サニエットに対する周囲の評価、<ナイーヴ・無遠慮・退屈>。サニエット自身の自己評価でもあるため、もう救いようがないかのように見える。しかしプルーストは同時かつ周到に別の言葉へ置き換えてもいる。<謙虚・好奇心・人気者でない>。にもかかわらず余りにもプライドが高すぎてごく当り前の社交辞令一つ交わそうとしなかったことが自分で自分自身のことを「サニエット=<ナイーヴ・無遠慮・退屈>」というステレオタイプ(紋切型)へ押し固めてしまった。<人気者でない>のは、プルーストの言葉でいうと、(正直な告白を伴う)「大胆さを欠いていた」からに過ぎない。今の日本でも職場・教室・サークルなどではいつも起きているしどこでも見られるありふれた現象である。性別を問わず美麗な容姿がものを言うのは最初だけ、ほんのいっときでしかない。容姿以上にものを言うのは最初の顔合わせの直後から生じる<欲望としての身振り>である。とにかくよくしゃべる人間、気の利いたジョークをタイミングよく差し挟む人間、洗練された落ち着き、ここという時にずば抜けた瞬発力を発揮する行動力。それら身振り(言語・態度)によって美麗な容姿はただ単に空疎な空き缶同様、逆にからかいの種になる。しかし美麗な容姿の側もそれを見越しており、からかいの種にされまいと出来うる限りあらかじめ<欲望としての身振り>を各種取り揃えて必死で身につけておき、何か集まりがあるたびに、少しでも集まりが生じるや否やそれを披露せずにはいられない。プルーストが社交界のことを「虚無の王国」だというのはそういう意味で言っているのであり、なおかつ文字通りその通りだと知らぬ者はもはや誰一人いない。ゆえに今の日本、とりわけテレビマスコミは見るも無惨なほど一九〇〇年当時の社交界=「虚無の王国」の様相を呈して憚るところを知らないと言わねばならない。
さて、サニエットの無遠慮さに戻ろう。プルーストは「あまりにも遠慮がちなこの男は、病的なまでに無遠慮な男でもあった」と書く。もちろん、その直前に「人はけっして単一の存在ではないからであろう」と述べて人間の内的多様性を前提した上で語っている。さらに面白いのは次の文章で「サニエット」は「小鳥」に<なり>、「手紙」は「ヘビ」に<なる>シーン。プルーストは生成変化(成ること)を決して見逃さない。
「その一方、人はけっして単一の存在ではないからであろう、あまりにも遠慮がちなこの男は、病的なまでに無遠慮な男でもあった。一度、私の意に反してサニエットがふらりと訪ねてきたとき、だれからのものか一通の手紙が私のテーブルのうえに放ってあった。そのうち私は、サニエットが私の言うことを上(うわ)の空でしか聞いていないのに気づいた。差出人の見当のつかないその手紙に魅入られたサニエットのすがたを見ていた私は、その七宝焼のような目玉が、いまにも眼窩(がんか)からとび出して、好奇心によって磁気を与えられたそのなんの変哲もない手紙へと吸い寄せられるような気がした。まるで小鳥が、ヘビのほうへ否応なく引き寄せられるようなあんばいである。とうとうサニエットは我慢できず、私の部屋の整理整頓をするかのように、まずはその手紙の位置を変えた。しかしそれだけでは充分でなかったのか、手紙を手にとると、まるで無意識の動作のようにそれを裏返し、さらにもう一度裏返した」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.389~390」岩波文庫 二〇一五年)
<私>はサニエットにとっても<私>自身にとっても事態を良好な方向へ向け換える方法を思いつく。しばらくの期間、<私>のところにサニエットを引きつけておき、その時間を利用してサニエットに最良のアドバイスをしてやる。或る種の社交上のテクニックを伝授してやる。「そうすればほかの人たちもサニエットを招待するようになったかもしれず、そうなればその人たちのために私はただちにお払い箱になって、その結果、私の招待はサニエットを有頂天にするとともに厄介払いするという二重の利益をもたらしたかもしれないからである」。身振り(言語)が常に持っている両義性、ここでは少なくとも二重性を活用するのだ。
「その日、私は体調がよくなかったので、つぎの汽車で帰るべく三十分後には出ていただきたいと頼んだ。サニエットは、私が病気であることを疑ったわけではないのに、『一時間十五分ほどお邪魔をしてそれから帰ります』と答えた。それからというもの、サニエットに来てもらえる状況になるたびに、私はぜひ来るようにと言わなかったことを悔やんだ。ひょっとすると、そう言ってやれば私がサニエットの呪われた運命を祓(はら)ってやることができたかもしれないからで、そうすればほかの人たちもサニエットを招待するようになったかもしれず、そうなればその人たちのために私はただちにお払い箱になって、その結果、私の招待はサニエットを有頂天にするとともに厄介払いするという二重の利益をもたらしたかもしれないからである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.390~391」岩波文庫 二〇一五年)
なお、先日の「国葬」について。日本国民に限っただけでも七割方が反対を表明したにもかかわらず挙行されたことで逆に明るみに出された事情がある。ヴェルデュラン家に関するサン=ルーのことばを引用しておくことは無駄ではないだろう。
「サン=ルーのことばを最後まで聞いてそれは、多くの聡明な人たちまでが採りいれるのを見てしばしば驚かされる流行(はやり)ことばへの妥協であるとわかった。『あの環境では』とロベールは私に言った、『ほら、部族をつくり、単式誓願修道会や礼拝堂をつくるだろ。きみもまさかあれが小党派ではないとは言うまい。仲間うちの人間にはいやに愛想がいいが、仲間でない人間はいくら軽蔑しても足りないという態度だ。ハムレットみたいに、あるべきか、あらざるべきか、それが問題なのではなくて、仲間であるか、仲間であらざるか、それが問題なのさ』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.385~386」岩波文庫 二〇一五年)
呆れるばかりの物価高の真ん中に集結し結束を固めたつもりの「あの部族」。誰が仲間であり誰が仲間でないか、モザイクもかけずによく堂々と放送させたものだと驚嘆するほかない。
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