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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて27

2022年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。またバラだと次々芽を出してくるのであまり手間のかからない良質なエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“Princess of Infinity”」(2022.9.21)

二〇二二年九月十七日に撮影したものの一つ。今回撮影時刻は九月二十一日午前八時四十分頃です。この種は蕾の時期はピンク色、花弁が大きくなるにしたがって白く染まるタイプ。台風十四号接近のためどうなるかと心配していましたが、なんとか乗り切ってくれた一輪。台風通過中にもやや白さを増していました。

参考になれば幸いです。

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Blog21・プルースト作品における覚醒時と睡眠時との<位置決定不可能性>

2022年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストは覚醒時の時間感覚と睡眠中の時間感覚との違いを比較し、睡眠中の時間感覚についてこう述べる。

「もうひとつの人生、つまり眠っている人の生がーーーその深い部分においてはーーー時間の範疇に従わないからである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.305」岩波文庫 二〇一五年)

覚醒時の時間感覚を基準にした場合、プルーストの言っていることはまったく正しい。睡眠中の時間感覚が<覚醒時>の「時間の範疇に従」っているとすればそれこそ逆にコペルニクス的転回と言わねばならない。睡眠中の人間は<或る覚醒時>と<次の覚醒時>との間に横たわっている<別の価値体系>を生きているとしか言えないのであり、夢に出てくる場面が支離滅裂であるような時間、支離滅裂であっても何ら構わず誰も気にしないような時間、時間の支離滅裂性によって支配されているような時間を、現実のものとしてまざまざと体験する時間を持つことができるというのである。

<覚醒時>の「時間の範疇に従わない」とプルーストがいうのは、<或る価値体系>にのみ支配された専制君主的かつナショナリズム的時間だけが絶対的に君臨しているわけではまるでなく、睡眠中はその桎梏から解き放たれた<別の価値体系>が出現するのではと問いかけているに他ならない。プルースト自身、どこの誰にでもありがちな次のような事例を上げている。

「私は目が覚めてから十回も呼び鈴を鳴らしたのにボーイがやって来ないので、絶望的な気分になりかけていた。十一回目で、ようやくボーイがはいってきた。ところがそれは最初の呼び鈴だった。それまでの十回は、まだつづいていた睡眠のなかで、呼び鈴を鳴らそうとする行為がきざしたにすぎない。かじかんだ私の手は、ちっとも動いていなかったのだ。そのような朝(その経験が、私をして、睡眠なるものは時間の法則を知らないのかもしれないと言わしめるのだが)、目を覚そうとする私の努力は、私がそのときまで生きていた睡眠という判然とせぬ暗いかたまりを、ひとえに時間の枠内へ収めようとする点にあった。これが容易なことではないのだ。睡眠のほうは、われわれが眠ったのが二時間なのか二日なのかを知らず、目印になるものをなんら提供してくれない。その目印を外部に見出すことができないと、われわれは時間のなかに復帰できず、ふたたび眠りこんでしまい、うとうとした五分間がそれこそ三時間にも思われるのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.305~306」岩波文庫 二〇一五年)

同様の事態についてプルーストは「失われた時を求めて」冒頭ですでに言及している。スローモーション的手法で書かれているため、睡眠から覚醒に移動する時の人間の時間感覚や地理的感覚の混乱について、より一層懇切丁寧につかめるに違いない。

「人は眠っていても、自分をとり巻くさまざまな時間の糸、さまざまな歳月と世界の序列を手放さずにいる。目覚めると本能的にそれを調べ、一瞬のうちに自分のいる地点と目覚めまでに経過した時間をそこに読みとるのだが、序列がこんがらがったり、途切れてしまったりすることがある。かりに眠れないまま明けがた近くになり、本を読んでいる最中、ふだん寝ているのとずいぶん違う格好で眠りに落ちたりすると、片腕を持ちあげているだけで太陽の歩みを止め、後退させることさえできるので、目覚めた最初の瞬間には、もはや時刻がわからず、寝ようと横になったところだと考えるかもしれない。眠るにはさらに場違いな、ふだんとかけ離れた姿勢、たとえば夕食後に肘掛け椅子に座ったままでうとうとしたりすると、その場合、大混乱は必至で、すべての世界が軌道を外れ、肘掛け椅子は魔法の椅子となって眠る人を猛スピードで時間と空間のなかを駆けめぐらせるから、まぶたを開けるときには、数ヶ月前の、べつの土地で横になっていると思うかもしれない」(プルースト「失われた時を求めて1・第一篇・一・一・一・P.28~29」岩波文庫 二〇一〇年)

覚醒と睡眠との関係に限らず<或る価値体系>に対する<別の価値体系>が見出せなければ、エルスチールの絵画もヴァントゥイユの音楽も、どこからも出現してくることはできない。これまで述べてきた通りだ。フェルメールもモネもゴッホも<或る価値体系>に対する多様な<別の価値体系>として始めて出現したからである。

そこでさらにプルーストは問う。「とはいえ私は、その夢の認識が明瞭であったことを思ってたじろいだ。そうだとすると逆に認識のほうも、夢と同様の非現実性を帯びるのだろうか?」と。

「さてボーイがはいってきた。私は、何度も呼び鈴を鳴らしたんだよ、とは言わなかった。それまで呼び鈴を鳴らす夢を見ていたにすぎないことに気づいたからである。とはいえ私は、その夢の認識が明瞭であったことを思ってたじろいだ。そうだとすると逆に認識のほうも、夢と同様の非現実性を帯びるのだろうか?」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.310」岩波文庫 二〇一五年)

<私>が夢を見ていた時、「その夢の認識が明瞭であったこと」は動かない。では覚醒時の「認識が」同じほど「明瞭」であった場合、覚醒時の認識もまた「非現実性を帯びるのだろうか?」。人間の覚醒時の認識は一体どこまで現実的であり、どこから非現実的になるのか。それとも覚醒時においてなお、覚醒したと思い込んでいるのは自分一人だけでありただ単に周囲が自分に合わせて芝居を打ってくれているに過ぎず、最初から非現実的な世界を現実的な世界と取り違えているだけかも知れない。そこで実際のところ、どこまでが現実的でどこからが非現実的かという境界線を見出そうとするとしよう。その境界線はどこに引かれているのか。あるいは経済で言えば、必要労働と剰余労働との境界線はどこに引かれているのか。だがしかし両者は融合しているため「目には見えない」とマルクスはいう。

「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫 一九七二年)

だからといって「剰余労働はない」ということは誰にもできない。どうしてか。

「つまり、資本は流通から発生することはできないし、また流通から発生しないわけにもゆかないのである。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に流通のなかで発生してはならないのである。こうして、二重の結果が生じた。貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が当然出発点とみなされる。いまのところまだ資本家の幼虫でしかないわれわれの貨幣所持者は、商品をその価値どおりに買い、価値どおりに売り、しかも過程の終わりには、自分が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面で行なわれなければならないし、また流通部面で行なわれてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!」(マルクス「資本論・第一部・第二篇・第四章・P.291~292」国民文庫 一九七二年)

剰余労働のないところに資本はない。ただ、両者(必要労働と剰余労働)は融合しているため絶対的な境界線を見つけることはできない。この「位置決定不可能性」という事情を踏まえてドゥルーズ=ガタリはこう述べる。

「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)。ーーー現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と不変資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ=ガタリ「千のプラトー・下・14・平滑と条理・P.281~282」河出文庫 二〇一〇年)

<或る価値体系>の一元的支配ではなく、もっと多くの、そして無数の<別の価値体系>をどんどん打ち立てていくことによってのみ、人間は新しい逃走線を次々と打ち開いていくことができる。覚醒時と睡眠時との《間》を考察することだけでもプルーストはそのことを十分証明していると言えないだろうか。

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