白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・劇的変化はなぜ起こる/<ナイーヴ・無遠慮・退屈>としてのサニエット

2022年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ゲルマント夫人に会うことが大変困難に思えていた頃、<私>は、夫人と自由に会える立場のサン=ルーがうらやましく思えた。ところが今やそうではない。「隔世の感がある」とさえ思う。その理由についてプルーストはいう。「他者という存在は、われわれとの位置をたえず変えているのだ」。もっとも、<他者>の場所移動に伴う価値変動が出現するためには<他者>の社会的価値変動が生じていなければならない。その意味で「位置をたえず変えている」とある中の「位置」という言葉は<社会的立場>を指している限りで始めて意味を持つ。

「その昔、ゲルマント夫人がサン=ルーとすごす時間をうらやましく想いうかべ、サン=ルーと会うことをあれほど重視していたときとは隔世の感がある!他者という存在は、われわれとの位置をたえず変えているのだ。感知されはしないがこの世の永遠につづく運動のなかで、われわれは他者をある瞬間の光景において動かぬものとして眺めるが、その瞬間はあまりにも短く、そのあいだにも他者が巻きこまれている運動などとうてい感知されない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.384」岩波文庫 二〇一五年)

としてもしかし、プルーストの場合、サン=ルーと<私>との関係においてそのような社会的価値変動がどこで生じたか、述べていないではないかと思われるかもしれない。ところが実際は述べている。<私>のことはもとよりサン=ルーについても時間をかけて徐々に述べている。このように両者ともに或る程度詳細に少しづつ記述されていくような場合、仮に劇的変化があったとしても、それはほとんどのケースで変化に、少なくとも劇的変化には<見えない>。

「しかし記憶のなかでその他者の相異なる時点、とはいえ他者がひとりでに変化してしまうほどには離れていない時点、すくなくともその手の変化が実感できるほどには離れていない時点でのふたつのイメージを選びさえすれば、そのふたつのイメージの違いは、他者がわれわれとの関係でどれほど移動したかを測定させてくれる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.384」岩波文庫 二〇一五年)

この箇所で「変化が実感できるほどには離れていない時点でのふたつのイメージを選びさえすれば、そのふたつのイメージの違いは、他者がわれわれとの関係でどれほど移動したかを測定させてくれる」とある。そういうことができるのはなぜか。また「測定」されるのは何か。ニーチェはいう。

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

次の箇所ではサニエットが登場する。といってもサン=ルーと比較されたからではなく、比較されなかったからでもなく、サン=ルーが<私>の訪問客として描かれたすぐ後に登場するように出来ている。問題になっているのは訪問客としてのサニエットであり、サニエットを呼び寄せたのは「訪問客」という言葉なのだ。またこの箇所ではこれまで何度か話題に上っているように、どこのサロンに顔を出してもなぜサニエットは嫌われてしまうのかという説明が繰り返される。サニエットの欠点。その第一はナイーヴ過ぎて遠慮がちな言動。第二は社交界における平均点をクリアしたと認められるやたちどころに無遠慮になる言動。あたかも政治家のように小心翼々としており、にもかかわらず一度承認されたとなるとたちまち無遠慮極まりない言動を繰り返すという極端な自惚れである。最悪なのはサニエットの話が退屈この上ない点なのではなく、自分の語る話が相手を退屈させてしまうのではないかと正直に打ち明けない身振り(態度)なのであって、社交界の側が要求しているのはサニエットの正直さに他ならない。ゆえにサニエットから正直さを引き去ってしまうと<ナイーヴ・無遠慮・退屈>という魔の三点セットしか残らなくなってしまうという悪循環を起こす。

「サニエットは、ヴェルデュラン夫人のところや小さな路面(トラム)のなかで私に会ったとき、お邪魔でなければバルベックでお目にかかれると嬉しいのですが、と言うこともできたはずである。そうした申し出を受けても、私は尻込みしなかったであろう。ところがサニエットはなにも申し出ず、それどころか苦悶に顔をゆがめ、七宝焼ほどにも堅固なまなざしを投げかけ、しかもそのまなざしの成分に、なんとしてもーーーもっとおもしろい人が見つからないかぎりーーー目の前の相手を訪ねたいという悶々たる欲望とともに、その欲望は気取(けど)られまいとする意志を組みこみつつ、恬淡(てんたん)とした表情をで私に言うのだ、『ここ数日のご予定はおわかりではないでしょうか?と申しますのも、おそらくベルベックの近くへ出かけるものですから。いえ、べつになんでもないんです。ちょっとお訊ねしただけですから』。こうした面持ちがこちらの判断を誤らせることはなかった。われわれが自分の感情をそれとは裏腹な形であらわすときに用いる逆の符牒はきわめて明快に解読されるものなので、たとえば自分が招待されていないことを隠すため、いまだに『招待が殺到しててんてこ舞いなんです』などと言う人がいるのは不可解なことである。おまけにこの恬淡として表情は、その成分に裏の本心が含まれるせいであろう、相手を退屈させるのではないかという危惧や相手に会いたいという欲望の率直な告白であればけっして感じさせなかったはずの不快感、嫌悪感を相手にひきおこした」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.387~388」岩波文庫 二〇一五年)

しかしプルーストがサニエットを登場させて<ナイーヴ・無遠慮・退屈>という相異なる人格を詰め込んでいるのはどうしてだろうか。それこそサニエットという登場人物に仮託されてはいるものの、人間というのは、どんな人間であっても人間でしかない以上、多少なりともその種の多様な人格(サニエットなら<ナイーヴ・無遠慮・退屈>)といった多様な人格に内部分裂しつつ、「見た目」だけはたった一人でしかないという自己欺瞞を知らず知らずのうちに演じているのみならず、演じないではいられないのではないか、と問いかけていることを忘れるわけにはいかない。そうでなければプルーストがサニエットを何度も繰り返し登場させてくる必然性などまるで見あたらないのである。

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Blog21・破綻を繰り返す<手形>としてのアルベルチーヌ/<妄想>としての<私>

2022年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>は自動車でアルベルチーヌをパルヴィルまで送っていく。二人で何時間も過ごしていたので<私>の気分はとても平穏である。「ところがそのとき、アルベルチーヌが別れぎわに、叔母や女友だちにこう言うのが聞こえてくる。『じゃ、あした、八時半にね。遅れちゃダメよ、あの人たちは八時十五分にはもう用意ができてるんだから』」。<私>はそんなことだとは一つも知らされていない。そこでプルーストはいう。「愛する女の会話は、危険な地下水を覆い隠している地面のようなものだ」と。

「ところがそのとき、アルベルチーヌが別れぎわに、叔母や女友だちにこう言うのが聞こえてくる。『じゃ、あした、八時半にね。遅れちゃダメよ、あの人たちは八時十五分にはもう用意ができてるんだから』。愛する女の会話は、危険な地下水を覆い隠している地面のようなものだ。そのことばの裏には、いつなんどきでも、目には見えぬ水の層の存在が、その身にしみる冷気が感じられる。そこかしこに油断ならぬ水がしみ出ているのは目につくが、水の層そのものは依然として隠れている。アルベルチーヌのそのことばを耳にしたとたん、私の心の平穏は崩れ去った」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.376~377」岩波文庫 二〇一五年)

言葉というものは残酷なものだ。「アルベルチーヌのそのことばを耳にしたとたん、私の心の平穏は崩れ去った」。<私>の知らないうちに<私>の知らない時間が粛々と進行していたとは。言葉は覆い隠す。貨幣のように。

(1)「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫 一九七二年)

(2)「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)

アルベルチーヌは<私>と恋愛関係にある。だからといってアルベルチーヌは<私>に、目覚めている間の言動を何もかも漏れなく報告しなければならない義務を負っているだろうか。そんなことはまるでない。アルベルチーヌは<私>に逮捕され連日検察に呼び出されすべてを自白しなくては許されない立場では決してないからである。恋愛は時として互いが互いを束縛し合い、互いの自由を奪い去り、互いに見ぐるみ剥いで拘束してなお飽きたらぬというくらい、あたかも戦時下の捕虜の拷問にも似た状態を出現させる。両者ともに過労死してしまいそうだ。そこで局面を打開するためには相手を特権的な位置から解放するしかない。すると中心はなくなる。脱中心化する。アルベルチーヌは<私>にとってただ単なる諸商品の無限の系列の中の一つに等しくなる。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)

アルベルチーヌが特権的位置から解放されない限り、二人ともがずたずたになるまで、しばしば一方か二人ともかが死んでしまうまで、何度も繰り返し傷つけ合わないと気が済まないという緊迫した状態が延々と引き延ばされていくほかない。この種の状態が他人からみて大層へんてこに映るのは、例えば手形がまだ有効かどうかを瞬き一つせず確かめ合っていないと一睡たりともできないような資本家の態度に余りに似ているがゆえでもある。

「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)

前夜二人が一緒に過ごしたあとでさえ、もう翌日になると「私の不安は募る」。理由はわからないが「アルベルチーヌが気もそぞろといった冷淡な顔をしている」からだが、それだけでなく、バルベックの堤防にいると「アルベルチーヌの知り合いがつぎからつぎへと通りかかる。きっときょうの午後のために私をのけ者にしたさまざまな計画を立てていたのだ」と考えないではいられないからである。「こうして私の前に立ちはだかるのは、私の午後を幸せにもすれば不幸にもする相手の謎めいた意図であり、知られざる決意である」。ほとんど妄想というべきだろう。

「翌日、目を覚ましたあと、堤防でアルベルチーヌを見かけた私は、相手からその日は都合が悪い、いっしょに散歩したいという私の願いには応じられないという返事を聞かされるのではないかと怖れて、その願いを口にするのをできるかぎり遅らせた。アルベルチーヌが気もそぞろといった冷淡な顔をしているだけに、私の不安は募る。アルベルチーヌの知り合いがつぎからつぎへと通りかかる。きっときょうの午後のために私をのけ者にしたさまざまな計画を立てていたのだ。私はアルベルチーヌを眺め、その魅力的な身体とバラ色の顔を見つめるが、こうして私の前に立ちはだかるのは、私の午後を幸せにもすれば不幸にもする相手の謎めいた意図であり、知られざる決意である」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.382~383」岩波文庫 二〇一五年)

しかしこの種の妄想はただ単に<私>一人だけでは出現することができない。対象となるものがまるで存在しないところでは嫉妬も妄想も何一つ起こりはしない。プルースト自身、こう述べている。

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

さらに人間はこの「後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」ということを知っているにもかかわらず、なかなか一旦停止することができない。すると事態は次のように進展する。

「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)

ばらばらの<諸断片>から幾つかの諸部分のみを取り出してきて、本来ありもしない連続性を縦横無尽にでっち上げるのである。ニーチェから二箇所。

(1)「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下・四七九・P.23~24」ちくま学芸文庫 一九九三年)

(2)「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下・四八九・P.33」ちくま学芸文庫 一九九三年)

このような状態について「進展」と呼ぶことに慣れてしまった人間社会。習慣・因習というものは実に恐ろしい。いったん定着してしまえば全世界のカルト化すら可能にしてしまいかねないというのに。しかし事実はニーチェのいうように遠近法的倒錯であり歴史的逆行でしかないのだが。

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