<私>とアルベルチーヌとの関係は順調に進んでいるかのように見える。例えば二人で昼食を取ろうとリヴベルへ出かけた際、レストラン内の光景は次のように描かれる。
「バラ色の顔のうえに、炎のようによじれた黒髪をのせたボーイが、この広い空間を駆けまわっているが、その足どりが以前ほど遅くないのは、もはやコミではなく、シェフ・ド・ランに昇進していたからである。とはいえボーイの活動としては当然のことながら、ときに遠くのダイニングルームにいるかと思えば、ときにはもっと近くの庭で昼食をとる客たちに給仕していることもあり、そのすがたがあるときはこちらに別のときはあちらに登場するさまは、まるで駆けまわる若い神の移りゆく数多くの彫像が、いくつかは緑の芝生にまで広がる建物の明るく照らされた室内に、べつのいくつかは戸外の生活がくり広げられる緑陰の明るい光のなかに配置されたかに見えた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.373」岩波文庫 二〇一五年)
黒髪のボーイの動き。プルーストはそれを「当然のことながら」としつつ、しかし何を言わんとしているのか。「ときに遠くのダイニングルームにいるかと思えば、ときにはもっと近くの庭で昼食をとる客たちに給仕していることもあり」、「あるときはこちらに別のときはあちらに登場する」、「駆けまわる若い神の移りゆく数多くの彫像」、「いくつかは緑の芝生にまで広がる建物の明るく照らされた室内に、べつのいくつかは戸外の生活がくり広げられる緑陰の明るい光のなかに配置されたかに見えた」、など。そこでふと気づく。作品「失われた時を求めて」では数々のエピソードが時系列を無視して同時多発的かつ立体的に配置されながら次々と出没するわけだが、その講義をプルースト自身が読み聞かせているかのように思われないだろうかと。作品が書かれた一九〇〇年前後、構造主義という思想はもちろんなかったし、なおのことプルーストが第二次世界大戦後の世界へやってきたとしても構造主義者として創作するとは考えられもしない。プルースト作品は構造主義のように静的な創作ではなく逆に動的なダイナミズムによって作品自体が作者を突き放し、作品自ら突き動いていくという前代未聞の運動性で充満しているからである。
アルベルチーヌはボーイの動きについて、店内のあちこちを「黒髪の神が駆けてゆくのを見つめ」ながら、「レストランと庭とを明るく照りはえる走路としか考えていない」、とある。走路を黒髪のボーイが駆け抜けていくのではなく、黒髪のボーイがもはや走路なのだ。
また<私>はアルベルチーヌを伴わず一人でリヴベルで食事を取ることもあった。一人でいるといつも飲み過ぎてしまう<私>は「白い壁に描かれた丸形花模様(ロザーヌ)を見つめ」、「私の感じている快楽をそのうえに振り向け」る。すると「私にとって世界にはその丸形花模様(ロザーヌ)しか存在しなくなる」。壁に出現する「丸形花模様(ロザーヌ)」が差し当たり<私>の欲望対象になる。そこで<私>は「チョウ」に<なる>(生成変化する)とともに「無上の快楽のなかで息絶えんとする」ことができる。
「そんなときの私は、最後のグラスを飲みほしながら、白い壁に描かれた丸形花模様(ロザーヌ)を見つめ、私の感じている快楽をそのうえに振り向けた。私にとって世界にはその丸形花模様(ロザーヌ)しか存在しなくなる。私は、ふらふらと焦点の定まらぬ目でそれを追い、それに触れたかと思うと、今度はそれを見失い、未来のことには関心がなくなり、ひとえにその丸形花模様(ロザーヌ)だけに満足しているさまは、まるで静止したチョウのまわりをひらひらと舞い、その相手のチョウと味わう無上の快楽のなかで息絶えんとするチョウのようであった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.374~375」岩波文庫 二〇一五年)
ちなみにこの「丸形花模様(ロザーヌ)」という言語表現について、余りにも露骨ではないかという問いかけが今なお論じられている。女性器なのかそれとも肛門なのかあるいは両方なのかと。<私>がアルベルチーヌと二人で味わう性的快楽を対象として述べられている箇所で、アルベルチーヌの女性器と置き換え可能な器官となると何があると考えられるのか。いずれでも構わないではないかと思われる。とはいえしかし、<私>はあくまで異性愛者として設定されているため、この問いは延々どこまでも続く不毛な問いとして宙吊りにされ、読者の目の前から消え去ることなく投げ出されたまま放置されるほかない経過をたどる。
シャルリュスが男性同性愛しか認めない絶対的ソドムの人間であるのに対し、<私>は異性愛以外考えられない人間として登場しているのだが、にもかかわらず作品は<私>の語りという形式を通してのみ記述されている。それなら<私>は差し当たり異性愛者を演じるほかないものの、すべての場面を読者に提供する作品そのもの、「失われた時を求めて」を隅々まで可視化させていく「記号」とその連鎖以外の何ものでもないことになる。そしてアルベルチーヌはトランス(横断的)両性愛者である。この錯綜性をどうまとめればよいのか。というより、そもそもまとめる必要性が見あたらない。プルーストはストーリーの一貫性や一元化などまるで望んでいない。逆にコード化・脱コード化・再コード化という世界的諸運動、資本主義の世界化に伴って出現した支離滅裂性について、様々な価値体系を移動しつつ、世界の多様性について延々書きつけ続けているということを忘れるべきでない。
ところで<私>はほとんど毎日アルベルチーヌと会っているのだが、しかし不安は消えない。アルベルチーヌが<私>と会っている時間帯は限られている。アルベルチーヌが<私>の行動について知らない時間を持っているように、<私>もまた<私>の知らないアルベルチーヌの時間を持たざるを得ない。アルベルチーヌは「本人の叔母や女友だちの家から引き離されているという」限りで「魅力を備えていた」。そうでなければアルベルチーヌはいつなんどきゴモラ(女性同性愛)の住人として<私>のことなどまるっきり忘れ果ててかえりみない時間を楽しんでいるか、少なくともその可能性は十分にあると言えるわけで、気が気でない。このような場合、鎮静剤の役割を演じるのはアルベルチーヌをその他の女性から引き離しておくであって、それ以外に手はない。
「そのときこの散策は、私には翌日への期待としか考えられず、しかもその翌日自体、私に欲望をそそられるとはいえ前日となんら変わらぬものであることは承知していたが、それでもアルベルチーヌがそのときまでいて私が居合わせなかった場所、つまり本人の叔母や女友だちの家から引き離されているという魅力を備えていた。その魅力は、積極的な歓びをもたらすものではなく不安を鎮めてくれるだけであったが、それでも非常に力強いものであった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.375」岩波文庫 二〇一五年)
<私>は思う。ただ単に引き離しておくだけでも鎮静剤としては「非常に力強いものであった」。だがどんな鎮静剤でも、むしろ鎮静剤ゆえに、それが強力であればあるほどかえって耐性を増していくのも速い。<私>は加速的に<不安>それ自体へ変貌していく。
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