<私>がラ・ラスプリエールから帰宅するのは多くの場合、夜遅く。そして睡眠に入る。「失われた時を求めて」では睡眠についての思考がたびたび挿入されているが、次の箇所で<私>は睡眠のことを指して「自分の住むアパルトマン」に対する「第二のアパルトマン」と捉えている。大変興味深い考察が連発される。「第二のアパルトマントに住まう種族は、最初の人類と同じく両性具有者(アンドロギュノス)である。そこでは男がしばらくすると女のすがたであらわれる。事物も人間になり変わる能力を備えているし、その人間も、友人にもなれば敵にもなる」。両性具有者(アンドロギュノス)でなければ一体人間はどこからどうやって生まれ出てきたのかさっぱりわからなくなるのは常識以前の前提として、夢の中で人間は「男がしばらくすると女のすがたであらわれる。事物も人間になり変わる能力を備えているし、その人間も、友人にもなれば敵にもなる」のは誰もがよく知っているありふれた現象。もしそれがなければ世界中に散らばる民族創造神話の多くは分類不可能になるほかない。だがより一層注意してみたいのは「睡眠中にながれる時間」。<私>はこう思考する。「ときには時間の流れがひときわ速まって、十五分がまる一日にも感じられる。ときにはその流れが一段と長くなって、ちょっとひと眠りしただけだと思っていても、まる一日眠っていたということもある」。
「この第二のアパルトマントに住まう種族は、最初の人類と同じく両性具有者(アンドロギュノス)である。そこでは男がしばらくすると女のすがたであらわれる。事物も人間になり変わる能力を備えているし、その人間も、友人にもなれば敵にもなる。眠っている人にとって、こうした睡眠中にながれる時間は、目覚めている人間の生活がくり広げられる時間とは根本的に異なる。ときには時間の流れがひときわ速まって、十五分がまる一日にも感じられる。ときにはその流れが一段と長くなって、ちょっとひと眠りしただけだと思っていても、まる一日眠っていたということもある。こうしてわれわれが睡眠の二輪馬車に乗せられて深淵へ降りてゆくと、もはや想い出はこの馬車には追いつけず、精神はその深淵の手前でひき返さざるをえない。睡眠の車につながれた馬は、太陽の車につながれた馬と同じで、もはやなにものも止めることのかなわぬ大気圏のなかを一定の足どりで進んでゆくので、われわれとは無縁な隕石のようなものが落ちてくるだけで(いかなる『未知の者』によって青空から投下されたのか?)、規則正しい睡眠はかき乱され(睡眠は、そうした邪魔がなければ歩みを止める理由はなく、いつまでも同じ動きでつづいてゆくだろう)、その歩みはいきなりねじ曲げられ、現実のほうへとひき戻され、生活に隣接するさまざまな地帯ーーー変形されていまだ茫漠としているとはいえすでに微かに感じられる生活のざわめきの音を、眠っている人が耳にする地帯ーーーを一足飛びに通りすぎたうえで、いきなり目覚めへと着地する」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.300~301」岩波文庫 二〇一五年)
様々な生活音を身体がだんだん感知するようになってしばらくさまよった後、「眠っている人が耳にする地帯ーーーを一足飛びに通りすぎたうえで、いきなり目覚めへと着地する」。言語化するばなるほどその通りだろう。だがプルーストがいつも問題にするのは次の箇所に描かれているような事情である。
「すると、そうした深い眠りから夜明けの光のなかに目覚めた人は、自分がだれなのかもわからない。それまで生きてきた過去が頭脳からそっくり消え失せ、自分が何者でもなく、真(ま)っ新(さら)な、なににでもなれる状態にあるからだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.301」岩波文庫 二〇一五年)
人間は睡眠から目覚めた瞬間、自分で自分が何ものなのかを自分一人で証明することはできない、という深刻な事情についてだ。たった今生まれたばかりの乳児がいきなり口を開いて「自分は人間である」と言ったとすれば周囲はどう思うだろうか。マルクスはいう。
「価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.102」国民文庫 一九七二年)
さらにスピノザはいう。
「我々は例えばペテロ自身の精神の本質を構成するペテロの観念と、他の人間例えばパウロの中に在るペテロ自身の観念との間にどんな差異があるかを明瞭に理解しうる。すなわち前者はペテロ自身の身体の本質を直接に説明し、ペテロの存在する間だけしか存在を含んでいない。これに反して後者はペテロの本性よりもパウロの身体の状態を《より》多く示しており、したがってパウロの身体のこの状態が維持する間は、パウロの精神は、ペテロがもはや存在しなくてもペテロを自己にとって現在するものとして観想するであろう」(スピノザ「エチカ・第二部・定理十七・備考・P.121」岩波文庫 一九五一年)
それらを知った上でより一層思考を進めてプルーストはいうのだ。睡眠と覚醒とのほんの僅かな時間、「自分が何者でもなく、真(ま)っ新(さら)な、なににでもなれる状態にある」と。睡眠は或る種の死である。プルーストが言っていること。それは生きている時間の中に或る種の死というしかない切断が「睡眠」という言葉に置き換えられて差し挟まれている事情には疑いがないということでなければならない。だから次のように切断論的記述が続くのである。
「みずから通過してきたと思われる(とはいえわれわれがいまだに《われわれ》と言うことさえない)真っ暗な雷雨のなかから、まるで墓石の横臥像のように、なんの想念も持たずに出てきたすがたは、いわば中味を欠いた『われわれ』であろう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.301~302」岩波文庫 二〇一五年)
自分という人間は覚醒以前は何だったか。睡眠前と睡眠中と覚醒後。その間、一貫してたった一つの人格にしか占有されていなかったと、一体どこの誰に言えるのか。「目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか」。
「そんな熟眠から醒めてしばらくは、自分自身がただの鉛の人形になってしまった気がする。もはやだれでもないのだ。そんなありさまなのに、なくしたものを探すみたいに自分の思考や人格を探したとき、どうしてべつの自我ではなく、ほかでもない自分自身の自我を見つけ出すことができるのか?目覚めてふたたび考えはじめたとき、われわれの内部に体現されるのが、なぜ前の人格とはべつの人格にならないのか?何百万もの人間のだれにでもなりうるのに、いかなる選択肢があって、なにゆえ前日の人間を見つけ出せるのか不思議である」(プルースト「失われた時を求めて5・第三篇・一・一・P.187~188」岩波文庫 二〇一三年)
切断や再接続が不可能であれば歴史というものはどのように加工=変造することもできない。だが実際はどうか。数えきれないほどの切断や再接続が可能だからこそ歴史もまた様々に加工=変造でき、したがって捏造することが可能になるし、実際、あちこちのマスコミを通して捏造され続けている。
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