリュスにこのような手紙を書かせたか。プルーストはいう。

「この手紙は、そうした情念の奔流の秘める感知はできずとも強烈きわまりない力の、シャルリュス氏の愛情がいわば反社会的なものであるがゆえになおのこと際立つ恰好の一例であり、恋する男はまるで遊泳者のようにその奔流に気づかないうちに押し流され、あっという間に陸地を見失うのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.326」岩波文庫 二〇一五年)

同性愛者があちこちに溢れていたにもかかわらず「反社会的」とされていた当時、むしろそれゆえかえって「情念の奔流の秘める感知はできずとも強烈きわまりない力」となってシャルリュスを突き動かさずにはいられない<力>。それは「稲妻」とは何かと問う時に人間が犯す錯覚に似ている。ニーチェはいう。

「あたかも一般人が稲妻をその閃きから引き離し、閃きを稲妻と呼ばれる一つの主体の《作用》と考え、活動と考えるのと同じく、民衆道徳もまた強さを強さの現われから分離して、《自由に》強さを現わしたり現わさなかったりする無記な基体が強者の背後に存在しでもするかのように考えるのだ。しかしそういう基体はどこにも存在しない。作用・活動・生成の背後には何らの『存在』もない。『作用者』とは、単に想像によって作用に附け加えられたものにすぎないーーー作用が一切なのだ。実際を言えば、一般人は稲妻をして閃めかしめるが、これは作用を重複させるのだ。それは作用=作用とも言うべきものであって、同一の事象をまず原因として立て、次にもう一度それの結果として立てるのだ。自然科学者たちは、『力は動かす、力は原因になる』などと言うが、これもより勝れた言い表わしではない。ーーーあらゆる彼らの冷静さ、感情からの自由にも拘らず、現今の科学全体はなお言語の誘惑に引きずられており、『主体』という魔の取り換え児の迷信から脱却していない」(ニーチェ「道徳の系譜・第一論文・一三・P.47~48」岩波文庫 一九四〇年)

あるいは「誰か?」という問いが突然ありもしない主体を捏造させてしまうような場合。

「快を感ずるのは《誰か》?ーーー権力を意欲するのは《誰か》?ーーー不合理きわまる問い!生物自身が権力意志であり、したがって快・不快を感ずるはたらきであるとすれば!」(ニーチェ「権力への意志・下・六九三・P.219」ちくま学芸文庫 一九九三年)

その頃<私>はアルベルチーヌとの散策を再開させていた。アルベルチーヌが女友だちと一団となって一挙に出現するような時期はもう過ぎ去り、それぞれ地方鉄道の沿線に散らばって過ごす時間が多く、<私>が警戒すべき女性たちは一時的に不在になりがちだった。しかしバルベックへの沿線各地で見かける風景を眺めながらアルベルチーヌは次のようにつぶやく。

「『困ったわ、自然って融通がきかないのね。サン=ジャン=ド=ラ=エーズをこっち側に配置して、ラ・ラスプリエールを反対のあっち側に配置するんだもの、これじゃあ、どっちか選んだほうに一日じゅう足止めされちゃうでしょ』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.330」岩波文庫 二〇一五年)

すでにアルベルチーヌがトランス(横断的)性愛者であることを知っている読者は、この「これじゃあ、どっちか選んだほうに一日じゅう足止めされちゃう」という言葉がアルベルチーヌの非難の身振りだと気づかないでいられようか。横断的でない融通の利かなさ。風習・因習で固定された頑固さ。それがアルベルチーヌには耐え難い。ところが<私>はただ単に他の女友だちからアルベルチーヌを遠ざけておけばいいとばかり考えている。間抜けといえば言える。<私>はアルベルチーヌを喜ばせようと自動車を手配してやる。すると「サン=ジャン=ド=ラ=エーズをこっち側に配置して、ラ・ラスプリエールを反対のあっち側に配置」されているため一日では横断できないという不自由さは解消され地理的困難は一気に無効化するだろう。それに伴って出現する芸術的変容についてプルーストはこう述べる。自動車を手に入れた立場とそうでない立場との違い(差異)について、「ある村とはまるで別世界に存在すると思われたべつの村も、距離が一変した風景のなかでは隣村になる」。

「私たちがそれを納得したのは、自動車が走りだして、駿馬(しゅんめ)でも二十歩はかかるところを一足飛びに踏破したときである。距離というものは、空間がつくる時間との関係にほかならず、その関係によって変化する。ある場所へ行くのがどれほど困難であるかを、われわれは何里も何キロも要すると表現しているが、そうした表現はその困難が減少したとたんに絵空ごとになる。それによって芸術も変更を余儀なくされる。というのも、ある村とはまるで別世界に存在すると思われたべつの村も、距離が一変した風景のなかでは隣村になるからだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.332~333」岩波文庫 二〇一五年)

またプルーストは、(1)旧弊に甘んじているカンブルメール家の人たちと、(2)新興ブルジョワ階級として猛然と貴族階級を追い上げ追い抜こうとしているヴェルデュラン夫妻の行動力の違いを比較して、次のように論じる。

(1)「カンブルメール家の人たちは、惰性ゆえか、想像力の欠如ゆえか、身近すぎて月並みに見える土地にたいする無頓着ゆえが、外出するとなるといつも同じ場所へ、しかも同じ道を通って行くのだった。カンブルメール家の人たちは、自分たちの土地のことを教えてやると言わんばかりのヴェルデュラン夫妻の思いあがりをたしかに一笑に付していた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.336」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「それにひきかえヴェルデュラン氏は、ほかの人ならおそらく二の足を踏むような場所にまで私たちを案内して、たとえ私有地であっても放置されていれば柵をはずしたり、馬車が通れない小径であれば車を降りて歩いたりして、それだけの手間をかけた代償としてかならず絶景を見せてくれた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.336~337」岩波文庫 二〇一五年)

だからといってヴェルデュラン家の財力が問題なのではない。財力でいえばむしろカンブルメール家の側がまだまだ上位にあっただろう。重要なのは両者の間に横たわる習慣・因習の違いだ。そして両者の価値体系がもはや相容れないところまで来ていたがゆえに、見ている対象が同じであっても一方には見えていないに等しい風景、互いにまるで別々の「風景」を見出さざるを得ない諸条件が次々と出現していたということでなくてはならない。

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Blog21・シャルリュスの演出について勘違いした人々としなかった人々/「ふたりの名前」という<記号>

2022年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム
シャルリュスがバルベックのグランドホテルへ招待し、堂々と連れ立って歩く「とびきりエレガントな」男。立派な社交人士に見える。実はカンブルメール夫妻の従姉妹(いとこ)のひとりが雇っている従僕。だが客の多くはまだまだこれからという新興ブルジョワ階級やプチ・ブルジョワに属する人々なので、「とびきりエレガントな」姿形に惑わされてシャルリュスの連れが誰なのかまるでわからない。シャルリュスは連れてきた「とびきりエレガントな」従僕を相手に或る相談を持ちかける。「あなたの仲間をうんとたくさん紹介してくれんかね」。さらに、自分の好みに合うのがどのような男か、たとえば「競馬の騎手」のような男だとか、細かく説明し始める。

そこへ偶然、一人の公証人が通りがかった。邪推されれば困ると恐れたシャルリュスはたちまち話題を変えて大声でこう言った。

「『そう、この歳になっても骨董あさりの趣味はなくなりませんねえ、年代ものの美品が好みで、昔のブロンズ像や古めかしいシャンデリアなどがあると、とんでもない出費をしてしまうんです。<美>には目がないもので』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.315」岩波文庫 二〇一五年)

この発言はシャルリュスの身振り(芝居)に過ぎない。それも第二の身振りである。第一の身振り(芝居)はグランドホテルのロビーに入ってきた時、連れている相手の姿形が「とびきりエレガントな」ものだった時点ですでに始まっている。相手の男が「カンブルメール夫妻の従姉妹(いとこ)のひとりが雇っている従僕」だとはよもや誰一人気づかないという現象を引き起こした。第二の身振りはシャルリュスの大声だが、この際もまた「公証人もホテルの客もだれひとりなにも気づかず、みなは立派な身なりの従僕をエレガントな外国人だと想いこんだ。社交人士たちはまんまとだまされて従僕を非常にシックなアメリカ人だと思った」。

第一の身振り(「とびきりエレガントな」姿形)も第二の身振り(シャルリュスの大声)もどちらもシニフィアン(意味するもの)として機能しており、シニフィエ(意味されるもの・意味内容)は「公証人もホテルの客もだれひとりなにも気づかず、みなは立派な身なりの従僕をエレガントな外国人だと想いこんだ」という勘違いを出現させた。ところが一方、客たちとは違う階級に属する人々(使用人たち・召使いたち)は、シャルリュスの盛大な演出にもかかわらずまったく勘違いを起こしていない。

「ところが公証人もホテルの客もだれひとりなにも気づかず、みなは立派な身なりの従僕をエレガントな外国人だと想いこんだ。社交人士たちはまんまとだまされて従僕を非常にシックなアメリカ人だと思ったが、それにひきかえ使用人たちは、この従僕が目の前にあらわれたとたんにその素性を見抜いた。徒刑囚が徒刑囚を見抜き、いや、それよりもずっと素早く、ある種の動物たちが遠く離れていても一匹の動物を嗅ぎつけるのと同じである。シェフ・ド・ランたちは目をあげた。エメは疑いぶかいまなざしを投げかけた。ソムリエは肩をすくめ、これが礼儀だと心得ていたのであろう、片手で口を覆って相手を中傷する文言を口にしたが、それはみなの耳に聞こえた。おまけに、そのとき『召使い部屋』へ夕食をとりに行こうと階段の下を通りかかったわが家の衰えた老フランソワーズまでが、顔をあげ、ホテルの会食者たちはまるで気づいていないのにーーーあたかも年老いた乳母のエウリュクレイアが、宴席に連なる求婚者たちに先がけて、目の前にいるのはオデュセウスだと気がつくようにーーー相手を召使いだと見抜き、さらにシャルリュス氏が従僕と連れだって親しげに歩いてゆくのを見て、心を痛めた表情をした。耳にはしていたが信じなかった意地の悪いうわさが、突如として自分の目にも嘆かわしい真実味をおびて見えたとでも言いたげであった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.315~316」岩波文庫 二〇一五年)

そんな時、<私>は、給仕頭のエメが「ふたりのボーイ」と話し込んでいるところに出くわす。<私>にはそのふたりが一体誰なのかさっぱり思い出せない。「ひとりは口髭をたくわえ、もうひとりは口髭を剃って髪を刈りこんでいた」ためだけではない。さらに「ふたりの肩のうえにのっていたのは昔と同じ顔であったにもかかわらず(ノートルダムの誤った修復のように首がすげ替えられたというわけではない)、私の目にそれが見えなかったのは、マントルピースのうえに置かれてだれの目にも触れている品物が、どれほど綿密な家宅捜索でも見つからない場合とそっくりである」からだ。ノートルダム大聖堂の修復についてはすでに「スワン家のほうへ」篇で描かれているようにヴィオレ=ル=デュックが中世建築の専門家としてそもそも初めにあった十二世紀頃の形へ修復したため、プルーストたちの思い出にあるイメージがすっかり破壊されたことに対する批判。また「私の目にそれが見えなかったのは、マントルピースのうえに置かれてだれの目にも触れている品物が、どれほど綿密な家宅捜索でも見つからない場合とそっくりである」というのはそれこそヴァントゥイユの音楽やエルスチールの絵画が<別の価値体系>に移動することで始めて市民社会の目の前へ可視化することができる芸術の可能性について述べた箇所だ。しかし<私>が「ふたりのボーイ」のことをたちまち思い出すことを可能にした最も重要なものは「ふたりの名前」という<記号>である。

「そのふたりから名前を告げられて、私はふたりがリヴベルでよく給仕をしてくれたボーイであることを想い出した。しかしそれ以来ひとりは口髭をたくわえ、もうひとりは口髭を剃って髪を刈りこんでいた。そのせいで、ふたりの肩のうえにのっていたのは昔と同じ顔であったにもかかわらず(ノートルダムの誤った修復のように首がすげ替えられたというわけではない)、私の目にそれが見えなかったのは、マントルピースのうえに置かれてだれの目にも触れている品物が、どれほど綿密な家宅捜索でも見つからない場合とそっくりである。ふたりの名前を知ったとたん、私はふたりの声の奏でる不確かな響きをはっきり再認できた。その響きを明確にするふたりの昔の顔がありありと目に浮かんだからである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.318」岩波文庫 二〇一五年)

この場合、<私>は「ふたりの名前を知ったとたん」、「ふたりの昔の顔がありありと目に浮かんだ」、という点が重要である。名前がシニフィアン(意味するもの)として機能し、シニフィエ(意味されるもの・意味内容)が「ふたりの昔の顔がありありと目に浮かんだ」ということでなければならず、また第一の身振りも第二の身振りも含め、その限りでプルーストはさらに作品を増殖させていくことを可能にしているのである。

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