白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

陶芸作品・閲覧希望の方へ

2022年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム
いつもご訪問頂きありがとうございます。リクエストのありました、リハビリで陶芸をやっていた頃の作品です。他にもあるのですが、今のところ画像に保存されているものを上げてみました。なお当時、最も出来の良いもの(五点)は、なんと売れてしまいまして現在手元にございません。すいません。笑って許してやって頂けたらありがたいです。


耳付茶壷


オブジェ


備前一輪挿し


黒土面取花入


信楽透明釉一輪挿し


備前白釉一輪挿し


備前白釉徳利・ぐい呑み


備前古信楽一輪挿し

以上です。ご訪問ありがとうございました。

Blog21・プルースト作品の記号論的増殖性と覆い隠されたものの永劫回帰

2022年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム
モレルとの会話に熱中しているシャルリュスにスーツケースを手にしたポーターがいう。「パリ行きの発車ですよ」。シャルリュスは乗車を見送りスーツケースは一時預かりにしておいてくれとポーターに二十フラン(約一万円)のチップを与える。破格の気前よさを目撃した「花売りの女」がすぐさま近づきカーネーションでもバラでもと売り込みに来た。シャルリュスは四十スー(約千円)を与えた。花売りの女は花を差し出したがシャルリュスはもう構ってくれるなと漏らす。察しのいいモレルはすかさず女に或る身振りを見せつける。

「そのとき楽師は、率直な、有無を言わせぬ、断乎とした身振りで花売り女のほうをふり向き、手のひらを掲げて女を押しとどめ、もう花はいらん、とっとと消えうせろ、との意向を伝えた。シャルリュス氏は、この威圧的な男らしい仕草がなんとも優雅な手によって断行されるのを、うっとりと眺めた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.39」岩波文庫 二〇一五年)

モレルの身振りはここで記号論的シニフィアン(意味するもの)として作用する。そしてシャルリュスの内面に次のシニフィエ(意味されるもの・意味内容)を出現させた。

「『こんな男にこそ旅の供をさせたり用事を言いつけたりしたいものだ。どれほど俺の暮らしが楽になることか!』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.40」岩波文庫 二〇一五年)

一方<私>はヴェルデュラン夫人からの電話でグランクール=サン=ヴァスト駅から乗ってくる医師コタールを見つけるようにと言われていた。晩餐会はラ・ラスプリエールにヴェルデュラン夫妻が借りている別荘で行われるのだが、ラ・ラスプリエールへの迎えの馬車を見つけるにはどこで下車すればいいかはコタールが教えてくれることになっていた。コタールを上手く見つけられるかどうか<私>は不安だったが、グランクール=サン=ヴァスト駅のプラットフォームに着くやコタールは容易に目についた。なぜなら、「例の小派閥がどれほど『常連』を漏れなく同一のタイプにつくりあげたか」、<私>は一度に理解したからである。

「私は、例の小派閥がどれほど『常連』を漏れなく同一のタイプにつくりあげたかを認識していなかったのだ。おまけに晩餐用の正装に身をつつみプラットフォームで待っているだけでそれがただちに常連だとわかるのは、その顔にある種の自信とエレガンスともの慣れた余裕があふれているうえ、そのまなざしが、ひしめく一般大衆の集団をなんの注意も惹かぬ無人の空間であるかのように飛びこえ、手前の駅で汽車に乗っていたはずの常連のだれかの到着を見張りつつ、やがて始まるおしゃべりの楽しみに早くもきらきらと輝いているからである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.44~45」岩波文庫 二〇一五年)

同じ生活様式に基づく或る種の特権意識が「常連」を「漏れなく同一のタイプにつくりあげ」る。これはバルベックで始めてアルベルチーヌら「少女たち」と出会った際、同じく「おしなべて自惚(うぬぼ)れと仲間意識に貫かれた少女たちのまなざし」、さらに「自分たちが『特別の集団』を形成していつも一緒に散歩するほど親しい仲間であるという意識もあいまって、ゆっくりと進む独立したべつべつの身体のあいだに熱気あふれる同じひとつの気配、同じひとつの空気が醸し出され、それゆえ少女たちの身体は隅々まで均一なまとまりをなし、それとは異質な群衆のあいだを行列となってゆっくりと進んでゆく」のを目撃したのと条件は同様である。

「いまや個性を区別できるようになったとはいえ、おしなべて自惚(うぬぼ)れと仲間意識に貫かれた少女たちのまなざしは、その向かう先が友だちが通行人かによって、あるときは関心の灯りをあるとは無礼な無関心の灯りをつぎつぎと点(とも)して互いにまなざしを交わし合い、さらに自分たちが『特別の集団』を形成していつも一緒に散歩するほど親しい仲間であるという意識もあいまって、ゆっくりと進む独立したべつべつの身体のあいだに熱気あふれる同じひとつの気配、同じひとつの空気が醸し出され、それゆえ少女たちの身体は隅々まで均一なまとまりをなし、それとは異質な群衆のあいだを行列となってゆっくりと進んでゆく」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.335」岩波文庫 二〇一二年)

次の箇所でのプルーストの考察は興味深い。「われわれは子供の自分にはそうした高い地位はひと握りの名だたる老人が占めるものと想像していたが、ある一定の歳月がすぎると、その老人の弟子たちも名だたる大家となり、かつて弟子のころに覚えた尊敬と畏怖の念をこんどは世間から受ける」という。

「ついで私が悟ったのは、ひどく凡俗なことしか言わない人たちのうちに潜んでいた本物の才能が時の経過とともに頭角をあらわし幅を利かすようになるばかりか、凡庸な人たちが時とともに高い地位を占めるに至ることである。われわれは子供の自分にはそうした高い地位はひと握りの名だたる老人が占めるものと想像していたが、ある一定の歳月がすぎると、その老人の弟子たちも名だたる大家となり、かつて弟子のころに覚えた尊敬と畏怖の念をこんどは世間から受けるものだ」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.46~47」岩波文庫 二〇一五年)

プルーストは明らかに記号論的増殖作用について語っている。或る「高い地位」をシニフィアン(意味するもの)とするとシニフィエ(意味されるもの・意味内容)は「ひと握りの名だたる老人」から「その老人の弟子たち」へ次々と接続されていく。その代表例としてプルーストが上げるのがシニフィアン(意味するもの)としての「ゲルマントという称号」である。するとシニフィエ(意味されるもの・意味内容)は次のようになる。

「かくして称号と名前とは同一であるから、なおもゲルマント大公妃なる人は現存するが、その人は私をあれほど魅了した人とはなんの関係もなく、いまや亡き人は、称号と名前を盗まれてもどうするすべもない死者であることは、私にとって、その城館をはじめエドヴィージュ大公女が所有していたものをことごとくほかの女が享受しているのを見ることと同じくらい辛いことだった。名前の継承は、すべての継承と同じで、またすべての所有権の簒奪と同じで、悲しいものである。かくしてつねに、つぎからつぎへと途絶えることなく新たなゲルマント大公妃が、いや、より正確に言えば、千年以上にわたり、その時代ごとに、つぎからつぎへと相異なる女性によって演じられるただひとりのゲルマント大公妃があらわれ、この大公妃は死を知らず、移り変わるもの、われわれの心を傷つけるものなどには関心を示さないだろう。同じひとつの名前が、つぎつぎと崩壊してゆく女たちを、大昔からつねに変わらぬ平静さで覆い尽くすからである」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.98~99」岩波文庫 二〇一九年)

しかし問題になるのは「愛」の場合、まず第一に異性愛の系列がシニフィアン(意味するもの=専制君主)として振る舞う。そして異性愛の系列が一度シニフィアン(意味するもの)の位置を占めると、同性愛の系列は第二の愛の形態としてその下位系列に編入され覆い隠されてしまう。さらに第二の系列に編入された同性愛はそのまた下位系列にトランス性愛を第三の愛の形態として覆い隠してしまう。するともう、アルベルチーヌを代表とするトランス性愛という愛の形態は、ただ単に統計学的に第一に数の多い異性愛によっても、さらにその下位に位置する第二の同性愛によっても、ほとんど覆い隠されてしまうという結果を招くことになる。

しかしプルースト作品は記号論的身振りによってどんどん増殖していく限りで、異性愛に限らず同性愛においてもトランス性愛においてもなお一層、その諸形態をますます増殖させていく。プルースト作品の錯綜性はその点からもやってくると言わねばならない。

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