ゲルマント夫人に会うことが大変困難に思えていた頃、<私>は、夫人と自由に会える立場のサン=ルーがうらやましく思えた。ところが今やそうではない。「隔世の感がある」とさえ思う。その理由についてプルーストはいう。「他者という存在は、われわれとの位置をたえず変えているのだ」。もっとも、<他者>の場所移動に伴う価値変動が出現するためには<他者>の社会的価値変動が生じていなければならない。その意味で「位置をたえず変えている」とある中の「位置」という言葉は<社会的立場>を指している限りで始めて意味を持つ。
「その昔、ゲルマント夫人がサン=ルーとすごす時間をうらやましく想いうかべ、サン=ルーと会うことをあれほど重視していたときとは隔世の感がある!他者という存在は、われわれとの位置をたえず変えているのだ。感知されはしないがこの世の永遠につづく運動のなかで、われわれは他者をある瞬間の光景において動かぬものとして眺めるが、その瞬間はあまりにも短く、そのあいだにも他者が巻きこまれている運動などとうてい感知されない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.384」岩波文庫 二〇一五年)
としてもしかし、プルーストの場合、サン=ルーと<私>との関係においてそのような社会的価値変動がどこで生じたか、述べていないではないかと思われるかもしれない。ところが実際は述べている。<私>のことはもとよりサン=ルーについても時間をかけて徐々に述べている。このように両者ともに或る程度詳細に少しづつ記述されていくような場合、仮に劇的変化があったとしても、それはほとんどのケースで変化に、少なくとも劇的変化には<見えない>。
「しかし記憶のなかでその他者の相異なる時点、とはいえ他者がひとりでに変化してしまうほどには離れていない時点、すくなくともその手の変化が実感できるほどには離れていない時点でのふたつのイメージを選びさえすれば、そのふたつのイメージの違いは、他者がわれわれとの関係でどれほど移動したかを測定させてくれる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.384」岩波文庫 二〇一五年)
この箇所で「変化が実感できるほどには離れていない時点でのふたつのイメージを選びさえすれば、そのふたつのイメージの違いは、他者がわれわれとの関係でどれほど移動したかを測定させてくれる」とある。そういうことができるのはなぜか。また「測定」されるのは何か。ニーチェはいう。
「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)
次の箇所ではサニエットが登場する。といってもサン=ルーと比較されたからではなく、比較されなかったからでもなく、サン=ルーが<私>の訪問客として描かれたすぐ後に登場するように出来ている。問題になっているのは訪問客としてのサニエットであり、サニエットを呼び寄せたのは「訪問客」という言葉なのだ。またこの箇所ではこれまで何度か話題に上っているように、どこのサロンに顔を出してもなぜサニエットは嫌われてしまうのかという説明が繰り返される。サニエットの欠点。その第一はナイーヴ過ぎて遠慮がちな言動。第二は社交界における平均点をクリアしたと認められるやたちどころに無遠慮になる言動。あたかも政治家のように小心翼々としており、にもかかわらず一度承認されたとなるとたちまち無遠慮極まりない言動を繰り返すという極端な自惚れである。最悪なのはサニエットの話が退屈この上ない点なのではなく、自分の語る話が相手を退屈させてしまうのではないかと正直に打ち明けない身振り(態度)なのであって、社交界の側が要求しているのはサニエットの正直さに他ならない。ゆえにサニエットから正直さを引き去ってしまうと<ナイーヴ・無遠慮・退屈>という魔の三点セットしか残らなくなってしまうという悪循環を起こす。
「サニエットは、ヴェルデュラン夫人のところや小さな路面(トラム)のなかで私に会ったとき、お邪魔でなければバルベックでお目にかかれると嬉しいのですが、と言うこともできたはずである。そうした申し出を受けても、私は尻込みしなかったであろう。ところがサニエットはなにも申し出ず、それどころか苦悶に顔をゆがめ、七宝焼ほどにも堅固なまなざしを投げかけ、しかもそのまなざしの成分に、なんとしてもーーーもっとおもしろい人が見つからないかぎりーーー目の前の相手を訪ねたいという悶々たる欲望とともに、その欲望は気取(けど)られまいとする意志を組みこみつつ、恬淡(てんたん)とした表情をで私に言うのだ、『ここ数日のご予定はおわかりではないでしょうか?と申しますのも、おそらくベルベックの近くへ出かけるものですから。いえ、べつになんでもないんです。ちょっとお訊ねしただけですから』。こうした面持ちがこちらの判断を誤らせることはなかった。われわれが自分の感情をそれとは裏腹な形であらわすときに用いる逆の符牒はきわめて明快に解読されるものなので、たとえば自分が招待されていないことを隠すため、いまだに『招待が殺到しててんてこ舞いなんです』などと言う人がいるのは不可解なことである。おまけにこの恬淡として表情は、その成分に裏の本心が含まれるせいであろう、相手を退屈させるのではないかという危惧や相手に会いたいという欲望の率直な告白であればけっして感じさせなかったはずの不快感、嫌悪感を相手にひきおこした」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.387~388」岩波文庫 二〇一五年)
しかしプルーストがサニエットを登場させて<ナイーヴ・無遠慮・退屈>という相異なる人格を詰め込んでいるのはどうしてだろうか。それこそサニエットという登場人物に仮託されてはいるものの、人間というのは、どんな人間であっても人間でしかない以上、多少なりともその種の多様な人格(サニエットなら<ナイーヴ・無遠慮・退屈>)といった多様な人格に内部分裂しつつ、「見た目」だけはたった一人でしかないという自己欺瞞を知らず知らずのうちに演じているのみならず、演じないではいられないのではないか、と問いかけていることを忘れるわけにはいかない。そうでなければプルーストがサニエットを何度も繰り返し登場させてくる必然性などまるで見あたらないのである。
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「その昔、ゲルマント夫人がサン=ルーとすごす時間をうらやましく想いうかべ、サン=ルーと会うことをあれほど重視していたときとは隔世の感がある!他者という存在は、われわれとの位置をたえず変えているのだ。感知されはしないがこの世の永遠につづく運動のなかで、われわれは他者をある瞬間の光景において動かぬものとして眺めるが、その瞬間はあまりにも短く、そのあいだにも他者が巻きこまれている運動などとうてい感知されない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.384」岩波文庫 二〇一五年)
としてもしかし、プルーストの場合、サン=ルーと<私>との関係においてそのような社会的価値変動がどこで生じたか、述べていないではないかと思われるかもしれない。ところが実際は述べている。<私>のことはもとよりサン=ルーについても時間をかけて徐々に述べている。このように両者ともに或る程度詳細に少しづつ記述されていくような場合、仮に劇的変化があったとしても、それはほとんどのケースで変化に、少なくとも劇的変化には<見えない>。
「しかし記憶のなかでその他者の相異なる時点、とはいえ他者がひとりでに変化してしまうほどには離れていない時点、すくなくともその手の変化が実感できるほどには離れていない時点でのふたつのイメージを選びさえすれば、そのふたつのイメージの違いは、他者がわれわれとの関係でどれほど移動したかを測定させてくれる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.384」岩波文庫 二〇一五年)
この箇所で「変化が実感できるほどには離れていない時点でのふたつのイメージを選びさえすれば、そのふたつのイメージの違いは、他者がわれわれとの関係でどれほど移動したかを測定させてくれる」とある。そういうことができるのはなぜか。また「測定」されるのは何か。ニーチェはいう。
「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)
次の箇所ではサニエットが登場する。といってもサン=ルーと比較されたからではなく、比較されなかったからでもなく、サン=ルーが<私>の訪問客として描かれたすぐ後に登場するように出来ている。問題になっているのは訪問客としてのサニエットであり、サニエットを呼び寄せたのは「訪問客」という言葉なのだ。またこの箇所ではこれまで何度か話題に上っているように、どこのサロンに顔を出してもなぜサニエットは嫌われてしまうのかという説明が繰り返される。サニエットの欠点。その第一はナイーヴ過ぎて遠慮がちな言動。第二は社交界における平均点をクリアしたと認められるやたちどころに無遠慮になる言動。あたかも政治家のように小心翼々としており、にもかかわらず一度承認されたとなるとたちまち無遠慮極まりない言動を繰り返すという極端な自惚れである。最悪なのはサニエットの話が退屈この上ない点なのではなく、自分の語る話が相手を退屈させてしまうのではないかと正直に打ち明けない身振り(態度)なのであって、社交界の側が要求しているのはサニエットの正直さに他ならない。ゆえにサニエットから正直さを引き去ってしまうと<ナイーヴ・無遠慮・退屈>という魔の三点セットしか残らなくなってしまうという悪循環を起こす。
「サニエットは、ヴェルデュラン夫人のところや小さな路面(トラム)のなかで私に会ったとき、お邪魔でなければバルベックでお目にかかれると嬉しいのですが、と言うこともできたはずである。そうした申し出を受けても、私は尻込みしなかったであろう。ところがサニエットはなにも申し出ず、それどころか苦悶に顔をゆがめ、七宝焼ほどにも堅固なまなざしを投げかけ、しかもそのまなざしの成分に、なんとしてもーーーもっとおもしろい人が見つからないかぎりーーー目の前の相手を訪ねたいという悶々たる欲望とともに、その欲望は気取(けど)られまいとする意志を組みこみつつ、恬淡(てんたん)とした表情をで私に言うのだ、『ここ数日のご予定はおわかりではないでしょうか?と申しますのも、おそらくベルベックの近くへ出かけるものですから。いえ、べつになんでもないんです。ちょっとお訊ねしただけですから』。こうした面持ちがこちらの判断を誤らせることはなかった。われわれが自分の感情をそれとは裏腹な形であらわすときに用いる逆の符牒はきわめて明快に解読されるものなので、たとえば自分が招待されていないことを隠すため、いまだに『招待が殺到しててんてこ舞いなんです』などと言う人がいるのは不可解なことである。おまけにこの恬淡として表情は、その成分に裏の本心が含まれるせいであろう、相手を退屈させるのではないかという危惧や相手に会いたいという欲望の率直な告白であればけっして感じさせなかったはずの不快感、嫌悪感を相手にひきおこした」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.387~388」岩波文庫 二〇一五年)
しかしプルーストがサニエットを登場させて<ナイーヴ・無遠慮・退屈>という相異なる人格を詰め込んでいるのはどうしてだろうか。それこそサニエットという登場人物に仮託されてはいるものの、人間というのは、どんな人間であっても人間でしかない以上、多少なりともその種の多様な人格(サニエットなら<ナイーヴ・無遠慮・退屈>)といった多様な人格に内部分裂しつつ、「見た目」だけはたった一人でしかないという自己欺瞞を知らず知らずのうちに演じているのみならず、演じないではいられないのではないか、と問いかけていることを忘れるわけにはいかない。そうでなければプルーストがサニエットを何度も繰り返し登場させてくる必然性などまるで見あたらないのである。
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