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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて29

2022年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。ナンテンは渇水にさえ気をつけていれば毎年実をつけてくれるのでほとんど手間のかからない初心者向けエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“ナンテン”」(2022.9.24)

二〇二二年九月二十四日午前九時頃撮影。台風十四、十五号ともに乗り切ってくれました。その間に少しばかり色づいてきたように見えます。なお、このナンテンはタマの飼主が生まれた時すでに実家の庭にあったもの。引っ越しのたびに一緒に連れて来ました。樹齢五十四年以上ということになります。

参考になれば幸いです。

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Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて28

2022年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。またバラだと次々芽を出してくるのであまり手間のかからない良質なエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“Princess of Infinity”」(2022.9.24)

二〇二二年九月二十四日午前九時頃撮影。この種は蕾の時期はピンク色、花弁が大きくなるにしたがって白く染まるタイプ。台風十四、十五号ともに乗り切ってくれた二輪。いずれも白く染まりました。今期のこの種ははおそらくこれが最後になると思います。

参考になれば幸いです。

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Blog21・せわしないシャルリュスと気ままなモレルの記号論的同性愛

2022年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
サン=マルス=ル=ヴェチュにある「細長いレストラン」。シャルリュスとモレルとの会話。二人はすでに恋仲なのだが、さらにモレルは女性同性愛者を見抜く名人でもある。「花売りの娘」も「奥のテーブルで食事をしているおばあさん」もそうだと。そして言う。「一瞬でも見抜けるんです。ふたりで人込みのなかを散歩でもすれば、私の勘が二度と外れないことがおわかりになりますよ」。プルーストは続ける。「このときモレルの男らしい美貌のなかに娘っぽい表情がただようのに目をとめた人がいたら、ある種の女たちがモレルに惹かれるのと同様に、モレルがその手の女たちに惹かれるという不思議な予見力を備えていることを理解したであろう」。

「『なあに、一瞬でも見抜けるんです。ふたりで人込みのなかを散歩でもすれば、私の勘が二度と外れないことがおわかりになりますよ』。このときモレルの男らしい美貌のなかに娘っぽい表情がただようのに目をとめた人がいたら、ある種の女たちがモレルに惹かれるのと同様に、モレルがその手の女たちに惹かれるという不思議な予見力を備えていることを理解したであろう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.354」岩波文庫 二〇一五年)

モレルの「男らしい美貌のなかに娘っぽい表情がただよう」という一節。ドンシエールで見られたのとまるで同様の身振りである。

「そのとき楽師は、率直な、有無を言わせぬ、断乎とした身振りで花売り女のほうをふり向き、手のひらを掲げて女を押しとどめ、もう花はいらん、とっとと消えうせろ、との意向を伝えた。シャルリュス氏は、この威圧的な男らしい仕草がなんとも優雅な手によって断行されるのを、うっとりと眺めた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.39」岩波文庫 二〇一五年)

シャルリュスはそもそも花を愛する人物。だがこの時のシャルリュスにとって花は「花売り女」が差し出す花ではもはやなく、ドンシエール軍楽隊所属ヴァイオリン奏者モレルに置き換えられていた。モレルはシャルリュスにもっと官能的な話題を提供しようと続ける。

「『私の夢はですね、間違いのない純潔な娘を見つけだして私に惚れさせ、その処女を奪ってしまうことですね』。シャルリュス氏は、思わずモレルの耳を優しくつねらずにはいられなかったが、無邪気にこう言った、『そんなことをしてなんの役に立つんだい?その娘の処女を奪った日には、きみは結婚せざるをえなくなるだろう』。『結婚する?』とモレルは、男爵がほろ酔い気分だと感じたのか、それとも話し相手が見かけによらず小心翼々たる人間であることに想い至らなかったのであろう、大声をあげた『結婚する?とんでもない!そりゃ約束はしますが、ちょいと作戦さえうまくゆけば、その夜のうちにも捨てちゃいますよ』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.355」岩波文庫 二〇一五年)

性愛の相手が女性なのでシャルリュスにすればほとんどどうでもいい話題ではあるものの、しかし見つけた娘と肉体関係を持つや「その夜のうちにも捨てちゃいますよ」という言葉は聞き捨てならない。道徳的な見地から聞き捨てならないのではもちろんなく、シャルリュスは、「このわしはどうなる?」と訊ねる。「もちろん、あなたはいっしょにお連れしますよ」とモレルは慌てて言い添えた。

ところで今のところ真っ先にモレルが狙いをつけている娘は誰か。「私が気に入った格好の娘がいるんです、公爵さまの館に店を出しているお針子でしてね」。シャルリュスのもう一人の愛人(ジュピアン)の店で働くジュピアンの姪のことだ。「そのときソムリエがはいってきた」。シャルリュスから見れば第三者の闖入でしかない。シャルリュスは<同性愛と異性愛の話題>と<ゲルマント家に関連するあらゆる人間関係>とをとっさに天秤にかけて言う。「いや!あれはいかん」。しかしモレルは一向に気にしていない様子だ。

「『ねえ、その相手として私が気に入った格好の娘がいるんです、公爵さまの館に店を出しているお針子でしてね』。『ジュピアンの娘だ!』と男爵は大声をあげたが、そのときソムリエがはいってきた。『いや!あれはいかん』と男爵はつけ加えた。第三者がそばに来たせいで熱が冷めてしまったのか、それとも最も神聖なものまで汚(けが)して喜ぶこの種の黒ミサにおいてさえ、友情をいだく相手まで巻き添えにする決心がつかなかったのかもしれない。『ジュピアンは実直な男だし、娘はかわいい子だ、あのふたりを悲しませるなんて考えるだけでぞっとする』。モレルは言いすぎたと感じて口をつぐんだが、そのまなざしはあいかわらず虚空に想い描かれた娘のうえにじっと注がれていた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.356」岩波文庫 二〇一五年)

ここで「第三者がそばに来たせいで熱が冷めてしまったのか、最も神聖なものまで汚(けが)して喜ぶこの種の黒ミサにおいてさえ、友情をいだく相手まで巻き添えにする決心がつかなかったのかもしれない」というシャルリュスの身振り。シャルリュスに特徴的な「ずれ」(差異)の出現が見られる。自分自身の正体を隠そうとすればするほど逆の効果を出現させるいつもの身振りだ。シャルリュスはそれを何度も繰り返し反復してしまう。「あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである」。

「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)

というようにそれぞれの登場人物の誰もが周囲の人々の身振り(言語)の先を読んで自分の身振り(言語)を決めていく。サン=マルス=ル=ヴェチュにある「細長いレストラン」でのシャルリュスとモレルとの会話一つ取っても、ここまでの引用だけで実は少なくとも三度は脱線している。するといつまで待ってもやって来ない決済のように、どこまでも引き延ばされていくばかりか、何度も脱線を繰り返すほかない記号論的コノテーションの増殖が作品を埋め尽くしていく。プルーストでは、一つの恋愛の終わりが次の恋愛の出発を準備するという常に新しい恋愛の出現が、まるで資本のように流通するのである。言語記号のテキストのように。

ところでモレルが狙いをつけているチョッキ店の娘はモレルについて「たえずそのハンサムな顔を想いうかべていた」。だけでなく、ゲルマント家のサロンに出入りする<私>の社会的地位ゆえ、「私といっしょにいるモレルを見てどこかの『紳士』だと想いこんだせいで、その顔が高貴なものと化していたのである」。

「ある日その娘の前で私から『親しい大芸術家』と呼ばれたいと願い、チョッキまで注文していた娘である。娘は、並はずれた働き者でバカンスをとったこともなかったが、ヴァイオリン奏者がバルベックの近辺にいるあいだは、たえずそのハンサムな顔を想いうかべていた。私といっしょにいるモレルを見てどこかの『紳士』だと想いこんだせいで、その顔が高貴なものと化していたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.356」岩波文庫 二〇一五年)

この場合、シニフィアン(意味するもの)は<私>の社会的地位であり、シニフィエ(意味されるもの・意味内容)は「私といっしょにいるモレルを見てどこかの『紳士』だと想いこんだせいで、その(モレルの)顔が高貴なものと化していた」ということでなくてはならない。モレルの美貌に「高貴な」という価値が付け加えられたのである。

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