次の箇所で悲しいほど「欠点」を指摘されるサニエット。性格があまりにもナイーヴ過ぎるからだが、この「欠点」が次元違いの悲惨さを帯びて見えてくるのはなぜか。プルーストが、医師コタールの成長ぶりと同時に描くことによってますます見るに堪えない形象を与えるその効果として始めて射影されるからである。かといってコタールが完璧かといえばまるでそうではない。コタールもまたヴェルデュラン夫人のサロンの常連客として、十年、二十年単位の「慣れ」を身に付けてきたがゆえに自分で自分自身を上客と考えて憚らないでいられる。が、またこの「慣れ」ゆえにヴェルデュラン夫人のサロンの中に入るとたちまち気が緩んでしまい、不意にちょこざいな青年時代の<素顔>に戻ってしまうことがある。だがここで注目すべきは著しく成長したコタールではなく、逆にサニエットの側だ。
「私の車両にグランクールから乗りこんできた一行のなかにサニエットがいた。かつて従兄弟(いとこ)のフォルシュヴィルによってヴェルデュラン家から追い出されたが、戻ってきていたのだ。その欠点は、社交生活という観点からするとーーーそれに優る多くの長所を持ってはいたもののーーー以前のコタールの欠点と多分に同種のもので、臆病なこと、人の気にいられたいと願い、そうなるように不毛な努力をすることであった。ところが人生がコタールを変えーーーとはいえヴェルデュラン家では、われわれが慣れ親しんだ環境へ戻ると昔の時間の暗示を受けてそうなるように、コタールもいくぶん昔のままであったがーーー、すくなくとも患者の診察や、病院での勤務中や、医学アカデミーでは、冷ややかに人を見くだす威厳にみちた外観をまとい、自分に迎合する弟子たちの前で十八番(おはこ)の地口を連発しているあいだにその外観をいっそう補強され、現在のコタールと過去のコタールとのあいだに画然たる断絶をつくっていたのにたいして、サニエットの場合は、本人がそれを矯正しようとすればするほど、同じ欠点がますます際立ってきていた。サニエットは、自分の話がしばしば人を退屈させてだれも耳を傾けてくれないことを自覚して、コタールのようにゆっくりと語りかけ、有無を言わさぬ口調で相手の注意を惹きつけるのではなく、自分の話がとかく生真面目になることを埋め合わせるつもりなのか、ひょうきんな話しかたをするばかりか、手慣れた話柄を手ぎわよく話していると見えるように早口になったり途中を端折(はしょ)ったり略語を使ったりするので、とどのつまり、わけのわからぬことばかりえんえんとしゃべっていると思われる結果になった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.56~57」岩波文庫 二〇一五年)
この箇所に続いてさらに、すかさずサニエットの臆病過ぎるナイーヴさゆえにサニエット自身がこうむる悲喜劇についてプルーストは述べる。サニエットがプルーストの自画像だというわけではなおのことない。しかしなぜプルーストはそれほどまでサニエットの悲惨なナイーヴさに<戻っている>のか。あるいは読者を<つまずかせる>ような描き方をしたのか。次の箇所。
「自分の話がとかく生真面目になることを埋め合わせるつもりなのか、ひょうきんな話しかたをするばかりか、手慣れた話柄を手ぎわよく話していると見えるように早口になったり途中を端折(はしょ)ったり略語を使ったりするので、とどのつまり、わけのわからぬことばかりえんえんとしゃべっていると思われる結果にな」る。
この箇所だけが前後の文脈と切断されて、ふと、因果連関を喪失していると思えないだろうか。「とどのつまり」というフレーズ。プルーストはこのフレーズを持ってくるほかない<或る事態>について述べていると、そう考えられないだろうか。ほかでもない<夢>という<表層>である。「途中を端折(はしょ)ったり」、「略語を使ったり」、「わけのわからぬことばかりえんえんとしゃべっていると思われる」、など。フロイトが「夢判断」の中で述べているように、人間は夢を見ている時、「助詞」を脱落させている。文脈の喪失が起こっている。言い換えれば、基準になる文法を失ってどんどん「分裂している」。
だからといってプルーストがフロイトの物真似をしたというわけでは全然ない。フロイトだけでなく他の少なからぬ精神病理学者たちがプルーストと似たり寄ったりの現象の多発に気づいていた。プルーストの言葉ではこうある。
「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)
さて、マスコミ(主にテレビ)は台風の進路を盛んに気にしている。もちろん気になる。だがマスコミ(主にテレビ)を見ていると、どこか沖縄の様子を見るというより、ヘーゲル用語を用いれば「本州を主人とし沖縄を奴隷とし」、その上で気象予報のための「盾」として取り扱っているように思えてならない。そんな今の日本政府の態度とはまるで逆に、かつて折口信夫はこう詠った。
「久高より還り来りて、ただひとり思ひしことは、人にかたらず」(折口信夫「遠やまひこ」『折口信夫全集・第二十一巻・P.488』中公文庫 一九七五年)
一方、マルクスはいう。
「交換価値はノアの洪水以前からある。だから意識にとっては、ーーーしかも哲学的意識は、概念する思考が実際の人間であり、したがって概念された世界そのものこそがはじめて実際の世界である、というように規定されている、ーーー諸カテゴリーの運動が実際の生産行為ーーー残念ながらそれは刺戟だけは外部からうけるーーーとしてあらわれ、その結果が世界なのである、そしてこのことは、ーーーこれもまた同義反復ではあるがーーー具体的な総体が、思考された総体として、ひとつの思考された具体物として、in fact《事実上》思考の、概念作用の産物であるかぎりでは正しい、しかしそれは、けっして直観と表象とのそとで、あるいはまたそれらをこえて思考して自分自身をうみだす概念の産物ではなくて、直観と表象とを概念へ加工することの産物なのである。あたまのなかに思考された全体としてあらわれる全体は、思考するあたまの産物である、そしてこのあたまは自分だけにできる仕方で世界をわがものにするが、その仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的・精神的にわがものにする仕方とはちがうひとつの仕方である。現実の主体は、いままでどおりあたまのそとがわに、その自立性をたもちつつ存在しつづける、つまり、あたまがただ思弁的にだけ、ただ理論的にだけふるまうかぎり、そうなるのである。だから理論的方法においてもまた、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなければならない」(マルクス「経済学批判序説」『経済学批判・P.311~314』岩波文庫 一九五六年)
折口信夫は言うまでもなく、このマルクスの言葉を理解した上で詠っていたことを忘れてはいけないのだ。
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「私の車両にグランクールから乗りこんできた一行のなかにサニエットがいた。かつて従兄弟(いとこ)のフォルシュヴィルによってヴェルデュラン家から追い出されたが、戻ってきていたのだ。その欠点は、社交生活という観点からするとーーーそれに優る多くの長所を持ってはいたもののーーー以前のコタールの欠点と多分に同種のもので、臆病なこと、人の気にいられたいと願い、そうなるように不毛な努力をすることであった。ところが人生がコタールを変えーーーとはいえヴェルデュラン家では、われわれが慣れ親しんだ環境へ戻ると昔の時間の暗示を受けてそうなるように、コタールもいくぶん昔のままであったがーーー、すくなくとも患者の診察や、病院での勤務中や、医学アカデミーでは、冷ややかに人を見くだす威厳にみちた外観をまとい、自分に迎合する弟子たちの前で十八番(おはこ)の地口を連発しているあいだにその外観をいっそう補強され、現在のコタールと過去のコタールとのあいだに画然たる断絶をつくっていたのにたいして、サニエットの場合は、本人がそれを矯正しようとすればするほど、同じ欠点がますます際立ってきていた。サニエットは、自分の話がしばしば人を退屈させてだれも耳を傾けてくれないことを自覚して、コタールのようにゆっくりと語りかけ、有無を言わさぬ口調で相手の注意を惹きつけるのではなく、自分の話がとかく生真面目になることを埋め合わせるつもりなのか、ひょうきんな話しかたをするばかりか、手慣れた話柄を手ぎわよく話していると見えるように早口になったり途中を端折(はしょ)ったり略語を使ったりするので、とどのつまり、わけのわからぬことばかりえんえんとしゃべっていると思われる結果になった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.56~57」岩波文庫 二〇一五年)
この箇所に続いてさらに、すかさずサニエットの臆病過ぎるナイーヴさゆえにサニエット自身がこうむる悲喜劇についてプルーストは述べる。サニエットがプルーストの自画像だというわけではなおのことない。しかしなぜプルーストはそれほどまでサニエットの悲惨なナイーヴさに<戻っている>のか。あるいは読者を<つまずかせる>ような描き方をしたのか。次の箇所。
「自分の話がとかく生真面目になることを埋め合わせるつもりなのか、ひょうきんな話しかたをするばかりか、手慣れた話柄を手ぎわよく話していると見えるように早口になったり途中を端折(はしょ)ったり略語を使ったりするので、とどのつまり、わけのわからぬことばかりえんえんとしゃべっていると思われる結果にな」る。
この箇所だけが前後の文脈と切断されて、ふと、因果連関を喪失していると思えないだろうか。「とどのつまり」というフレーズ。プルーストはこのフレーズを持ってくるほかない<或る事態>について述べていると、そう考えられないだろうか。ほかでもない<夢>という<表層>である。「途中を端折(はしょ)ったり」、「略語を使ったり」、「わけのわからぬことばかりえんえんとしゃべっていると思われる」、など。フロイトが「夢判断」の中で述べているように、人間は夢を見ている時、「助詞」を脱落させている。文脈の喪失が起こっている。言い換えれば、基準になる文法を失ってどんどん「分裂している」。
だからといってプルーストがフロイトの物真似をしたというわけでは全然ない。フロイトだけでなく他の少なからぬ精神病理学者たちがプルーストと似たり寄ったりの現象の多発に気づいていた。プルーストの言葉ではこうある。
「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)
さて、マスコミ(主にテレビ)は台風の進路を盛んに気にしている。もちろん気になる。だがマスコミ(主にテレビ)を見ていると、どこか沖縄の様子を見るというより、ヘーゲル用語を用いれば「本州を主人とし沖縄を奴隷とし」、その上で気象予報のための「盾」として取り扱っているように思えてならない。そんな今の日本政府の態度とはまるで逆に、かつて折口信夫はこう詠った。
「久高より還り来りて、ただひとり思ひしことは、人にかたらず」(折口信夫「遠やまひこ」『折口信夫全集・第二十一巻・P.488』中公文庫 一九七五年)
一方、マルクスはいう。
「交換価値はノアの洪水以前からある。だから意識にとっては、ーーーしかも哲学的意識は、概念する思考が実際の人間であり、したがって概念された世界そのものこそがはじめて実際の世界である、というように規定されている、ーーー諸カテゴリーの運動が実際の生産行為ーーー残念ながらそれは刺戟だけは外部からうけるーーーとしてあらわれ、その結果が世界なのである、そしてこのことは、ーーーこれもまた同義反復ではあるがーーー具体的な総体が、思考された総体として、ひとつの思考された具体物として、in fact《事実上》思考の、概念作用の産物であるかぎりでは正しい、しかしそれは、けっして直観と表象とのそとで、あるいはまたそれらをこえて思考して自分自身をうみだす概念の産物ではなくて、直観と表象とを概念へ加工することの産物なのである。あたまのなかに思考された全体としてあらわれる全体は、思考するあたまの産物である、そしてこのあたまは自分だけにできる仕方で世界をわがものにするが、その仕方は、この世界を芸術的に、宗教的に、実践的・精神的にわがものにする仕方とはちがうひとつの仕方である。現実の主体は、いままでどおりあたまのそとがわに、その自立性をたもちつつ存在しつづける、つまり、あたまがただ思弁的にだけ、ただ理論的にだけふるまうかぎり、そうなるのである。だから理論的方法においてもまた、主体が、社会が、いつも前提として表象に浮かべられていなければならない」(マルクス「経済学批判序説」『経済学批判・P.311~314』岩波文庫 一九五六年)
折口信夫は言うまでもなく、このマルクスの言葉を理解した上で詠っていたことを忘れてはいけないのだ。
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