goo blog サービス終了のお知らせ 

白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて22

2022年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。以前育てていた黒バラは工事のため撤去しました。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。またバラだと次々芽を出してくるのであまり手間のかからない良質なエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“Princess of Infinity”」(2022.9.7)

前回撮影は二〇二二年九月四日。この種は蕾の時期はピンク色、花弁が大きくなるにしたがって白く染まるタイプ。なので前回撮影時はピンク色の蕾だったものが今日は薄ピンクになっていて、サイズから見ると旬をやや過ぎた印象です。

参考になれば幸いです。

BGM1

BGM2

BGM3


Blog21・ヴェルデュラン夫人による零落貴族の取り扱い説明書

2022年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
プルーストは名門大学教授にありがちな「衒学趣味」の体現者ブリショを指して「才気あふれる社交人士なら、こんな教壇臭ふんぷんたる衒学趣味にいらだちを覚えることであろう」と述べる一方、「王族のことを語る社交人士の完璧なマナーにおいても、べつの排他的特権階級への帰属をあらわにする衒学趣味が存在していて、その階級ではヴィルヘルムの前にはかならず『皇帝』をつけ、殿下に話しかけるときには三人称を用いるのだ」と述べる。

「才気あふれる社交人士なら、こんな教壇臭ふんぷんたる衒学趣味にいらだちを覚えることであろう。しかし王族のことを語る社交人士の完璧なマナーにおいても、べつの排他的特権階級への帰属をあらわにする衒学趣味が存在していて、その階級ではヴィルヘルムの前にはかならず『皇帝』をつけ、殿下に話しかけるときには三人称を用いるのだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.64」岩波文庫 二〇一五年)

この「排他的特権階級への帰属をあらわにする衒学趣味」は、どんな最上級クラスであれ最下級クラスであれ、特定の「隠語」の共有を通して生じる、鼻持ちならない「同族意識」というナショナリズムに対する冷ややかな批判である点で、プルーストがいかに言語に敏感だったかを示している。或る種のスノッブが「三人称を用いるのだ」というふうに。今なお世界中の地域紛争を煽りまくって止まないナショナリズムという暴力。それは同一の「隠語」が共有された瞬間、いきなり出現する。

さて、ヴェルデュラン夫人のサロンの中に、ことのほか忠誠を誓う「シェルバトフ大公妃」がいた。

「シェルバトフ大公妃は、ほかにつき合う相手がいないせいで数年前からヴェルデュラン夫妻に忠誠を尽くすことができ、それゆえ並の『信者』以上の存在、いわば信者の典型になっていた。ヴェルデュラン夫人としては手に入れるのは不可能と長いこと諦めていた理想の存在が、初老期になって、ようやくこの新入りの女性のうちに体現されているのを見出したのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.66~67」岩波文庫 二〇一五年)

しかしなぜシェルバトフ大公妃は「ほかにつき合う相手がいない」のか。ユードクシー大公妃はシェルバトフ大公妃の友人ではないのか。それがどうして「ほかにつき合う相手がいない」ことになるのか。少し前の箇所にこうある。

「実際ユードクシー大公妃は、久しくだれからも招待されないシェルバトフ大公妃がお客の来るような時刻に訪ねてくることを望まず、朝のかなり早い時刻にしか来させないようにしていた。その時刻なら、友人はだれひとり来ていないのでシェルバトフ大公妃と出会って不愉快な想いをせずにすみ、それゆえ大公妃も気まずい想いをせずにすむという寸法である」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.66」岩波文庫 二〇一五年)

すると、ユードクシー大公妃は他の誰一人いない時刻にシェルバトフ大公妃とだけは<特権的>に会っていることになる。それを聞いたコタールの言葉では次のように語られ広がる。

「『ヴェルデュラン夫人が人を排除しないかたですから、ブリショのような高名な学者にも、上流階級にもお目にかかれます。たとえばシェルバトフ大公妃というロシアの大貴婦人がおられましてね、そのお友だちのユードクシー大公妃などは、だれにも面会を許さない時刻にこのかたとふたりきりでお会いになるんです』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.65~66」岩波文庫 二〇一五年)

或る言葉が別の言葉を出現させる。とともに別の意味も同時出現しないわけにはいかないということに注意しよう。媒介項としてコタールの言葉が差し挟まれ第三項の役割を演じている。人間社会の前提として、言語(身振り)かそれとも貨幣という<第三項>による媒介なくして何一つ新しい生成はない。なければどうなるのか。良いとも良くないとも言えない断絶が出現するばかりであって、もはやそれはどんな歴史にも属さない無時間的時間とでもいうほかない虚無あるいは世界の消滅でしかないだろう。

もはや零落著しいとはいえ、しかしシェルバトフ大公妃は大貴族の末裔である。するとヴェルデュラン夫人のサロンに集結する面々の目にはこう映って見える。

「信者たちの目には、大公妃は自分の生まれ育った環境よりも格段に優れた人間であるがゆえに元の環境では退屈せざるをえず、快適につき合えるのがヴェルデュラン夫妻だけになったものと映り、またヴェルデュラン夫妻のほうもあらゆる貴族からの働きかけなどには耳を貸さず、同類の貴族よりもはるかに聡明な貴婦人たるシェルバトフ大公妃だけを唯一の例外として厚遇しているものと見えたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.70~71」岩波文庫 二〇一五年)

このような事態について、ただ単なる<錯覚>として退けるのはいとも容易に見えるかもしれない。だがこの事情は単なる<錯覚>ではないのである。プルーストはいう。

「実際、すぎ去った時の長さを計るうえで、困難が伴うのは最初だけである。最初はそれほど膨大な時がすぎ去ったことを想い描くのにずいぶん苦労するが、つぎにはそれほど時がすぎ去ったわけではないことを想い描くのに相当の困難を覚える。最初は十三世紀がそれほど遠い昔だとはとうてい考えられなかったのに、つぎには十三世紀の教会がなおも残存しうること、現にフランスにそれが数えきれないほど存在することが容易に信じられなくなる」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.53~54」岩波文庫 二〇一九年)

日本の場合、例えば一九八〇年代中曽根政権時代に発生したバブル景気。財閥系大資本がこぞって投資すればするほど手元に還流してきていたのは紛れもない現金だった。ただ単なる<錯覚>だったとしたら当然あの現金もまた<錯覚>だったと断定せざるを得ない。あの時に世界中を駆け巡ったすべての日本銀行券は「偽札」だったというほかなくなる。いいのだろうか、それで。

BGM1

BGM2

BGM3