ヴェルデュラン夫人からオレンジエードを勧められたシャルリュス。その時の返事とともに出現した余りにも気取った身振り。「優雅な笑みをうかべ、しきりに口をとがらせ腰をくねらせて、氏にしてはめずらしく澄んだ声」。シャルリュスにしてみれば自分が同性愛者だということは秘密にしておきたい。だがプルーストはいう。「ある種の秘密の行為が、その秘密を暴露する話しかたや身振りとなって外にあらわれるのは、不思議というほかない」。
「するとシャルリュス氏は、優雅な笑みをうかべ、しきりに口をとがらせ腰をくねらせて、氏にしてはめずらしく澄んだ声でこう答えた、『いえ、私はそのお隣さんが気に入りましてね、フレゼットというのでしょうか、とってもおいしいですね』。ある種の秘密の行為が、その秘密を暴露する話しかたや身振りとなって外にあらわれるのは、不思議というほかない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.268」岩波文庫 二〇一五年)
余りにも気取った身振り。それまでシャルリュスが同性愛者かどうかなどまるで気にもかけていなかった人々に「おや、氏は男が好きなのだ」と気づかせる絶好のきっかけを与える。
「その件にさえ触れなければ、その声にも動作にもその男の考えをうかがわせるものはいっさい見出せないだろう。ところがシャルリュス氏が、このような甲高い声で、このように微笑みながら手振りを交えて『いえ、私はそのお隣さんが気に入りましてね、フレゼットが』と言うのを聞くと、『おや、氏は男が好きなのだ』と断定できるのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.268」岩波文庫 二〇一五年)
シャルリュスの身振りは次々と意味内容を増殖させていく点でシャルリュスの用いる言語作用と大変似ている。
「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)
さらにシャルリュスの気取りについてプルーストは言っている。「ユクセル元帥を気取っていた」。
「大貴族であるとともに芸術の愛好家でもあるという特異な形におのが社交上の姿を融合していた氏は、自分と同じ社交界の人士がやるように礼儀正しく振る舞うのではなく、サン=シモンにならって自分をいくつもの活人画たらしめんとして、このときは興に乗ってユクセル元帥を気取っていた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.270」岩波文庫 二〇一五年)
サン=シモン「回想録」の登場人物「ユクセル元帥」。美貌の従僕たちを周囲にはべらせ若い将校たちを集めて「ギリシア風」の放蕩に耽っていたらしい。ギリシア風の放蕩といえば男性同性愛に他ならないが、注目したいのは古代ギリシアではどこにでもあった男性同性愛讃美ではなく、シャルリュスがユクセル元帥を気取るにあたって「自分をいくつもの活人画たらしめんとして」とある記述。<ユクセルへの意志>と言い換えることができる。そのあいだ、シャルリュスは「自分をいくつもの活人画たらしめんとして」確かに<ユクセルへの生成変化>を生きているということでなくてはならない。プルーストが述べているのは<欲望のプロセスとしての生成変化>についてだ。
「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえるのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.234」河出文庫 二〇一〇年)
プルーストに限らず、「彼らは書くことによって女性に<なる>」、とドゥルーズ=ガタリは述べている。
「エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.242」河出文庫 二〇一〇年)
さらにプルーストの場合、或る記号=身振りがますます増殖していくとともに、新しい次元を切り開いて見せる場面に遭遇していかなくてはならない。
なお、地球温暖化と並行して度重なる異常気象の連鎖について。ジジェクはいう。
「左派はトランプからも学ぶことを恐れるべきではない。トランプの方法とはどのようなものだったのか。多くの明晰なアナリストが指摘していたように、トランプは(すべてと言わずとも大抵の場合)成文律や規則を破ることはしないが、こうした法律や規則はかならず豊かに組み立てられた不文律や習慣に支えられており、それによって運用の仕方が規定されているという事実を最大限に活用するーーー彼はこの不文律の方を、めちゃくちゃに無視してしまうのである。こうしたやり口の直近の(そして今のところ最も極端な)事例は、トランプが国家非常事態宣言を宣言したことだ。批判者にとって衝撃だったのは、戦争や自然災害の脅威といった大規模災害に限定した目的で作られたことが明白なこの措置を、でっちあげの脅威からアメリカの国土を守る境界の建造のために実施したことであった。しかし、この措置に批判的だったのは民主党員だけではなく、右派にもトランプの宣言が危険な前例を作ってしまうことを恐れる人たちがいた。未来の左派民主党大統領が、例えば地球温暖化を理由に、国家非常事態を宣言したらどうするのか、と。わたしが言いたいのは、左派の大統領がまさにこうした手段を使って迅速な特例措置を合法化すべきだということだーーー地球温暖化は実際、(国家に限定されない)非常事態《なのだ》。宣言があろうがなかろうが、わたしたちは間違いなく非常事態下に《いる》。地球温暖化関連の最近のニュースを見るかぎり、温暖化はあきらかに悲観論者が予想していたよりもずっと速く進行している。このことを踏まえると、幾人かの評論家が第二次世界大戦との類似を指摘しているのは正しいーーー当時と似たような地球規模での動員が必要なのだ。そうした動員の必要性を無視するなら、わたしたちはある病院のジョークに出てくる患者と同じようにふるまうことになる。その患者は混雑した病室で横になり、看護師に『他のベッドの患者がずっと泣いたり呻いたりしているんですが、もう少し静かにしてくれるように頼んでもらえませんか』と文句をいう。看護師は『他の患者さんのこともわかってあげてください。末期の患者さんなんです』と答える。患者は言い返す。『わかりましたよ。でもそれならどうして末期患者用の特別室にいれないんですか』。『いえ、ここが末期患者用の部屋なんですよ』。ラディカルな環境保護論者はわたしたち人類が末期患者だと言わんばかりに不満を言い過ぎだという『リアリスト』はみな、このジョークと同じことになっているのではないだろうか。彼らが無視しているのは、わたしたちが実際に末期患者《である》ということだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.111〜112」青土社 二〇二二年)
だからといってその解決策の一つに新型原発増設を上げるなど論外である。チェルノブイリ事故について。
「問題は、(パニックをあおる主張に反対する人たちのいうような)事実の不確実性にあるのではない。この問題に関するデータにもかかわらず、それが実際に起こる可能性をわれわれが信じられない、ということにあるからだ。窓の外をみてごらん、そこには依然として緑の葉と青い空がある、生活は続き、自然のリズムは狂っていないーーーというふうに。チェルノブイリ事故の恐ろしさはここにある。事故現場を訪れると、墓石がある以外、その土地は以前とまったく変わらないようにみえる。すべてを以前の状態のまま残して、人々の生活だけが現場から立ち去ってしまったようにみえる。それにもかかわらず、われわれは何かがとてつもなくおかしいということを意識している。変化は、目に見える現実のレベルにあるのではない。変化はもっと根本的なものであり、それは現実の肌理そのものに影響する。チェルノブイリの現場周辺に昔通り生活を営む農家がぽつんぽつんと数軒存在するのは、不思議ではない。そう、彼らは単に放射能に関するわけのわからない話を無視しているのである。この状況を通じてわれわれが直面するのは、きわめて根源的な形で現れた、現代の『選択社会』の袋小路である。通常の、強いられた選択の状況では、私は、正しい選択をするという条件のもとで自由に選択する。そのため私にできる唯一のことは、押し付けられたことを自由に遂行するようにふるまうという空疎な身振りである。しかし、ここではそれとは逆に、選択は実際に自由《であり》それゆえにいっそう苛立たしいものとして経験される。われわれは、われわれの生活に根本的に影響する問題について決断しなければならない立場につねに身を置きながら、認識の基盤となるものを欠いているのである。ーーー問題はむしろ、われわれが、情報に基づく選択を可能にするような知識を持たないまま選択することを強いられる、ということである」(ジジェク「大義を忘れるな・第3部・9・P.680~681」青土社 二〇一〇年)
ジジェクの理論を今の日本に当てはめてみるとよくわかるかもしれない。日本を蝕んでいるだけでなくこれまでも一貫して蝕んできたのは、他でもない日本政府中枢だということが。
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「するとシャルリュス氏は、優雅な笑みをうかべ、しきりに口をとがらせ腰をくねらせて、氏にしてはめずらしく澄んだ声でこう答えた、『いえ、私はそのお隣さんが気に入りましてね、フレゼットというのでしょうか、とってもおいしいですね』。ある種の秘密の行為が、その秘密を暴露する話しかたや身振りとなって外にあらわれるのは、不思議というほかない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.268」岩波文庫 二〇一五年)
余りにも気取った身振り。それまでシャルリュスが同性愛者かどうかなどまるで気にもかけていなかった人々に「おや、氏は男が好きなのだ」と気づかせる絶好のきっかけを与える。
「その件にさえ触れなければ、その声にも動作にもその男の考えをうかがわせるものはいっさい見出せないだろう。ところがシャルリュス氏が、このような甲高い声で、このように微笑みながら手振りを交えて『いえ、私はそのお隣さんが気に入りましてね、フレゼットが』と言うのを聞くと、『おや、氏は男が好きなのだ』と断定できるのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.268」岩波文庫 二〇一五年)
シャルリュスの身振りは次々と意味内容を増殖させていく点でシャルリュスの用いる言語作用と大変似ている。
「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)
さらにシャルリュスの気取りについてプルーストは言っている。「ユクセル元帥を気取っていた」。
「大貴族であるとともに芸術の愛好家でもあるという特異な形におのが社交上の姿を融合していた氏は、自分と同じ社交界の人士がやるように礼儀正しく振る舞うのではなく、サン=シモンにならって自分をいくつもの活人画たらしめんとして、このときは興に乗ってユクセル元帥を気取っていた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.270」岩波文庫 二〇一五年)
サン=シモン「回想録」の登場人物「ユクセル元帥」。美貌の従僕たちを周囲にはべらせ若い将校たちを集めて「ギリシア風」の放蕩に耽っていたらしい。ギリシア風の放蕩といえば男性同性愛に他ならないが、注目したいのは古代ギリシアではどこにでもあった男性同性愛讃美ではなく、シャルリュスがユクセル元帥を気取るにあたって「自分をいくつもの活人画たらしめんとして」とある記述。<ユクセルへの意志>と言い換えることができる。そのあいだ、シャルリュスは「自分をいくつもの活人画たらしめんとして」確かに<ユクセルへの生成変化>を生きているということでなくてはならない。プルーストが述べているのは<欲望のプロセスとしての生成変化>についてだ。
「生成変化とは、みずからが保持する形式、みずからがそれであるところの主体、みずからが所有する器官、またはみずからが果たす機能をもとにして、そこから微粒子を抽出し、抽出した微粒子のあいだに運動と静止、速さと遅さの関係を確立することなのである。そうした関係は、自分が今<なろう>としているものに最も《近い》ものであり、それによってこそ生成変化が達成されるのである。またその意味でこそ、生成変化は欲望のプロセスだといえるのだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.234」河出文庫 二〇一〇年)
プルーストに限らず、「彼らは書くことによって女性に<なる>」、とドゥルーズ=ガタリは述べている。
「エクリチュールが女性への生成変化を産み出すこと、一つの社会的領野を隈なく貫いて浸透し、男性にも伝染して、男性を女性への生成変化に取り込むに足るだけの力をもった女性性の原子を産み出すことが必要なのだ。とても穏やかでありながら、厳しく、粘り強く、一徹で、屈服することのない微粒子。英語の小説におけるエクリチュールに女性が台頭して以来、いかなる男性作家もこの問題に無関心ではいられなくなった。ロレンスやミラーなど、最も男性的で、男性至上主義のきわみといわれる作家たちもまた、女性の近傍域、もしくはその識別不可能性のゾーンに入る微粒子を受けとめ、放出し続けることになる。彼らは書くことによって女性に<なる>のだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・中・10・P.242」河出文庫 二〇一〇年)
さらにプルーストの場合、或る記号=身振りがますます増殖していくとともに、新しい次元を切り開いて見せる場面に遭遇していかなくてはならない。
なお、地球温暖化と並行して度重なる異常気象の連鎖について。ジジェクはいう。
「左派はトランプからも学ぶことを恐れるべきではない。トランプの方法とはどのようなものだったのか。多くの明晰なアナリストが指摘していたように、トランプは(すべてと言わずとも大抵の場合)成文律や規則を破ることはしないが、こうした法律や規則はかならず豊かに組み立てられた不文律や習慣に支えられており、それによって運用の仕方が規定されているという事実を最大限に活用するーーー彼はこの不文律の方を、めちゃくちゃに無視してしまうのである。こうしたやり口の直近の(そして今のところ最も極端な)事例は、トランプが国家非常事態宣言を宣言したことだ。批判者にとって衝撃だったのは、戦争や自然災害の脅威といった大規模災害に限定した目的で作られたことが明白なこの措置を、でっちあげの脅威からアメリカの国土を守る境界の建造のために実施したことであった。しかし、この措置に批判的だったのは民主党員だけではなく、右派にもトランプの宣言が危険な前例を作ってしまうことを恐れる人たちがいた。未来の左派民主党大統領が、例えば地球温暖化を理由に、国家非常事態を宣言したらどうするのか、と。わたしが言いたいのは、左派の大統領がまさにこうした手段を使って迅速な特例措置を合法化すべきだということだーーー地球温暖化は実際、(国家に限定されない)非常事態《なのだ》。宣言があろうがなかろうが、わたしたちは間違いなく非常事態下に《いる》。地球温暖化関連の最近のニュースを見るかぎり、温暖化はあきらかに悲観論者が予想していたよりもずっと速く進行している。このことを踏まえると、幾人かの評論家が第二次世界大戦との類似を指摘しているのは正しいーーー当時と似たような地球規模での動員が必要なのだ。そうした動員の必要性を無視するなら、わたしたちはある病院のジョークに出てくる患者と同じようにふるまうことになる。その患者は混雑した病室で横になり、看護師に『他のベッドの患者がずっと泣いたり呻いたりしているんですが、もう少し静かにしてくれるように頼んでもらえませんか』と文句をいう。看護師は『他の患者さんのこともわかってあげてください。末期の患者さんなんです』と答える。患者は言い返す。『わかりましたよ。でもそれならどうして末期患者用の特別室にいれないんですか』。『いえ、ここが末期患者用の部屋なんですよ』。ラディカルな環境保護論者はわたしたち人類が末期患者だと言わんばかりに不満を言い過ぎだという『リアリスト』はみな、このジョークと同じことになっているのではないだろうか。彼らが無視しているのは、わたしたちが実際に末期患者《である》ということだ」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.111〜112」青土社 二〇二二年)
だからといってその解決策の一つに新型原発増設を上げるなど論外である。チェルノブイリ事故について。
「問題は、(パニックをあおる主張に反対する人たちのいうような)事実の不確実性にあるのではない。この問題に関するデータにもかかわらず、それが実際に起こる可能性をわれわれが信じられない、ということにあるからだ。窓の外をみてごらん、そこには依然として緑の葉と青い空がある、生活は続き、自然のリズムは狂っていないーーーというふうに。チェルノブイリ事故の恐ろしさはここにある。事故現場を訪れると、墓石がある以外、その土地は以前とまったく変わらないようにみえる。すべてを以前の状態のまま残して、人々の生活だけが現場から立ち去ってしまったようにみえる。それにもかかわらず、われわれは何かがとてつもなくおかしいということを意識している。変化は、目に見える現実のレベルにあるのではない。変化はもっと根本的なものであり、それは現実の肌理そのものに影響する。チェルノブイリの現場周辺に昔通り生活を営む農家がぽつんぽつんと数軒存在するのは、不思議ではない。そう、彼らは単に放射能に関するわけのわからない話を無視しているのである。この状況を通じてわれわれが直面するのは、きわめて根源的な形で現れた、現代の『選択社会』の袋小路である。通常の、強いられた選択の状況では、私は、正しい選択をするという条件のもとで自由に選択する。そのため私にできる唯一のことは、押し付けられたことを自由に遂行するようにふるまうという空疎な身振りである。しかし、ここではそれとは逆に、選択は実際に自由《であり》それゆえにいっそう苛立たしいものとして経験される。われわれは、われわれの生活に根本的に影響する問題について決断しなければならない立場につねに身を置きながら、認識の基盤となるものを欠いているのである。ーーー問題はむしろ、われわれが、情報に基づく選択を可能にするような知識を持たないまま選択することを強いられる、ということである」(ジジェク「大義を忘れるな・第3部・9・P.680~681」青土社 二〇一〇年)
ジジェクの理論を今の日本に当てはめてみるとよくわかるかもしれない。日本を蝕んでいるだけでなくこれまでも一貫して蝕んできたのは、他でもない日本政府中枢だということが。
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